サンフランシスコ 平和 条約 と は。 台湾史としてのサンフランシスコ平和条約

サンフランシスコ講和条約とは?内容と領土問題をわかりやすく解説

サンフランシスコ 平和 条約 と は

もう一つのサンフランシスコ平和条約 今から68年前の1952年4月28日、アメリカのサンフランシスコで、第二次大戦の敗戦国である日本と、連合国との講和条約が結ばれました。 正式名称は、「日本国との平和条約(英語:Treaty of Peace with Japan)」ですが、これを現在は通称 「サンフランシスコ平和条約」と呼んでいます。。 日本史の面から見えると、日本が主権を回復し国際社会に復帰した、ただし沖縄や小笠原諸島はアメリカ軍管理下…という面が強調されます。 学校でも、おそらくここしか教えられないと思います。 が、台湾史というフィルターで見ると、我々が知らなかった もう一つのサンフランシスコ平和条約が見えてくるのです。 日本人が学校の授業で強調される「主権の回復」は、 第二章(領域)の第二条(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 法律知識や国際情勢がない人は、ここである誤解をします。 「日本は台湾及び澎湖諸島を『中国に返還』したんだ」 と。 これは無理もありません、私も最初はそう思っていたから。 ところが文言には、返すなんてどこにも書いていません。 あくまで 「持っていた台湾・澎湖諸島の主権を手放します」なのです。 放棄してどこの国のものですなども書かれておらず、国際法上は「無主の地」となります。 また、上記(b)により、日本統治時代は「本島人」「広東人」「高砂族」と呼ばれていた台湾住民は、 日本国籍を喪失すると解釈され、ここに台湾人は「日本国籍ではなくなる」のです。 実際は、後述する「日華平和条約」締結でなのですが、細かい事は置いておきます。 が、どこにも「中華民国国民となる」なんて書かれてません。 中華民国と日華平和条約 実は、中華民国は、「中国」をどう解釈するかで米英が揉めたのと、中華民国なんて死に体だろうと、結果的に招待すらされていません。 が、オワコン扱いされた中華民国は1949年、台湾へ「亡命」し首の皮一枚で生き延びることとなります。 それにより、1952年に日本と台湾に逃げた中華民国との間で 「日華平和条約(日本国と中華民国との間の平和条約)」が結ばれることとなりました。 日本の一部、特に旧社会党とそれにつながる一派などは、 「日華平和条約で台湾は中華民国と認めたから台湾は『中国だ』」 というロジックを展開しています。 実際、このロジックをベースに国会で論議されたこともあります。 しかし、日華平和条約を紐解くと、そんなこと一言も書いていません。 漁業や航海など細かい部分は置いといて、 「サンフランシスコ平和条約に基づき、台湾・澎湖諸島の主権は放棄します」 とは書かれていても、 「台湾・澎湖諸島は 中華民国が主権を有します」 なんてどこにも書いていません。 つまり、国際条約上は台湾は宙ぶらりんだし、中華民国の主権が及ぶ範囲は「金門島及び馬祖」になるのです。 上で誤解と書きましたが、この事情を知らない人は、無知なあまり中国の誘導ロジックに引っかかっていることすらあります。 「中国」といっても中華人民共和国ではありません、中華民国の方です。 国際法の理屈では、中華民国は台湾を有する権利を持たず、主権の範囲はあくまで金門島・馬祖のみ。 この二つは、中華民国ロジックで言えば「福建省」にあたるので、「台湾省」でもありません。 中華民国も、ロジックが論破されると存在意義がなくなってしまうので必死です。 どうにか自分が台湾にいる存在意義を求めようとしていますが、その論拠の一つに「カイロ条約」があります。 が、今回カイロ条約まで書くとこの記事内がカオスになり、歴史や国際法の知識がないとパニック不可避になるので、また別の機会に。 この流れで 「台湾は中華民国にあらず。 無主の地である」 というロジックを、 「台湾地位未確定論」と言います。 全員が全員ではないものの、「台湾独立」を主張するグループのメインは、この「台湾地位未確定論」に基づいています。 このロジックを知らないと、何故台湾で「独立」運動が起きるのか、全く理解ができなくなります。 おわりに 日本人がほとんど知ることのない、「裏サンフランシスコ平和条約」。 日本人的には「あっそ」と流してしまいがちなこの内容ですが、台湾人にとっては非常に重要な日。 「1952年4月28日 その時歴史が動いた」 日本史にとってもそうですが、台湾史にとっても大きく動いたのがこの日なのです。 台湾史. jp推薦-台湾史を知る書籍.

