六月あつ森魚。 the place:F

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六月あつ森魚

「放課後は終わらない!」を合言葉に、いつまでも青春!いつだって文化祭気分!のオバカな野郎の他愛ないヒマネタ閑話休題です。 「同時代性」の大好きな70年代の洋楽や邦楽のカルチャー 枠にとどまらず、 「路上観察」ネタや益にもならない放談の 日々で攻めてみたいと思います。 かなり気まぐれな 不定期アップと不連続な話題がウリ(?)の 「気まぐれな 鉛の飛行船」とでも思ってくださいな。 「浜名湖フォークジャンボリー」では記録係のカメラマンの1人として当日スタッフや実行委員 2010年度 などもしていました。 しかし、その正体は、某写真週刊誌の取材記者を30年以上も勤めているという怪しい噂も…? 笑 2010年、老舗アコースティックギターメーカー「K. Yairi」のトラベルギター・ニックネーム公募で「TEKTEK テクテク 」で最優秀賞受賞。 同社からシリアルナンバー0001の同ギターを貰い図にのる中年57歳。 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。 圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。 その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。 アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。 日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。 この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。 人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。 戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。 当初は、日本も足並みを揃えました。 しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。 その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。 国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。 こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。 満州事変、そして国際連盟からの脱退。 日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。 進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。 そして七十年前。 日本は、敗戦しました。 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。 祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。 終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。 広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。 中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。 戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。 歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。 一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。 この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。 これが、戦後日本の原点であります。 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。 事変、侵略、戦争。 いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。 植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。 自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。 七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。 その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。 中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。 米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。 戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。 あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。 しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。 謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。 そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。 それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。 歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。 その大きな責任があります。 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。 だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。 この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。 唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。 だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。 二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。 だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。 繁栄こそ、平和の礎です。 暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。 だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。 その決意であります。 アレじゃ謝ったことになってないと受け取られてダメだわ。 情けない・・・。 あの日から「戦後」が始まり、加害の歴史を責められながらも廃虚から立ち直り、平和国家として歩みを重ねてきた。 過去と向き合い、中国や韓国などと和解の努力を積み上げる一方、憲法9条の下で一度も戦争をせず、先の大戦への反省とおわびを行動で示してきた。 だが今、国の針路は大きな岐路に立っている。 衆院で与党が採決を強行、舞台を参院に移して審議されている安全保障関連法案である。 憲法解釈を変更し、歴代政権が憲法上認められないとしてきた集団的自衛権の行使を容認する内容だ。 安倍晋三首相は「国家と国民の安全を守り、世界の平和と安全を確かにするものだ」と強調する。 さらに「平和」と「安全」という言葉を何度も繰り返しながら「絶対に戦争に巻き込まれることはない」と述べる。 国民の理解を得られず、内閣支持率が急落した後には「分かりやすく説明したい」と火災の延焼を防ぐ例え話も披露した。 だが反対や批判の声はやまない。 政府が憲法学者による「違憲」の指摘と向き合わず、武力行使への歯止めや自衛隊員のリスクといった肝心な点になると、あいまいな説明しかしないからだ。 戦後、戦力不保持と戦争放棄を定める9条の下で歴代政権は「自国が武力攻撃を受けたときの必要最小限度の武力行使しか認められない」との見解を引き継いできた。 ところが安倍政権は、国際情勢の変化で、自国を守るための限定的な集団的自衛権行使なら現憲法下で可能と主張し、関連法案をまとめ上げた。 先の参院審議では中谷元・防衛相が他国軍への後方支援をめぐり「核兵器の運搬も法文上は排除していない」と述べた。 非核三原則の観点から「要請があっても拒否する」としたが、野党から「核兵器は運ばない」と法案に明記するよう迫られている。 首相も「やらない」「ありえない」と否定に追われる場面が目立つ。 全般的に法案の縛りが緩く、政府の裁量の幅があまりにも広いからだ。 戦後日本が平和国家として歩んできた存在意義が損なわれることがあってはならない。 それが、終戦の日を迎え、あの戦争の惨禍を思い起こすとき、多くの人が抱く思いだろう。 70年前と日本人の心性ってホント変わってないから恐ろしいわ。 どこに責任があるのか分からないことだ。 デザイン決定の経緯について関係者が責任を押し付け合う。 国民感情からすれば、責任者は事業主体の日本スポーツ振興センターを所管する文部科学相だろう。 しかし下村博文文科相は、担当局長を事実上更迭したのみで「新競技場を間に合わせる仕組みづくりが私の責任」と人ごとのようだ。 責任の所在不明は原発再稼働に通じる。 政府は原子力規制委員会の新規制基準に合う川内(せんだい)原発を「安全」と再稼働させたが、規制委は新基準に合っていても事故は起きうると責任を否定する。 そもそも15・7メートルの津波が来ると東京電力が試算しながら、安全対策を講じなかった福島第1原発事故は無責任の極みと言うほかない。 この無責任ぶりは、先の戦争に突入した政府や軍の指導者に源流を求めることができる。 終戦7年後に発刊された「日本の精神的風土」(岩波書店)に指導者たちの述懐が記録されている。 なぜ国力がはるか上の米国と戦端を開いたのか。 陸相を務めた南次郎は語る。 「アメリカの工業力に十分な知識を持っていなかった」 日本を終戦に導いた首相、鈴木貫太郎でさえこう言う。 「戦争とはおかしなもので、誰も欲していなくても自然の成り行きで起こる」 他に「じり貧になるより潔くやろうという単純な気持ち」との談話もある。 まとめると敵の力も知らぬまま、自然の成り行きで、単純に戦争が起きたことになる。 「太平洋戦争のボタンを押したのが誰か分からない。 こんな不思議な国はない」と司馬遼太郎は対談で語っている。 そして責任の所在を曖昧にする日本人を「あっけらかん民族」と名付けた。 「日本の精神的風土」の著者、人文地理学者の飯塚浩二はさらに論考を進める。 独断しがちな指導者が戦時中、さまざまな委員会を設けた。 これで「専門家、学識・経験ある者たちの意見は徴した」ことになる。 つまり専制的な者が委員会を使うのは、責任を負わぬための「誂(あつら)えむきの方法」と喝破する。 安倍晋三首相も有識者の会議を好んで使う。 きょう閣議決定する戦後70年談話でも、有識者から「意見は徴した」形を取った。 だが、それにより責任が見えなくなることがあってはならない。 あっけらかんの果てに70年前、国は一度破滅した。 今も精神的風土は受け継がれる。 この先もそうでいいのか、新国立競技場や原発、70年談話が問うているように見える。 養蚕と並んで古くから養豚も盛んであったのか秩父名物のひとつに豚肉を味噌漬けにして焼いた「豚味噌丼」があります。 花火見物でたまたま入った秩父の「道の駅」で頼んだのが蕎麦と豚味噌丼どのセットでした。 収録曲のセレクトの秀逸さは今更触れるべき必要もありませんが、その中にピート・シガーの曲に日本語歌詞を乗せた中川五郎さんの「腰まで泥まみれ」が入っていました。 この曲や数ある反戦歌が昨今のキナ臭い政治状況下で再び意味や必要性を持つようになってきたのは残念でしかありません。 オブラートに包んだり、暗喩に込めたりせずに、ストレートな言葉で思いを伝える歌は、日本が「戦争ができる国」になりそうな、危うい気配が漂う今、説得力を持ち始めているような-。 -反戦ソングを今、なぜ、どんな思いで歌ってらっしゃるのでしょうか。 ベトナム反戦運動、学生運動が盛り上がっていて、戦争反対とか差別反対とか訴える歌を歌ってました。 それが70年(日米)安保(改定)で時代が変わりベトナム戦争も終わって、みんな個人の生活や人間関係を歌うようになる。 戦争反対の歌が出る幕はない、使命は終わったと思ってたんですけど、今、当時よりリアリティーを持って歌える実感がある。 それは非常に残念で不幸なことなんですけど、国の在り方とか社会の動きが60年代よりひどい形になった。 昔よりぴったりくる、しっくりくる感じ。 そんな時代は想像もしていなかったんですけども、今はこれまで以上にメッセージソングを歌いたい、という思いがあります。 -歌い続ける反戦ソングは。 新宿西口フォークゲリラで歌ったのは2回ほど。 60年代後半は主に大阪の地下街の集会でみんなで歌ってました。 僕らの国が下手すると戦争を起こしかねない、ずるずると行きそうな気がして。 -政権がいう方向に何となく行く、みたいな雰囲気はありますね。 そういうのがこれまでになく、大きくなってる気がする。 -サザンオールスターズが紅白歌合戦で「ピースとハイライト」を歌って、権力者を皮肉って、面白かったんですけど、バッシングがあった。 ちょっとしたことで言いたいことを言ってる人がたたかれてる現実を見ると、もしかして、自分の思いを歌うということが禁止されたり、つかまったりする、あり得ないと思ってたことが非現実的でないな、というような、恐ろしさを感じるようになってきました。 -他に歌い続ける反戦歌は。 いつのまにか戦争が起こってるのが当たり前になってる、という歌。 あと、フォークゲリラの集会とかでよく歌っていた「かっこよくはないけれど」(フォーク歌手、マルビナ・レイノルズの歌の日本語訳)。 デモをしたり人前で叫んだりするのはかっこが悪いけど行動しないと始まらないよ、という歌。 一時期は昔歌っていた歌と思っていたのが、懐メロというのじゃなくて、すごくまた歌いたいという気持ちになったということです。 -「ライセンス・トゥ・キル」も今の時代にはまるというか。 おごりたかぶっている人たちを歌った。 -〈男の耳は聞きたいことだけを聞き〉〈ああ どうすれば男の耳を傾けさせられるのか〉とまっすぐ。 -歌詞がやはりストレート。 ウディ・ガスリーやピート・シーガーら米国のフォーク歌手に影響を受け、60年代後半から歌い始める。 「受験生ブルース」「主婦のブルース」など発表。 アルバムに「終わり はじまる」など。 音楽評論、ボブ・ディランらの歌詞やブコウスキーの小説などの翻訳を手掛ける。 90年代後半から歌中心の活動に戻り、近年は年の半分程度はライブで全国を回っている。 腰まで泥まみれ 作詞/作曲:ピート・シーガー 訳詞:中川五郎 M2. スラバヤ通りの妹へ 作詞/作曲:松任谷由実 M3. 美しき五月のパリ 作者:不詳 日本語詞:加藤登紀子 M4. ユエの流れ 作詞:桐雄二郎 作曲:須摩洋朔 M5. リリー・マルレーン 作詞:Hans Leip 作曲:Norbert Schultze 訳詞:片桐和子 M6. 最后のダンスステップ 作詞/作曲:あがた森魚 M7. 戦争は知らない 作詞:寺山修司 作曲:加藤ヒロシ M8. 死んだ男の残したものは 作詞:谷川俊太郎 作曲:武満徹 M9. ケ・サラ 作詞:F. 死んだ女の子 作詞:ナジム・ヒクメット 日本語詞:中本信幸 作曲:外山雄三 編曲:坂本龍一 M12. さとうきび畑 作詞/作曲:寺島尚彦 2002年の「ワダツミの木」で社会現象を巻き起こした衝撃のデビューを経て、2014年にはスライ&ロビーとの作品がグラミー賞にノミネートされるなど日本を代表するシンガー・元ちとせ。 2011年8月31日にシングルでリリースされた「永遠(トワ)の調べ」以外はすべて新録作品となり、谷川俊太郎、寺山修司、あがた森魚、松任谷由実らによる作詞楽曲や、中川五郎、加藤登紀子、岩谷時子らが日本語詞を手掛ける洋楽曲まで、全編を通じて、日本語の美しさも感じられるアルバムとなっている。 ・・from 元ちとせ・・ 戦後60年が経った2005年、過去に戦争があった事を風化させない為にと思い、坂本龍一氏とのコラボレーション曲『死んだ女の子』を発表しました。 戦後70年を迎える今年、『平和を祈る思い』『忘れない、繰り返さないという願い』をシンガーとして歌い継ぎ、母として残して行ければと思い、レコーディングに臨みました。 このアルバム『平和元年』が、平和を思うきっかけになってくれればと思っています。 今月30日には国会前での10万人デモに加え、何と全国各地で抗議集会を同時に開き、計100万人の参加を呼びかけているのだ。 いくら独善的といわれる安倍首相でも、100万人の声を無視することはできないのではないか。 「8・30全国100万人大行動」の主催団体のひとつ「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」に所属する高田健氏(70)はこう言う。 「100万人集会は、私たちの団体の他に2団体が力を合わせ、7月中旬ごろから計画を進めてきました。 全都道府県に関連団体があり、電話やメール、ネットで参加者を募っているところです。 100万人集めるのはそう簡単なことではありませんが、各地域の方々の反応はいい。 皆、廃案に向け、ヤル気がみなぎっています。 小さな村だと、都会と違って人の集まる場所は多くありません。 それでも、『スーパーマーケットなど、なるべく人目に付く場所でプラカードを掲げたい』と言ってくれる方もいます」 1960年の安保闘争では、国会前に30万人のデモ隊が押し寄せ、当時の岸内閣を退陣に追い込んだ。 全国で100万人が「安保法案反対」の声を上げれば、安倍首相も敬愛してやまない祖父に倣い、退陣するしかないのではないか。 30国会10万人・全国100万人大行動に集まろう! 「戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」は7月期、連日国会前における行動をうちぬき、巨万の市民とともに衆院での強行採決に徹底的に抗議を行ってきました。 「連休を越せば世論は沈静化する」という政府・与党の目論見は外れました。 新聞各社の調査でも安倍政権の支持率が激減しています。 26国会包囲行動には約2万5000人、7. 28日比谷大集会には約1万5000人もの市民が参加しています。 私たちは全国の人々の怒りの声を取り結び、戦争法案成立を阻止するまで、全力でたたかう決意を固めています。 総がかり行動実行委員会は、火曜日の街宣行動、木曜日の国会前集会を中心に、8月期も継続してとりくみます。 そして8月最後の日曜日である8月30日に、下記のように大行動を提起します。 国会周辺を10万人以上の戦争法案絶対反対!の怒りの声で埋め尽くそう! また、全国各地でも同時行動にとりくんでください。 全国つらぬく総がかりの力で、戦争法案廃案・安倍政権退陣・政策転換実現をかちとりましょう! 戦争法案廃案! 安倍政権退陣! 8. その多様性、重層性、創造性はかつて見られなかった広がりを示している。 国会内の野党各党と連携して展開されているこの戦争法案廃案運動の拡大は安倍政権と与党を追いつめ、参議院での議論が始まったばかりであるにもかかわらず、すでに国会の論戦ではボロボロの状態になっている。 そして私たちはこうした情勢の中で、この戦争法案を廃案にできる可能性を手に入れつつある。 <運動の出発と経過> 私たちは広範な世論の高まりによって、2007年、9条改憲を公言した第1次安倍政権を崩壊させた経験があり、2013年、第2次安倍政権が企てた96条改憲論を破綻させた経験があり、さらに直近では国立競技場建設構想を白紙撤回させた実績がある。 しかし安倍自公政権は、衆議院3分の2を超える議席数を持ち、戦争法案廃案への闘いの道のりは決して容易なものではないが、「平和憲法の破壊、立憲主義を無視して集団的自衛権の憲法解釈の変更」という動きに、さまざまな運動体が行動を始めた。 2014年前半に、「戦争をさせない1000人委員会」が発足し、「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」が立ち上がり、「戦争する国づくり反対!憲法をまもりいかす共同センター」が再編発足した。 これら3つのネットワークは、出自や経過から来る立場の違いを乗り越え、さまざまな運動の現場での共闘からはじまって、次第に連携を強め、2014年末には「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」を結成した。 安倍政権による「平和と民主主義の破壊」、「戦争の足音の高まりへの恐れ」を目の当たりにした3団体は、「平和と民主主義の実現」の責任の一端を担わなければならいという決意に突き動かされ、画期的な共同を実現させた。 この運動は、2015年にはいり5月3日の憲法記念日集会の成功を踏まえて、前述の3団体に加えて、5・3集会の実行委員会に参加した反原発関連の3団体や、反貧困運動、女性の運動、国際連帯運動などなどさまざまな分野の市民運動のネットワークがそれぞれの課題の違いを超えて、「総がかり実行委員会」に参加・統合された。 <この間の私たちの主なとり組み> この「総がかり行動実行委員会」は、毎週木曜日の国会行動などをはじめ、数万の規模による6・14、6・24、7・14、15、16、17、7・26、7・28など戦争法案に反対する連続的な国会行動や国会前座り込み、新聞意見広告のとり組み、各所での街頭宣伝など、従来の枠を超えた大きな活動を展開した。 一方、野党各党への要請・懇談や議員へのロビーイングなど、野党の国会議員への働きかけも積極的に行い、連携を強化した。 いま戦争法案廃案・安倍政権退陣をめざす運動は全国で大きく高揚している。 そして戦争法案反対、今国会での強行反対の声はどの世論調査でも急速に拡大し、安倍政権の支持率は急落している。 私たちは、このねばり強い運動が「戦争法案廃案」めざしての各界各層の人びとの決起と、全国各地の草の根での運動の高揚に貢献したと自負している。 私たちがくり返し提唱してきた、思想信条政治的立場の違いを超えた「戦争法案反対」の大きな共同行動の実現と、そうした取り組みの中でこそ勝利の展望が描けるという確信が、事態を大きく切り開いてきたと言っても過言ではない。 <共同行動のいっそうの拡大を> 窮地に追い込まれた安倍政権は国会会期を大幅に延長し、かつ衆議院での強行採決に踏み切った。 そして焦点は、参議院段階へと移り、安倍自公政権が、参議院で強行採決することを許さず、衆議院での再議決をさせないたたかいこそ、焦眉の課題となっている。 衆議院段階でのかってなかった層や市民による新しい運動の広がりをさらに期待すると同時に連携しての共同行動を作り上げる努力が求められている。 また一方、原発再稼働阻止・脱原発運動、沖縄の辺野古新基地建設反対運動、貧困と差別を許さない運動、アジアの人びととの連帯と共生運動などもそれぞれ情勢は緊迫している。 そして闘いは大きく高揚している。 それぞれの課題とも、安倍政権の暴走の結果であり、安倍内閣退陣をめざして、大きな闘いの連携の枠組みをつくる必要性と可能性も大きく拡大している。 私たちは、全国各地での始まっている草の根での共同行動の展開をさらに押し広げ、立ち上がりつつある各界各層の人々の運動とさらに連携を強め、また安倍政権の暴走の下で苦しむ広範な民衆の運動と連携して、安倍政権を包囲し退陣に追い込む世論の一翼を担うことが私たちの役割であり、使命である。 <安倍政権の暴走をとめ、退陣を実現しよう> 安倍政権はこの夏、参議院での強行採決を念頭におきつつ、運動が後退することに淡い期待をいだき、自らの延命に期待している。 そうであるなら、私たちの回答は明確だ。 全力をふり絞って、この歴史的なたたかいを担いきり、運動の一層の発展を実現し、戦争法案廃案・安倍政権退陣を勝ち取ろう。 私たちは、毎週火曜日の統一街頭宣伝行動、木曜国会前集会などの地道な活動の積み上げ、提起される共同した取り組みを全力をあげて闘いぬこう。 そして8月30日、戦争法案廃案をめざす10万人国会包囲行動と全国100万人統一行動を必ず実現し、いのちと民衆の怒りをないがしろにし、立憲主義を無視し、憲法9条と民主主義を破壊し、戦争への道をひた走る安倍政権に決定的な打撃を加えよう。 いまこそたちあがろう、手をつなごう。 戦争は、兵器産業に富をもたらす。 戦争は、すぐに制御が効かなくなる。 戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。 戦争は、兵士だけでなく、老人や子どもにも災いをもたらす。 戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。 精神は、操作の対象物ではない。 生命は、誰かの持ち駒ではない。 海は、基地に押しつぶされてはならない。 空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。 血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、 知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。 学問は、戦争の武器ではない。 学問は、商売の道具ではない。 学問は、権力の下僕ではない。 生きる場所と考える自由を守り、創るために、 私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない。 安倍晋三政権は新法の「国際平和支援法」と10本の戦争関連法を改悪する「平和安全法制整備法案」を国会に提出し、審議が行われています。 これらの法案は、アメリカなど他国が海外で行う軍事行動に、日本の自衛隊が協力し加担していくものであり、憲法九条に違反しています。 私たちは憲法に基づき、国会が徹底審議をつくし、廃案とすることを強く求めます。 安倍首相の言う「武力行使は限定的なもの」であるどころか、自衛隊の武力行使を際限なく広げ、「専守防衛」の建前に反することになります。 武器を使用すれば、その場は交戦状態となり、憲法九条一項違反の「武力行使」となることは明らかです。 60年以上にわたって積み重ねられてきた「集団的自衛権の行使は憲法違反」という政府解釈を安倍政権が覆したことで、米国の侵略戦争に日本の自衛隊が参戦する可能性さえ生じます。 日本が戦争当事国となり、自衛隊が国際法違反の「侵略軍」となる危険性が現実のものとなります。 私たちは、かつて日本が行った侵略戦争に、多くの学徒を戦地へ送ったという、大学の戦争協力の痛恨の歴史を担っています。 その歴史への深い反省から、憲法九条とともに歩み、世界平和の礎たらんと教育研究活動にたずさわり、再び戦争の惨禍を到来させないようにしてきました。 二度と再び、若者を戦地に送り、殺し殺される状況にさらすことを認めることはできません。 