思い出 の マーニー 考察。 【思い出のマーニー】内容ネタバレと解説!サイロで和彦が現れた理由の考察も!

思い出のマーニーは意味不明?意味わからないストーリーを解説・考察まとめ!

思い出 の マーニー 考察

はじめに 『仮ぐらしの』で初監督を務めた監督の最新作『』が公開された。 この映画の内容を主にビジュアル面から読み解いていくことにする。 『』の特徴は何と言っても、メインキャターの二人が女の子という点にある。 彼女たちの人間模様は、どことなく物憂げな雰囲気をまとっており、主人公杏奈の成長は、ヒロインのマーニーとの間で取り交わされる物静かなやりとりを通して描かれる。 これまでののような壮大なスペクタクルはなく、それは例えるなら少年漫画と少女漫画くらいの差があるように思える。 っぽいけどではない とはいえ、『』には、これまでのを意識したであろうシーンが随所にちりばめられているようにも見える。 杏奈が体験する出来事は、なんとなくっぽいところもあるけどなんだか違っている、そんな微妙な感覚が常につきまとう。 例えば、主人公が新しい地へとやってくるというのは、『』の冒頭によく似ている。 友達との別れを惜しみながら引っ越し先へ向かうと、理解者の居ない鬱屈した現実から逃げ出すように田舎へ赴く杏奈とでは、新しい場所へ向かう動機がまったく異なっている。 杏奈が神社の階段を泣きながら駆け下るシーンは、』のシーンと似ている。 見比べてみると両者の差が残酷に思えるほどだ。 夢らしい夢を抱けないことが原因で喧嘩をしてしまった杏奈と、小説を書くという夢に胸を躍らせる月島雫は、まったく正反対な二人だ。 米林監督が言う、子どもたちに「そっと寄り添う映画」とは、杏奈のように人生に希望を抱けない若者に向けての言葉なのだろう。 キャンバスに向き合うおばあさんというのは、『』のポスターなどのメインビジュアルを想起した人も多いかもしれない。 『』のヒロイン・里見菜穂子は余命いくばくもない身でありながら人生の絶頂期を駆け抜けていくが、おばあさんは隠居生活を送っているようだ。 『』 には男性がほとんど出てこないが、その中の数少ない一人がマーニーの父親だ。 この湿っ地(しめっち)屋敷のパーのシーンは、『』のシーンを意識しているように見える。 『』のプは気さくで気立てのいい人物だが、マーニーの父親には冷徹さを感じる。 顔に落ちた影、やや下に傾けた顔、控えめなほほ笑み、青みがかったスーツや背景の色味、ワイングラスの持ち方までが、この父親の人間模様を際立たせている。 他にもボートで海を行ったり来たりというシーンや、気付いたら海が出来ているという場面は、『』のようでも『』のようでもある。 近道の雑木林に入っていくシーンは、『』を思わせる。 しかし、この映画では、雑木林の先に不思議な世界など広がっていないし、いつのまにか海が出来ていてもおもちゃの船を大きくしてくれる金魚の妖精も登場しない。 人々が胸を躍らせたくなるようなファンタの世界を、この映画はあえて拒否しているかのようだ。 それに各シーンでは、過去の映画よりも色の彩度をかなり落とされており、なるべく強調的なアングルを使わないように配慮がなされていることがわかる。 このようにダイナミックさを抑える米林監督の演出も、の世界に対するアンチテーゼのように見える。 本作のにいままで実写映画の美術をやってきたを起用し、ある意味異常なまでのリアリを追及しているのもこのような意図からだと思われる。 次のように語る米林監督は、これまでの映画のようにスケールの大きな世界観を構築しようとはそもそも考えておらず、ときに残酷ですらある小さな現実にあえて寄り添おうとしていることがわかる。 僕は宮崎さんのように、この映画1本で世界を変えようなんて思ってはいません。 ただ、『』『』の両巨匠の後に、もう一度、子どものための作品をつくりたい。 この映画を見に来てくれる『杏奈』や『マーニー』の横に座り、そっと寄りそうような映画を、僕は作りたいと思っています マーニーとは誰だったのか しかし、壮大な世界観を拒否するこの映画の中にも、ひとつだけ「マーニー」というファンタ要素が存在する。 では、マーニーとはいったいどのような人物なのだろうか。 マーニーは、杏奈の実の祖母であったことが映画の終盤に明かされ、それが表向きの結論となっている。 しかし、杏奈が何度も劇中で出合ったマーニーは、実在する祖母本人ではない。 杏奈が幼少期に祖母から聞かされた思い出話の登場人物である(すこしややこしいが)。 