Shingen Takeda 武田信玄 戦国時代の武将、甲斐国の守護大名、戦国大名。 国: 日本(現在の山梨県甲府市上積翠寺町) 生: 1521年12月1日 没: 1573年5月13日(享年51) 【その生涯】 1521年12月1日(大永元年11月3日)、甲斐国守護・武田信虎の嫡男として要害山城(現在の山梨県甲府市上積翠寺町)に生まれる。 幼名は太郎。 1536年、14歳のときに元服。 将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、晴信と改める。 1541年、父・信虎の駿河追放により、晴信は19歳で武田家の家督を相続。 家督を相続した晴信は信濃諏訪領への侵攻を始める。 1542年に諏訪領を制圧。 1550年には中信を支配下に置く。 1553年、31歳の晴信は北信を除き信濃をほぼ平定。 これにより領国を追われた信濃国守護・小笠原長時らが越後国のに救いを求める。 同年、上杉謙信は自ら軍を率いて信濃国に出陣し、武田方の諸城を攻め落とす。 晴信は決戦を避けたため、謙信は越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。 その後も宿敵上杉謙信との北信濃の支配権を巡る川中島の戦いは続き、計5回、12年余りに及ぶ。 1554年、晴信は相模国の北条氏康、駿河国の今川義元と甲相駿三国同盟を締結。 1559年、37歳の晴信は出家し、徳栄軒信玄と称する。 1560年、桶狭間の戦いにおいてが今川義元を討ち取る。 三河ではが独立。 その後、将軍足利義昭と織田信長が対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄らの大名に信長討伐の御内書を発送。 1571年、信玄は織田信長の盟友である徳川家康を討つべく、遠江・三河に侵攻。 諸城を落とすも信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。 1572年、信玄は再び甲府を進発。 三方ヶ原において家康と決戦し勝利。 しかし、信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止。 1573年5月13日、甲斐に引き返す途中、武田信玄は51年の生涯を閉じた。 信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること」や家督を相続する武田勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼ること」を言い残したいう。 武田信玄の名言 武将が陥りやすい三大失観。 一、分別あるものを悪人と見ること。 一、遠慮あるものを臆病と見ること。 一、軽躁なるものを勇剛と見ること。 武田信玄の名言 渋柿は渋柿として使え。 継木をして甘くすることなど小細工である。 武田信玄の名言 人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ。 武田信玄の名言 自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。 この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ。 武田信玄の名言 一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。 これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。 武田信玄の名言 我、人を使うにあらず。 その業を使うにあり。 武田信玄の名言 大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である。 武田信玄の名言 為せば成る 為さねば成らぬ成る業(わざ)を 成らぬと捨つる人のはかなき 武田信玄の名言 三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である。 武田信玄の名言 戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。 五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。 武田信玄の名言 人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。 武田信玄の名言 信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ。 武田信玄の名言 いくら厳しい規則を作って、家臣に強制しても、大将がわがままな振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとしである。 人に規則を守らせるには、まず自身の言動を反省し、非があれば直ちに改める姿勢を強く持たねばならない。 武田信玄の名言 晴信(信玄)が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安(投書)をもって申すべし。 時と場合によって自らその覚悟をする。 武田信玄の名言 晴信(信玄)の弓矢は欲のためではなく、民百姓を安楽にするためだと民に知らせれば、わしが軍を進めるのを待ち望むようになる。 武田信玄の名言 負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。 それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり。 武田信玄の名言 戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。 ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。 勝ちすぎてはならない。 将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。 武田信玄の名言 もう一押しこそ慎重になれ。 武田信玄の名言 今後は、一人働きは無用である。 足軽を預かっていながら独りよがりの行動をとれば、組の者は組頭をなくし、味方の勝利を失うことになるからだ。 武田信玄の名言 勝敗は六分か七分勝てば良い。 八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる。 武田信玄の名言 百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず。