私たちは、学問と良識の名において、違憲性のある安全保障関連法案が国会に提出され審議されていることに強く抗議し、それらの法案に断固として反対します。 このような憲法違反の法案を成立させることは、立憲主義に基づく民主政治を根底から覆しかねない。 ここにわれわれは全法案の撤回を要求する。 集団的自衛権行使容認の違憲性 政府見解の一貫性 憲法9条の下で武力行使が許されるのは、個別的自衛権の行使、すなわち日本に対する急迫不正の侵害があり、これを排除するためにほかの適当な手段がない場合に限られる。 しかも、その場合にも必要最小限度の実力行使にとどまらなければならない。 この憲法解釈は、1954年の自衛隊創設以来、政府見解において変わることなく維持されてきた。 集団的自衛権の行使には憲法9条の改正が不可欠であることも、繰り返し政府によって表明されてきた。 昨年7月の閣議決定 集団的自衛権の行使を容認した昨年7月の閣議決定は、政府の憲法解釈には「論理的整合性」と「法的安定性」が要求されるとし、「論理的整合性」を保つには、従来の政府見解の「基本的な論理の枠内」にあることが求められるとした。 その上で、日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」がある場合には、当該他国を防衛するための集団的自衛権の行使も許容されるとしている。 論理的整合性の欠如 しかし、個別的自衛権の行使のみが憲法上認められるという解釈と、集団的自衛権の行使が(限定的であれ)認められるという解釈とを、同じ論拠の上に成立させることはできない。 自国を防衛するための個別的自衛権と、他国を防衛するための集団的自衛権とは、本質を異にするものであるからである。 法的安定性 「法的安定性」について、昨年7月の閣議決定は、何ら語るところがない。 しかし、ホルムズ海峡での機雷掃海活動が許容されるか否かについて、連立を組む与党の党首間でも見解が異なることを見れば、集団的自衛権の行使に対して明確な「限定」が存在しないことは明らかである。 機雷掃海活動を超える武力の行使についても、現政権による発言がどうであれ、法的な歯止めがなければ、その都度の政権の判断次第でいつでも行われうることとなる。 砂川判決の意味 砂川事件最高裁判決を根拠に集団的自衛権の合憲性を主張する向きも一部にあるが、砂川事件は、駐留米軍が憲法9条2項の禁ずる「戦力」に該当するかが争われた事件である。 したがって、この裁判では日本の集団的自衛権は、全く争点となっていない。 最高裁判決の先例としての価値は、具体的争点を基に語られるべきものであり、同判決が日本の集団的自衛権行使について判断しているとの主張は牽強付会である。 集団的自衛権行使は違憲 要するに、現政権による集団的自衛権の行使の容認は、従来の政府見解の基本的な論理の枠を明らかに踏み越えており、かつ、法的安定性を大きく揺るがすものであって、憲法9条に違反する。 外国軍隊等の武力行使との一体化 非戦闘地域の意味 従来の政府見解は、「後方地域」での自衛隊による外国軍隊等の支援が、憲法の禁ずる武力の行使には当たらないものとするにあたり、自衛隊の活動が他国軍隊の武力行使と一体化しないことと、その活動が「非戦闘地域」に限られることという歯止めを設けてきた。 「戦闘地域」と「非戦闘地域」との区分は、ある程度の余裕を見て自衛隊の活動地域を区分しようとの配慮に基づくものであり、実施期間を通じて活動を必ず合憲としうるための工夫であった。 武力行使との一体化へ 今回の法案では、従来の「戦闘地域」と「非戦闘地域」の区別が廃止されている。 現に戦闘行為が行われている現場以外であれば後方支援を実施しうるものとされ、自衛隊は、外国軍隊等への弾薬の供与や発進準備中の航空機への給油を新たに行ないうることとされている。 もはや他国軍隊等の戦闘行為と密接不可分であり、具体的状況によって、外国軍隊の武力行使との一体化との評価を受けるおそれがきわめて高いと言わざるをえない。 国会軽視の審議過程 対米公約の問題性 安倍首相は先の訪米時に、安保法制関連諸法案を今年8月までに成立させるという「対米公約」ともとれる発言を米議会で行った。 まだ閣議決定さえされていない段階でのこのような発言は、唯一の立法機関たる国会の権威を損ない、国民主権をないがしろにするものである。 対米追随的姿勢 本法案は内容的には本年4月に合意の「日米防衛協力のための指針」(日米ガイドライン)に沿ったものであり、国会審議でホルムズ海峡での機雷掃海などが強調されている背景に、米国の対日要求があるとも考えられる。 条約ですらないものを、いわば憲法の上位に置き、それに合わせて実質的な改憲にも等しい立法化を進めることは許されない。 また、このような対米追随ともとれる姿勢は、集団的自衛権行使に関して日本が自主的に判断できるとの政府の主張の信ぴょう性を疑わせる。 内閣による国会軽視 国会審議においても、首相自らが質問者にヤジを飛ばしたり、大臣から「現在の憲法をいかにこの法案に適応させるか」という立憲主義を否定する発言があるなど、政府の対応は、国権の最高機関たる国会を中心とする立憲的な民主政治を尊重するものとはなっていない。 4. 安全保障への影響 安全保障論のあいまいさ 昨年7月の閣議決定は、集団的自衛権の行使が容認される根拠として、「我が国を取り巻く安全保障環境」の変化を挙げるが、その内容は、「パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等」というきわめてあいまいなものである。 日米安保への過剰な期待 世界各地でアメリカに軍事協力すれば、日本の安全保障へのアメリカの協力が強まるとの議論がある。 しかし、アメリカはあくまで日米安全保障条約5条が定める通り、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」条約上の義務を果たすにとどまる。 大規模な軍事力の行使について、アメリカ憲法は連邦議会の承認をその条件としていることを忘れるべきではない(米憲法1篇8節11項)。 抑止力万能論の陥穽 日本を取り巻く安全保障環境が悪化しつつあるのであれば、限られた防衛力を地球全体に拡散するより、専守防衛に集中する方が合理的との判断もありうる。 また政府は、集団的自衛権の行使容認が抑止力を高め、安全保障に寄与すると主張するが、日本が抑止力を高めれば、相手側がさらに軍備を強化し、結果的に安全保障環境が悪化しかねない(安全保障のジレンマ)。 軍拡競争となれば、少子高齢化や財政赤字などの深刻な問題を抱える日本は、さらに大きなリスクに直面することになる。 国際協調による緊張緩和へ 平和を維持するには、国際協調が不可欠である。 外交交渉や「人間の安全保障」等によって緊張を緩和し、紛争原因を除去する努力を弛みなく続けていくことが、日本にとっての安全保障を導くのであり、抑止力にのみ頼ることはできない。 結論 安全保障関連諸法案は憲法に明確に違反している。 立憲主義をないがしろにし、国民への十分な説明責任を果たさない政府に対して、安全保障にかかわる重大な政策判断の権限を与えることはできない。 ここに全法案のすみやかな撤回を要求する。 この二つの法案は、これまで政府が憲法9条の下では違憲としてきた集団的自衛権の行使を可能とし、米国などの軍隊による様々な場合での武力行使に、自衛隊が地理的限定なく緊密に協力するなど、憲法9条が定めた戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認の体制を根底からくつがえすものである。 巷間でこれが「戦争法案」と呼ばれていることには、十分な根拠がある。 私たち憲法研究者は、以下の理由から、現在、国会で審議が進められているこの法案に反対し、そのすみやかな廃案を求めるものである。 1.法案策定までの手続が立憲主義、国民主権、議会制民主主義に反すること 昨年7月1日の閣議決定は、「集団的自衛権の行使は憲法違反」という60年以上にわたって積み重ねられてきた政府解釈を、国会での審議にもかけずに、また国民的議論にも付さずに、一内閣の判断でくつがえしてしまう暴挙であった。 日米両政府は、本年4月27日に、現行安保条約の枠組みさえも超える「グローバルな日米同盟」をうたうものへと「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を改定し、さらに4月29日には、安倍首相が、米国上下両院議員の前での演説の中で、法案の「この夏までの成立」に言及した。 こうした一連の政治手法は、国民主権を踏みにじり、「国権の最高機関」たる国会の審議をないがしろにするものであり、憲法に基づく政治、立憲主義の意義をわきまえないものと言わざるを得ない。 2.法案の内容が憲法9条その他に反すること 以下では、法案における憲法9条違反の疑いがとりわけ強い主要な3点について示す。 (1)歯止めのない「存立危機事態」における集団的自衛権行使 自衛隊法と武力攻撃事態法の改正は、「存立危機事態」において自衛隊による武力の行使を規定するが、そのなかでの「我が国と密接な関係にある他国」、「存立危機武力攻撃」、この攻撃を「排除するために必要な自衛隊が実施する武力の行使」などの概念は極めて漠然としておりその範囲は不明確である。 この点は、従来の「自衛権発動の3要件」と比較すると明白である。 法案における「存立危機事態」対処は、歯止めのない集団的自衛権行使につながりかねず、憲法9条に反するものである。 その際の対処措置を、国だけでなく地方公共団体や指定公共機関にも行わせることも重大な問題をはらんでいる。 (2)地球のどこででも米軍等に対し「後方支援」で一体的に戦争協力 重要影響事態法案における「後方支援活動」と国際平和支援法案における「協力支援活動」は、いずれも他国軍隊に対する自衛隊の支援活動であるが、これらは、活動領域について地理的な限定がなく、「現に戦闘行為が行われている現場」以外のどこでも行われ、従来の周辺事態法やテロ特措法、イラク特措法などでは禁じられていた「弾薬の提供」も可能にするなど、自衛隊が戦闘現場近くで外国の軍隊に緊密に協力して支援活動を行うことが想定されている。 これは、もはや「外国の武力行使とは一体化しない」といういわゆる「一体化」論がおよそ成立しないことを意味するものであり、そこでの自衛隊の支援活動は「武力の行使」に該当し憲法9条1項に違反する。 このような違憲かつ危険な活動に自衛隊を送り出すことは、政治の責任の放棄のそしりを免れない。 国際平和支援法案の支援活動は、与党協議の結果、「例外なき国会事前承認」が求められることとなったが、その歯止めとしての実効性は、国会での審議期間の短さなどから大いに疑問である。 また、重要影響事態法案は、「日本の平和と安全に重要な影響を与える事態」というきわめてあいまいな要件で国連決議等の有無に関わりなく米軍等への支援活動が可能となることから国際法上違法な武力行使に加担する危険性をはらみ、かつ国会による事後承認も許されるという点で大きな問題がある。 (3)「武器等防護」で平時から米軍等と「同盟軍」的関係を構築 自衛隊法改正案は、「自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動に現に従事している」米軍等の武器等防護のために自衛隊に武器の使用を認める規定を盛り込んでいるが、こうした規定は、自衛隊が米軍等と警戒監視活動や軍事演習などで平時から事実上の「同盟軍」的な行動をとることを想定していると言わざるを得ない。 このような活動は、周辺諸国との軍事的緊張を高め、偶発的な武力紛争を誘発しかねず、武力の行使にまでエスカレートする危険をはらむものである。 そこでの武器の使用を現場の判断に任せることもまた、政治の責任の放棄といわざるをえない。 領域をめぐる紛争や海洋の安全の確保は、本来平和的な外交交渉や警察的活動で対応すべきものである。 それこそが、憲法9条の平和主義の志向と合致するものである。 以上のような憲法上多くの問題点をはらむ安保関連法案を、国会はすみやかに廃案にするべきである。 政府は、この法案の前提となっている昨年7月1日の閣議決定と、日米ガイドラインをただちに撤回すべきである。 そして、憲法に基づく政治を担う国家機関としての最低限の責務として、国会にはこのような重大な問題をはらむ法案の拙速な審議と採決を断じて行わぬよう求める。 学生団体「SEALDs(シールズ)」に刺激される形で、70代の高齢者も「デモ」に参加しはじめた。 高校生、大学生、高齢者……と、広がりつづける「抗議活動」に、自民党は本気で焦りはじめている。 8日、東京・巣鴨で安保法案に「ノー」を突き付けたのは「OLDs(オールズ)」のメンバー。 60~70代で構成され、7月から毎週土曜日、巣鴨に集結している。 シールズに刺激を受け、行動を始めた。 東京外語大名誉教授の高橋正明氏(70)はこう言う。 でも、若い人にケツを蹴られて、目が覚めたような格好です。 自分たちも動かないとダメだと。 ネットで呼びかける形で、集まってもらっています」 この日の参加者は100人超。 「これまで、集まったのはせいぜい10人くらい。 今日はたくさんの人が来てくれた」(別のメンバー)という。 音楽やシュプレヒコールを中心にデモを行うシールズとは、現場の雰囲気は全く違う。 一人一人がマイクを握り、淡々と安保法案や安倍首相への批判を展開。 巣鴨は創価学会とのつながりが深いこともあり、「創価学会は今の公明党を見て、何も感じないのか」と訴える場面もあった。 こうしたオールズの姿に触発され、30~60代で結成されたのが「MIDDLEs(ミドルズ)」だ。 8日の行動にも加わった。 現役バリバリの社会人が中心で、弁護士や報道関係者らも参加する。 自民党関係者がこう言う。 「ここまで反対運動が広がるとは思わなかった。 高校生、大学生、高齢者とあらゆる年齢層に反対運動が広がっている。 しかも、東京だけでなく、全国規模になっている。 まるで国民が覚醒したかのようです。 どうすれば終息するのか正直、分からない」 シールズを取材してきたジャーナリスト・横田一氏もこう話す。 「シールズのメンバーは、実名や顔がネット上にさらされて、激しい誹謗中傷を受けることもあります。 それでも、彼、彼女らは堂々と行動している。 そうした姿を見て、『自分たちも何かやらなければ』と感じる人が多いのだと思います。 ネット上の動画を見て、シールズに参加する人は若者から年配の方まで、今もどんどん増えている状況です」 夏休み最後の日曜日(8月30日)には、国会前で10万人、全国で100万人の「反安保デモ」が予定されている。 このままいけば、20万、30万人が国会に押し寄せてもおかしくはない。 30国会10万人・全国100万人大行動に集まろう! 「戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」は7月期、連日国会前における行動をうちぬき、巨万の市民とともに衆院での強行採決に徹底的に抗議を行ってきました。 「連休を越せば世論は沈静化する」という政府・与党の目論見は外れました。 新聞各社の調査でも安倍政権の支持率が激減しています。 26国会包囲行動には約2万5000人、7. 28日比谷大集会には約1万5000人もの市民が参加しています。 私たちは全国の人々の怒りの声を取り結び、戦争法案成立を阻止するまで、全力でたたかう決意を固めています。 総がかり行動実行委員会は、火曜日の街宣行動、木曜日の国会前集会を中心に、8月期も継続してとりくみます。 そして8月最後の日曜日である8月30日に、下記のように大行動を提起します。 国会周辺を10万人以上の戦争法案絶対反対!の怒りの声で埋め尽くそう! また、全国各地でも同時行動にとりくんでください。 全国つらぬく総がかりの力で、戦争法案廃案・安倍政権退陣・政策転換実現をかちとりましょう! 戦争法案廃案! 安倍政権退陣! 8. その多様性、重層性、創造性はかつて見られなかった広がりを示している。 国会内の野党各党と連携して展開されているこの戦争法案廃案運動の拡大は安倍政権と与党を追いつめ、参議院での議論が始まったばかりであるにもかかわらず、すでに国会の論戦ではボロボロの状態になっている。 そして私たちはこうした情勢の中で、この戦争法案を廃案にできる可能性を手に入れつつある。 <運動の出発と経過> 私たちは広範な世論の高まりによって、2007年、9条改憲を公言した第1次安倍政権を崩壊させた経験があり、2013年、第2次安倍政権が企てた96条改憲論を破綻させた経験があり、さらに直近では国立競技場建設構想を白紙撤回させた実績がある。 しかし安倍自公政権は、衆議院3分の2を超える議席数を持ち、戦争法案廃案への闘いの道のりは決して容易なものではないが、「平和憲法の破壊、立憲主義を無視して集団的自衛権の憲法解釈の変更」という動きに、さまざまな運動体が行動を始めた。 2014年前半に、「戦争をさせない1000人委員会」が発足し、「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」が立ち上がり、「戦争する国づくり反対!憲法をまもりいかす共同センター」が再編発足した。 これら3つのネットワークは、出自や経過から来る立場の違いを乗り越え、さまざまな運動の現場での共闘からはじまって、次第に連携を強め、2014年末には「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」を結成した。 安倍政権による「平和と民主主義の破壊」、「戦争の足音の高まりへの恐れ」を目の当たりにした3団体は、「平和と民主主義の実現」の責任の一端を担わなければならいという決意に突き動かされ、画期的な共同を実現させた。 この運動は、2015年にはいり5月3日の憲法記念日集会の成功を踏まえて、前述の3団体に加えて、5・3集会の実行委員会に参加した反原発関連の3団体や、反貧困運動、女性の運動、国際連帯運動などなどさまざまな分野の市民運動のネットワークがそれぞれの課題の違いを超えて、「総がかり実行委員会」に参加・統合された。 <この間の私たちの主なとり組み> この「総がかり行動実行委員会」は、毎週木曜日の国会行動などをはじめ、数万の規模による6・14、6・24、7・14、15、16、17、7・26、7・28など戦争法案に反対する連続的な国会行動や国会前座り込み、新聞意見広告のとり組み、各所での街頭宣伝など、従来の枠を超えた大きな活動を展開した。 一方、野党各党への要請・懇談や議員へのロビーイングなど、野党の国会議員への働きかけも積極的に行い、連携を強化した。 いま戦争法案廃案・安倍政権退陣をめざす運動は全国で大きく高揚している。 そして戦争法案反対、今国会での強行反対の声はどの世論調査でも急速に拡大し、安倍政権の支持率は急落している。 私たちは、このねばり強い運動が「戦争法案廃案」めざしての各界各層の人びとの決起と、全国各地の草の根での運動の高揚に貢献したと自負している。 私たちがくり返し提唱してきた、思想信条政治的立場の違いを超えた「戦争法案反対」の大きな共同行動の実現と、そうした取り組みの中でこそ勝利の展望が描けるという確信が、事態を大きく切り開いてきたと言っても過言ではない。 <共同行動のいっそうの拡大を> 窮地に追い込まれた安倍政権は国会会期を大幅に延長し、かつ衆議院での強行採決に踏み切った。 そして焦点は、参議院段階へと移り、安倍自公政権が、参議院で強行採決することを許さず、衆議院での再議決をさせないたたかいこそ、焦眉の課題となっている。 衆議院段階でのかってなかった層や市民による新しい運動の広がりをさらに期待すると同時に連携しての共同行動を作り上げる努力が求められている。 また一方、原発再稼働阻止・脱原発運動、沖縄の辺野古新基地建設反対運動、貧困と差別を許さない運動、アジアの人びととの連帯と共生運動などもそれぞれ情勢は緊迫している。 そして闘いは大きく高揚している。 それぞれの課題とも、安倍政権の暴走の結果であり、安倍内閣退陣をめざして、大きな闘いの連携の枠組みをつくる必要性と可能性も大きく拡大している。 私たちは、全国各地での始まっている草の根での共同行動の展開をさらに押し広げ、立ち上がりつつある各界各層の人々の運動とさらに連携を強め、また安倍政権の暴走の下で苦しむ広範な民衆の運動と連携して、安倍政権を包囲し退陣に追い込む世論の一翼を担うことが私たちの役割であり、使命である。 <安倍政権の暴走をとめ、退陣を実現しよう> 安倍政権はこの夏、参議院での強行採決を念頭におきつつ、運動が後退することに淡い期待をいだき、自らの延命に期待している。 そうであるなら、私たちの回答は明確だ。 全力をふり絞って、この歴史的なたたかいを担いきり、運動の一層の発展を実現し、戦争法案廃案・安倍政権退陣を勝ち取ろう。 私たちは、毎週火曜日の統一街頭宣伝行動、木曜国会前集会などの地道な活動の積み上げ、提起される共同した取り組みを全力をあげて闘いぬこう。 そして8月30日、戦争法案廃案をめざす10万人国会包囲行動と全国100万人統一行動を必ず実現し、いのちと民衆の怒りをないがしろにし、立憲主義を無視し、憲法9条と民主主義を破壊し、戦争への道をひた走る安倍政権に決定的な打撃を加えよう。 いまこそたちあがろう、手をつなごう。 81年『さようなら、ギャングたち』で群像新人賞優秀作を受賞しデビュー。 『優雅で感傷的な日本野球』で三島賞、『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎賞を受賞。 本当に止めるぞ。 憲法守れ! 憲法守れ!」(SEALDs 奥田愛基、本書より) ネットで大拡散した『神奈川新聞』連載「時代の正体」を集大成。 安保、集団的自衛権、米軍基地、ヘイトスピーチなど戦後70年の重大問題に焦点をあて、高畑勲、想田和弘、内田樹、高橋源一郎、辺見庸他、時代を問うインタビューを収録。 やる気のあるマスコミはひと味違います! ドッシリ重いのも気に入ってるし、そのまま焚火にかけてもへいちゃらな強さだし、容量もあるから一度に沢山つくれるのもいいよね。 祈るのも願うのもいいけれど時には声をあげて行動もしないとね。 まだ日本は「民主主義」の予知も制度も残されているから選挙の度に戦争体制に邁進するような危険な政党や勢力の候補は叩いて落選させなくちゃね。 腰まで泥まみれ 作詞/作曲:ピート・シーガー 訳詞:中川五郎 M2. スラバヤ通りの妹へ 作詞/作曲:松任谷由実 M3. 美しき五月のパリ 作者:不詳 日本語詞:加藤登紀子 M4. ユエの流れ 作詞:桐雄二郎 作曲:須摩洋朔 M5. リリー・マルレーン 作詞:Hans Leip 作曲:Norbert Schultze 訳詞:片桐和子 M6. 最后のダンスステップ 作詞/作曲:あがた森魚 M7. 戦争は知らない 作詞:寺山修司 作曲:加藤ヒロシ M8. 死んだ男の残したものは 作詞:谷川俊太郎 作曲:武満徹 M9. ケ・サラ 作詞:F. 死んだ女の子 作詞:ナジム・ヒクメット 日本語詞:中本信幸 作曲:外山雄三 編曲:坂本龍一 M12. さとうきび畑 作詞/作曲:寺島尚彦 2002年の「ワダツミの木」で社会現象を巻き起こした衝撃のデビューを経て、2014年にはスライ&ロビーとの作品がグラミー賞にノミネートされるなど日本を代表するシンガー・元ちとせ。 2011年8月31日にシングルでリリースされた「永遠(トワ)の調べ」以外はすべて新録作品となり、谷川俊太郎、寺山修司、あがた森魚、松任谷由実らによる作詞楽曲や、中川五郎、加藤登紀子、岩谷時子らが日本語詞を手掛ける洋楽曲まで、全編を通じて、日本語の美しさも感じられるアルバムとなっている。 ・・from 元ちとせ・・ 戦後60年が経った2005年、過去に戦争があった事を風化させない為にと思い、坂本龍一氏とのコラボレーション曲『死んだ女の子』を発表しました。 戦後70年を迎える今年、『平和を祈る思い』『忘れない、繰り返さないという願い』をシンガーとして歌い継ぎ、母として残して行ければと思い、レコーディングに臨みました。 このアルバム『平和元年』が、平和を思うきっかけになってくれればと思っています。 1980年代に同様のコンサートを開いていたが、中心メンバーの病死に伴い事実上、途絶えていた。 戦後70年を迎える今年、かつての出演者たちが「節目の年だからこそ開催すべきだ」と企画した。 コンサートは直方市のアマチュア歌手、故高津東吾さんが発案。 高津さんが立ち上げたフォークソング愛好会「筑豊うたの里」が中心となって1981年から6年間、終戦記念日に開いてきた。 当時は毎年、アマチュアのミュージシャン約40人が反戦歌などを披露。 高津さんも、被爆地・広島にあった地蔵をテーマにした「おこり地蔵」や、徴兵された父親の代わりに炭鉱で働く少女を描いた「ある女坑夫の半生」などオリジナル曲を歌い上げた。 しかし、高津さんが心臓を患って入退院を繰り返すようになると、コンサートも開かれなくなった。 93年7月に高津さんが41歳で息を引き取った後、うたの里は解散した。 今年7月、安全保障関連法案が衆院で可決されたのをきっかけに、元会員からコンサートの復活を望む声が上がり、50~60代の男女7人が実行委員会を組織した。 実行委の一人、田川市の小柳圭史(たかし)さん(61)は「高津さんの思いを引き継ぎたい。 平和への決意を歌で訴えられれば」と語る。 公演時間は午後1時~4時。 出演者が1人15分の持ち時間内で反戦歌の演奏や意見発表をする。 入場無料。 飛び込み参加も可。 そういえば去年は松代大本営後も見物に行ったんだよな。 地元では当時、子供たちに爆弾を背負わせて敵戦車の下へ潜り込む自爆訓練なんかもしていたんだよな。 戦争は容赦なく子供まで動員するんだよね。 狂ってるわ・・・。 松代(まつしろ)大本営と呼ばれるこの地下壕は1944年秋から掘削作業が始まり、翌45年の敗戦時には8割が完成していたという。 掘削作業には多くの朝鮮半島出身者も動員された。 松代大本営は米軍の首都上陸に備え、政府の中枢を空襲のない地に移転するためひそかに計画された。 本土決戦が叫ばれる中、国民は置き去りにされようとしていた。 真夏でもひんやりした薄暗い構内には夏休みの今、多くの見学者が訪れる。 「国あって国民なし」があの戦争の実際の姿だったことを、この巨大な遺物は教えている。 戦後70年の節目に迎えるあすの終戦記念日を前に、改めて考えてみたい。 満州事変から太平洋戦争に至る日本の「自爆戦争」の背景には、憲法解釈の乱用があった。 軍は、天皇による統帥権が三権の枠外にあるとして神聖化した。 その下で言論統制が強まった。 戦争に異論を唱える人間は「非国民」として排除され、社会の自由は窒息していった。 もう一つは、外交の失敗だ。 中国侵略のあと、国際連盟脱退で世界から孤立した日本は戦線を東南アジアに拡大し、米国の対日石油禁輸で追い詰められると、真珠湾攻撃へと走った。 外交努力を放棄して国際協調路線を踏み外し、米国の戦略と米中関係の大局を読み誤った。 6割が餓死だったとされる、戦地での230万の死。 確実に死ぬことを前提とした特攻作戦。 国民の命が羽毛のように軽かった時代の反省から、日本は再出発した。 全ての人が自由に発言する基盤を尊重し、多様な考えが社会に生かされ、国が国民を駒として使い捨てるのではなく、国民が国の主人公である、当たり前の民主主義を持ったことが、戦後の日本の支柱だったはずだ。 昨今、憲法を頂点とする法体系をことさら軽視し、自由な言論を抑圧するような言動が政治の世界で相次いでいる。 安全保障関連法案を巡って「憲法守って国滅ぶでいいのか」「日本人は軍事知らず」という物言いも、しばしば耳にする。 だが、かつてあったのは「憲法守って国滅ぶ」ではなく、憲法をないがしろにして戦争に突入した歴史である。 「軍事知らず」ではなく「外交知らず」で、破滅に追い込まれたことを忘れてはならない。 