終盤では、祖母が決して幸せな人生を送ってはいなかったことも明かされる。 物語の前半では、マーニーは明るくて、杏奈をやさしく包み込んでくれる存在として描かれていた。 しかし実際は、屋敷でいじめられ、両親からも愛されずに育った可哀想な子であり、しかも、それに追い打ちをかけるように、娘(杏奈の母)とうまく関係を築けないまま死なれてしまう。 祖母の人生は、杏奈が出会ったマーニーの姿と比べると、かなりギャップを感じる。 このギャップが生まれた原因は、祖母が杏奈に語った思い出が楽しく幸せに満ち溢れたものだったからだろう。 それを示唆するかのように、終盤の回想シーンには、祖母が楽しそうに幼少の杏奈に思い出を語って聞かせる場面がある。 杏奈の記憶の中では、マーニーはたしかに明るく魅力的な女の子だったのだ。 この祖母の思い出話のもう一人の登場人物は、杏奈の祖父となる和彦である。 彼がマーニーと結ばれるというのが、この「物語」の筋書きである。 つまり、『』は、祖母が語って聞かせてくれた「物語」に杏奈がのめり込んでいくさまを描いた映画なのである。 杏奈が体験する没入感は、彼女自身が「物語」の舞台となった湿っ地(しめっち)屋敷に実際に居合わせることがトリガーとなっている。 これは、小説や映画、アニメのファンたちが作品の舞台となった聖地を巡礼し、現地で体験する臨場感に近い。 ただし、杏奈の没入はかなり病的で、命の危険すら感じられる。 杏奈にとってこの「物語」は、追い詰められた先にあった駆け込み寺のようなものであり、そこに没入できるかできないかは、より深刻で差し迫った問題なのだというように描かれている。 米林監督に『』の映画化を持ち掛けたは、この映画のテーマを「孤独」と総括している。 世の中が変わって、映画やテレビは大勢や家族で見るものだったけれど、今ネットは個人でするものになっている。 技術革新によって人々の暮らしが変わって、そんな時代に彼の映画は意味を持つと思う」 現代の子どもたちに寄り添っているもの、それは家族でも友達でもなく物語(フィクション)であるという点に、この映画のテーマがあると鈴木は考えているようだ。 この映画では、子どもが大人になる過程において、その物語から卒業を果たさなければならないという現実が杏奈の葛藤として描かれている。 たとえいくら「物語」に没入できたとしても、サイロにマーニーと一緒に行くのは自分ではなく和彦なのだということが杏奈には受け入れ難い。 必ずしも物語が自分に寄り添い続けてくれるとは限らないフィクションであることに気づいたとき、杏奈はマーニーに裏切られた気持ちになるのだ。 しかし、それでも最後には、マーニーを許し、この物語を愛し続けるという結論を導き出す。 それがこの映画で描かれる杏奈の成長である。 つまり、マーニーとは物語(フィクション)そのものの象徴、擬人化された物語(フィクション)なのだ。 この映画は、アニメや漫画に熱中する今時の若者たちが、マーニーという物語にのめり込む杏奈の姿に自分を重ね、自分にとってかけがえのない作品たちとの関係を改めて認識するように促しているように思える。 『』は、子どもたちが夢を見て、いずれ卒業する、その成長の過程に焦点を当てている。 これと似たような構造の物語に『』がある。 『』は、ドロシーという少女が竜巻に飛ばされてオズの国へ行き、大冒険を繰り広げて、最後にまた家に戻ってくるというストーリーである。 ドロシーははじめ、家を出ていきたいと思っていたが、オズの国へ行くと、だんだん家へ戻りたいと思いを募らせるようになり、家に戻ってくると、やっぱり家が一番だと安堵する。 これを少女がオズの国という「夢」から卒業し、家という「現実」を直視するようになる成長のお話と見ることができる。 『』と『』は、基本的なストーリーの構造が同じである。 しかし、杏奈がドロシーと違うのは、オズの国(夢)に留まりたいと願いながらも追いやられてしまう点だ。 この映画では、「夢」が手放しがたいもの、手放すには苦痛が伴うものとして描かれている。 では、現実から逃げたいと願った杏奈にとって、マーニーの「物語」とはただの「夢」だったのか、といえばそうではない。 『』は、その題名の通り、マーニーとの間に起きた出来事を「思い出」として捉えている。 マーニーをオズの国のように過ぎ去ってしまう「夢」として捉えるのでなく、自分を形作っている「思い出」として受け止めることで成長する姿が描かれている。 ポスターの意味 米林監督は、杏奈というキャターを作るきっかけを以下のように述べている。 