次のKenshin Uesugi 上杉謙信 戦国時代の越後国の武将、戦国大名。 越後の虎、軍神などと称される。 国: 日本(現在の新潟県上越市中屋敷) 生: 1530年2月18日 没: 1578年4月19日(享年48) 【その生涯】 1530年2月18日(享禄3年1月21日)、越後守護代・長尾為景の四男として春日山城(現在の新潟県上越市中屋敷)に生まれる。 幼名は虎千代。 当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。 1536年に父・為景は隠居。 兄・長尾晴景が家督を継ぐ。 1543年、虎千代は13歳のときに元服。 長尾景虎と名乗る。 兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、1544年に越後の豪族が謀反を起こす。 14歳の景虎は謀反を鎮圧することで初陣を飾った。 1548年、兄・晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は18歳で家督を相続し、守護代となる。 1550年、主君の守護・上杉定実が後継者を遺さずに死去。 将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認める。 同年、一族の長尾政景が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こす。 景虎は反乱を鎮圧し、越後統一を成し遂げる。 1552年、景虎22歳のとき、相模国の北条氏康に上野国を攻められ、逃亡してきた関東管領・上杉憲政を迎え入れる。 景虎は派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退。 同年、31歳のの信濃侵攻によって領国を追われた信濃守護・小笠原長時らが景虎に救いを求める。 景虎は自ら軍を率いて信濃国に出陣。 武田領内へ侵攻し、武田方の諸城を攻め落とす。 信玄は決戦を避けたため、景虎は深追いをせず、越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。 その後も信玄と北信濃の支配権を巡る川中島の戦いは続き、計5回に及ぶ。 1560年、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、30歳の景虎は北条氏康を討伐するため関東へ向けて出陣。 翌年には相模国にまで侵攻、鎌倉を落とす。 さらに10万余の軍で小田原城をはじめとする諸城を包囲。 しかし、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。 景虎は小田原城を落城させるには至らず兵を引いた。 1561年、景虎は山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎と改めた。 その後、将軍・足利義輝の一字を賜り、輝虎と改めた。 1568年、北条氏康は甲相駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻した武田信玄と断交。 翌年、氏康は長年敵対してきた輝虎に和を請い、輝虎は氏康と同盟を結ぶ。 1570年、40歳の輝虎は、氏康の七男・北条三郎を養子として迎え入れる。 輝虎は三郎のことを気に入り、景虎という自身の初名を与えた。 輝虎は法号・不識庵謙信を称した。 1572年、北条氏康の後を継いだ北条氏政は上杉との同盟を破棄し、武田信玄と和睦。 謙信は北条氏と敵対する。 同年、信玄に通じて加賀一向一揆と合流した越中一向一揆が上杉方の諸城を攻略。 謙信は越中へ出陣し、尻垂坂の戦いで一向一揆に圧勝。 同年、信玄と交戦状態に入ったから同盟の申し出を受け、謙信は信長と同盟を締結。 1573年、宿敵・武田信玄が病没。 謙信は越中国へ出陣し、越中の過半を制圧した。 1576年、46歳の上杉謙信は信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と和睦し、信長との同盟は破綻。 顕如は一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開ける。 1577年、織田信長は謙信との戦いに踏み切る。 柴田勝家を総大将とする3万余の大軍は加賀国へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍。 しかし、が総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げる。 勝家率いる織田軍は手取川を渡り、水島に陣を張ると、上杉謙信は数万の大軍を率いて一気に南下。 形勢不利を悟った勝家は撤退を開始するも、謙信率いる上杉軍は手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した。 1578年4月15日、上杉謙信は次なる遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れる。 同年4月19日に謙信は急死。 48年の生涯を閉じた。 謙信は、養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを発表していなかったため、内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えることとなる。 未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが不明である。 もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし。 上杉謙信の名言 生を必するものは死し、死を必するものは生く。 上杉謙信の名言 武士は馬を我が足と思い、弓鎗を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が、本意の核心である。 上杉謙信の名言 大事なのは義理の二字である。 死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である。 上杉謙信の名言 昔時の名将は、暑日に扇をとらず、寒日に衣をかさねず、雨の日に笠を用いずして、士卒への礼とす。 上杉謙信の名言 信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。 自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。 さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている。 上杉謙信の名言 戦場の働きは武士として当然のことだ。 戦場の働きばかりで知行を多く与え、人の長としてはならない。 上杉謙信の名言 人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。 軽率なことは言ってはならぬ。 上杉謙信の名言 我は兵を以て戦ひを決せん。 塩を以て敵を屈せしむる事をせじ。 上杉謙信の名言 人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。