戦争の「負の歴史」をいかに真摯(しんし)に振り返り、明日に生かすか。 その認識において政権と国民の間に断層があっては、戦後70年の民主主義は土台から揺らぎかねない。 安倍晋三首相は、広島での被爆者との面会で「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという不戦の誓い」を口にした。 安保法案も、戦争をせず、平和を守るためと説明されている。 平和と不戦の誓いを原点にしている点では、首相も、法案に反対の世論も変わりはない。 不戦の誓いと平和という「未来」を語る言葉は、政権と国民の間で既に共有されているのである。 求められるのはそれを繰り返すことではなく、「過去」を語る言葉を政権と国民が共有することだろう。 だからこそ政治指導者は、過去の侵略と過ちを認め、再びあの時代には戻さないという強いメッセージを、信頼のおける言葉と態度で、国民に向かって語る義務があるはずだ。 「未来」をいくら雄弁に語ったところで、「過去」との決別があいまいなままでは、国民の心にも国際社会にも、決して響くまい。 日本は、二つの原爆という史上最悪の戦争被害を体験した。 また、同じアジアの国々に土足で上がり込んで支配した。 紛争を解決する手段として戦争がいかに愚かで、自国民も他国民も不幸にするか。 被害と加害の理不尽さをどの国よりも肌で知る日本は、戦争の不条理を世界に伝え続ける、人類史的な使命があると言えるのではないだろうか。 他国を侵さず、自国を侵されず、無用な戦争に加わったりしないということ。 軍事に抑制的で、可能な限り平和的手段を追求する国としての誇りを持つこと。 国際情勢の変化にただ便乗するのではなく、広く長期的な視野で見極め、信頼醸成に基づく国際協調を大事にすること。 それらが、戦後70年で築き上げた日本の国柄ではないかと考える。 あの敗戦を原点とする、国民の健全な国際感覚と民主主義の土壌は、「平和ぼけ」と冷笑されるような、ひ弱なものではない。 政権は国民のまっとうさに信を置き、平和国家としての道を、国民とともに自信を持って歩いていってほしい。 戦後70年が重く迫るのは、戦後80年に向け、歴史を風化させてはならないとの思いがあるからだ。 20世紀初めにフランスの詩人が残した「我々は後ずさりしながら未来に入っていく」という言葉のように、過去を見る視線の先にこそ、私たちの確かな未来があると信じたい。 「戦争法案」をゴリ押しする安倍政権の閣僚たちにはこんなリアルさも想像力もないんだと思います。 講演で「戦争ほどの罪悪はない」と語り続けています。 長野市在住の原田要さん。 九十九歳。 つえが必要な日常ですが、往時を語りだすと言葉に力がこもります。 十七歳で旧海軍に入り、パイロットとして日中戦争へ出撃、太平洋戦争ではゼロ戦に乗り、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島攻撃など主要な戦闘に参加。 空中戦で撃たれ、重傷を負ったこともあります。 「寝ると戦争の夢ばかりみる。 忘れよう、と努力して忘れかけていたところで湾岸戦争が起きたのです。 テレビでミサイルが撃ち込まれる様子を見た若い人たちが『花火のようできれい』と言ったのにがくぜんとしました。 ミサイルが落ちるところには一番弱い人々がいて犠牲になっている。 そのことに思いが至らないのです」 幼稚園経営を引退し、穏やかな生活を送っていた原田さん。 講演活動を始めたのは、戦争を知らない世代への危機感からでした。 「戦争で幸せになる人は一人もいない」。 これが操縦席の内側から最前線を見てきた実感なのです。 開戦前の一九四一年秋、空母「蒼龍(そうりゅう)」への乗艦を命じられ、大分県の航空隊でゼロ戦と出会いました。 厳しい訓練を経て出港。 戦艦、空母、巡洋艦などが集結した択捉島の単冠湾で「目標は真珠湾」と知らされました。 原田さんの役割は艦隊の哨戒飛行でした。 攻撃隊が戻り、「軍港が火の海になりました」との報告があり、艦上は「バンザイ、バンザイ」と戦争に勝ったよう。 電信員が原田さんに近づいてきました。 ゼロ戦一機がはぐれてしまったのです。 電信員は『電波を要求しているが出せない』という。 『ひどいじゃないか』と詰め寄ると『敵が電波に乗ってやってきたら元も子もない』というのです。 大を守るために小を犠牲にする。 戦争の無慈悲を感じたのです」 真珠湾攻撃から半年後、日米の空母機動部隊が激突したミッドウェー海戦で日本は参戦した空母四隻すべてを失いました。 原田さんはやむを得ずゼロ戦ごと着水、周囲の兵士が海に沈む中、日本の駆逐艦に救助されます。 「甲板は手や足を失った兵士や顔が黒こげになった兵士で埋めつくされ、地獄絵のようでした。 医官が近づいてきたので『苦しんでいる人を早くみてください』というと『何を言っている。 君のように少し手当てをすれば、戦える人から治療する。 ここは最前線なんだ』といわれたのです」。 戦争はやはり無慈悲でした。 軍は敗戦を隠すため、原田さんら生還したパイロットを鹿児島県の収容所のような基地に幽閉。 その後、転属を命じられ、ガダルカナル島の攻略戦で敵機に撃たれて左腕を負傷、ジャングルに不時着して日本軍の基地にたどり着き、再び一命を取り留めました。 内地に戻り、特攻隊員の養成教官などを経て、終戦を迎えました。 講演会で「敵を撃墜すると気持ちがいいでしょう」と聞かれることがあるそうです。 原田さんはこう答えています。 「とんでもない。 まず落とされないで助かったとホッとする安堵(あんど)感。 その次に技術が彼よりも上だったという優越感。 このふたつが頭をさっとかすめる。 そのあと相手も死にたくなかった、彼の家族まで泣くだろう。 そう考えれば、気持ちがいいはずがない」 「接近戦で相手のパイロットが『もうやめてくれ』という顔をする。 身ぶりまで見える。 でも、撃たなければ次には自分が撃たれるから撃つしかない。 罪も憎しみもない同じ人間にとどめを刺すのが戦争なんです」 戦後、原田さんは米国に行き、ガダルカナル島で自分が撃墜したものの、生還した米人パイロットに会い、州知事になったことを知りました。 英国ではインド洋空戦で撃墜した英人パイロットと再会、「ヨウコソ」と歓迎され、涙がとまらなかったそうです。 小さな島の取り合いに命を懸けた過去は、尖閣諸島をめぐり対立する現在の日本と中国の姿と重なります。 国会では野党が「戦争法案」と批判する安全保障関連法案の審議が進みます。 「戦争ほどの罪悪はない」「平和は犠牲の上になりたっている」。 原田さんの言葉を今こそ、かみしめたいものです。 アレは、知っていても知らなくてもどっちにしてもヤバくて大問題なので返答不能に陥ってしまったんだろうな。 しかしアレって自衛隊内部の機密情報だから「特定秘密保護法案」で政府は責め立てるのか?国民の知る権利がないと何が起きているかわからなくなるよね。 防衛相は「提示された文書の真贋を判定できない」と。 もし「そんな文書の存在を知らなかった」と言ってしまうと文民統制が機能していないことになります。 法案審議に先立って法案可決を前提に自衛隊の部隊配置を決定していたことを認めると「国権の最高機関」での議論はただの儀礼だと内閣が思っていたことがばれてしまう。 防衛相苦しい。 内容は審議中の安全保障関連法案成立を見越し、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)部隊に「駆け付け警護」を新たな任務として加えるというものだ。 「駆け付け警護」は、国連職員や非政府組織(NGO)が紛争に巻き込まれた際、PKO参加の自衛隊が武器を使って救助に当たる。 現行のPKO協力法では武装集団が「国や国に準ずる組織」である場合、憲法9条が禁じる海外での武力行使に当たるとして認めていなかった。 紛争地などで30年以上活動するNGO日本国際ボランティアセンターは「多くの例は武力でなく交渉で解決に導かれる。 現実的でない」と実施に異議を唱えている。 自衛隊が発砲する事態になれば、日本は紛争当事国となり、平和国家としての信頼を失うからだ。 また法案は審議中であり、しかも派遣先拡大、武器使用に伴う自衛隊員のリスク増は焦点の一つになっている。 国会での議論が深まっていないのに、慎重さが求められる任務拡大を統合幕僚監部、いわゆる制服組が企画したこと自体も問題だ。 質問した小池晃氏(共産)が「戦前の軍部の暴走と同じだ」と指摘したのも当然だろう。 ことし6月に成立した改正防衛省設置法では、部隊運用で制服組が主体となることも盛り込まれ、防衛官僚(文官)が歯止めとなる「文官統制」が全廃された。 懸念されていた制服組の暴走が、早くも現実になったといえよう。 統合幕僚監部が資料を作成したのは安保関連法案を閣議決定した5月だという。 背景にはことし4月の日米防衛協力指針再改定もある。 地理的制約撤廃や米軍への後方支援などを約束したからだ。 指針は多くの憲法学者が違憲だと指摘する安保関連法案を先取りしている。 実行したければ改憲が必要な中身だが、手続きを無視して安倍政権は米国と約束を交わしたことになる。 首相は常々「法の支配を重んじる」と発言している。 しかし実際は日米防衛協力指針や安保関連法案に見られるように「法の支配」を逸脱し、憲法を骨抜きにしている。 制服組の暴走を招いた遠因は政権の暴走だ。 安保法案の撤回を手始めに、政府は「法の支配」を重んじる原点に立ち返るべきだ。 首相側にも郵送した。 「歴代首相に安倍首相への提言を要請するマスコミOBの会」(51人)が7月に中曽根康弘氏以降の存命の12人に要請文を送付。 11日までに回答した細川護熙氏、羽田孜氏、村山富市氏、鳩山由紀夫氏、菅直人氏の5人の分を発表した。 5人はいずれも自民党以外の政党から首相になった。 提言では「集団的自衛権の行使が必要だと感じるなら、憲法改正を」「恣意(しい)的運用の歯止めがない」などとして、5人全員が法案に反対の立場を表明した。 羽田氏の文章は、関係者が口述筆記したもの。 「9条は二度と過ちを繰り返さないという国際社会への約束事」などとしたうえで、「安倍総理から日本を守ろう」と結ばれている。 このほか、細川氏は解釈改憲について「立憲主義に対する畏敬(いけい)の念の欠如を物語っている」と指摘。 村山氏は「力で押し通す国民軽視の姿勢は許せない」と訴えた。 菅氏は「国民の将来よりも祖父の思いを優先する政治姿勢」を批判した。 鳩山氏は「私は日本を『戦争のできない珍しい国』にするべきと思う」とした。 安全保障関連法案をめぐり、学会関連の大学関係者や学会員の一部が公然と反対の声をあげたり、法案の白紙撤回を求める署名を集めたり。 信仰と政治の間で葛藤を抱えながらの行動だ。 創価学会の池田大作名誉会長が創立した創価大と創価女子短大。 教員や卒業生らが11日、安保法案に反対する「有志の会」を設立した。 声明は戦時中に弾圧を受けて獄死した牧口常三郎・初代会長に触れ、「いかなる圧迫にも屈せず、民衆のために声をあげること。 これこそが創価教育の魂」などとしている。 13日現在、氏名を公開した学校関係者だけで200人以上が署名を寄せている。 呼びかけ人の一人で創価大非常勤講師の佐野潤一郎さん(50)は「憲法軽視は許せない」と感じていたが、公明党を公然と批判する声はほとんど聞こえてこなかった。 やがてツイッター上で同じ考えの学校関係者とつながるようになり、一緒に声をあげることに決めた。 「『安全保障関連法案に反対する学者の会』も活発に活動している。 私たちだけ何もしないわけにはいかない」と話す。 愛知県安城市の学会員、天野達志さん(51)は法案の白紙撤回を求める請願書をツイッターで公開中。 広島など各地から署名が届いており、公明党の山口那津男代表に届ける予定だ。 「組織を攪乱(かくらん)するつもりはなく、異を唱えたい人が声を上げられるようにしたいだけ。 悩みながらやっています」 両親も熱心な学会員だ。 「『平和の党』の理念があるから選挙も手弁当で応援してきました。 党の綱領には『常に民衆の側に立つ』とあるのに、なぜ『向こう側』に行っちゃったんだという思いです」と話す。 天野さんの活動をネット上で知り、独りで署名集めを始めた人もいる。 東京・渋谷で2日、千葉県の50代の公務員女性がベンチに腰掛けている人たちに署名を呼びかけていた。 祖母の代からの学会員。 公明党の選挙活動にも積極的に関わってきた。 だが、2003年の自衛隊のイラク派遣を与党として支持した時から疑問を感じ始めた。 昨年の集団的自衛権行使容認の閣議決定で見限った。 「創価学会の生命尊厳、絶対平和主義に反する」。 選挙活動には関わらないと決めた。 与党・公明党の支持母体である創価学会の池田大作名誉会長が創立した創価大学の教員・卒業生らからも、公然と批判の声が出始めた。 ネット上では「安全保障関連法案に反対する創価大学・創価女子短期大学関係者有志の会」が11日、反対声明をアップ。 賛同者を募っている。 池田大作氏が創立した創価大 創価大学は池田氏を創立者として1971年に開学。 東京都八王子市に本部キャンパスがあり、創価高校など関係学校からの進学を始めとする創価学会員子弟の入学者も多い。 「創立者・池田大作先生の理念を我が人生の根幹に据え」反対を表明 「有志の会」のサイトにアップされた声明文では、「現在、9割の憲法学者が『違憲』と判断している安全保障関連法案が、安倍政権により採決されようしています。 私たちはガンジー、キングの人権闘争の流れに連なる創立者・池田大作先生の人間主義思想を社会に実現すべく学び続けてきました。 そこで培った人権意識を持つ者なら、声を上げるべき時は、今です」と呼びかけている。 そのうえで、「私たち関係者有志は、創立者・池田大作先生の理念を我が人生の根幹に据え、安全保障関連法案への『反対』を表明します」とアピールしている。 卒業生・在校生・教員らが呼びかけ人 呼びかけ人として、創価大学の在学生・卒業生のほか、創価女子短大教員の氏家法雄氏、創価大教員の佐野潤一郎氏が名前を連ねる。 氏家氏は「賛同のご署名お願いします」、佐野氏は「さあ、まずは26日の100大学共同行動までに、たくさんの創価女子短期大学・創価大学関係者有志の声を糾合して、安保関連法案廃案への圧力にするぞ!」と、それぞれ自身のツイッターで賛同を募っている。 「賛同者は100人を超えた」 安保法案や集団的自衛権を巡る公明党の姿勢に対しては、同党の地方議員や創価学会員から疑問や反対の声が相次いでいる。 創価学会員でもある愛知県武豊町の本村強町議は、集団的自衛権行使容認への反対を掲げて、今春の町議選に公明党を離れ無所属で立候補。 3選を果たした。 また、「週刊朝日」の記事によると、国会議事堂前での安保法制反対デモには、創価学会のシンボルである赤・黄・青の「三色旗」のプラカードを掲げて参加する創価学会員もいるという。 「有志の会」のツイッターでは、11日夜の時点で賛同者が100人を超えたと報告している。 戦前は軍国主義がそれを破壊した。 戦後七十年にして再び、危機に立っている。 「立憲主義の地霊が現れたかのようだ」 東京大の大教室は約千四百人もの人々であふれ返っていた。 その光景に、憲法学者の石川健治東大法学部教授は、「地霊」という言葉を頭に浮かべたという。 「立憲デモクラシーの会」が主催した、このシンポジウムは六月六日に開かれ、憲法学の東の重鎮・樋口陽一東大名誉教授と西の重鎮・佐藤幸治京大名誉教授が並んだ。 パネリストでもあった石川教授は会の運営に奔走していた。 関東大震災で焼けてしまいましたが、今もその土台は残り、二十五番教室のある法文一号館がその上に建っているのです」 地霊とは美濃部の立憲主義による憲法学を指す。 「天皇機関説」で知られた戦前の学者だ。 国家を法人としてとらえ、それぞれの機関の意思を最終的に決定する最高機関を天皇とする学説である。 天皇は機関-という考え方が、一九三五年に貴族院で糾弾された。 「緩慢なる謀反だ」というのだ。 在郷軍人会が怒り出し、排撃運動は大衆レベルにまで広がった。 美濃部の著書は発禁処分になった。 右翼から銃撃も受け、重傷を負った。 政府は天皇に統治権の主体があるという「国体明徴声明」を出した。 石川教授は語る。 「美濃部先生は徹底的な合理主義、知性主義です。 この立憲主義憲法学では、大衆の情熱と献身を国家に調達することができません。 戦前の日本が神国思想や皇国史観などを国民に植え付けたのもそのためだ。 天皇を憲法の下に置く機関説は、許せぬ存在だったに違いない。 立憲主義は権力が暴走しないように、あらかじめ鎖で縛っておく発想が根幹である。 戦争を始める権力は、むしろ絶対的な力を求める。 明治憲法も立憲主義を採用していたが、強大化した軍国主義がそのブレーキ装置をはずして、亡国へと進んだのだ。 天皇機関説事件から敗戦まで、わずか十年という短さである。 この事件は時代が転換するときの象徴的な出来事の一つであろうと思う。 立憲主義と絶対主義が対立した場面だった。 「立憲」と「非立憲」の対立でもあった。 あれから八十年、再び立憲主義が崖っぷちに立つ。 これまで集団的自衛権の行使を認めてこなかった政府が昨年七月、一転して「容認」と閣議決定したからだ。 「解釈改憲」である。 憲法の範囲内でしか政治は行えないのに、その枠を踏み越えてしまった。 さらに現在、安全保障法制関連法案の成立を図っている。 専守防衛とは質が全く異なる。 これを認めれば、憲法九条との整合性の糸が途切れてしまう。 本紙アンケートでも90%超の憲法学者が「違憲」と回答した。 歴代の内閣法制局長官も「違憲」と国会で述べた。 立憲主義からの逸脱なのだ。 天皇機関説事件がきっかけとなった、もう一つの重大な事象がある。 「公」と「私」を切り分けていた壁が崩れてしまったことだ。 戦前は「公」の場で神道式の儀礼と天皇崇拝が求められていたが、「私」の空間では何を信じても自由なはずだった。 ところが、この事件を契機に、次第に「公」が「私」の空間に侵入し、思想統制へと結びついたのである。 戦後は一転し、軍事的なるものを徹底的に排除して公共空間をつくった。 石川教授は指摘する。 しかし、『公共』として強くなりにくい弱点があります。 世界観的に中立な『公共』でもあり、それに命は懸けられません。 だから、強い国にしたいという人たちが『公共』の改造運動をしているのです。 愛国心教育をし、郷土愛を注入し、国旗・国歌というシンボルによって、強い『公共』を演出しようとしているのです」 現在の日本で起きているのは、「立憲」と「非立憲」の対立である。 立憲主義を守りぬかないと、絶対主義のような世の中を迎えかねない。 「非立憲」の跋扈(ばっこ)を許せば、公共空間の色彩も変わるだろう。 私たちの未来を変える重大な岐路なのだ。 戦争は、兵器産業に富をもたらす。 戦争は、すぐに制御が効かなくなる。 戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。 戦争は、兵士だけでなく、老人や子どもにも災いをもたらす。 戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。 精神は、操作の対象物ではない。 生命は、誰かの持ち駒ではない。 海は、基地に押しつぶされてはならない。 空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。 血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、 知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。 学問は、戦争の武器ではない。 学問は、商売の道具ではない。 学問は、権力の下僕ではない。 生きる場所と考える自由を守り、創るために、 私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない。 安倍晋三政権は新法の「国際平和支援法」と10本の戦争関連法を改悪する「平和安全法制整備法案」を国会に提出し、審議が行われています。 これらの法案は、アメリカなど他国が海外で行う軍事行動に、日本の自衛隊が協力し加担していくものであり、憲法九条に違反しています。 私たちは憲法に基づき、国会が徹底審議をつくし、廃案とすることを強く求めます。 安倍首相の言う「武力行使は限定的なもの」であるどころか、自衛隊の武力行使を際限なく広げ、「専守防衛」の建前に反することになります。 武器を使用すれば、その場は交戦状態となり、憲法九条一項違反の「武力行使」となることは明らかです。 60年以上にわたって積み重ねられてきた「集団的自衛権の行使は憲法違反」という政府解釈を安倍政権が覆したことで、米国の侵略戦争に日本の自衛隊が参戦する可能性さえ生じます。 日本が戦争当事国となり、自衛隊が国際法違反の「侵略軍」となる危険性が現実のものとなります。 私たちは、かつて日本が行った侵略戦争に、多くの学徒を戦地へ送ったという、大学の戦争協力の痛恨の歴史を担っています。 その歴史への深い反省から、憲法九条とともに歩み、世界平和の礎たらんと教育研究活動にたずさわり、再び戦争の惨禍を到来させないようにしてきました。 二度と再び、若者を戦地に送り、殺し殺される状況にさらすことを認めることはできません。 私たちは、学問と良識の名において、違憲性のある安全保障関連法案が国会に提出され審議されていることに強く抗議し、それらの法案に断固として反対します。 このような憲法違反の法案を成立させることは、立憲主義に基づく民主政治を根底から覆しかねない。 ここにわれわれは全法案の撤回を要求する。 集団的自衛権行使容認の違憲性 政府見解の一貫性 憲法9条の下で武力行使が許されるのは、個別的自衛権の行使、すなわち日本に対する急迫不正の侵害があり、これを排除するためにほかの適当な手段がない場合に限られる。 しかも、その場合にも必要最小限度の実力行使にとどまらなければならない。 この憲法解釈は、1954年の自衛隊創設以来、政府見解において変わることなく維持されてきた。 集団的自衛権の行使には憲法9条の改正が不可欠であることも、繰り返し政府によって表明されてきた。 昨年7月の閣議決定 集団的自衛権の行使を容認した昨年7月の閣議決定は、政府の憲法解釈には「論理的整合性」と「法的安定性」が要求されるとし、「論理的整合性」を保つには、従来の政府見解の「基本的な論理の枠内」にあることが求められるとした。 その上で、日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」がある場合には、当該他国を防衛するための集団的自衛権の行使も許容されるとしている。 論理的整合性の欠如 しかし、個別的自衛権の行使のみが憲法上認められるという解釈と、集団的自衛権の行使が(限定的であれ)認められるという解釈とを、同じ論拠の上に成立させることはできない。 自国を防衛するための個別的自衛権と、他国を防衛するための集団的自衛権とは、本質を異にするものであるからである。 法的安定性 「法的安定性」について、昨年7月の閣議決定は、何ら語るところがない。 しかし、ホルムズ海峡での機雷掃海活動が許容されるか否かについて、連立を組む与党の党首間でも見解が異なることを見れば、集団的自衛権の行使に対して明確な「限定」が存在しないことは明らかである。 機雷掃海活動を超える武力の行使についても、現政権による発言がどうであれ、法的な歯止めがなければ、その都度の政権の判断次第でいつでも行われうることとなる。 砂川判決の意味 砂川事件最高裁判決を根拠に集団的自衛権の合憲性を主張する向きも一部にあるが、砂川事件は、駐留米軍が憲法9条2項の禁ずる「戦力」に該当するかが争われた事件である。 したがって、この裁判では日本の集団的自衛権は、全く争点となっていない。 最高裁判決の先例としての価値は、具体的争点を基に語られるべきものであり、同判決が日本の集団的自衛権行使について判断しているとの主張は牽強付会である。 集団的自衛権行使は違憲 要するに、現政権による集団的自衛権の行使の容認は、従来の政府見解の基本的な論理の枠を明らかに踏み越えており、かつ、法的安定性を大きく揺るがすものであって、憲法9条に違反する。 外国軍隊等の武力行使との一体化 非戦闘地域の意味 従来の政府見解は、「後方地域」での自衛隊による外国軍隊等の支援が、憲法の禁ずる武力の行使には当たらないものとするにあたり、自衛隊の活動が他国軍隊の武力行使と一体化しないことと、その活動が「非戦闘地域」に限られることという歯止めを設けてきた。 「戦闘地域」と「非戦闘地域」との区分は、ある程度の余裕を見て自衛隊の活動地域を区分しようとの配慮に基づくものであり、実施期間を通じて活動を必ず合憲としうるための工夫であった。 武力行使との一体化へ 今回の法案では、従来の「戦闘地域」と「非戦闘地域」の区別が廃止されている。 現に戦闘行為が行われている現場以外であれば後方支援を実施しうるものとされ、自衛隊は、外国軍隊等への弾薬の供与や発進準備中の航空機への給油を新たに行ないうることとされている。 もはや他国軍隊等の戦闘行為と密接不可分であり、具体的状況によって、外国軍隊の武力行使との一体化との評価を受けるおそれがきわめて高いと言わざるをえない。 国会軽視の審議過程 対米公約の問題性 安倍首相は先の訪米時に、安保法制関連諸法案を今年8月までに成立させるという「対米公約」ともとれる発言を米議会で行った。 まだ閣議決定さえされていない段階でのこのような発言は、唯一の立法機関たる国会の権威を損ない、国民主権をないがしろにするものである。 対米追随的姿勢 本法案は内容的には本年4月に合意の「日米防衛協力のための指針」(日米ガイドライン)に沿ったものであり、国会審議でホルムズ海峡での機雷掃海などが強調されている背景に、米国の対日要求があるとも考えられる。 条約ですらないものを、いわば憲法の上位に置き、それに合わせて実質的な改憲にも等しい立法化を進めることは許されない。 また、このような対米追随ともとれる姿勢は、集団的自衛権行使に関して日本が自主的に判断できるとの政府の主張の信ぴょう性を疑わせる。 内閣による国会軽視 国会審議においても、首相自らが質問者にヤジを飛ばしたり、大臣から「現在の憲法をいかにこの法案に適応させるか」という立憲主義を否定する発言があるなど、政府の対応は、国権の最高機関たる国会を中心とする立憲的な民主政治を尊重するものとはなっていない。 4. 安全保障への影響 安全保障論のあいまいさ 昨年7月の閣議決定は、集団的自衛権の行使が容認される根拠として、「我が国を取り巻く安全保障環境」の変化を挙げるが、その内容は、「パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等」というきわめてあいまいなものである。 日米安保への過剰な期待 世界各地でアメリカに軍事協力すれば、日本の安全保障へのアメリカの協力が強まるとの議論がある。 しかし、アメリカはあくまで日米安全保障条約5条が定める通り、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」条約上の義務を果たすにとどまる。 大規模な軍事力の行使について、アメリカ憲法は連邦議会の承認をその条件としていることを忘れるべきではない(米憲法1篇8節11項)。 抑止力万能論の陥穽 日本を取り巻く安全保障環境が悪化しつつあるのであれば、限られた防衛力を地球全体に拡散するより、専守防衛に集中する方が合理的との判断もありうる。 また政府は、集団的自衛権の行使容認が抑止力を高め、安全保障に寄与すると主張するが、日本が抑止力を高めれば、相手側がさらに軍備を強化し、結果的に安全保障環境が悪化しかねない(安全保障のジレンマ)。 軍拡競争となれば、少子高齢化や財政赤字などの深刻な問題を抱える日本は、さらに大きなリスクに直面することになる。 国際協調による緊張緩和へ 平和を維持するには、国際協調が不可欠である。 