桑田 真澄 裏金。 さらば桑田真澄、さらばプロ野球

桑田真澄

桑田 真澄 裏金

いやー40年プロ野球を見ていて一番の名言じゃなかろうか。 桑田真澄に向かって片岡篤史が言い放った一言 「桑田さん、 裏金もらってました?」 シビれた片岡、よく言った。 面白すぎるぜ・・・ 片岡チャンネルがアツい 昨日はマエケンチャンネルの話でしたが、今日はです。 カープのネタが無いのよぅ・・・ 「清原vs片岡」とか「立浪vs片岡」の時はよくわかったんですが、なぜだか今回の「桑田vs片岡」の対談はあまりイメージが湧きませんでした。 やっぱりピッチャーとバッターだからでしょうか。 片岡チャンネルに桑田が出てきてちょっとビックリしました。 実際、片岡さんの態度も同期の野村橋本と話す時より、桑田と話す時の方がちょっと距離感と言うか 遠慮感を感じました。 そりゃそうですよね。 厳しすぎるPLの1年と3年の関係ですから。 片岡チャンネルの中でも「国民的スーパースターの桑田真澄」に対して「無名の高1・片岡篤史」という関係が随所に垣間見えます。 実に面白い。 でも「やっぱり同じチームにいたんだな」と思わせる場面もちょこちょこあって、そういう場面にほっこりもします。 清原vs片岡の回は同じ打者ということもあってか、非常に親密な感じを受けました。 桑田と片岡の近くて遠い「距離感」は野球部らしくて非常に楽しかったですね。 桑田が公の場で関西弁を使うのも新鮮でした。 私は巨人時代の桑田が関西弁を使ったところを一度も見たことありませんでした。 桑田真澄の思い出 その桑田の思い出話も色々あります。 有名どころでは札幌で北別府が3ラン打たれて完封負けした話とか、西山秀二と幼なじみとか。 平成の野球部員はみんな、ランニングする時に「これが俺の桑田ロード」って気持ちで走ってましたよ。 あと桑田は清原との名勝負を数々やってますけどオープン戦で三振取ったことも思い出しましたし、あの1987年の甲子園でのオールスターでの対決もよく覚えてます。 桑田「コレ言っていいのかなあ・・・あの時俺、マスコミの人にインハイにスッと投げてって頼まれたんだよね」 やっぱりか! 覚えてます。 確かにあの時、私も「桑田にしてはスーッと甘く入ったな」って思いましたもん。 やっぱりそうか。 33年ぶりに納得しました。 あと桑田と言えば 立浪和義に異常に弱かったイメージがあります。 前の年に防御率のタイトル取った桑田ですからね。 ワザとやってんのかと思ってました。 清原にも打たせてやるし、立浪にも打たせてやる。 意外にいいヤツなのか、桑田? あの頃の桑田はまだKKドラフトの余熱が残っててダークヒーローのイメージでした。 昭和63年の話です。 まあ、令和の今でも私はあんま好きじゃないですけどね。 笑 片岡チャンネルの桑田は関西のおっさんでカワいかったです。

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ベストドウガ » 桑田真澄氏に直球質問「裏金もらった?」

桑田 真澄 裏金

概要 [ ] のとは、1年生時からエースと4番としてそれぞれ活躍し、5回の全国大会出場のうち優勝が2回・準優勝が2回・ベスト4が1回という記録を残した。 二人はと呼ばれ、プロ野球ファンのみならず、世間の注目を大いに集めた。 清原はプロ入りを志望し、への入団と、尊敬する監督の下でのプレーを熱望していた。 清原と12球団担当者はドラフト前に面談し、、、が早々に撤退した。 清原は巨人以外では、などを希望し、阪神編成部長には「交渉権を得たら来てくれるか?」と問われて「はい、お世話になります」と答えている。 一方、巨人スカウト次長は清原と両親に「野手では1番の評価」と伝えていたが、「1位は投手か野手か、まだ決めていない」と確約はしなかった。 桑田は大学への進学を表明 し、ドラフト会議4日後の11月24日に教育学部の入学特別選抜試験を控えていた (ドラフト会議当日までに早稲田大学への進学が決まっていたわけではない)。 このため、プロ志望の清原は指名の競合が予想された一方、進学志望を表明している桑田への指名は回避されると思われた。 (11月20日開催)当日に桑田には3球団から1位指名の連絡が入った。 しかし、ドラフト会議でその3球団は桑田ではなく清原を指名した。 一方で巨人は清原ではなく、桑田を1位で単独指名して交渉権を獲得した。 当時、西武の球団管理部長であり、自身で清原のくじを引き当てた によると、桑田がドラフト1位で指名されなければ外れ1位又は2位で西武が指名する予定だった。 根本がこの話をドラフト直前にリークしたため、巨人は桑田を単独1位指名してこれを阻止した。 巨人の桑田1位指名は監督もドラフト会場に着くまで知らされていなかった。 清原には、、中日、、、阪神の6球団が1位指名で競合し、抽選の結果が交渉権を獲得した。 巨人からの指名を希望していた清原は会見で涙を流した。 その後、清原は西武に入団、桑田も早稲田大学の入学試験を辞退し巨人に入団した。 桑田は早稲田受験中止後の記者会見で「自分の初志を貫徹したということです。 巨人1位だったら入ると考えていたし、それ以外だったら早稲田と決めていました」と答えた。 ドラフト後に様々なメディアで巨人と桑田に密約があったのではないかと報道されたが、今なお真相は藪の中である。 清原は、で西武が巨人を破った際、シリーズ制覇目前となった試合終了間際に守備位置で涙を流したことが語り草となっている。 その後、清原はを行使し、1997年のシーズンから巨人に移籍し、2005年に自由契約となってへ移籍するまで再び桑田とチームメイトとなった。 脚注 [ ].

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かつて甲子園を沸かせた清原和博と桑田真澄は「KKコンビ」と呼ばれていた。 実力・人気ともに高校野球史に残るもので、清原は甲子園ホームラン記録を、桑田は甲子園最多勝利記録をそれぞれつくった。 そしてプロ入り後も両者ともかなりの好成績を残した名選手だ。 【桑田と清原のイメージ】 ところで、みなさんはこの両者についてどのような印象を抱いているだろう。 清原には週刊誌での薬物疑惑や「番長」と呼ばれた風貌などから悪いイメージを、桑田に対しては真面目な印象を抱いている人が多いのではないか。 それもそのはず、引退後の桑田は特に、体罰否定等の発言・早稲田大学院での「野球道」研究・東大野球部でのコーチなど文句の付けようもない活動が多く、現在の清原とは大違いだ。 しかし、かつては清原よりも桑田の方がダーティーなイメージだった時代があった。 なぜ桑田は悪い印象を抱かれていたのか、またそれらはなぜ良い印象に変わっていったのだろう。 【巨人入団時に密約が?】 桑田に初めにケチがついたのは、巨人入団時までさかのぼる。 この件は現在では「KKドラフト事件」と呼ばれている。 ドラフト前、清原は「王さん(当時巨人の監督)の下で野球をしたい」と巨人を熱望し、対する桑田は早稲田大学への進学を表明していた。 そのため、誰もが桑田の指名をどの球団も回避し、巨人は清原を指名するものだと思われた。 しかし、蓋を開けてみると巨人はドラフト1位で清原を指名せずに桑田を指名したのだ。

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