でも、鈴木さんからぜひやってくれないかと言われて、何点か絵を描きながら思いついたのが、杏奈を"絵を描く女の子"にすればどうかということ。 そうすれば、杏奈が物を見ている目で、杏奈の心の中を描けるんじゃないかと思い、映画を作ろうと決意しました 杏奈がマーニーの絵を描くこと、つまり自分の好きな作品のキャターを描くことは、最近のアニメや漫画の二次創作に見られるように、現実でも行われていることだ。 そこで、上に示したポスターの意味を考えてみよう。 この手書きのポスターは、マーニーしか画面に配置されていない。 このポスターのマーニーを杏奈が描いたものだと仮定すると、 「あなたのことが大すき」という言葉は、一見マーニーから発せられた言葉のように見えるが、この絵を描いた杏奈の言葉と考えたほうがしっくりくる。 そして、もうひとつのセル画のポスターに書かれている言葉、「あの入江で、わたしはあなたを待っている。 永久に——。 」は、マーニーの言葉として受け取ることができる。 マーニーを物語(フィクション)の象徴として捉えるならば、「永久に」という言葉の意味もおのずと見えてくる。 人から人へと受け継がれていく物語は、時間を超越している。 だから、マーニーに会おうと思えばいつでも会いに行くことができるのだ。 「あなたを待っている。 永久に——。 」というフレーズは、ふたりの気持ちが通っているようでもあるし、お互いの流れている時間が異なっているような不思議な感じも覚える。 誰しも、杏奈にとってのマーニーのような、思い出深いお気に入りの作品があるのではないだろうか。 ひょっとしてそれは、引っ越しや大掃除のときについついめくってしまうマンガだったり、実家に帰省した時に懐かしくなりながら手に取る小説だったりするのかもしれない。

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思い出のマーニーの都市伝説や裏話が怖い!主人公の正体は幽霊なのか考察|うーたんブログ

思い出 の マーニー 考察

パーティー 彩香 そして3度めの出会い この後、2人はパーティーに出て、その後一週間出会わなくなります。 原作では、その後もアンナとマーニーとの交流がまだ何度か続くのですが、映画ではマーニーとの別れが訪れる前にマーニーが この世の人物では無いということが明確にされます。 杏奈はパーティー翌日に湿地屋敷を訪れますが 屋敷は。 それに草ぼうぼうで、昨夜パーティーが開かれた時の姿とはまるで異なります。 そしてパーティーから一週間後に 彩香が登場し、杏奈は マーニーの日記の存在を知ることとなります。 杏奈の口から 「マーニは私が空想で作りあげた友達」と言わせるのは原作も映画も一緒ですが、映画ではマーニーとの 別れの前に言わせているのが異なります。 演出としては、 原作よりもミステリアスな展開ですね。 マーニーとは一体誰なのか?観客の関心はその一点に集中します。 サイロへ 次に杏奈とマーニーと出会うシーンは 霧の中。 杏奈の空想の中だという印象が強いシーンです。 映画で流れる音も おどろおどろしくて、すこし 怪談物のような印象すら覚えます。 杏奈は、自分が養母の佐々木夫妻から 「やっかいもの」だと思われていること(彼女の誤解ですが)、佐々木夫妻が国から 養育費をもらっていることをマーニーに告白します。 ここで養育費の書類がスクリーンに映りますが、度の書類でした。 仮に劇中の年が26年だとすると、杏奈は2年前、つまり10歳の時に養育費の存在を知ったのですね。 この書類を杏奈は小学校6年の冬に見たようですので、つまり養母との関係がギクシャクしてから半年のようです。 養育費をもらっているからといって、杏奈が養母から愛されていないという理由にはならないとマーニーが指摘しますが、杏奈は 「ふつうの子はもらっていない」ことにこだわります。 映画では杏奈が養育費の書類を盗み見た直後に養母が帰宅して杏奈に 色鉛筆をプレゼントするシーンがありますが、 どうせ養育費で買ったのだと思うと杏奈は複雑な心境だったのだろうと察することができます。 一方、マーニーはマーニーで、自分が孤独に感じていることを杏奈に告白します。 杏奈はマーニーが羨ましいと言い、マーニーは杏奈が羨ましいと言う。 2人は「私達、まるで 入れ替わったみたい」と言って笑い合いますが・・・・私、劇場で最初にこのシーンを見た時は「きっとマーニーは何らかの 怨霊で、 杏奈の体と入れ替わろうとしているんだ!」