外交交渉や「人間の安全保障」等によって緊張を緩和し、紛争原因を除去する努力を弛みなく続けていくことが、日本にとっての安全保障を導くのであり、抑止力にのみ頼ることはできない。 結論 安全保障関連諸法案は憲法に明確に違反している。 立憲主義をないがしろにし、国民への十分な説明責任を果たさない政府に対して、安全保障にかかわる重大な政策判断の権限を与えることはできない。 ここに全法案のすみやかな撤回を要求する。 この二つの法案は、これまで政府が憲法9条の下では違憲としてきた集団的自衛権の行使を可能とし、米国などの軍隊による様々な場合での武力行使に、自衛隊が地理的限定なく緊密に協力するなど、憲法9条が定めた戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認の体制を根底からくつがえすものである。 巷間でこれが「戦争法案」と呼ばれていることには、十分な根拠がある。 私たち憲法研究者は、以下の理由から、現在、国会で審議が進められているこの法案に反対し、そのすみやかな廃案を求めるものである。 1.法案策定までの手続が立憲主義、国民主権、議会制民主主義に反すること 昨年7月1日の閣議決定は、「集団的自衛権の行使は憲法違反」という60年以上にわたって積み重ねられてきた政府解釈を、国会での審議にもかけずに、また国民的議論にも付さずに、一内閣の判断でくつがえしてしまう暴挙であった。 日米両政府は、本年4月27日に、現行安保条約の枠組みさえも超える「グローバルな日米同盟」をうたうものへと「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を改定し、さらに4月29日には、安倍首相が、米国上下両院議員の前での演説の中で、法案の「この夏までの成立」に言及した。 こうした一連の政治手法は、国民主権を踏みにじり、「国権の最高機関」たる国会の審議をないがしろにするものであり、憲法に基づく政治、立憲主義の意義をわきまえないものと言わざるを得ない。 2.法案の内容が憲法9条その他に反すること 以下では、法案における憲法9条違反の疑いがとりわけ強い主要な3点について示す。 (1)歯止めのない「存立危機事態」における集団的自衛権行使 自衛隊法と武力攻撃事態法の改正は、「存立危機事態」において自衛隊による武力の行使を規定するが、そのなかでの「我が国と密接な関係にある他国」、「存立危機武力攻撃」、この攻撃を「排除するために必要な自衛隊が実施する武力の行使」などの概念は極めて漠然としておりその範囲は不明確である。 この点は、従来の「自衛権発動の3要件」と比較すると明白である。 法案における「存立危機事態」対処は、歯止めのない集団的自衛権行使につながりかねず、憲法9条に反するものである。 その際の対処措置を、国だけでなく地方公共団体や指定公共機関にも行わせることも重大な問題をはらんでいる。 (2)地球のどこででも米軍等に対し「後方支援」で一体的に戦争協力 重要影響事態法案における「後方支援活動」と国際平和支援法案における「協力支援活動」は、いずれも他国軍隊に対する自衛隊の支援活動であるが、これらは、活動領域について地理的な限定がなく、「現に戦闘行為が行われている現場」以外のどこでも行われ、従来の周辺事態法やテロ特措法、イラク特措法などでは禁じられていた「弾薬の提供」も可能にするなど、自衛隊が戦闘現場近くで外国の軍隊に緊密に協力して支援活動を行うことが想定されている。 これは、もはや「外国の武力行使とは一体化しない」といういわゆる「一体化」論がおよそ成立しないことを意味するものであり、そこでの自衛隊の支援活動は「武力の行使」に該当し憲法9条1項に違反する。 このような違憲かつ危険な活動に自衛隊を送り出すことは、政治の責任の放棄のそしりを免れない。 国際平和支援法案の支援活動は、与党協議の結果、「例外なき国会事前承認」が求められることとなったが、その歯止めとしての実効性は、国会での審議期間の短さなどから大いに疑問である。 また、重要影響事態法案は、「日本の平和と安全に重要な影響を与える事態」というきわめてあいまいな要件で国連決議等の有無に関わりなく米軍等への支援活動が可能となることから国際法上違法な武力行使に加担する危険性をはらみ、かつ国会による事後承認も許されるという点で大きな問題がある。 (3)「武器等防護」で平時から米軍等と「同盟軍」的関係を構築 自衛隊法改正案は、「自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動に現に従事している」米軍等の武器等防護のために自衛隊に武器の使用を認める規定を盛り込んでいるが、こうした規定は、自衛隊が米軍等と警戒監視活動や軍事演習などで平時から事実上の「同盟軍」的な行動をとることを想定していると言わざるを得ない。 このような活動は、周辺諸国との軍事的緊張を高め、偶発的な武力紛争を誘発しかねず、武力の行使にまでエスカレートする危険をはらむものである。 そこでの武器の使用を現場の判断に任せることもまた、政治の責任の放棄といわざるをえない。 領域をめぐる紛争や海洋の安全の確保は、本来平和的な外交交渉や警察的活動で対応すべきものである。 それこそが、憲法9条の平和主義の志向と合致するものである。 以上のような憲法上多くの問題点をはらむ安保関連法案を、国会はすみやかに廃案にするべきである。 政府は、この法案の前提となっている昨年7月1日の閣議決定と、日米ガイドラインをただちに撤回すべきである。 そして、憲法に基づく政治を担う国家機関としての最低限の責務として、国会にはこのような重大な問題をはらむ法案の拙速な審議と採決を断じて行わぬよう求める。 日本の侵略によってアジア諸国の人々に多大な犠牲と苦痛を与えた。 その歴史的事実に加害国として謙虚に向き合い、謝罪するのは当然のことである。 ただ、これまでの安倍首相の70年談話に対する発言からして嫌々「おわび」したと受け取られる懸念がある。 しかも連立政権を組む公明党への配慮から「おわび」を盛り込む方向になったのである。 配慮すべき相手を完全に取り違えている。 70年談話で繰り返し謝罪を求めてきた中韓両国に、「おわび」記述までの経緯はどう映るだろう。 その配慮も安倍首相には決定的に欠けている。 戦後50年の村山談話は日本の「植民地支配と侵略」を認め、「痛切な反省」と「心からのおわび」を盛り込んだ。 安倍首相はこの間、「歴史認識では(村山談話などの)基本的な考え方を引き継ぐ。 引き継ぐと言っている以上、もう一度書く必要はない」とし、表現の踏襲には否定的だった。 それが公明党の求めに応じて、もう一度書く方向に傾いた。 「おわび」を自ら進んでするのと他から言われてするのでは、その重みはおのずと違ってくる。 このため、中韓の理解を得る70年談話のハードルはさらに高くなったと言わざるを得ない。 言葉だけの謝罪と受け取られるようだと、中韓との関係はさらに冷え込みかねない。 「侵略」や「植民地支配」については先の大戦での日本の行為に限らず、「侵略」を許さない国際的原則を将来も順守するとの文脈で触れるとみられている。 日本に限定することを避けて「侵略」などに触れることは、日本の責任を薄めたい安倍首相の意向の表れといえよう。 だが日本の加害責任を曖昧にすることでは到底理解は得られまい。 日本の「侵略」を明確に認めた上で、国際的原則順守について語るべきである。 安倍首相は70年談話で「未来志向の内容を盛り込む」としている。 近隣諸国と未来志向の関係を築くことに異論はない。 だが過去の侵略に対する心からの「おわび」なくして未来はない。 安倍首相は、自身が近隣諸国との友好的な未来を閉ざしてきたことも反省する必要がある。 なし崩しの「原発回帰」は許されない。 九州電力川内原発1号機が再稼働した。 2011年5月に定期検査入りして以来、4年3カ月ぶりの稼働となる。 東日本大震災による東京電力福島第1原発事故の影響で、全国の原発は全て停止した。 事故後にできた新規制基準に適合した原発の再稼働は初めてである。 原子力規制委員会の田中俊一委員長は、新規制基準を「世界で最も厳しいレベル」と評する。 一方で「合格イコール事故ゼロではない」と繰り返してきた。 それなのに安倍晋三首相は「規制基準をクリアしたと規制委が判断した原発は、再稼働を進める」との姿勢を崩さない。 「絶対安全」の保証はどこにもない。 「安全神話」へ逆戻りしてはいないか。 原発は「国策民営」で推進されてきた。 旧ソ連のチェルノブイリ事故など政策を見直す機会は何度もあったし、実際にドイツなどは脱原発にかじを切った。 しかし、日本ではそうならなかった。 最終的な責任の所在をあいまいにしたまま、反対の声を押し切って再稼働へ突き進む日本の姿勢は、福島以前と何ら変わっていないように見える。 南日本新聞社の4月の世論調査では、川内原発再稼働に反対する県民は約6割に上る。 反対する理由で最も多かったのが「安全性に疑問があるから」である。 原発事故の反省に立って発足した原子力規制委は、放射性物質の放出を伴う過酷事故を原発1基あたり「100万年に1回以下に抑える」安全目標を掲げた。 地震や津波など自然災害の想定を厳格にし、過酷事故対策も義務づけた。 安全対策が強化されたのは事実だ。 それでもリスクは残っている。 テロや航空機の墜落に備えた設備の設置は2018年まで猶予された。 川内原発では、火山の巨大噴火対策が、専門家から「巨大噴火の予知は現時点では不可能」として、不十分との声が上がる。 原発敷地外の課題は、まだ手つかずのものが多く、住民の懸念はそこにもある。 先の世論調査では、重大事故時に半径30キロ圏内の住民を避難させる避難計画が有効か、という問いに「事故の想定は多岐にわたるため計画に沿った対応は困難」とする回答が57.1%と最多だった。 昨年11月、鹿児島県を訪れた宮沢洋一経済産業相は「万一の事故の際は、国が関係法令に基づき責任を持って対処する」と語った。 県などが再稼働に同意する根拠の一つともなったが、言葉と裏腹に避難計画作成は地元にほとんど丸投げされた。 川内原発で事故が起きた場合、放射性物質の放出前に、まず5キロ圏の住民が30キロ圏外に避難する。 続いて5~30キロ圏の住民が放射線量に応じて段階的に避難することになっている。 しかし、現実にそううまくいくのか。 高齢者ら要援護者を抱える福祉現場の不安は特に大きい。 住民からは、再稼働の前に避難計画を検証する防災訓練を行うよう求める声があった。 だが、県は「九電が使用前検査対応中のため参加が困難」として、再稼働後に先送りした。 訓練を通じて問題点を洗い出さなければ、実効性のある対応はできない。 住民の不安払拭(ふっしょく)より再稼働の優先を思わせる判断には疑問が残る。 福島県から県外に避難している人は7月末時点で4万5000人を超えている。 政府と東電は6月、廃炉に向けた工程表を見直し、1~3号機の使用済み核燃料プールからの燃料取り出し開始時期を最大3年遅らせることにした。 廃炉作業はこれからが正念場だ。 原発で重大事故が起きたときの影響がいかに過酷なものか。 全ての国民が目の当たりにした厳しい現実である。 しかし、安倍政権は国民の多くが望んだ原発ゼロ方針を見直した。 新たなエネルギー基本計画は原発を「重要なベースロード電源」と位置づけた。 30年の電源構成比率では、原発を「20~22%」に設定する。 運転期間は原則40年に制限しているから、達成には新増設や建て替えが必要となるはずだが、その見通しには触れないままだ。 原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分問題も解決されていない。 国が前面に立って「科学的有望地」を示すとしているが、処分地選定が難航するのは避けられない。 国内の使用済み核燃料は、川内原発が保管する888トンを含む約1万7000トンだ。 再稼働する原発が続けば核のごみはさらに増え続ける。 問題を先送りしたまま次々と原発を動かしていいのだろうか。 急ぐべきは再稼働ではない。 福島の教訓を忘れることなく、原発に依存しない社会への道筋をしっかりと示すことだ。 甚大な被害をもたらした東京電力福島第1原発事故から4年半近く。 新規制基準の下で動き始めた最初の原発となった。 再稼働に関しては多くの世論調査で反対が多数を占める。 福島の事故の教訓がどのように生かされ再稼働に至ったのか、隣県でさえもよく見えない。 政府は安全対策、責任の在り方、避難、防災体制など説明を尽くすべきだ。 「反対」大きく上回る 川内原発の地震対策は不十分として、周辺住民らが再稼働差し止めを求めた仮処分申し立てが鹿児島地裁で却下されたことにより、準備は着々と進んできた。 同地裁が新規制基準を「合理的」とみなしたのに対し、福井地裁は「緩やかすぎて不合理」とした。 司法判断が分かれており、国民には新規制基準の効力が分かりにくいまま現在に至っている。 共同通信の7月の世論調査では原発再稼働に「反対」が56・7%で、「賛成」の34・4%を大きく上回った。 国民の合意形成がないまま、再稼働を迎えたと言える。 不安の背景には、福島の過酷事故、それがもたらした深刻な事態を多くの人が忘れず今も認識していることが大きいだろう。 福島の事故被害の全容はしっかり総括され、川内原発に当てはめて周到な対策が練られたのか。 住民の命と生活を守る視点に立ち、十分な防災、避難計画が立てられたのか。 安倍晋三首相は「世界で最も厳しい規制基準をクリアしたと原子力規制委員会が判断した原発は、再稼働を進めるのが従来の政府方針だ」と述べた。 そうであれば政府は電力会社や地元自治体任せにせず、なぜ今、再稼働の必要があるのか丁寧に説明し、安全対策や情報開示に強く関与すべきだ。 本県の対策は万全か 川内原発はえびの市との県境まで約50キロの場所にある。 県と九電は2013年、川内原発に関する情報提供について覚書を締結。 また県は14年、福島レベルの事故が発生した場合に備え、地域防災計画に「原子力災害対策編」を新設した。 炉心溶融など最悪の事態も想定し、情報収集、住民への伝達体制、避難、応急対応の指針を示している。 万が一の事故に備えた対策は本県では十分だろうか。 福島の事故は「想定外」を許してはならないことを教えてくれている。 政府や電力会社が再稼働が必要だとする根拠には、電力の安定供給、電気料金の抑制、地球温暖化対策などがある。 ただ原発はリスク低減のためのコストも大きい。 原発の運転から出る放射性廃棄物の最終処分の見通しも立っていない。 依存を深めるのではなく、太陽光、風力、水力など再生可能エネルギーを含め、幅広いエネルギー対策を本腰を入れて研究することが重要だ。 2011年の東京電力福島第1原発事故後に設けられた新規制基準下で最初の事例となる。 世論調査で反対意見が多数を占める中、今再稼働をする理由はどこにあるのか。 電力ひっ迫を懸念する声は聞こえてこず、電気料金抑制を望む声やコスト増にあえぐ電力会社の経営事情などの経済的な背景しか見えてこない。 まだ国民の多くは、原発の再稼働に理解を示していない。 共同通信が7月中旬に実施した全国世論調査では、原発再稼働について反対が56・7%に対し賛成は34・4%。 4月の調査結果と大きな変化はない。 福島の事故以降、一時期を除いて夏や冬の電力需要期を原発ゼロで乗り切ってきた。 省エネ、節電の浸透や再生可能エネルギーの普及などもあって、猛暑といわれる今夏も受給ひっ迫を懸念する声は聞こえてこない。 このような状況で今、再稼働をする必要性として挙げられるのは経済的要因だ。 経済界を中心に上昇している電気料金の抑制を求める声があり、さらに発電コストが膨らみ続ける電力会社の経営事情が影を落とす。 原発停止で火力発電への依存度が高まり、燃料購入費増が電気料金に影響を及ぼしている。 再稼働によって電力会社の収支改善や電気料金抑制につながるとの見方があるが、電気料金低減については疑わしい。 燃料費高騰の背景には円安などがある。 さらに新規制基準への対応や事故対策の強化で原発のコストは上昇傾向にある。 新規制基準に沿った適合性の審査は13年7月から約2年をかけてきた。 炉心溶融などの過酷事故対策を新設したほか、地震や津波などの自然災害への対策も厳格化。 福島の事故以前よりも安全対策が充実したのは確かだ。 ただ4年経過して10万人以上が避難を続ける福島の事故で学んだ教訓は万一にも備える大切さだ。 その教訓を踏まえた上での判断でなければならない。 川内原発については、火山噴火対策への懸念が指摘されている。 審査では、半径160キロ内に将来活動する可能性がある火山を14カ所抽出して影響評価をしたが、九州電力は巨大噴火の可能性は小さいと主張。 原子力規制委員会も追認した。 ただ内閣府の「広域的な火山防災対策に係る検討会」が13年にまとめた提言は「巨大噴火に関する知見は非常に限られ、対応策の研究体制も整っていない」とし、噴火予知の手法は確立されていない。 運転期間中に火山活動の監視をするとしているが、その実効性には不安が残る。 避難計画も不備を指摘する声がある。 5キロ圏内の住民の避難を優先し、5キロ圏外は屋内退避後に避難という2段階方式を想定しているが、「事故時には混乱して一斉に動き出す」との声もある。 計画に基づいた訓練が実施されていないことも不安に拍車をかける。 事故が起きた際に一番の被害者となるのは住民だ。 住民の目線から全ての不安を取り除いた上での再稼働の判断だったと言えるのか。 このままなし崩し的に全国の原発に広げることは許されない。 政府は福島の教訓を思い起こすべきだ。 (梶原幸司) いつもバンドの練習をさぼってるけど、いつか真面目にやるなりよ。 無理! …というか、やらないと怒られるので…。 ご幼少の頃、T. 中坊時代は朝から晩までスージー・クアトロで日が暮れる始末。 初めて買ったLPはエルトン・ジョンの「ピアニストを撃つな」、2枚目に買ったLPは「ミッシェル・ポレナレフ・ゴールデンベスト20」、3枚目のLPはエマーソン、レイク&パーマーの「展覧会の絵」。 最初に買ったEPはホットバターの「ポップコーン」、次がデヴィッド・ボウイの「スターマン」かな?そんな時代です。 その弾けなさではダントツの遠州1のパンキッシュぶり!何事も一番はいいものです。 愛機は30数年前の高校時代に購入した「roje 全音 」のリッケンバッカー4003・コピーモデル RB-100 を後生大事にメインで使用中。 当時からグレコに比べれば相当にマイナーな部類なので、こんなのが国内に現存しているだけでも、グヤトーンよりも希少価値かもなんてね 笑。 唯一無二の乾いたトーンでメイプルスルーネックボディは渋~く甘~くディープに鳴ります…と本人だけは思っている節あり 笑。

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初のアニメ監督に挑んだ岩井俊二が語る、トライ&エラーの楽しさ

六月あつ森魚

初出 新青年 昭和25年4月号 31巻4号 連載:探偵小説三十年 第7回 1950年4月1日 底本 探偵小説四十年(上) 江戸川乱歩全集第28巻 光文社 光文社文庫 2006年1月20日 初出や底本といった典拠の記載はいささか煩瑣ではありますが、なにしろリファレンスブックなんですからリファレンスのためのデータとして煩をいとわず明示しておく。 それからもうひとつ、年譜本文の記載がこんなふうになってるものもあります。 日付 小酒井不木 近くに東上のよし是非御立寄り下さい(。 )御待ちして居ます。 初出・底本 子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集 浜田雄介編 乱歩蔵びらき委員会/皓星社 2004年10月21日 これは『探偵小説四十年』ではなくて『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』に依拠した記載事項ですから、年譜本文の段落が二字下げとなっている。 それでこの例でいえば「近くに東上のよし是非御立寄り下さい(。 )御待ちして居ます」というのがフラグメント。 こんなのいちいち引用しなくてもとお思いの方もいらっしゃいましょうが、そもそも私は引用という行為が大好きで、それにたとえば不木なら不木という執筆者ないしは不木が執筆した文章に対してできるだけ誠実でありたいと考えておりますので、ならば不木が記したそのままを引用するのが望ましい。 逆にいいますと、この場合の「小酒井不木、乱歩に葉書を出し、年頭に書簡で伝えられた来意に応諾する」という年譜本文、これは私の書いた文章なのですが、これがなんかやだ、という気がする。 理想をいえば『江戸川乱歩年譜集成』にはただフラグメントのみが隙間なく整然と美しく並んでいて編纂者たる私の文章など一行も見あたらず、しかし年譜を通読するとその背後に編纂者の意志や企図や批評や見識といったものが、いや自分で見識といってしまってはまずいですけど、そうしたものが確乎として存在していることがうかがえる。 そういうのがなんかかっけー、とか私は思いますので、自分の文章が出てくるのはなんかやだ、という気がしてくるわけなのですけれど、さすがに編纂者が年譜本文を書かないわけにはまいりますまい。 それにしても私はどうしてこんなことを考えてしまうのか。 つらつら案じますに伊賀の忍びの伝統ででもあるのでしょうか。 忍びも達人の域に達すると自身の気配を完全に消し去り、ひとつの虚無と化して任務を遂行すると伝えられるわけなのですが、そういうのがほんとかっけーなと私は思う。 しかし伊賀の忍びも最近はずいぶんと相場を下げているようで、あれは上忍とか中忍とか下忍とかいうのではなくてたぶん愚忍とか痴忍とかいうのでしょうけど、やれ忍者議会じゃほれ手裏剣対決じゃと何かにつけてメディアに露出したがるのが伝統に生きる忍びの眼には見苦しい。 しかし伊賀上野観光の PR なんだそうですから、まあどうぞお好きにというしかありません。 おーい、愚忍だか痴忍だか知らんけど今度ゴルフやるときは地震の起きない日を選ぶんだぞー。 それでフラグメントを寄せ集めてみますといろいろなことがわかってきて面白い。 面白いというよりは、乱歩先生だいじょうぶっすかー、みたいな心配さえおぼえないではありません。 つまり乱歩の事実誤認がやたら判明してくるわけです。 『探偵小説四十年』の大正14年度における事実誤認といいますと、いまやよく知られたところでは名古屋駅置き引き事件があります。 乱歩は小酒井不木をはじめて訪ねたおり名古屋駅で置き引きに遭ったと記しているのですけれど、それはじつは一年後の大正15年1月に起きた事件なのであった。 置き引きに遭ったというだけでもまぬけなのに事件発生の年までまちがえて、いやいや、私だっておととしの秋に JR 山手線の始発列車内で置き引きに遭ったまぬけですから偉そうなことをいうのはやめておきましょう。 ほかにはたとえば西田政治と横溝正史にはじめて会った日の日付に事実誤認があります。 これを最初に指摘したのはおそらく脚註王村上裕徳さんによる『子不語の夢』の脚註で、乱歩が正史からもらった葉書に「昨日は失礼致しました」とある「昨日」を初対面の日だと誤解したことが躓きの石となったわけなのですが、正史のいう「昨日」は探偵趣味の会の最初の会合が開かれた日のことであり、三人の初対面はそれ以前のことでなければおかしいというのが真相なわけです。 ところでこの初対面の日のことは西田政治と横溝正史の両人もそれぞれに書き記していて(ふたりとも日付に関しては乱歩の事実誤認を踏襲しているのですが)、フラグメントばかの私はそれらをしっかり記載しました。 そのひとつ、西田政治の「乱歩さんと私」には当然『探偵小説四十年』からは知りえない事実がつづられています。 たとえば乱歩が手紙でまず政治に声をかけ、政治が援軍として正史を呼びつけたらしいことがわかりますし、三人とも和服であったとか話し合ったあと三人で元町通りを歩いたとかいったディテールが鮮明になってきて、編纂者たる私には乱歩の年譜がいきいきとした精彩を帯びてくるように感じられる。 しかし政治は「何分にも三十年前のことで記憶が薄れている」とも書いていて、編纂者たる私はがっくり肩を落としたりもする。 ほかにもいろいろあります。 これは今回はじめて気がついたことで、乱歩先生だいじょうぶっすかーと思うと同時におれの頭もあんまり大丈夫じゃねーなーと実感させられた誤認がひとつ。 それを明らかにしたフラグメントは「新青年」大正14年3月号の森下雨村による編集後記「編輯局より」でした。 大正14年1月中旬、乱歩は名古屋の不木を訪ねたあと東上し、森下雨村ら「新青年」関係者と対面します。 『探偵小説四十年』には日付はいっさい記されていないのですが、この「編輯局より」には乱歩の歓迎会が1月16日に開かれたと記されていて、これは得がたい記録である。 みたいなことは「編輯局より」を引用してこの伝言板の「本日のアップデート」に記しもいたしましたが、この「編輯局より」にはもうひとつ大切な事実が記録されていました。 因に二月号掲載の「心理試験」は英訳して、英米の探偵雑誌へ発表するつもりで、牧逸馬氏の手で目下飜訳中である。 あッ、と年譜編纂者たる私は叫んだ。 『探偵小説四十年』にはどう書いてあるか。 牧逸馬が英訳していたのは「心理試験」ではなくて「D坂の殺人事件」であったと書いてある。 また事実誤認なのである。 何しろ不完全な私の語学力には、荷が勝ちすぎてゐるのでございますから、果してうまく御名作の意を伝へることが出来るや否やを疑ひます。 ですが、私としてはこれほどの名誉はございません。 少し永くかかっても出来るだけ忠実ないいものを typeout したいと存じます。 (後略)」 お作の英訳というのは、私の「D坂の殺人事件」の英訳のことである。 それはあの短篇を書いた直後、私が上京したのを機会に、探偵作家の会合があって、その席上、森下雨村氏が、英訳してあちらの雑誌へ送って見ようではないかといい出され、ちょうど牧逸馬君がアメリカに永くいて英文が達者だったので、同君を煩わすことになったのである。 ありえない。 こんなことはありえない。 「D坂の殺人事件」は「新青年」の大正14年新春増刊号に掲載された作品で、実際の発売日は前年12月初旬ですから脱稿は秋ごろのことと考えられます。 だったら「あの短篇を書いた直後、私が上京したのを機会に、探偵作家の会合があって」なんてことはありえません。 上の引用箇所は光文社文庫版全集『探偵小説四十年(上)』の103ページにあるのですが、95ページに乱歩はその歓迎会のことをこんなふうに書いてるわけ。 この辺は記録が残っていないのでウロ覚えだが、その晩集ったのは、たしか森下さんのほかに、田中早苗、延原謙、甲賀三郎、牧逸馬(林不忘)、松野一夫の諸君だったと思う。 皆初対面であったが、会って見ると、甲賀君の顔には見覚えがあった。 大正14年1月にはじめて会った牧逸馬に大正13年の秋に会ってるわけがありません。 こうなると私には、乱歩がいったいまたどうして「心理試験」ではなく「D坂の殺人事件」が翻訳されたと(結局は翻訳されずじまいだったわけですが)思い込んでいたのか、それが気になってくる。 どのような無意識の動きが乱歩をそんな誤謬に導いたのか。 うーん。 ようわからん。 しかし乱歩先生だいじょうぶっすかー、という以上に『探偵小説四十年』におけるこんな明らかな矛盾にさえ気がつかなかった私はめいっぱい大丈夫ではないであろう。 だいたいちょっと考えてみれば、「D坂の殺人事件」が翻訳にふさわしい作品でないことくらいすぐに察しがつきそうなものではないか。 タイトルにアルファベットが入っているからなんとなくモダンな印象があるけれど、障子の格子の隙間から太い棒縞の浴衣がちーらちらなんて、そんな話が欧米向きか? それでもってまだある。 まだあるのじゃ。 乱歩の事実誤認らしきものはまだあるのじゃよ皆の衆。 