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平和条約国籍離脱者

サンフランシスコ 平和 条約 と は

サンフランシスコ条約と安保条約の関係は? 〈問い〉 日米安保条約は、一九五一年のサンフランシスコ条約にもとづいて同時に結ばれたということですが、二つの条約はどういう関係にあるのですか。 (愛知・一読者) 〈答え〉 「サンフランシスコ条約」の正式名称は「日本国との平和条約」です。 アメリカ、イギリスをはじめ対日戦争参加諸国の代表がアメリカのサンフランシスコ市で対日講和会議をひらき、そこで調印された条約です。 「講和(平和)条約」とは、その戦争にかかわった国ぐにが戦争の終結を宣言し、領土や賠償金などの条件を取りきめる国際条約のことです。 平和の国際関係を回復するためには当然必要なものであって、本来すべての関係国が参加する講和がなされるべきでした。 ところがアメリカは、世界に自分の支配的影響力を及ぼす拠点として日本を確保するために、これに賛成する国だけによる講和を急ぎました。 日本の侵略で被害を受けた中国、ソ連など多くの国が、この条約に加わりませんでした。 サンフランシスコ条約は、日本との戦争状態の終結、朝鮮独立の承認、台湾、千島など近接する諸島の権利の放棄、沖縄、奄美、小笠原諸島をアメリカの施政権のもとにおくことなどを決めました。 そして第六条で、日本を占領していたすべての軍隊は九十日以内に撤退することになりました。 この第六条は、「ただし」一または複数の「連合国」と日本との間で締結される協定にもとづく「外国軍隊」の日本の領域における駐屯、駐留は「妨げるものではない」と定めました。 そして、この条項にもとづき、サンフランシスコ条約と同時に日米間で結ばれたのが、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(日米安保条約)で、今日の安保条約は、これを一九六〇年に改定したものです。 二つの条約がワンセットで結ばれた目的は、実際には、アメリカ占領軍がひきつづき日本に居すわる軍事的特権を合法化するためでした。 そして、この二条約によって日本は形の上では独立国家となったものの、現在にいたるアメリカへの深い従属のもとにおかれることになったのです。 (な) 〔2000・4・27(木)〕 機能しない場合は、上にあるブラウザの「戻る」ボタンを利用してください。