次のShingen Takeda 武田信玄 戦国時代の武将、甲斐国の守護大名、戦国大名。 国: 日本(現在の山梨県甲府市上積翠寺町) 生: 1521年12月1日 没: 1573年5月13日(享年51) 【その生涯】 1521年12月1日(大永元年11月3日)、甲斐国守護・武田信虎の嫡男として要害山城(現在の山梨県甲府市上積翠寺町)に生まれる。 幼名は太郎。 1536年、14歳のときに元服。 将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、晴信と改める。 1541年、父・信虎の駿河追放により、晴信は19歳で武田家の家督を相続。 家督を相続した晴信は信濃諏訪領への侵攻を始める。 1542年に諏訪領を制圧。 1550年には中信を支配下に置く。 1553年、31歳の晴信は北信を除き信濃をほぼ平定。 これにより領国を追われた信濃国守護・小笠原長時らが越後国のに救いを求める。 同年、上杉謙信は自ら軍を率いて信濃国に出陣し、武田方の諸城を攻め落とす。 晴信は決戦を避けたため、謙信は越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。 その後も宿敵上杉謙信との北信濃の支配権を巡る川中島の戦いは続き、計5回、12年余りに及ぶ。 1554年、晴信は相模国の北条氏康、駿河国の今川義元と甲相駿三国同盟を締結。 1559年、37歳の晴信は出家し、徳栄軒信玄と称する。 1560年、桶狭間の戦いにおいてが今川義元を討ち取る。 三河ではが独立。 その後、将軍足利義昭と織田信長が対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄らの大名に信長討伐の御内書を発送。 1571年、信玄は織田信長の盟友である徳川家康を討つべく、遠江・三河に侵攻。 諸城を落とすも信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。 1572年、信玄は再び甲府を進発。 三方ヶ原において家康と決戦し勝利。 しかし、信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止。 1573年5月13日、甲斐に引き返す途中、武田信玄は51年の生涯を閉じた。 信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること」や家督を相続する武田勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼ること」を言い残したいう。 武田信玄の名言 武将が陥りやすい三大失観。 一、分別あるものを悪人と見ること。 一、遠慮あるものを臆病と見ること。 一、軽躁なるものを勇剛と見ること。 武田信玄の名言 渋柿は渋柿として使え。 継木をして甘くすることなど小細工である。 武田信玄の名言 人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ。 武田信玄の名言 自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。 この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ。 武田信玄の名言 一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。 これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。 武田信玄の名言 我、人を使うにあらず。 その業を使うにあり。 武田信玄の名言 大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である。 武田信玄の名言 為せば成る 為さねば成らぬ成る業(わざ)を 成らぬと捨つる人のはかなき 武田信玄の名言 三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である。 武田信玄の名言 戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。 五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。 武田信玄の名言 人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。 武田信玄の名言 信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ。 武田信玄の名言 いくら厳しい規則を作って、家臣に強制しても、大将がわがままな振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとしである。 人に規則を守らせるには、まず自身の言動を反省し、非があれば直ちに改める姿勢を強く持たねばならない。 武田信玄の名言 晴信(信玄)が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安(投書)をもって申すべし。 時と場合によって自らその覚悟をする。 武田信玄の名言 晴信(信玄)の弓矢は欲のためではなく、民百姓を安楽にするためだと民に知らせれば、わしが軍を進めるのを待ち望むようになる。 武田信玄の名言 負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。 それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり。 武田信玄の名言 戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。 ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。 勝ちすぎてはならない。 将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。 武田信玄の名言 もう一押しこそ慎重になれ。 武田信玄の名言 今後は、一人働きは無用である。 足軽を預かっていながら独りよがりの行動をとれば、組の者は組頭をなくし、味方の勝利を失うことになるからだ。 武田信玄の名言 勝敗は六分か七分勝てば良い。 八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる。 武田信玄の名言 百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず。
次の