私はなんだか泣きたいような気分なのですが、情け容赦なく『探偵小説四十年』から引きましょう。 探偵趣味の会について述べられたパートです。 大正十四年四月ごろだったと思う。 大阪毎日新聞社会部副部長の星野龍猪君(筆名、春日野緑、ルブランの保篠龍緒君とは別人)から突然、探偵趣味についてお話ししたいからという誘いの手紙が来た。 大毎といえばつい此間まで私のいた新聞社であり、私は広告部の一平社員であったのに、星野君は副部長というのだから、敬意を表して、私の方から大毎へ出かけて行き、同君と初めて話し合った。 そして、その席で、一つ探偵趣味の会を作ろうじゃないかと相談がまとまったのである。 ここでフラグメント忍法、春日野緑の「乱歩君の印象」の術。 昭和2年に発表された文章です。 私が乱歩君にあつたのは余り前の事ではない、一昨年の冬頃だつたらう『二銭銅貨』などで乱歩君の名が知られるやうになり探偵小説も飜訳から次第に創作の時代へ移らうとしつゝある時であつた。 あひたいという手紙を受けとつて、一夜私の家でおめにかゝつたのである。 話がぜんっぜんちがうじゃん。 乱歩は春日野緑から誘いがあって大阪毎日新聞社を訪ねたと記し、春日野のほうは乱歩から手紙が来て自宅で会ったとしている。 春日野は二年前のこと、それにひきかえ乱歩は二十五年前のことを回想しているのですから、たぶん春日野のいってることが事実なのかなという気はするけれど、しかしそんな曖昧な根拠で乱歩が誤認していたと断ずるのはなんだかしのびない。 そこでまたフラグメント忍法、今度は乱歩自身のフラグメント「探偵趣味の会を始める言葉」の術。 「『探偵趣味の会』」というタイトルで「新青年」大正14年6月号に発表された文章です。 探偵小説の同好者が集って、話し合ったり、色々な催しをやったりするのは面白いことに相違ない。 私は兼てからそんな会を作りたいと思っていた。 東京では森下さんなんか中心になって、既に度々やっていられる様だが、地方にいる私には、その都度それに参加する訳にも行かぬ。 だが、聞く所によると、阪神地方には可也同好者があり、新青年の寄稿家なども多い様だ。 一つ東京の向うを張って、こちらでも探偵小説同好者の会を始めてはどうだろう。 そんな風に考えたものだから、その道では先輩の大阪毎日新聞の星野龍猪君に相談して見た。 ところが、同君も大いに賛成して。 新聞社にも数人同好者があるから、一つやろうじゃないかということになった。 乱歩先生はこのように「星野龍猪君に相談して見た」とお書きじゃ。 乱歩先生のほうから話をもちかけたのじゃな。 ただしこの点は、春日野緑から誘われて会ったその席で、乱歩先生のほうから『探偵小説四十年』にあるごとく「一つ探偵趣味の会を作ろうじゃないか」と切り出したということであったのかもしれぬ。 じゃがそれにしても、最初に会いたいという手紙を出したのがどちらであったのか、会った場所が大阪毎日新聞社だったのか春日野緑宅だったのか、そしてその時期は大正14年の4月だったのか春日野のいう「冬頃」であったのか。 わからんことはたくさんあるのじゃ。 ここでふと気になって、私は中島河太郎先生の『日本推理小説史』をひもといてみました。 第二巻の第七章「探偵趣味の会」には、ああ、やっぱりこんなふうに記されているではありませんか。 十四年四月ごろ、大阪毎日の社会部副部長の星野龍猪(筆名春日野緑)から、乱歩に探偵小説について話をしたいという申し入れがあった。 当時星野は探偵小説の翻訳をやっていたので、乱歩の名を知っていたのである。 中島先生は『探偵小説四十年』に全面的に依拠して筆を進めていらっしゃったようです。 それはまあ当然といえば当然のことなのですが、なんだかほんとにどうよまったく。 ほかに傍証はないものか。 私はほとんど涙目になって川口松太郎の「乱歩讃」を読んでみました。 「新青年」の昭和10年1月号に掲載された随筆です。 『探偵小説四十年』にも引用されておりますので、光文社文庫版上巻の146、147ページをお読みください。 それでもってこれがまた傍証というかなんというか、事実関係をいっそう複雑にこんがらがらせてくれるフラグメントなのであった。 探偵小説を流行させたいという乱歩の熱意に感じ入り、乱歩を中心に探偵作家を糾合する計画をたてた。 (b)その第一回会合を六甲の苦楽園で催した。 ひどい雨で参会者は少なく、松太郎と乱歩のほかには三人くらい。 なかに横溝正史がいて、初対面だというのに「苦楽」の編集方針に辛辣な批評を加えた。 (c)当時、大阪毎日の星野龍猪と和気律次郎も探偵小説を隆盛に導きたいとの野心に燃えていた。 これが乱歩と結んで探偵趣味の会を結成した。 (d)その第一回の催しを大毎のホールで開いた。 来会者から会費五十銭を徴収し、余興にルパンの映画を観た。 最後の(d)は『探偵小説四十年』の引用では省略されているのですが、まず(a)から見てみます。 松太郎から乱歩へのファーストコンタクトは一通の書状で、『貼雑年譜』にスクラップされた封筒には乱歩による「大正十四年四月九日」という書き込みがあります。 用件は「苦楽」への執筆依頼、「成る丈け早くお願ひいたしたいのですけれど、御諾否を伺はせて下さいまし」とありますから、松太郎が乱歩を訪ねたのは4月9日からまもなくのことであったと考えられます。 (b)の日付も不明ですが、雨だったというのですから梅雨のことか。 (c)にある探偵趣味の会が発足したのは4月11日。 (d)に第一回の催しとあるのはどの催しのことか。 探偵趣味の会の第一回の会合は(c)の4月11日なのですが、この日のことを指しているのではないでしょう。 松太郎が乱歩に手紙を出したのは4月9日のことですから、その翌々日の11日にはまだ対面も果たせていなかったにちがいない。 大毎のホールで開いたというのですから、松太郎が10月25日に苦楽園で催された探偵ページェントと勘違いしていたということもありえないでしょう。 いやしかし、しかしどうも、どうもこれは、いやしかしどうもこれでは、ふと気がつくと私はいまやそこに確実に勘違いや事実誤認が存在しているということを前提として人の文章を読んでいるではありませんか。 なーんかやな性格。 たとえ親子兄弟のあいだがらであっても相手を絶対に信用しない猜疑心のかたまりのような人間でなければ優秀な忍びにはなれません。 ですから私も『江戸川乱歩年譜集成』の編纂にあたっては乱歩の述べているところをそのまま鵜呑みにすることなどけっしてなく、債鬼のように仮借ない資料批判を血も涙もなく展開したいと念じている次第なのですが、性格がいよいよ悪くなってしまいそうではある。 とのご託宣をたまわった人間なのであるが(「いけず」の語義は Yahoo! 辞書のでどうぞ)、『江戸川乱歩年譜集成』編纂者として余儀なくいけずの王道を究めることになるのであろうかしら。 とはいえ、たとえばきのうの伝言をお読みいただいた乱歩ファンのみなさんには、『探偵小説四十年』の徹底した資料批判が必要であるという事実はご理解いただけたのではないかと拝察いたします。 とかいわれたりしそうな気がしてなんかやだ。 いやいや。 などというわけがありません。 ある意味聖典視されてまったく無批判な引用や孫引きがあっちこっちで行われている『探偵小説四十年』ではあるけれど、たとえば大正14年度の記述内容ってのは結局どんなものなのかというと、五十五歳の人間が二十五年前、自分が三十歳だった当時を回想した文章であるに過ぎません。 手許に『貼雑年譜』をはじめとした参照資料があったとしても、勘違いや事実誤認、記憶の錯誤や修正はいくらでも生じてくるのが当然でしょう。 などといわれねばならぬ道理はないのである。 そのはずである。 そのはずではあるのであるが、まあいいか。 それでは伊賀の忍びにしてフラグメントばかでもある『江戸川乱歩年譜集成』編纂者がきのうにつづいてお届けするフラグメント忍法帖第二弾。 本日は東上と下阪の謎に迫ります。 いや迫ったりはできません。 謎を提示してみるだけです。 大正14年1月、乱歩は大阪から上京しました。 『探偵小説四十年』にはただ「一月中旬」とあるだけで、日付は明らかではありません。 しかし「新青年」大正14年3月号に掲載された森下雨村の編集後記「編輯局より」によりますと、「新青年」関係者が乱歩を歓迎する小宴を催したのは1月16日のことであった。 これはきのうも記しました。 乱歩はその小宴が東京に着いた日の「翌晩か翌々晩」のことであったとしています。 ここでは翌々晩であったと仮定しましょう。 関係者に連絡する時間も必要なら関係者にだって都合というものがあったでしょうから、一日あけて翌々晩のことであったと見ておく。 すると乱歩の動きはこうなります。 東上と下阪のスケジュール 1月13日 大阪から名古屋へ。 小酒井不木宅を訪れる。 夜の汽車で東上。 1月14日 東京に到着。 博文館を訪れて森下雨村に会う。 1月15日 1月16日 「新青年」寄稿家による歓迎会。 甲賀三郎、牧逸馬らに会う。 1月17日 1月18日 1月19日 1月20日 1月21日 1月22日 1月23日 1月24日 東京から下阪。 小酒井不木に手紙を出す。 なんとも空白の多いスケジュールです。 ちなみに1月24日という日付がどこから出てきたのかというと、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』収録の「〇一〇 乱歩書簡 一月二十四日 封筒便箋4枚」にこうあるからです。 本日帰阪致しました。 先日は御立寄りしまして長生 〔ママ〕したばかりでなく、御馳走にまでなりまして、大変失礼致しました。 御礼申上げます。 東京では、森下氏、馬場氏、星野氏などに逢ひ、文壇の人では宇野浩二氏など訪ねました。 宇野氏は最近「新趣味」の探偵小説から得たヒントにより新聞に続きものゝ探偵小説を書く由です。 何でも「二人の青木愛三郎」を敷衍した様なものだ相です。 1月24日付の書簡に「本日帰阪致しました」と書かれているのですから、これは真に受けるしかないでしょう。 ほんとはもっと早く帰ってたんだけど不木に礼状を出すのを忘れていて、あわてて書こうとしたのだけれど帰阪から何日もたってからの手紙では人としていかにも実がない、誠が感じられぬ、だから嘘ついて24日に帰ったことにしとこっと、みたいなことであった可能性もないではないけれど、しかしそんなことまで疑いはじめたら際限というものがなくなってしまいます。 それに乱歩はたいへん律儀な人でしたから、帰阪したその日に関係者への礼状をしたためたはずである。 ここはいくら伊賀の忍びとて乱歩の言を信じることにして、だからこの空白の多いスケジュールはどうよということになる。 不木宛書簡に名の見える馬場孤蝶、星野龍緒と東京で対面したことは『探偵小説四十年』には記されていないのですが、このふたりと宇野浩二でわずか三人。 不木宛書簡にはほかに誰を訪ねたとも書かれていませんから、東京で会った探偵小説ないしは文壇の関係者はこれだけであったとして、たとえば14日に森下雨村、15日に馬場孤蝶、16日に星野龍緒、その夜には「新青年」の寄稿家、17日に宇野浩二といった日程で面会してゆけば四日間でこなせるスケジュールなのである。 と書いて気がついたのですが、「新青年」大正14年3月号の「編輯局より」にはこうありました。 江戸川乱歩君の上京を機とし、一月十六日の晩に、江戸川の橋本に探偵小説同好者の集りを催した。 会する者、田中早苗、延原謙、春田能為、長谷川海太郎、松野一夫の諸君、それに編輯同人の神部君と自分、全部で八人の小さい集りであつた。 (星野、浅野、妹尾、坂本の諸君は通知が間に合はず、或は事故のため欠席) 欠席だった「星野」というのは星野龍緒のことでしょうから、乱歩は16日には星野に会っておらず、17日以降に対面を果たしたということになるでしょう。 しかしそんなのは些細な問題であって、早ければ17日には用事が済んでいたはずなのに、乱歩の帰阪が24日になったのはいったいなぜなのか。 宇野浩二の証言を見てみましょう。 その時彼は懐から一冊の雑誌を出して、「ところで、自分はかういふものを書いてゐるものだが、読んで見てほしい」といつた。 現在は大阪在に住んでいる、そして一両日前に東京へ来たのであるが今夜にも帰るつもりであるといつて、彼は雑誌(新青年)を残して帰つて行つた。 小酒井不木宅を訪れる。 夜の汽車で東上。 1月15日 東京に到着。 博文館を訪れて森下雨村に会う。 1月16日 馬場孤蝶に会う。 夜は「新青年」寄稿家による歓迎会。 甲賀三郎、牧逸馬らに会う。 1月17日 星野龍緒に会う。 宇野浩二に会う。 夜の汽車で下阪。 1月18日 大阪に到着。 これならば乱歩の言のとおりということになるだろう。 しかし乱歩の帰阪は18日ではなく24日なのである。 『子不語の夢』にそう書いてあるのである。 もしかしたらあれか。 『子不語の夢』に誤植があるのか。 それとも乱歩書簡をちゃんと判読できてないのか。 そんなことも私は考えた。 『子不語の夢』スタッフのみなさん、疑ったりして本当にすみませんでした。 もうひとつの手がかりとして宇野浩二の手紙があります。 これは『探偵小説四十年』にも引用されていて、光文社文庫版全集上巻の113、114ページをお読みいただきたいのですが、そこにこうあります。 今日又、お送り下さった雑誌のお作も拝見しました。 (註、D坂の殺人事件)お断り書きにあるやうに、終ひの方が少し略され過てゐるのを残念に思ひます。 だけど構想としては面白いものだと思ひました。 これは1月26日付の書簡で、『貼雑年譜』にもスクラップされており、日付はたしかに「二十六日」です。 事実関係を推測してみますに、乱歩は東京で菊富士ホテルに宇野浩二を訪ね、「心理試験」が掲載された「新青年」を手渡した。 そして大阪に帰ってから、今度は「D坂の殺人事件」が掲載された「新青年」を添えて礼状を送った。 帰阪は1月24日。 その日のうちに礼状を書いたとして、24日に大阪で投函された郵便物が26日に東京に到着するのかどうか。 当時の郵便事情がよくわかりませんからなんともいえませんが、不可能なことではないのではないか。 もしも不可能なのであれば、乱歩の帰阪は24日よりも前であったということになります。 いや、いやいや、乱歩が「D坂の殺人事件」の載った「新青年」を東京滞在中に送っていたという可能性もあるのですから(げんに小酒井不木には東京からも手紙を出していたことが『子不語の夢』で確認されます)、1月26日付の宇野浩二の手紙もたいした手がかりにはならないか。 うーん。 まいった。 ですから結論といたしましては、不木への手紙にあるとおり帰阪はやはり1月24日のことで、となると乱歩は東京に十日間も滞在していたということになります。 何をやっていたのか。 博文館に足を運んで森下雨村と探偵小説談義に花を咲かせるとか、そんなことをしていれば時間はすぐに過ぎてしまうでしょうけれど、乱歩はむしろ早く大阪に帰りたかったのではあるまいか。 「新青年」の寄稿家に知己ができ、探偵小説の隆盛を実感し、自分が探偵作家として大きな期待を寄せられているという事実も肌身に感じたことでしょうし、敬愛する宇野浩二に会うこともできたわけですから、かくなるうえは早くうちに帰って「赤い部屋」を書こうっと、今度はプロバビリティの犯罪だもんねー、とか思って大阪まで矢のように帰ってゆくのがふつうではないのかしら。 だというのに東京で何をぐずぐずしていたのか。 あるいはまあ、宇野浩二に別れを告げて菊富士ホテルを出たあと、東京駅にむかう途中である不思議な事件に遭遇し、それを解決するために東京にとどまりつづけたなんてことがあったりしたら面白いとは思うのですが、実際にはそんな小説みたいなことあるはずもないしなあ。 やっぱもちまえの放浪癖で、都会の雑沓をあてもなくふらふらしたりなんかしてたのかしら。 むろん「」のことでまいってるわけですが、フラグメントをたったかたったか掲載してゆくとだんだんえらいことになってくる。 なんてのが出てまいりまして、こういう歴史事象が前後の脈絡とは関係なしに不意に顔を出してくるのが年譜というものの面白いところなのですが、違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれません。 しかしそんなのはフラグメントの問題ではありませんからこの際どうだってよろしい。 問題なのはフラグメントが増えてくるとトリビアルなところばかりが眼につくようになってしまい、年譜としてのおおまかな流れが見えにくくなってくるようだという一事です。 これはいささかまずいか。 問題を回避する方法はあります。 フラグメントの本文を隠してしまうことです。 すなわち大正14年のページには年譜本文とフラグメントのタイトルならびに執筆者名だけを記すことにして、そのタイトルをクリックするとブラウザの別ウインドウが開き、その時点ではじめてフラグメントの本文が読めるようになる。 そうしておけば問題はクリアされることでしょう。 フラグメント忍法のうち火遁の術でも水遁の術でもなく、ウインドウ遁とか窓遁の術といったことになるのでしょうか。 その場合、フラグメントなんてたいていは短い文章なのですから、別ウインドウは小さなサイズで開くようにするのがおしゃれである。 これは可能です。 そのように設定すればいいだけの話です。 しかし私にはその方法がわからない。 新たに開かれるウインドウのサイズは縦が何ピクセルで横が何ピクセルと設定するのはごく簡単なことであるはずなのに、その方法がわからない。 サイト構築ソフトのヘルプを開いてあっちこっち眺めてみても、いったいどういった項目を参照すれば自分が知りたい操作方法にたどりつけるのか、それさえわからなくて朝から途方に暮れてしまう。 するうち私は、いや待てよ、と思い返す気になりました。 年譜本文とフラグメントとは、あくまでも同一のページの上で緊密に照応し合っていなければまずいのではないか。 フラグメントってのはいったい何か。 『探偵小説四十年』の記述を、ということは年譜本文の記述を相対化するための素材である。 読みたいときだけ読めるというのではまずいのではないか。 意地の悪い奥方のようにいつも年譜本文にぴったり寄り添っていないことには、年譜本文だけが事実としてひとり歩きし誰かと浮気してしまうことになるのではないか。 例として大正14年4月の年譜本文を引いてみましょう。 (a)乱歩、春日野緑(星野龍猪)から手紙で誘われ、大阪毎日新聞社を訪ねて面会する。 その初対面の場で、探偵趣味の会を結成する相談がまとまる。 (b)乱歩、森下雨村に手紙で探偵趣味の会のことを伝える。 京阪神に住む探偵小説同好者の名前と住所を問い合わせ、京都の山下利三郎、神戸の西田政治と横溝正史を教えられる。 (c)乱歩、神戸で西田政治と横溝正史に会い、探偵趣味の会に入会することの承諾を得る。 としてこれら一連の歴史事象が4月ごろに生起したと記しています。 さらに年譜本文をたどってゆくと、4月11日に大阪毎日新聞社で探偵趣味の会が発足したという記述にぶつかります。 この日付はたしかな日付です。 『探偵小説四十年』にも引かれているとおり小酒井不木の書簡でそれが証明できますし、例の横溝正史の葉書も傍証になります。 ここで人は何を思うか。 上に引いた(a)から(c)までのできごとはほんとに大正14年4月のことなのか。 どうもそうとは思えない。 ていうか絶対にちがうと思う。 あれだけのできごとが4月の上旬だけに収まってしまうはずがない。 ならばいつなのか。 それを考える手がかりこそがフラグメントなのであって、たとえば4月9日付の不木宛乱歩書簡にはこうあります。 大分以前に阪神の同好者の雑談会をやり度いと思立ち、二三の人々にも逢つて話して居たのですが、最近それが具体化して、明後日「大阪毎日」の楼上で十人計りの同好者が集つて話し合つて見ることになりました。 「二三の人々」というのは春日野緑、西田政治、横溝正史のことでしょう。 ならば「逢つて話して居た」「大分以前」というのはいつのことか。 春日野緑のフラグメント「乱歩君の印象」を見てみる。 私が乱歩君にあつたのは余り前の事ではない、一昨年の冬頃だつたらう『二銭銅貨』などで乱歩君の名が知られるやうになり探偵小説も飜訳から次第に創作の時代へ移らうとしつゝある時であつた。 「一昨年」というのは大正14年のこと、その「冬頃」というのですから1月か2月か、そういった見当になるでしょう。 そのころに何があったか。 今度は乱歩自身のフラグメント、1月24日付不木宛書簡を見てみます。 東京から帰阪した日の手紙です。 京阪神地方には大分同好者がある由で、主な人の名前なども聞いて参りましたから、いづれ往来して好きの道を語り合ひ度く思つて居ります。 つまり乱歩は1月に上京したおり、森下雨村から京阪神の探偵小説同好者の名前やたぶん住所も教えられていたわけです。 ところが『探偵小説四十年』にはこんなぐあいに書かれている。 これは春日野緑と初対面を果たしたあとの、つまり大正14年4月ごろのアクションとして回想されていることなのですが、事実とは相当に異なっているのではあるまいか。 ならば事実はどうであったか。 推測してみますに、乱歩は1月24日に東京から帰ってきた。 「赤い部屋」の執筆という当面の課題をこなしながら、いっぽうで「好きの道を語り合」うべくまず春日野緑にコンタクトを取り、つづいて雨村から知らされたアドレスを頼りに西田政治に手紙を出した。 そういったところなのではなかったかしら。 ですから上に掲げた年譜本文のうち、4月ごろのことだったという(a)はそもそもそんな事実があったかどうかさえ疑わしく、実際は春日野緑の「乱歩君の印象」にあるごとく、乱歩が春日野に連絡してまだ寒い時期に春日野宅で初対面を果たしたものとおぼしい。 つづく(b)だって、何もその時点で雨村に手紙を出して京阪神地方に住む探偵小説同好者の住所氏名を問い合わせる必要はなかったであろうと思われますし、それが4月のことであったはずもない。 そして(c)、政治正史との初対面ももとより4月11日のことではなく、たぶん2月か3月のことであったはずである。 どっちかっていったら2月かな。 みたいなことを人は想像するわけである。 「」の大正14年のページの閲覧者は必ずそのような思いを馳せるはずなのである。 ただしそれは年譜本文とフラグメントとが同一ページ上で緊密に照応し合っている場合の話であって、大正14年のページに年譜本文とフラグメントのタイトルおよび執筆者名のみが記載され、フラグメントの本文がウインドウ遁とか窓遁の術で隠されてしまっているのであれば、人はそこまで緻密な想像力を働かせて年譜を読み込んでくれないのではあるまいか。 したがいまして当面の結論としては、大正14年のページに年譜本文とフラグメントを同時に存在させたままで作業を進めることとしたい。 とりあえず1月から12月まで一貫したページをつくってしまってから、そのあとでいろいろあれこれ細かい点について考えることといたします。 それともうひとつ、私にはフラグメントが年譜のおおまかな流れを見えにくくしてしまうという問題以外にもうひとつ気になることがあって、それは年譜編纂者がここまで寡黙であっていいのかどうかということである。 必要最小限の言葉で年譜本文を記述し、あとはフラグメントを配置してさあどうよと、年譜本文とフラグメントの照応からいろいろなことを読み取ってくださいなと、それは読者の作業ですと、そういって収まり返っているだけでいいのかどうか。 年譜本文とフラグメントの照応性に読者の注意を喚起する、みたいなことをもっと心がけたほうがいいようにも思われる。 たとえば西田政治、横溝正史の両人とはじめて会ったのは大正14年4月11日であったとするのは明白に乱歩の事実誤認なんですから、年譜本文でもそれは指摘してある。 しかし確たる根拠はないけれどこれはこう考えたほうが自然なんじゃないのとかおそらく乱歩の勘違いなんじゃないのとか、そういったことは読者の判断に委ねることにしてあって年譜本文ではいっさい言及していない。 それでいいのか。 あるいはもうちょっと注意喚起が必要なのか。 この伝言板に記したごとく小酒井不木と乱歩の初対面はいつであり乱歩の東京滞在は何日間であり、あるいは乱歩は宇野浩二に「新青年」のこの号を手渡しこの号を郵送していたのである、みたいなことをたったかたったかと書き連ねてゆくと驚くべし、年譜本文が『子不語の夢』の脚註のようなものに化してしまう虞が多分にある。 それではまずかろう。 あの脚註は脚註だからあれでいいのであるけれど、『江戸川乱歩年譜集成』の本文があんなになってはよろしくない。 私は伊賀の忍びとして峻険な崖の上でひとり風雪に耐えている松の木のように寡黙でありたいと念じているのですが、里の木に羽を休める小雀みたいにもう少し饒舌になったほうがいいのかな。 なーんか悩ましい話ですけどここでお知らせ。 ミステリー文学資料館のオフィシャルサイトがリニューアルされましたのでぜひアクセスを。 光文社のサイトから独立し、権田萬治さんの「館長ブログ」も掲載。 6月には資料館の新しい企画として土曜講座「ミステリーの書き方」全五回がスタートするそうで、講師は新保博久さん。 詳細はサイトで直接どうぞ。 きょうのところは神戸文学館で昨日開幕した企画展「探偵小説発祥の地 神戸」のお知らせを「」でごらんいただければそれでよろしい。 神戸文学館のオフィシャルサイトはこちら。 私はまだ足を運んでおりませんので展示内容をつまびらかには承知していないのですが、正史の著書では昭和12年に六人社から出版された『真珠郎』が、なんてったって乱歩への献呈署名入りとあってひときわ異彩を放っているものと思われます。 この『真珠郎』、自慢じゃないけど名張市立図書館の蔵書なり。 の件、名張市教育委員会の教育次長とやらもまったく困ったものであって、そろそろ名張市役所に凸して凹ってやろうかなと思っても連休であったか。 へへっ。 へへへっ。 同様に『タルホフラグメント』という本を読むまでは、断片や断章を意味する「フラグメント」という言葉を知らなかったのであろうなと振り返られます。 『タルホフラグメント』は大和書房から出ていた「夢の王国」というシリーズの一冊で、いまは手許にありません。 このシリーズのなかで私が現在も所蔵しているのは、どうやら中井英夫の『黒鳥の囁き』だけみたい。 1974年5月30日発行のそれを引っ張り出してきて巻末のシリーズ一覧を見てみると、『タルホフラグメント』はこんなぐあいに紹介されていました。 ああそうか、やっぱりな、と納得されるところがありました。 何が納得されたのか。 自分がこんなフラグメントばかになってしまったのは、やっぱ足穂の影響なのかな、といったようなことでした。 いや、ここで訂正を入れておきましょう。 私は先日来自分のことを「フラグメントばか」と称してまいりましたが、僭越ながら「フラグメントきちがひ」とあらためることにいたします。 ばかというのは単なるばかなのですが、きちがひとなるとなにしろ気がふれているのですからたいしたものです。 常人にできないことはばかにもできませんが、きちがひというのは常人にできないことでもへたすりゃ平気でやってしまう。 そういったいわゆるものぐるいへのあこがれをこめて、私はきょうから「フラグメントきちがひ」を僭称することにしたい。 どうして「きちがい」ではなく「きちがひ」なのかというと、歴史的かなづかいで表記したほうが気のふれ方に品が感じられるという理由によります。 向後万端よろしくお願いいたします。 おととい、大阪にある旭屋書店のあれは本店か、曾根崎の店に立ち寄ってみたところ、雑誌「ユリイカ」のバックナンバーを平積みにしたコーナーがありました。 「ユリイカ」という雑誌が名張市内の本屋さんに置かれてあるのかどうか、あらためて考えてみるとよくわからないのですが、とにかくそんなのが出ていたことなどまるで知らなかった去年の9月臨時増刊号《総特集 稲垣足穂》、眼についたので手に取ってみました。 目次をながめてちょっとだけ愕然としました。 名も知らぬ書き手がたくさん並んでいるからです。 