と勘違いしてしまいました。。。 そういえば、幼きころの杏奈が持っていた 人形はなんだかマーニーに 似ていた気がします。 人形が杏奈の体を手に入れて人形の体と入れ替わろうとしている! 杏奈逃げてえええっ!! ・・・そう思っていた時期が私にもありました。 しかもマーニー、空飛んでるし(笑) マーニーが崖から空中に足を踏み出すのも、映画独自の演出です。 さてさて。 2人はその後、杏奈の提案で サイロへ向かいます。 サイロが怖くないということを確かめに行くのが目的ですが、ここも原作からは少し改変されているようです。 【原作】• アンナとマーニーは別々に風車小屋に向かい、偶然風車小屋で出会う• アンナが風車小屋に向かった理由は、風車小屋なんて怖くないと後でマーニーに言えるようになるため• マーニーが風車小屋に向かった理由は、勇敢になろうと思ったため• アンナが風車小屋に入ると、上に既にマーニーがいることに気付く 【映画】• 杏奈とマーニーは2人でサイロに向かう• マーニーが杏奈を「和彦」と呼ぶのは、映画のオリジナル要素• 彩香が登場して「日記の続きを見つけた」というのは映画のオリジナル要素 映画の演出では、原作よりも一層 ミステリアスなシーンに改変されています。 まず印象的なのは、マーニーが杏奈を 「和彦」と呼ぶ点です。 マーニーの目には杏奈が見えておらず、かわりに和彦の姿が見えているようです。 まるでマーニーの過去の記憶を、未来からきた杏奈がのぞいているかのような・・・。 ここで彩香が登場します。 彼女はマーニーの日記の続きを見つけたと言いますが、彼女の目には マーニーは見えていなかったようです。 ここで画面がぐっと引くのですが、杏奈のいる場所からサイロまでの何十メートルもある距離の中にマーニーの姿は見当たりません。 杏奈がサイロに入ってマーニを見ると、なぜか彼女はさっきまで持っていなかった コートをかぶっています。 これは 和彦のコートのようです。 杏奈は下に降りようと言いますが、マーニーは下に降りることを怖がり、そのまま2人は眠ってしまいます。 そして杏奈の夢の中で和彦がマーニーを迎えに来て、杏奈が目を開けると マーニーの姿がもうありません。 マーニー、大好きなマーニー! あなたまでもが私を置いていってしまった! 死んだ母や、おばあちゃんのように! 盗んだバイクで走りだす杏奈。 泣きながら 坂道を大爆走します。 ここも映画独自の演出が入っています。 杏奈の夢の中で和彦 原作のワード がマーニーを迎えに来て、杏奈を置いて消えてしまうというのは原作も映画も一緒です。 原作者の意図としては当然このエピソードはアンナが孤児になった点と重ねあわせているものだと思いますが、原作ではこれを直接的に 母や祖母がアンナを残して死んだことに重ねあわせるという書き方はしていませんでした。 原作ではここまでのエピソードがある程度の リアルなイメージを持って描かれているのですが、映画ではマーニーが この世の人ではないということを既に観客が知っているという点も大きな違いですね。 そして物語はクライマックスを迎えます。

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『思い出のマーニー』感想┃マーニーの正体や舞台のモデルも考察

思い出 の マーニー 考察

スタジオジブリの長編アニメーション映画「思い出のマーニー」は、ジョーン・G・ロビンソンというイギリスの作家による児童文学作品が原作となっています。 ジブリ作品の「思い出のマーニー」では日本の北海道を舞台に、喘息の持病をもったアンナ(杏奈)が療養のために過ごすことになった田舎にある親戚の家で、不思議な少女のマーニーと出会い様々な体験をすることでアンナは心も体も癒やされていくというストーリーです。 ただ、思い出のマーニーには謎や疑問点も多く、 特に初見では意味がわからない・意味不明と感じてしまう部分もある作品だといえそうです。 そこで今回は、 思い出のマーニーのストーリーの意味わからない・意味不明な部分を解説し考察しながらまとめていきます! この記事の内容は私の主観や考察、ネタバレを含んでいます。 そのため思い出のマーニーを観た後に、意味がわからない・意味不明な部分を知りたいという場合に読むことをオススメします! 思い出のマーニーの解説前に理解しておくこととは、 思い出のマーニーで描かれているアンナと子供の姿のマーニーが体験したことは現実には起こっていないことだということです。 