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日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 調印・発効 本巻は、『日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 調印・発効』として、サンフランシスコ平和条約の調印から発効までの外務省記録(1951年9月~1952年4月)を編纂・刊行するもので、通算202冊目の『日本外交文書』になります。 (A5判、本文678頁、索引44頁、総頁数722頁、採録文書総数123文書)。 なお、「サンフランシスコ平和条約シリーズ」としては、2006年(平成18年)に第1巻目となる「」を、2007年(平成19年)に第2巻目となる「」を刊行しており、本巻「調印・発効」がシリーズ第3巻目となり、本巻をもってシリーズ全3巻は完結します。 本巻の概要 I II III IV V VI I 平和会議に向けた準備 1951年7月11日、米国政府より平和会議出席の確約を求められた日本は、13日、応諾の旨を通報しました。 これにより20日、平和会議への招請状が日本に届けられ、日本は欣然出席することを24日米国側へ回答しました。 ダレス米国務長官顧問は吉田茂総理自身の会議出席を強く要望し、その旨を繰り返し吉田総理に伝えました。 日本側は全権団構成の調整を進め、8月20日、吉田総理を首席全権とする日本側全権団リストを米国側に通報しました。 8月12日、事前の予想に反してソ連は会議への参加を表明し、日本政府はこれに対していかに対応すべきかを米国側と協議しました。 また、インド・ビルマ・ユーゴスラビアは、講和後における外国軍隊の駐兵を予見するような平和条約の規定や賠償問題への不満などを理由に会議への不参加を表明しました。 会議に参加しないイタリアとの間では、外交関係の再開をどのように進めるべきか協議を行いました。 そのほか、日米安全保障条約案の確定と平和条約最終案の公表に向けた日米交渉と並行して(「」参照)、日本政府は会議に向けての各種準備に追われました。 本項目では、平和会議招請をめぐる日米間のやり取りをはじめ、日本の平和条約締結権の問題や対日講和をめぐる情勢判断文書など全14文書を採録しています。 II サンフランシスコ平和会議 1951年9月4日より8日まで、サンフランシスコにおいて52カ国の代表参加のもと、平和会議が開催されました。 アチソン米国務長官は9月2日、会談に先立って行われた吉田全権との会談の席で、平和条約調印に対する態度未決定の諸国に対して日本が外交力を発揮して調印を促すよう求めました。 これを踏まえて吉田全権は、賠償問題などに関してインドネシアやフィリピンなどと議場外で個別協議を行いました。 平和会議では、9月5日より7日まで8回にわたり全体会議が行われました。 全体会議では、米英両国全権による条約案の説明に続き、各国全権が意見陳述を行いました。 7日夜の第8回全体会議では吉田全権が受諾演説を行い、8日午前に平和条約署名式が行われました。 会議参加国のうちソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3カ国を除く49カ国が平和条約に署名しました。 また、議定書には27カ国が署名し、日本は国際条約の加入等に関する宣言と戦死者の墳墓に関する宣言にも署名しました。 8日午後には、サンフランシスコ米陸軍第六司令部にて日米安全保障条約の調印が行われ、日本側は吉田全権のみが署名しました。 また、吉田全権とアチソン国務長官との間で日本の国際連合に対する協力に関する交換公文が取り交わされました。 本項目では、全体会議における主要国全権の意見陳述や吉田全権の平和条約受諾演説、議場外における各国との協議に関する文書などを中心に、全18文書を採録しています。 III 平和会議後の対米協議 平和会議の終了後、わが国外交当局は平和条約の解釈について米国側に確認を求めるとともに、日米安全保障条約や日米行政協定案についても、国会答弁を準備するため、条文解釈などに関して米国側と事務レベル協議を重ねました。 また、1951年12月のダレス大使来日にあたっては、日本側では中国問題のみならず、賠償問題や南西諸島問題などに関する資料を作成し、それらはダレス大使へ提出されました。 また、平和条約第15条 a に基づいて生じる紛争解決のための協定の締結に向けても米英両国との間で協議が行われ、1952年1月25日に締結に関する閣議決定がなされた後、6月12日、ワシントンにて署名されました。 本項目では、平和会議後の日米協議に関する文書を中心に、全19文書を採録しています。 IV 中国問題に関する吉田書簡 1951年12月に来日したダレス大使の主な任務は、米国議会における平和条約の批准促進のため、中国との講和問題に関して、日本政府が中華民国と交渉する意思があるかを確認することにありました。 この米国側の打診に対し、吉田総理は原則として異存はないと回答し、吉田総理からダレス大使宛の書簡(いわゆる「吉田書簡」)が協議・作成され、12月24日付で発出されました。 この「吉田書簡」の内容は、米上院外交委員会における平和条約の審議開始にあわせて、1952年1月15日(日本時間では16日正午)に公表されました。 本項目では、ダレス訪日中に2度行われた吉田・ダレス会談の記録や「吉田書簡」の公表に関する文書を中心に、全13文書を採録しています。 V 日米行政協定締結交渉 日米安全保障条約に基づいて日本に駐屯する米軍の法的地位を規定する日米行政協定の締結交渉は、平和条約調印後の1952年1月下旬より東京にて、岡崎勝男国務大臣とラスク大使との間で開始されました。 これに先立つ1951年11月、日本側はNATO加盟国間の軍隊の地位協定を模範とした協定案を米国側に提案し、米国側はこれを踏まえた新たな協定案 12月21日付 を提示、同案が日米交渉の基礎案となりました。 交渉は、全11回の全体会議と全16回の非公式会談を中心に行われ、「施設及び区域」や「防衛措置」に関する規定をはじめ協定案をめぐって逐条討議が重ねられました。 その結果、1952年2月28日に日米行政協定の署名が行われ、同時に岡崎国務大臣とラスク大使との間で協定第2条(施設及び区域の決定)に関する交換公文が取り交わされました。 本項目では、全体会議および非公式会談の記録のほか、米国案に対する日本側の意見および要請文書など全39文書を採録しています。 VI 平和条約の批准・発効 平和条約調印直後の1951年9月13日、外務次官から日本政府在外事務所長に宛てて、各国による条約批准の見通しを把握するため、調査訓令が発せられました。 これに対して、ほとんどの国からは批准に向けて順調に手続きが進められている旨の回答が寄せられましたが、インドネシアやオランダなど賠償問題を抱える国では手続きが難航していることが報告されました。 日本側は11月18日に平和条約を批准し、28日に批准書を米国に寄託しました。 特に日本側は、米国議会における批准審議の動向を注視しましたが、上院本会議での可決後、トルーマン米国大統領は1952年4月15日に批准書に署名しました。 そして4月28日、米国の批准書寄託が完了することによって発効条件が満たされ、同日、平和条約は日米安全保障条約とともに発効しました。 本項目では、各国の批准状況を伝える文書や条約発効に際するわが国の対応振りに関する文書などを中心に、全20文書を採録しています。 <参考> 巻末に、サンフランシスコ平和条約シリーズ全3巻(「」「」「調印・発効」)を通じた日付索引・主要人名索引・主要事項索引を収録しています。

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