むろん松岡正剛さんを筆頭に見なれた名前もあるものの、どちらさまで? と尋ねたくなるような名前がそこここにある。 ですから最初は購入する気もありませんでした。 しかしそのうち食指が動いて、巻末に年譜と書誌が掲載されているから資料として手許に置いておくかとか、江戸川乱歩リファレンスブックの装幀をお願いしている戸田勝久さんの絵も収録されていることだしとか、あがた森魚さんが荒俣宏さんと対談しているのがなんか楽しみなような気もするしとか、そんなことをみずからにいいきかせながら購入した次第でした。 気になるお値段はなんと二千二百円。 巻末の書誌はとりあえず、キネマクラブの編による「稲垣足穂著書目録」が有用。 おととし出版されたちくま文庫の稲垣足穂コレクションの内容を確認することができました。 というのもこのコレクション、当地の本屋さんではまったく見かけなかったような気がするからで、乱歩に関連のある作品も収録されているのだろうなと気にかかりながら、むろん大阪の本屋さんに立ち寄ったとき手に取ってみればいいのですが、そのときにはそんな文庫本のことなどきれいに忘れ果てているから始末が悪く、ときどき思い出しては、あ、いつか内容を確認しなくちゃなと思いつつおとといまでむなしく日々を過ごした私であった。 稲垣足穂コレクションから著書目録をさかのぼってゆくと、あ、これはいかん、みたいな本にもぶつかります。 1975年に潮出版社から出た多留保集別巻『タルホ事典』に乱歩の「萩原朔太郎と稲垣足穂」が収録されておるではないか。 まいったな。 この本のことは「」に記載してない。 不備である遺漏である欠陥である。 書棚をぐるーっと見てみたら多留保集はただ『びっくりしたお父さん』があるだけというていたらく。 そこで私はついさっき、この本は手許に置いておきたいからとみずからにいいきかせつつ、「」を検索してもっとも安価な『タルホ事典』を発注したのであるけれど、気になるお値段は三千六百七十五円もするのであった。 おなじくキネマクラブの編による「彼自身による稲垣足穂」は面白い試みで、足穂自身によってくり返し語られた生涯のあれこれの日々を、「全集から部品を拾い集め組み立てられたセイントタルホの縮尺模型〔スケールモデル〕」としてまとめた年譜です。 まさしくフラグメントの集成であって、フラグメントきちがひたる私にはとても興味深く、またおおいに参考にもなりましたが、ちょっとした事実誤認がありましたので意地が悪いようなれど指摘しておくことにいたしましょう。 とあるのは誤りで、足穂と乱歩の初対面はおそらく昭和6年の秋であろうと推測されます。 事実関係の流れをごくあっさりと見ておきますと、昭和6年10月15日、萩原朔太郎と乱歩がはじめて会う。 朔太郎、乱歩の人柄を好ましく思い、足穂に乱歩を紹介する。 ですから足穂が乱歩と知り合ったのは昭和6年10月15日よりもあと、ただし足穂はこの「彼自身による稲垣足穂」によれば昭和7年の1月か2月に明石に帰省、「美しき穉き婦人に始まる」の日々がはじまるといったゆくたてとなります。 とあります。 この下宿屋の廃業は昭和6年11月のことで、東京日日新聞の11月24日付夕刊に「探偵作家の名物下宿もこれでなくなつた」と報じられていますから、足穂と乱歩の初対面は昭和6年の10月下旬か11月上旬または中旬といったところになるでしょうか。 それがどうして「彼自身による稲垣足穂」において大正15年のことと誤認されたのかというと、おそらくは『探偵小説四十年』の大正15年度に「萩原朔太郎と稲垣足穂」の章が置かれているからでしょう。 こういう誤認を防ぐ意味でも一日も早く「」を完成させねばならんわけですが、大正14年のページにはけさも手をつけなんだ私である。 いかんいかん。 こんなことではいかんのであるが、世間が大型連休だと思うとどうも気がゆるんできて、きのうも真っ昼間から知人とビールを飲んだりしてどうもいけません。 ともあれ、『江戸川乱歩年譜集成』をフラグメントの集成として構成するという発想は、その淵源をたずねれば足穂の「一千一秒物語」なのではないかしらと、この「ユリイカ」の臨時増刊号をながめていた私はなんとなくそんな気がしてきました。 だからどうだということもないのですが、フラグメントきちがひの自己分析はまあそういったことなのである。 タルホフラグメントから Rampo Fragment へ ありゃりゃありゃりゃ、と思ってるあいだにきのうで大型連休が終わってしまいました。 と宣言して私は連休に突入したのですが、いまだに試行錯誤が終わりません。 きのうなんか更新をお休みして四苦八苦していたというのにどうよこの決定力不足。 とりあえずニュースを一件。 乱歩がらみのニュースを検索しておりましたところ、goo のニュースサイトでひっかかってきたのが4月27日付の goo ランキング「じっくり読みたい、日本を代表する近代作家ランキング」。 トップは不動の漱石、二位がやや意外ながら宮沢賢治、そのあと芥川、太宰と順当につづいて、われらの乱歩が三島をおさえて堂々の五位、それから康成、鴎外、遠藤周作、井上靖というのがベストテン。 二十位までに稲垣足穂の名前は見あたりません。 調査対象は goo リサーチ登録モニター千人あまりとのことですが、「じっくり読みたい」というのですからじつはまだ読んだことがないけど一度は読んでみたい作家を適当にあげてみましたという回答も少なからずあったのではないか。 武者小路実篤や有島武郎あたりがランクインしているところから推測するに、そーいや中学校の国語の教科書で見かけたよなー、みたいな感じで名前をあげたモニターもあったにちがいないと思われます。 まあどうでもいいけど。 5位に入った推理作家の《江戸川乱歩》も注目したい作家の1人。 名探偵・明智小五郎が快刀乱麻で事件を解決する『D坂の殺人事件』など大人向けの探偵小説や、そのスピンオフ作品である少年探偵団シリーズの生みの親としてあまりにも有名です。 何から何まで試行錯誤の途中であるとご承知おきください。 すべてはいまだ「試み」です。 大正14年5月17日、探偵趣味の会の第二回会合が開かれました。 それを伝える乱歩書簡は数日前に掲載したのですが、『貼雑年譜』にある大阪毎日新聞の記事をフラグメントとして本日追加してみました。 第二回会合がいつ開かれたのか、大毎の記事には記されていないのですが、不木宛乱歩書簡と照合すると5月17日であったと知ることができます。 大毎の記事は『探偵小説四十年』にも引用されているのですが、乱歩は引用文に平気で手を加えるくせがありますので、あえて原文を引いてみました。 気がかりが二点。 乱歩はこの会合で披露した創作をふくらませてこの年12月の「映画と探偵」創刊号に「接吻」を発表しています。 ならば「接吻」の題材はこの第二回会合のときになんとかかんとかといった回想があってもいいように思われるのですが、そんなものはどこにも見あたりません。 もしかしたら乱歩はそのことをすっかり忘れていて、「探偵小説三十年」執筆に際して大毎の記事に眼を通したあとでもなおそれに気がつかなかった、といったことなのかもしれません。 大正14年や15年あたりのこととなると、乱歩はなかば他人の自伝を書いているようなもどかしさをおぼえつつ筆を進めていたのではなかったか。 私にはどうもそんなふうに思われてきました。 それが気がかりの一点目。 つまり乱歩の記憶の曖昧さがいよいよ気になってきたということと、もうひとつの気がかりは先日もふれた読者の注意喚起という問題です。 「花嫁が抱いてゐた写真をどこへしまふかと思つてふすまの孔から見たのが、鏡に映つたものを見てゐたゝめにたんすのひきだしを間違へてトンデもない悲劇を起す」という文章を読んで「接吻」を連想するのは乱歩の読者ならあたりまえのことで、そんなことをいちいち年譜編纂者が書き記す必要はないであろうとは思うのですが、インターネット上の「」においては乱歩のことをよく知らない閲覧者に対してもっと親切であるべきだという気もいたします。 さあどうするの、というのが気がかりの二点目です。 名張市からプレゼントのお知らせです 本日はお知らせ一件。 名張市のオフィシャルサイトに「名張を舞台にしたミステリ『北斗七星の迷宮』を無料でおわけします」という告知が掲載されております。 SR の会のみなさんには懐かしく思い出していただけるでしょうか。 乱歩生誕百年に沸いた1994年、名張市で開催された「ミステリー夢舞台・名張」。 乱歩賞作家の石井敏弘さんが名張を舞台に書きおろしたミステリ小説を読み、名張のまちなかを歩いて謎を解こうという催しがあったみたいなのですけれど、その『北斗七星の迷宮』を無料でプレゼントいたします(郵送代は負担してね)、という太っ腹な企画です。 「北斗七星の迷宮」が大幅に改稿され、「うつし世は悪夢」と改題されて、今月中旬にふくろう出版から刊行される『ノー・ソリューション』に収録されるのを機に企画されたプレゼントらしいのですが、そういえば私は「」(4月26日付アメーバニュース)というニュースも眼にしておりました。 詳細は名張市のページからふくろう出版のオフィシャルサイトへジャンプしてご確認ください。 どうして名張市が提灯持ちををしなければならんのか、いささか理解に苦しまないでもありませんけど、探偵小説の興隆を願ってというような高邁な理念でもあるのかな。 「はじめに」によれば、「物語の不十分さや過ちを指摘したり、または、物語が包含するちょっとした謎を解明したり、あるいは、新たな結末を付記したりする」一冊。 タイトルにはきのうとりあげた goo ランキング「じっくり読みたい、日本を代表する近代作家ランキング」ベストファイブのうち太宰治をのぞく四作家があげられていますが、ほかにも雨月物語や南総里見八犬伝、ミステリ作品では「獄門島」「占星術殺人事件」「誰もがポーを愛していた」「五十円玉二十枚の謎」といったあたりが俎上に載せられています。 乱歩作品ではD坂と屋根裏が登場するのですが、フラグメントは「明智小五郎の犯罪(D坂の殺人事件の顛末)」から引用。 タイトルから知れるとおり明智はこの事件で犯罪を犯していたというのが著者の説くところで、ネタバレにならない程度に引きましょう。 ところが、物語では、明智の言うとおりに蕎麦屋の主人が犯行を認め自首したということで物語の結末がつけられている。 このことを理解するには、明智が説明した一部分、蕎麦屋の主人と古本屋の女房が男女の関係にあり、蕎麦屋の主人が古本屋の女房を殺したと思ってしまうような状況も起こっていたと解釈すべきだろう。 けれど、スイッチの件や、目撃者の証言をあわせ考えれば、その現場に、明智も行ったのだ。 著者の分析と考察を知りたいとおっしゃる方はお買い求めまたはお立ち読みをどうぞ。 本体千と二百円。 ある山中における重大で特異な数日間の記憶 しかし川口というのもいい加減な男ではないか。 川口ってのは川口松太郎のことなんですけど、大正14年の「苦楽」10月号に堂々と事実誤認を記しておる。 それが乱歩の誤認のもとになっている。 困ったやつだ。 江戸川乱歩君が名古屋の小酒井不木氏をお訪ねすると云ふ好い道連れが出来て、暑い盛りの八月のある日、僕たちは梅田発の三等特急へ乗つた。 これが「苦楽」10月号に掲載された松太郎の「名古屋の会」という記事の書き出し。 と『探偵小説四十年』に記しているのですが、これがまちがいです。 松太郎と乱歩が不木を訪ねたのは8月ではなくて7月24日のことでした。 『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の7月25日付乱歩書簡でそれが確認できます。 乱歩の場合はしかたあるまい。 二十五年も前のことを思い出しながら「探偵小説三十年」をつづっていたのだから、7月だったか8月だったかそんなことがわかろうはずはなく、手許に残っている当時の資料を信じるしかないのである。 しかし松太郎はどうよ。 「名古屋の会」の原稿を書いたのは名古屋を訪れてから一か月もたってないころのことであったと推測されるのだが、それで7月と8月をまちがえるか。 まちがえるかもしれんな。 人の記憶なんてまったくあてにならないものだということが、『探偵小説四十年』を鬼のごとき実証主義者の眼で読んでゆくとよくわかるというそれ以前に、自身の日常をふり返っても記憶というものの頼りなさ恃み甲斐のなさは私にはたいへんよく理解できる。 しかし『探偵小説四十年』にはくっきりとした輪郭をもって回想されている場面もあって、大正14年のことでいえば「父の死」にこんなシーンがあります。 三重県関町あたりの山中で療養していた父親を訪ねたときの描写です。 母は父につき添って、その一軒の小屋を借り、自炊をして、二人きりで、二三カ月暮らしていたように記憶する。 すぐ前の渓流が、いつもすがすがしい音を立てていた。 鶯の声も聞えた。 上流には、翠巒が重畳し、白い小みちの砂は、しっとりと沈んで、ひいやりとした山気が立ちこめていた。 まるで別荘住いのようなものであった。 渓流のせせらぎ、鶯のさえずり、緑なして幾重にもつらなる山々、踏みしめれば少しだけ沈む砂地の小道、身を押し包んでくるような冷たい山気。 そういったディテールが鮮明に描かれているのは、死とむきあっている父親を山中に訪ねるという、いってみれば人生における重大な、そしてこの場合はかなり特異な数日間が乱歩の記憶に深く刻まれていたからにほかならないでしょう。 記憶そのものが歪曲されている可能性も少なからずありますが、乱歩はこの山中の光景をきわめて印象深いものとして明瞭に想起することができたのだと思われます。 「」の大正14年度に日々ぼちぼちと掲載しているフラグメントから判断いたしますに、父親の繁男が三重県の山中で療養生活に入ったのは4月上旬、たぶん6日か7日のことで、乱歩がはじめてそれを見舞ったのが4月下旬、あるいは中旬か。 6月には6日に探偵趣味の会の第三回会合が開かれますが、そのあと乱歩はふたたび父のもとを訪れます。 どうしても延ばすことが出来なかった。 しかし、父のところから帰ってから書くのでは、「新青年」の締切に間に合わない。 私は仕方がないので、書きかけの原稿を持って山へ旅立った。 そして、父の病室の隣りの部屋で、机もないので、赤茶けた古畳の上に腹這いながら、「屋根裏」の終りの方を書き上げ、大いそぎで、山の下の町から郵送した。 「山の中の父のところへ行かなければならぬ用件」というのは何であったか。 繁男に坐椅子をもっていったのではないかと思われます。 繁男が乱歩に宛てた6月4日付書簡が『貼雑年譜』にスクラップされているのですが、そのなかで繁男は背もたれの角度を変えられる坐椅子が欲しいと訴えている。 病状がいよいよ悪くなったとも書いてある。 乱歩は一日も早く繁男の願いを叶えてやりたいと思ったはずで、坐椅子と原稿を携えて三重県鈴鹿郡坂下村、現在の亀山市関町坂下にむかったのではなかったか。 神戸文学館で5月3日開幕した企画展「探偵小説発祥の地 神戸」のパンフレットに掲載されました。 冒頭の段落から引いてみます。 神戸は日本のミステリーが産声をあげた土地といってよいだろう。 モダン好みの雑誌『新青年』は大正九年に創刊されていた。 もちろん発行所は東京である。 海外に目をむけている青年層を読者に想定した雑誌であった。 そのころ大阪の守口にいた江戸川乱歩は、同好の士と連絡をとりたいと思って、『新青年』の編集長の森下雨村に手紙をかいた。 森下はそれにたいして、神戸在住の西田政治と横溝正史の住所をしらせたのである。 まあこういった感じです。 誕生の日も場所もちゃんとわかっている。 といったことになるのですが、多くを語ることはいたしますまい。 そんなことより早く「」を完成させて本にしなくっちゃ。 しかし大仕事だぞ実際。 ここでお知らせ一件。 神戸文学館で6月2日、神戸探偵小説愛好會の野村恒彦さんによる講演「昭和50年代の横溝正史ブームを再検証する」が行われます。 開演は午後2時。 聴講無料。 詳細は神戸文学館オフィシャルサイトでどうぞ。 ある山中における「屋根裏の散歩者」擱筆の日 ではここで大正14年6月、乱歩が「屋根裏の散歩者」の原稿を携えて三重県鈴鹿郡坂下村の父親のもとを訪ねたときのスケジュールを推測してみます。 坂下村滞在がもっとも長かった場合を考えます。 父を訪ねた山中行のスケジュール 6月 04日 繁男、乱歩に手紙で病状を報告、坐椅子が必要なことを伝える。 6月 05日 乱歩、繁男の書簡を落掌か。 6月 06日 乱歩、探偵趣味の会第三回会合に出席。 6月 07日 乱歩、坂下村を訪れるか。 6月 08日 6月 09日 6月10日 6月11日 乱歩、「屋根裏の散歩者」の原稿を発送か。 同時に不木宛の葉書を投函か。 6月12日 不木、坂下村から出された乱歩の葉書に返事を出す。 宛先は守口町の住居。 6月13日 乱歩、父母とともに守口町へ帰る。 滞在がもっとも長かった場合、乱歩は6月7日に坂下村に入り、13日に守口の住まいへ帰宅したということになります。 帰宅の日は確定ということでいいと思われます。 『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の6月15日付乱歩書簡でそれが確認されます。 ここで『子不語の夢』についてひとこと。 87から p. 91にかけて「〇三七 乱歩書簡 六月十五日 封筒便箋6枚」が収録されているのですが、p. 88の九行目にこうあります。 一昨日父を伴つて山中へ参りました。 そして先生の御はがき拝見致しました。 しかしこれ、正しくはこう読むべきかと判断されます。 一昨日父を伴つてこちらへ参りました。 そして先生の御はがき拝見致しました。 「山中」ではなくて「こちら」が正しいのではないか。 つまり『子不語の夢』の翻刻テキストは誤りだと思われます。 とはいえ私は書簡翻刻スタッフを責めているわけではまったくなく、読めない字なんてごろごろあってあたりまえなのであるから、そんなことで非難してくるやつがいるのならいくらでも相手になってさしあげましょう。 むしろ私は『子不語の夢』の編集段階で、判読困難な文字があったときにはそれを脚註で明示する、つまりこの場合には「山中」という語に「この字をなんと読めばいいのかじつはよくわかりません。 とりあえず『山中』と読んでおくことにいたしました。 どんな字なんだかは附属の CD-ROM で書面を直接確認してたもれ」といったような脚註を附してはどうかという提案を思いつけなかった自分を責めたい。 そうすりゃ翻刻スタッフの精神的負担を軽減することができたであろうものをと、スタッフ各位に心のなかで詫びを入れながら、むろん『子不語の夢』をお買い求めくださったみなさんにもひそかにお詫びを申しあげつつ話を進めます。 それでこの6月15日付乱歩書簡、「一昨日父を伴つて山中へ参りました」ではおかしいわけです。 意味が通りません。 もともと山中にいた繁男をそれ以上どこの山中へ連れてゆくというのか。 そしてその山中になぜ不木の葉書が届いていたのか。 それで CD-ROM を確認してみたところ、「山中」ではなくてどうやら「こちら」らしいなということが判明いたしました。 「こちら」とはむろん守口町外島六九四番地。 15日付書簡で「一昨日父を伴つてこちらへ参りました」というのですから、乱歩が両親とともに守口に帰ったのは13日のことであったはずです。 6月12日、不木は坂下村から届いた乱歩の葉書に返事を出しています。 乱歩が「先生の御はがき拝見致しました」というのはこの返信のことで、たぶん不木のことですから乱歩の葉書が届いたその日のうちに返事を書いたものと思われます。 乱歩がその葉書を出したのは11日のことであったと仮定してみましょう。 『探偵小説四十年』には「屋根裏の散歩者」を書きあげたあと「大いそぎで、山の下の町から郵送した」とありますから(むろん乱歩のこの記憶があてにならないという可能性もありますけど)、このとき不木宛の葉書も同時に投函された可能性が高い。 つまり「屋根裏の散歩者」の擱筆は6月11日のことではなかったかというひとつの推測が成立することになります。 そういう惶しい書き方をしたのと、あの山の中のすがすがしい、しかし絶望的な空気が、私に強い印象を残したものであろう。 絶望的な空気、と乱歩は書いています。 乱歩は繁男が滞在していたあやしげな療養先で、そこの主宰者である行者みたいな人物と話し合いもしたことでしょう。 『子不語の夢』の6月19日付乱歩書簡には「父は関の方でも見はなされまして」と記されていますから、その行者からもう治る見込みはないといったことを伝えられたのかもしれません。 まさに絶望的。 これまでは「絶望的な空気」という類型的表現をすらすら読み流していた私ですけれど、こうして眼光紙背に徹する実証主義者の眼で『探偵小説四十年』と『子不語の夢』とを読んでみますと、乱歩が訪れた山中は文字どおり絶望的な空気のなかに封じ込められていたということが実感され、こちらまでなんだか暗澹悄然としてしまいます。 これではまるで伊藤整の「生物祭」ではないか、と思った私は書棚からすっかり変色した新潮文庫『イカルス失墜』を引っ張り出してきました。 「生物祭」の結びの段落を引いてみましょう。 「峰子に電報を打っておいで」とその日の午後、医者の帰ったあとで母が私に言った。 程近い町に嫁いでいる姉のところへ、私は郵便局で電報を書いていた。 「チチキトクスグコイ」それが全く無意味な片仮名の一列であるように局員に受け取られると私は外へ出て周囲の真蒼な山々を眺めた。 処々に白と赤の花をつけて、遅い春の緑が、この町の周囲を一面に埋めていた。 それの吐き出す息づまるような酸素が谷底の町のほうへ重々しく停滞して、それに耐えぬものは死なねばならないようであった。 『探偵小説四十年』に見える山中の描写はずいぶん冷ややかでどこか神韻渺々といった印象がありますが、6月もなかばの三重県の山中となると実際にはまさしく生物祭、植物から禽獣から微生物のようなものにいたるまで、それはもうおびただしい生命が貪婪なまでにあふれ返っていたことでしょう。 山からおりて関の町の郵便局で原稿を発送したあと、乱歩もまた青々と息づくような山々を眺め、明るく輝く6月の空を仰いで(むろん雨の日だった可能性もあるのですが、私のなかの詩人が大正14年6月11日の関の空はまぶしいほどに晴れていたと私に告げるわけです)、祭典のような生の横溢に包まれているがゆえに死なねばならぬ者とそれを見守る者との絶望の深さをつくづくと思い知らされたのかもしれません。 前登志夫さんの歌ですけど。 詩っていうのはまあこういうものですけど。 ここらで話題を変えましょう。 いよいよ来週に迫った「その時歴史が動いた」の乱歩篇は、NHK オフィシャルサイトの予告ページも動いて乱歩の写真が登場しました。 ここで名張市民のみなさんに残念なお知らせです。 どうぞお見逃しなく。 と記した次第でしたが、二日ほど前に NHK スタッフのお姉さんから電話で連絡があり、名張での取材分は尺の都合で放映できなくなった、つまり5月16日放送の「その時歴史が動いた」には名張はちらっとも映らないことになったとのお知らせをいただきました。 名張市民のみなさんにはなんだか残念なことになってしまいましたが、まあいたしかたないでしょう。 私はいいんです。 名張市内をちょっと案内するだけで NHK のロゴが入った有田焼製ステープラーを頂戴し、有田焼だけにやや重量もあってペーパーウエイトとしても重宝しておりますので、名張が映ろうが映るまいがそんなこたどうだってかまわない。 それにまあ乱歩と名張とはそもそもほとんど無縁なわけですから、「その時歴史が動いた」の乱歩篇に名張が出てこないのはあたりまえっちゃあたりまえ。 そんなぐあいにご理解いただければ幸甚です。 名張市民のみなさんにお知らせといえば、名張市に対して過日提出した公文書公開請求の第一陣をきのう市役所でもらってきたのですけれど、くわしいことはまたいずれ。 古本屋さんに注文してあった『タルホ事典』が届きました。 『乱歩文献データブック』をつくったときには「E氏との一夕」がこの本に収録されていることを押さえてあったのですが、『江戸川乱歩著書目録』編纂時には『タルホ事典』のことをきれいに失念しておりました。 なんともお恥ずかしい。 しかし困った。 フラグメントとしてどこから何を引けばいいのか。 えーい、こうしてやる。 『タルホ事典』には足穂夫人のエッセイも収録されているのですがその一篇、お酒を飲んだ足穂の酒仙惑乱ぶりを夫人が冷静かつユーモラスに、愚かであることへの尽きせぬいとおしさをこめてつづったエッセイの一篇から、ほんとはもう少し引けばいいのですけれど時間がなくなってきましたので結びだけ引用。 足穂夫人と長い泥酔からようやくしらふに戻った足穂との会話です。 酒を呪う.

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初のアニメ監督に挑んだ岩井俊二が語る、トライ&エラーの楽しさ

六月あつ森魚