思い出のマーニーでのマーニーは、アンナの心のより所としてアンナを支えてくれる存在でした。 また、 アンナの祖母は実はマーニーだったということは、思い出のマーニーを観た方は理解できた部分だったのではないでしょうか。 アンナと子供の姿のマーニーが体験したことは、 アンナが幼少期に自分の祖母であるマーニーから物語のように聞かされていた話を、知らずしらずのうちに思い出し妄想の中で追体験したのではないかと考えられます。 まずはこの部分を思い出のマーニーの解説前に理解しておくことで、ストーリーの中で意味わからない・意味不明な部分の解説や考察もよりわかりやすくなると思いますよ! 意味不明で意味わからないストーリーを解説・考察まとめ! 思い出のマーニーのストーリーの中には、私自身も観た後に複数の謎が残ったと感じた部分が複数あり、理解するために思い出のマーニーを何度も見返した経緯があります。 思い出のマーニーは1度観ただけではすべてを理解するのは難しい作品だといえるのではないでしょうか。 ここからは、 思い出のマーニーのストーリーで意味がわからなかった・意味不明だったのではないかという部分を解説・考察してまとめていきます。 この時点で、アンナと母との関係に違和感を感じた方もいたのではないでしょうか。 担当医師にアンナに対する悩みを相談していた母は感極まり「やっぱり血が繋がってないからなのかな・・・」と言って涙を浮かべていました。 この発言で、 アンナの母だと思っていた女性が血が繋がっていない養母であるということがわかります。 養母は「こんな時に夫は出張だし・・・」と話していることから、アンナの家庭はアンナと養父、養母の3人家族だということも同時にわかりました。 ひと気のない湿っ地屋敷を見て回ったアンナが帰ろうとすると満潮になっており、歩いて帰ることができなくなっていたところに十一さんが現れ、アンナを助けてくれましたね。 親戚のおじさんが「良いやつなんだよ彼は、話し相手にはならないと思うけどね」と話していることから、危険な人物ではないことがわかります。 思い出のマーニーの終盤では、アンナとさやかをボートに乗せた十一さんが「マーニー・・・青い窓の向こうに閉じ込められた少女。 遠い昔の話しだ」と彼は初めて口を開きました。 このことから、 十一さんは湿っ地屋敷に住んでいたマーニーと面識があったのではないかと考えられますね。 しかし、 アンナが願い事を書いたアンナの短冊を信子が勝手に取って読み上げてその意味をアンナにしたことと、アンナの目の色を女友達に話しだしたことが原因で、怒ったアンナは信子に「太っちょ豚」と言いました。 これは、そもそもお祭りに行きたくなかったアンナにとって信子の行動がおせっかいで迷惑だと感じたからではないかと考えられますね。 信子にはまったく悪気はなく、リーダーシップをとるいい子なだけに「太っちょ豚」なんて悪態をつかれてかわいそうになるシーンでもあります。 もちろん、人が住んでいるとは思えない様子です。 しかしマーニーと会っている時の湿っ地屋敷はきれいに整備されていて、マーニー以外にも人がいましたね。 大岩さんも言っていまいたが 現実には湿っ地屋敷には人は住んでいないので、マーニーが存在するアンナの妄想の世界でだけ湿っ地屋敷も当時の状態で見えていたということなのではないでしょうか。 マーニーがアンナに大岩さんとの生活について質問すると、アンナは大岩さんについてすぐに思い出すことができずに意識は遠くなり気を失ってしまったようでした。 気を失いながらもアンナは夢をみているような感覚で親戚の大岩さんご夫婦を思い出し、気がつくとそこにはマーニーがいませんでした。 大岩さんとの生活は現実世界の話で、マーニーと会うことはアンナの妄想の世界での話なので、別の世界の話を同時に考えることはできないということなのではないでしょうか。 現実世界での時間が充実していることで、アンナはマーニーの事をすっかり忘れそうになってしまっていたようです。 自分がスケッチブックに書いたマーニーの絵を見て、マーニーの事を思い出したアンナはとても慌てました。 マーニーはアンナにとって心のより所で、アンナのことを支えてくれている存在だったため、現実での生活が充実してきたこの時のアンナの前にマーニーが現れる必要はなかったということなのではないでしょうか。 すると湿っ地屋敷のマーニーの部屋の窓が開き、そこからメガネ少女のさやかが顔を出しアンナに「あなたマーニー?」と聞きました。 