この際会議時間の延長をいたしておきます。 議事の都合により暫時休憩いたします。 まず議事部長をして諸般の報告をいたさせます。 昭和三十五年六月二十四日 提出者 三十三番 嶋 田 繁 正 東京都議会議長 内 田 道 治殿 質 問 事 項 一、昭和三十五年度水道事業会計歳入について 第二百七十一号議案中歳入について 本案中歳入二十五億円が見込まれているが、この歳入については先に設立された新宿副都心公社との関連ありと思われる。 即ち歳入の二十五億円附記に淀橋浄水場移転事業に伴う収入金とあるが、この点についてお尋ねしたい。 イ、何故淀橋浄水場移転事業と認定したのか、この理由を明らかにして頂きたい。 事業とは一定の目的と計画とに基き経営する経済活動である。 従つて移転事業だけでは収入は無いはずである。 跡地処分をしてのみ収入の見込がたつのであり、言うならば、歳入種目の大きなあやまちではないかと思う。 この問題は過ぐる委員会において自民党の修正による予約契約行為の削除による欠陥と思われる。 予約あつてはじめて予約による歳人見込みでないかと思う。 ロ、建設委員会における説明中、企業体の財産を公用廃止後、普通財産に移すとのことであるが、(右の覚書の件による。 )歳入におけるこの手続きが行われず、直接になつているが、この点はどうか。 一般会計に入れて後、繰出金とするが妥当ではないか。 ハ、修正(要綱)をしたのに対して行政上の立場からみて、知事はなんら意志を表示してないが(局長は知事の意があるとのことであつた。 )この問題は法規上からみて不当と思わなかつたか。 予約契約があつてはじめて要綱の趣旨が生かされるのではないか。 即ち、自民党の無暴な修正と思われる。 以上を簡単に質問いたします。 右解答を今会期最終日まてにお願いいたします。 ………………………………… 嶋田繁正議員の文書質問に対する答弁書 昭和三十五年六月二十九日 東京都知事 東 龍 太 郎 イ、淀橋浄水場移転に必要な経費は、去る三月三十一日都議会の議決を経た新宿副都心建設に関する基本方針第五項により公社から支払いをうけることとされているので、淀橋浄水場移転事業に伴う収入として経理するものである。 なお、跡地処分の関係は、別途工事完了後に行われるものである。 ロ、公用廃止によつて普通財産に編入された場合においてもその財産は水道特別会計所属の財産であり、また、公用廃止の時期は移転事業完了後のことである。 したがつて、移転事業に伴う収入は直接水道特別会計に収入することとした。 ハ、都議会の修正は適法に行われたものであり、都知事としては、修正議決の内容に従つて執行の任に当るものである。 (以下省略) (注)監査実施団体は次の9団体である。 常任委員選任、東京都市計画地方審議会委員外一件の選挙、臨時出納検査立会議員互選、さらに知事より提出の東京都委員任命の同意について二件、東京都監査委員選任の同意について四件、東京都出納長選任の同意について及び第三百十五号議案警察参考人等に対する費用弁償に関する条例の一部を改正する条例並びに議員より提出の議員提出議案第十号東京都議会委員会条例の一部を改正する条例、議員提出議案第十一号監査委員の定数増員に関する意見書外一件、及び委員会より提出の請願陳情審査報告をあわせて本日の日程に追加いたします。 日程第一より第五十六までを一括して議題に供します。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年六月二十八日 総務広報渉外委員長 樋 口 亀 吉 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 首都交通対策審議会条例の一部を次のように改める。 第三条中「二十五人以内」を「二十八人以内」に、「十一人以内」を「十二人以内」に、「五人」を「七人」に改める。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 よつて本案はいずれも委員会審査報告通り決定いたしました。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 よつてただいまの動議は起立によつて採決いたします。 本動議に賛成の方はご起立を願います。 よつて本案はいずれも委員会審査報告通り決定いたしました。 追加日程第一及び第二を一括して議題に供します。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 総務広報渉外委員長 樋 口 亀 吉 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 都の任用制度の建前から、貴請願の趣旨には副い難い。 右報告する。 昭和三十五年三月二十五日 財務主税委員長 柳 田 豊 茂 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 5、都財政の現状より困難である。 11、諸種の事情により現段階では廃止できない。 右報告する。 昭和三十五年五月三十日 財務主税委員長 柳 田 豊 茂 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 昭和三十三年度(評価基準年度)における評価以来、地価はむしろ漸騰の傾向にある。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、三十五年度事業はすでに決定しているので趣旨には添い得ない。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分……多摩地区に都立工業高校の増設の件 不採択分…多摩地区に都立公会堂建設の件 理由 都財政の現況上直ちに実施することは困難である。 将来において検討いたしたい。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、地域的及び当該土地利用の関係から請願箇所に設置することは困難である。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 警備員の増員の件 不採択分 三多摩地区警備員制度の件 (理由) 宿日直制を警備員制度に変えることは、都の権限ではない。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、他に急施を要するものがあり、都財政の現況において早急実施は困難である。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、設置区域及び新設については別として、学級増等の措置により御趣旨に副うよう努力する。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 すしづめ学級の解消について 一、意見付採択分 高校全員入学制について (意見) 私立学校との関係及び都財政の現況上実施は困難であるが、入学難の緩和については趣旨に添うよう努力する。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、三十五年度以降の児童数漸減の傾向に鑑み空室の利用が可能である。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、本件については一般都職員との均衡もあるので趣旨には添い難い。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、都財政の現況上早急実施は困難である。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、高校新設及び設置区域は別として学級増の措置により御趣旨に添うよう努力する。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、請願の趣旨は了とするも、三十五年度において実施することは出来ない将来において考慮いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、住宅内道路については、将来の建てかえ計画もあるので区道編入は出来ない。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、三多摩地区の措置費不足額及び職員の超勤手当についての都費支弁は措置権者の関係において困難である。 社会福祉事業振興資金貸与については将来において検討いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、見舞金については制度上困難であるが、見舞品については将来考慮いたしたい。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、趣旨は了とするので三十五年度予算において考慮したい。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、治療費七割給付については、世帯主七割ですでに実施済である。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、将来において実情に鑑み検討いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、都財政の現況上、早急に趣旨に副い得ない。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、都財政の現況上実現は困難である。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、現行法の下では、区移管は出来ない。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、現行法上、現金の支給は出来ない。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、回復者住宅の建設等については現在のところ実施の考えはない。 巡回映画の援助については、外郭団体を作る考えはない。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 国民健康保険料及び一部負担金の減免措置並びにに対する保証の件 一、不採択分 国民健康保険の十割給付の件。 (理由) 都財政の現況上早急実施は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、都財政の現況及び現行法上実施は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 新入学児童の被服の支給 一、不採択分 生活保護に関する件 (理由) 本件については法の改正を必要とするもので、都独自で実施することは出来ない。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、生活保護基準引上げ、健康保険給付内容等については、現行法上実施出来ない。 回復者の住宅割当については、都財政及び都民全体の困窮度から現在以上に優先割当をすることは困難である。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、巡回映画に関して外郭団体を作る考えはない。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、盆の見舞金の支給及び予算隻ついては、都財政の現況から困難である。 住宅優先割当については、都財政の現況及び一般都民の困窮度から現在以上は困難である。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、盆暮の見舞金の支給は都財政の現況上実施は困難である。 住宅優先割当は都財政の現況及び一般都民の困窮度から現在以上は困難である。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、請願の趣旨は了とするも、設置箇所については今後なお検討いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 特殊学級の設置の件 一、不採択分 養護教諭の増員と定数の確立の件 (理由) 都財政の現況上早急実現は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、趣旨は了とするので都財政を勘案しその実現に努力いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 特殊学級の設置の件 一、不採択分 養護教諭の増員と定数の確立の件 (理由) 都財政の現況上早急実現は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、へき地手当はすでに増額しているが、島嶼在勤手当とへき地手当を併給することは現在のところ出来ない。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 校地拡張の件 一、不採択分 改築の件 (理由) 都財政の現況上、早急実施は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 養護学級設置について 一、不採択分 都立養護教諭養成機関の設置について (理由) 教員養成については国で設置するのが建前であり、都で実施する考えは現在のところない。 養護教諭に保健料免許状の交付の件 (理由) 現行法上その実施は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、諸般の事情にかんがみ、今直ちに請願どおりに措置することは困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 入学せしめる都の基本方針の確立とその周知徹底化の件及び特殊科目の減免の件 一、不採択分 ブロツク毎の特殊学級の急設 (理由) 本件実施に当つては今後更に検討を要するので、現在のところ実施することは出来ない。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、都財政の現況上早急実施は困難であるが、将来において考慮いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、本件については、学校保健担当指導主事設置の実現に努力いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 1 生活保護基準額の二倍引上げ 2 勤労控除の三、〇〇〇円引上げ 3 期末手当の差引きの中止 4 期末扶助の新設と予算化 5 生活保護家族子弟の高校進学を認めること 6 生活保護の入院者生活費の一、〇〇〇円引上げ 7 生活保護の入退院の基準の撤廃 8 ケースワーカーの増員と予算増額 9 政管健保の内容改善 10 制限診療撤廃、新薬の使用 11 一部負担金の免除、保険料の減免規定の明確化と予算化 12 待期期間をなくし直ちに日雇健保を適用すること。 13 療養給付期間を転帰までとすること。 14 現行三割の国庫負担金の増額 15 傷病手当金、の給付期間を一般健保なみに延長すること。 16 被扶養者の療養給付率を七割に引上げ 17 三福祉年金の枠の拡大と、適格基準の大巾緩和 18 事務手続の簡素化 19 保育園の増設、予算化 20 低所得者貧困者の子弟の教科書代、修学旅行費、給食費の保陣 一、不採択分 1 の増設 (理由)今後慎重な検討を要するので、早急に実施することはできない。 2 福祉行政をすみやかに区に移管すること (理由)福祉行政全般についての区移管は慎重な検討を要するので、早急に実施することはできない。 3 組合健保の入院料、初診料の撤廃、家族七割給付について (理由)前段については現行法上困難であり、後段については組合の問題である。 4 一般健保の期間を転帰までとすること。 (理由)現行法上できない。 5 被保険者本人十割家族七割給付の実現について (理由)都財政の現況上早急実施は困難である。 6 国庫負担率を五割とすること。 (理由)当面においては実現は困難である。 7 傷病手当金の給付について (理由)被保険者の収入認定が困難であること等により、実現できない。 8 国民年金協力委員の公選制について (理由)現在のところいまだ具体的設置の段階ではない。 9 拠出制年金をやめろこと。 (理由)現行法上困難である。 右報告する。 昭和三十五年四月二十日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、整備所の事業内容の大部分は図書館事務と重複するので、独立施設として設置することは適当でない。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 条例制定は、清掃法との関係上、早急に実現することは、困難と思はれるが、残査物が増加しつつある現状に鑑み法改正に努力されたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 し尿浄化槽については、これが指導監督並びにその維持管理の徹底を期すると共に、法改正後においては浄化槽残査物の清掃についても、漸次直営化に努力されたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 緑地外にまたがる場合等もあるので、技術的な面は十分検討し、請願の趣旨にそうよう努力されたい。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 条例の制定は、現行関係法令との関係上、早急に実現することは、困難と思はれるが、理事者は請願の主旨に副うべく、努力されたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 補助金を交付することは現在のところ困難と思われるが、請願者の属する団体を調査検討し、善処されたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 住民の環境衛生向上のため、当該地域に清掃襲務所分室を建設することは、妥当なものと思はれる。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 歯科行政の充実を図る趣旨について考慮されたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 公衆浴場入浴料金の改訂については、昨年十一月末、組合より都に対し申請があり、都はこれが低額所得層に及ぼす影響を重視して慎重に検討し、四月下旬に浴場約五百ヶ所の実態調査を行つた結果、公衆浴場の経営は、前回三十二年の現行価格改訂当時に比し、人件費、修繕費、償却費、その他において相当の支出増が見られ、これに対し浴客数は前回より僅か九名増(五五八人-五六七人)にとどまり、経営に相当の困難が認められ都においては、大人、中人、小人各一円値上(大人十七円、中人十三円、小人七円)ということに決定した。 本委員会においては、慎重検討の上、これを適当とみとめたので本請願の趣旨に副うことができない。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 小零細業者のための金融機関の必要要については異論はないが、これについては、現在信用組合、信用金庫等の金融機関があり、更に御趣旨のような金融機関を創立することは、各種の面で検討を要し、又都民銀行設立の経緯に鑑み、且つ、大蔵省の認可を得ることも困難と認められるので、請願の趣旨に副うことができない。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七口 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 十億円の増額は現在のところ困難と思われるが、趣旨にそうよう努力されたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 厚生省の方針として、都立病院の作業療法を認められていないので、再開は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 採択の分……結核予防法による命令入院の予算の増額 不採択の分…都立府中病院の作業療法再開 理由 厚生省の方針として、都立病院の作業療法を認められていないので、再開は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 採択の分……結核予防法の命令入院予算を増額すること。 不採択の分…都立府中病院の作業療法を再開すること。 理由 厚生省の方針として都立病院の作業療法を認められていないので再開は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 採択の分……結核予防法の命令入院の予算を増加すること。 不採択の分…都立府中病院の作業療法を再開すること。 理由 厚生省の方針として、都立病院の作業療法を認められていないので、再開は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 について、法律が施行になつていないし、又用地のあつせんは都としては不可能である。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年六月二十八日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 現在における市場施設の収容能力および仲買人の適正規模経営の両面から勘案し、当面願意にそいがたい。 しかし既存仲買入の権利を温存するが如きことのないよう、充分配意し、また将来施設の拡充等の場合においては、一般公募により適正な措置を講ずべきである。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本請願の地区は、現状では商業地域に変更することは適当でない。 しかし防災上の見地より準防火地域に指定することが適当と思はれる。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件は、路線系統が悪く、かつ都道府県の認定基準に合致しないので請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (意見) 一、本件は、趣旨に沿うよう極力努力すべきである。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本区域は、工事完了済区域との関連上、施行地区から除外することは困難である。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件区域は、区内屈指の住居環境の良好なる地域であり、本地区を第八種空地地区に変更することは、住居環境の悪化をまねくおそれがあるので請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、明治公園の施設の利用と機能の活用の上から、本件区域は必要であつて、変更することは困難であるから請願の警日に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、現状では、無秩序な市街地化のおそれがあるので請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、現在の交通事情にかんがみ請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、背山霊園は、都市公園とするため、昭和三十一年都市計画の決定をした地区であり、又公園整備計画の一環としても公園事業の執行が予定されているので請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (意見) 一、築地川の南支川が免許を受け埋立を施行する場合においては、本建設労働委員会において十分審査すべきである。 右報告する。 昭和三十五年四月二十二日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 第二項、第三項、第四項、第五項、第六項、第七項、第八項及び第九項はいづれも国の所管であるので不採択とする。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年四月二十二日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 採択の分……第一項、第三項、第四項前段三十五時間訓練の経費軽減について及び第五項 不採択の分…第二項、第四項後段職業訓練指導員の資格の付与について及び第六項 理由 現行法上請願の趣旨に沿い難い。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年四月二十二日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 本件は、街路整備計画十ヶ年計画に計上されており、請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、特定の個人に払下げることは条例により困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、第六項は首都高速道路についてはすでに都市計画事業の決定をみているので請願の趣旨に沿いがたい。 一、第七項、第二〇項及び第一二項はいずれも国の所管であるから不採択とする。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、第三項水元水門の設備拡張工事の昭和三十四年度完成については水防上の観点及び地形的に巾川水域に排水場を設置すべきであるから請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、当該附近の交通の円滑を図るため葵橋から千駄谷橋の区間は道路敷として利用するのが適当であるので請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件地域は道路の状況及び住宅、商業の混合状況から商業地域に変更することは適当でない。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 採択の分……第一項 意見 一、遊休地の買収は強制出来ないので減歩を一割以下にすることは不可能であるが、極力遊休の土地の買収に努力して減歩を少なくすべきである。 不採択の分……第二項 理由 土地事業により公共施設を造成する場合には宅地に対して換地を交付することが原則である。 ……第三項 理由 都市計画で決定したので変更は困難である。 ……第四項 理由 負担の均衡から困難である。 ……第五項 理由 は追い立てるということはなく、現在のままで占有権の移転を行うものであるから困難である。 ……第六項 理由 補償は、東京都が定めた補償基準にもとずき本人の申告その他客観的資料を参考として適当な補償する。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、すでに事業執行中であり現状では本計画の変更は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (意見) 一、本件地域は、商店と住宅の混合工合及び道路の整備状況からその中の路線沿いの一部又梅屋敷の駅の接続する一部については商業地域に変更することが適当である。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、東中野駅前広場及びそれに接続する連絡街路の事業を実施中であるから請願の趣旨に沿い難い。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件箇所はすでに港区役所で三田民生事務所を建て公用に使用しているので請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件地域は、住宅の環境を犠牲にして準工業地域に変更することは適当でない。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本地域は、都市計画公園であり、すでに土地は公園用財産であるから請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、線形の変更は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、現在非常に舟航は少なくなつたが、地元の利用者も残存しており現段階ではこれが狸立は不適当である。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件地域は、都市計画公園に指定し、都市計画事業決定したので請願の趣旨に沿いがたい。 しかし公園施設の内容については極力地元住民の利便になるような施設を設けたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件区域は収束計画によりその区域をはづしてしまつている現状では請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件地区は、現状では都がを実施することは困難であるので土地組合を設置して施行することが適当と思はれる。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、将来の道路交通量から計画線の変更は困難である。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、すでに解決済みである。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、完全就労及び月間二十五日間就労は都財政の現況上から困難である。 一、年未、夏期各手当の支給は困難である。 一、応急、就職各資金の適用は現行条例上困難である。 就職資金の適用については今後検討すべきである。 一、賃金の増額及び交通費の支給……賃金については去る四月一日より賃上げを実施したが交通費の支給は現状では困難である。