さやかからマーニーという名前を聞いたアンナは驚き、さやかと一緒に湿っ地屋敷の中へ入るともう一度アンナがマーニーなのではないかと質問され、アンナは「違うわ」と答えます。 アンナはマーニーと会えなくなってからも何度も湿っ地屋敷を訪れていて、その度にマーニーの部屋を見ていたんですね。 そのため、さやかからするとアンナが自分の部屋をいつも見ているように見えていたわけです。 そして さやかは棚の隙間からマーニーの日記を見つけていたこともあり、この部屋の元持ち主のマーニー(実際にはアンナ)が自分の部屋を見ていると勘違いしたようですね。 A post shared by ghibli10. 02 on Oct 12, 2019 at 4:17am PDT アンナはマーニーに1週間会えずにいることを悲しんでいて、自分がマーニーのことを忘れていたことに怒っているのかもと偶然出会った久子さんに話しました。 湿っ地屋敷でメガネ少女のさやかと会った後、夜眠ると夢の中でアンナはマーニーに会うことができました。 しかし この時のアンナは、すでにマーニーは自分の妄想で現れている空想の女の子だと理解し始めていたのかもしれません。 マーニーの存在を再確認するように「私のお部屋にきて!」とマーニーに言いますが、マーニーは屋敷のそばから離れられないと答えました。 アンナが祖母のマーニーから聞いていた子供の頃のマーニーの物語は、湿っ地屋敷やサイロなど限られた場所しか登場していなかったのだと思われます。 そのため 物語の中に登場した場所にしか、マーニーも現れることはできないということなのではないかと考えられます。 lover on Mar 3, 2020 at 6:29pm PST アンナは自分がもらいっこであることを悲観的に思っていました。 本当の両親はアンナが小さい時に亡くなっていて、祖母も亡くなり、わざと死んだわけではないとわかってはいるものの、 自分を一人ぼっちにした家族に対して「許さない」という恨みにも似た気持ちを抱いていたんですね。 それに加えて、育ててくれた養父・養母が自治体からお金をもらっていることに気づいてしまったアンナは、自分が本当の子供でないおかげでお金をもらっていて自分にはわからないようにしていいる養父・養母に対し、違和感を感じていました。 そして アンナはその事を気にしている自分自身のことを嫌いになって、何も信じられなくなってしまっていたのです。 しかし、日本では原作に出てくるような風車で実用のものは存在しないそうで、北海道という舞台にぴったりなサイロに変更したそうですよ😃 — アンク@金曜ロードSHOW! マーニーはそのサイロにトラウマを抱えているようでした。 そのトラウマ克服のため、アンナはマーニーに一緒にサイロに行こうと提案しました。 しかし、サイロに向かう途中からマーニーはアンナのことを和彦と呼んだり、サイロの中でもアンナを和彦と呼んで、アンナもそんなマーニーに違和感を覚えたようです。 その後アンナがサイロの中でウトウトしていると、マーニーのもとに和彦が現れて2人だけでサイロを去ってしまいました。 このことをアンナはどうして自分を置いていったのかとマーニーに問いただしました。 するとマーニーが 「あのときあなたはあそこにいなかったんですもの」とアンナに言いました。 これは、 このサイロの話は祖母のマーニーが話してくれたマーニーの過去の物語で、その物語にはアンナは登場しないので、アンナはサイロにはいなかったということを言っていたのだと考えられます。 その後さやかは自宅でその破れた日記を読んでいました、 その日記には和彦やサイロのことが書かれていたのです。 A post shared by dream. ghibli on Mar 21, 2020 at 7:06am PDT 思い出のマーニーの作中では、ほとんどがアンナとマーニーふたりの少女の物語のように描かれています。 しかし思い出のマーニーは、両親の死や幼少期に育ててくれていた祖母マーニーの死によって傷つき、養母の優しさを素直に受け入れることができなくなってしまうほどの心の闇を抱えてしまったアンナが心も体も癒やされて、 養母や親戚、友人などの大切さを知っていくストーリーなのだと思います。 アンナの前に現れた マーニーによってアンナは癒やされ、最後に親戚の家を去る時にはまるで別人のような清々しい表情でその地を後にしたことが、その証拠だといえるのではないでしょうか。

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