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、技能検定は国の所管であり現在実施中であるから請願の趣旨に沿い難い。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件街路は、日常生活圏の利用上計画した街路であるから計画を変更することは困難である。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (意見) 一、本件地区のは、原案を修正して関係当事者の同意を得るよう努力すべきである。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件街路事業は現在の計画が最も適当であるので、請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、現状では請願の趣旨に沿うことは困難である。 しかしこの中で局部的な問題については可及的速やかに処理したい。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 採択の分……第二項、残余面積がある場合は駐車場スペースとして確保について 不採択の分…第一項、高速道路既設路面部を駐車場地域として復活されたい。 (理由) 現在運行中の高速道路は自動車運送法にもとづく道路で車道部分を駐車場として使用することは道路としての利用価値を減殺されるので不採択とする。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (意見) 一、都財政の現況より早急実施は困難であるが、その趣旨に沿うよう努力すべきである。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、請願の趣旨に沿い難い。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、すでに解決済みである。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、すでに解決済みである。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件は手当の支給は困難であるので、就労日数の増加により措置したものであるから不採択とする。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (意見) 一、請願の趣旨に沿うよう努力すべきである。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、の一部を改正する法律及びじん肺法が四月一日より施行され、けい肺及び脊髄障害等の長期療養を必要とする業務費の災害に対する保護は改善されているので不採択とする。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、身体障害者雇用促進法の成立により措置される問題と思料されるので、条例の制定化については不採択とする。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件街路は、日常生活圏の利用上計画した街路であるから計画を変更することは困難である。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件は四月一日より従来の三百六十二円を三百七十円に引上げ実施している。 右報告する。 昭和三十五年六月二十七日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (意見) 一、金額等については充分検討を要するが、夏季対策を講ずべきである。 右報告する。 昭和三十五年六月二十七日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (意見) 一、金額等については充分検討を要するが、夏季対策を講ずべきである。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 建築港湾委員長 水 戸 三 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、本件は吸込ますの増設により御趣旨に副うことにいたしたい。 なお恒久的排水施設については今後研究いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 建築港湾委員長 水 戸 三 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、当敷地買収後は不燃住宅建設の予定であるから不採択とする。 但し、日照その他については充分配慮いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月十六日 建築港湾委員長 水 戸 三 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、本件は建築基準法上適法であるので、請願の趣旨には沿い難い。 なお工事施工については行政指導を通じ充分監督いたさせたい。 右報告する。 昭和三十五年六月十一日 建築港湾委員長 水 戸 三 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、本件工場は、法律上その建設を制限することができない。 右報告する。 昭和三十五年五月十六日 建築港湾委員長 水 戸 三 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、本件は適法なる建築であり、御趣旨に副うことはできない。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月十六日 建築港湾委員長 水 戸 三 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 いかだのけい留については、現状では河川にけい留せざるを得ない状態であるが、御趣旨に副い危険地域を避け、又結柵を強固にする等万全の措置を講じたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十四日 交通水道委員長 万 田 勇 助 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 都財政の現況に鑑み、請願の趣旨にはそいえない。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月二十四日 交通水道委員長 万 田 勇 助 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 請願の地点の道路事情からみて安全地帯の設置は関係行政官庁が認めず、また安全地帯を伴わない停留所を設置することは、都内交通事悟から乗客に危険を及ぼす虞れが多いので請願の趣旨にはそえない。 右報告する。 昭和三十五年五月二十四日 交通水道委員長 万 田 勇 助 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 鉄道構内における売店は国鉄は勿論、私鉄、営団等においても、その退職者をもつて組織する団体が営業しており交通局にもこれらの団体と同じ性格を有する交通局協力会があり、なお協力会の道路上のボックス式売店は近々撤去されるのでこの解決策としてその一部を地下鉄構内に収容しなければならないことになつている。 よつて請願の趣旨にはそいえない。 右報告する。 昭和三十五年五月二十四日 交通水道委員長 万 田 勇 助 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 第一項の件については増圧ポンプ(代々木)を設置することにより総体的に増圧されるので、本管の分離をしなくとも請願の趣旨にそうことができる。 右報告する。 昭和三十五年五月二十四日 交通水道委員長 万 田 勇 助 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 停留場の設置は駅間距離の関係から困難であり、またホームを延長することは、運輸並びに建設費の面から困難であるので、請願の趣旨にはそえない。 右報告する。 昭和三十五年五月十七日 警務消防委員長 松 本 鶴 二 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 法文の改正を待たねば実施出来ない。 右報告する。 昭和三十五年五月十七日 警務消防委員長 松 本 鶴 二 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 首都高速道路計画第一号路線の線形変更が決定され、試験場の敷地を適切に使用し得る見通しを得た後、可能な範囲において速やかに再開せられるよう考慮されたい。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月十七日 警務消防委員長 松 本 鶴 二 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、附近に設置されたのでその必要が認められなくなつた。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 総務広報渉外委員長 樋 口 亀 吉 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 補助金の交付に関しては、個別的事案に即して考慮すべきで、現段階では願意に副い難い。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 総務広報渉外委員長 樋 口 亀 吉 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 地元住民の総意にかんがみ陳情の趣意には副い難い。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 総務広報渉外委員長 樋 口 亀 吉 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 現状では貴意には賛成し難い。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月三十日 財務主税委員長 柳 田 豊 茂 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、軽減措置の都財政に与える影響並びに他との負担の均衡を考慮し、軽減額は必要最少限度に止められたい。 二、軽減額は、確実に設備資金に充当し、施設の整備充実並びにの向上に努めしめるよう特段の配慮を講ぜられたい。 三、軽減措置は向う五ヶ年間に限るものとせられたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十日 財務主税委員長 柳 田 豊 茂 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 法律改正事項であるから採択できない。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、設置区域及び新設については別として、学級増等の措置により御趣旨に副うよう努力する。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、本件については、一般都職員との均衡もあるので趣旨には添い難い。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、支給地域の拡大については、関係法令の改正を必要とし、都独自で支給することは一般職員との関係において実施困難である。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、一項……現状においては、へき地及び島嗅以外の採用は考慮していない。 二項……現段階においては、全科目について再募集の必要を認めない。 五項……自治会関係者簿対する差別はしていない。 その他については実現に漸次努力したい。 右報告する。 昭和三十五年四月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、組織が全国にわたり、又対象が限定されているので、趣旨に副うことは困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、都費をもつて交付することは困難であるが、国費交付については国に対して要請することといたしたい。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月六日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、三多摩地区の措置費不足額及び職員の超勤手当についての都費支弁は措置権者の関係において困難である。 杜会福祉事業振興資金貸与については将来において検討いたしたい。 右報告する。 右報告する。 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、将来において、実情を勘案し考慮いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、不採択分 国民健康保険診療施設の経営費赤字補填として都費補助金の交付の件 (理由) 慎重に検討を要するので、早急実施は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、趣旨は了とするので、都財政を勘案しその実現に努力いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、都財政の現況上早急実施は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 給食作業員二名の配置の件及び就学対策の財政措置の件 一、不採択分 夜間中学校の独立校としての取扱いの件 (理由) 本件については学校制度全般に関する問題であり、且つ現行法上実施は困難である。 一、意見付採択 夜間中学の主事制、訪問教師の設置等について (意見) 趣旨は了とするので、将来においてその実現に努力いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、三十五年度以降において、西多摩地区に設置するよう努力いたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 請願の趣旨は了とするも設置箇所については今後なお検討したい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、商業、工業併設高校については慎重に検討を要するものであり、現段階においてその実現は出来ない。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 都立高校の増設の件 一、意見付採択分 西多摩地区に都立工業高校設置の件 (意見) 趣旨は了とするも、設置箇所については今後なお検討することといたしたい。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 厚生文教委員長 大 村 仁 道 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択分 世帯主の給付率引上げによる保険者負担分の補助の件 一、不採択分 国民健康保険診療施設の赤字補填の都費補助金の交付の件 (理由) 慎重に検討を要するので、早急に実施することは困難である。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月二十七日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 公衆浴場入浴料金の改訂については、咋年十一月末、組合より、都に対し申請があり、都はこれが低額所得層に及ぼす影響を重視して、慎重に検討し、四月下旬に浴場約五百ケ所の実態調査を行つた結果、公衆浴場の経営は、前回三十二年の現行価格改訂当時に比し、人件費、修繕費、償却費、その他において相当支出増が見られ、これに対し、浴客数は前回より僅か九名増(五五八人-五六七人)にとどまり、経営に相当の困難が認められ、都においては、大人中人小人各一円値上(大入十七円、中人十三円、小人七円)ということに決定した。 本委員会においては、慎重検討の上、これを適当とみとめたので本陳情の趣旨に副うことができない。 右報告する。 昭和三十五年六月二十八日 衛生経済清掃委員長 中 田 俊 一 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 公衆浴場入浴料金の改訂については、咋年十一月末、組合より、都に対し申請があり、都はこれが低額所得層に及ぼす影響を重視して、慎重に検討し、四月下旬に浴場約五百ケ所の実態調査を行つた結果、公衆浴場の経営は、前回三十二年の現行価格改訂当時に比し、人件費、修繕費、償却費、その他において相当支出増が見られ、これに対し、浴客数は前回より僅か九名増(五五八人-五六七人)にとどまり、経営に相当の困難が認められ、都においては、大人中人小人各一円値上(大入十七円、中人十三円、小人七円)ということに決定した。 本委員会においては、慎重検討の上、これを適当とみとめたので本陳情の趣旨に副うことができない。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、採択の分 志村三丁目地先排水場設置について 一、不採択の分 大谷口北町地内排水場設置について (理由) 石神井川の改修とにらみ合せて考慮すべきで現状では困難である。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、現在の交通事情にかんがみ、請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年四月九日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、街路灯の電灯料金の補助は特別区の財政交付金で老慮されており、直接都において補助金を出すこと困難である。 二、アーケードの道路占用料はその公共性を考慮し、低額に定めているので、全面的に免除することは困難である。 三、看板については、自家営業のためのもので、特に公共性があると認めがたいので占用料の免除は困難である。 右報告する。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、特定の個人に払下げることは条例により不可能である。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、特定の個人に払下げることは条例により不可能である。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本件は、青少年の健全な運動場の少ない折柄、なお当分迅動場として存置する方針であるので陳情の趣旨に沿いがたい。 ただし近隣居住者に迷惑を及ぼさないようできるだけの措置を講じたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、線形の変更は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、上野公園は都市公園法に規定する建築許容面積を超えており新らたに建築物を建てることが出来ないので陳情の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (意見) 一、坪数等充分検討の要はあるが請願の趣旨に沿うよう努力すべきである。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、請願の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本地域は、緑地地域であり、また都市公園の指定を受けているので陳情の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年五月三十一日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、本地域は、緑地地域であり、また、都市公園の指定を受けているので陳情の趣旨に沿いがたい。 右報告する。 昭和三十五年六月十日 建設労働委員長 内 田 雄 三 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 (理由) 一、すでに解決済みである。 右報告する。 右報告する。 昭和三十五年五月二十五日 建築港湾委員長 水 戸 三 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 都財政の関係上早急実施は困難である。 右報告する。 昭和三十五年五月十六日 建築港湾委員長 水 戸 三 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 第八号埋立地の将来計画上趣旨に副うことはできない。 右報告する。 昭和三十五年五月二十四日 交通水道委員長 万 田 勇 助 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、漏水修繕対策の一環として、比較的利用度が少く、しかも建物の老朽が甚しい井荻派出所を廃止して一元的に統合し強化を図ることが適当とみとめる。 右報告する。 昭和三十五年五月二十四日 交通水道委員長 万 田 勇 助 東京都議会議長 内 田 道 治殿 記 一、本件箇所は大部分私道であるので、公道に認定後考慮されたい。 右報告する。 本件は委員会条例第五条第一項の規定に基き、議長からお手元に配付の常任委員名簿の通りご指名申し上げます。 これにご異議ありませんか。 〔佐々木議事部長朗読〕 三五財主議発第一五九号 昭和三十五年六月三十日 東京都知事 東 龍 太 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 東京都市計画地方審議会委員の選挙について このことについて、都議会議員富沢仁外十四名は六月二十九日をもつて辞任したので、都市計画審議会令第八条第六項の規定により選挙されるようお取り計らい願います。 本委員には、 鏡 省 三君 上 山 輝 一君 富 沢 仁君 嶋 田 繁 正君 渡 辺 文 政君 村 上 ヒ デ君 山 口 虎 夫君 浦 部 武 夫君 守 本 又 雄君 川 口 清 治 郎君 田 村 幾 太 郎君 青 山 良 道君 斎 藤 清 亮君 糟 谷 磯 平君 三 浦 八 郎君 以上の方々をご指名申し上げます。 これにご異議ありませんか。 よつて東京都市計画地方審議会委員には以上の方々がご当選になりました。 〔佐々木議事部長朗読〕 三五財主議発第一六〇号 昭和三十五年六月三十日 東京都知事 東 龍 太 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 関東地方競馬組合議会の議員選挙について このことについて、関東地方競馬組合議会議員斎藤卯助及び秋山定吉は六月二十九日をもつて辞任したので、組合規約第七条及び第六条第一項の規定により選挙されるようお取り計らい願います。 本議員には、 荒 木 由 太 郎君 佐 野 進君 をご指名申し上げます。 これにご異議ありませんか。 よつて関東地方競馬組合議会議員には以上の方々がご当選になりました。 〔佐々木議事部長朗読〕 三五監庶発第二一三号 昭和三十五年六月二十日 東 京 都 監 査 委 員 東京都議会議長殿 昭和三十五年度臨時出納検査立会議員の選任について 地方自治法第二百四十条第二項に定められた立会議員の選任方よろしく、お願いいたします。 臨時出納検査立会議員には、 岡 田 幸 吉君 岸 寛 司君 佐 々 木 千 里君 万 田 勇 助君 宮 瀬 睦 夫君 小 畑 マ サ エ君 藤 森 賢 三君 をご指名申し上げます。 これにご異議ありませんか。 よつて臨時出納検査立会議員には以上七人の方々がご当選になりました。 〔佐々木議事部長朗読〕 一、東京都出納長選任の同意について ………………………………… 三五財主議収第二一四号 昭和三十五年六月三十日 東京都知事 東 龍 太 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 東京都出納長選任の同意について 出納長日比野七郎は、昭和三十五年六月二十九日辞任したから、下記の者を選任いたしたいので、地方自治法第百六十八条第七項の規定により、東京都議会の同意についてお取り計らい願います。 よつて本件は知事選任に同意することに決しました。 〔佐々木議事部長朗読〕 一、東京都委員任命の同意について外一件 ………………………………… 三五財主議収第二一一号 昭和三十五年六月二十四日 東京都知事 東 龍 太 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 東京都委員任命の同意について 東京都委員堀切善次郎は、昭和三十五年七月二十三日任期満了となるので、再任いたしたいから、警察法第三十九条第一項の規定により、都議会の同意についてお取り計らい願います。 本動議に賛成の方はご起立を願います。 昭和三十五年六月三十日 提 出 者 大 山 正 行 岡 田 幸 吉 石 川 治 小 林 三 四 松 本 鶴 二 鏡 省 三 上 山 輝 一 葉 山 政 男 宮 沢 良 雄 石 塚 幸治郎 岸 寛 司 柳 田 豊 茂 中 山 一 川 村 千 秋 梅 津 四 郎 山 岸 信 子 杉 山 三 七 富 沢 仁 細 井 太 七 石 島 参 郎 上 野 藤五郎 小 泉 武 雄 平 山 羊 介 大 山 雅 二 河 野 一 郎 坂 本 重次郎 松 尾 喜八郎 吉 田 秀 英 中 島 喜三郎 田 村 徳 次 嶋 田 繁 正 板 橋 英 雄 渡 辺 文 政 加 藤 清 政 田 山 東 虎 広 川 シズエ 村 上 ヒ デ 山 屋 八万雄 吉 峰 長 利 樋 口 亀 吉 小野田 増太郎 内 田 道 治 加 藤 靖 一 染 野 愛 山 口 虎 夫 佐々木 千 里 小 山 貞 雄 万 田 勇 助 竜 年 光 豊 田 精 三 岸 本 千代子 依 田 圭 五 宮 瀬 睦 夫 大 沢 三 郎 高 橋 清 人 竹 内 雷 男 小 畑 マサエ 藤 田 孝 子 浦 部 武 夫 小 川 精 一 富 田 直 之 森 敬之助 田 村 福太郎 小 野 慶 十 小 山 省 二 荒 木 由太郎 建 部 順 醍 醐 安之助 出 口 林次郎 中 島 与 吉 岡 田 助 雄 川 口 清治郎 河 野 平 次 田 中 貞 造 金 子 伝 吉 実 川 博 久保田 幸 平 岡 謙四郎 清 水 長 雄 藤 森 賢 三 加 藤 好 雄 金 子 二 久 鯨 岡 兵 輔 篠 統一郎 中 田 俊 一 町 田 勝 二 佐々木 恒 司 古 谷 栄 春日井 秀 雄 宮 沢 道 夫 田 村 幾太郎 内 田 雄 三 川 端 文 夫 佐 藤 進 飯 塚 愛之助 青 山 良 道 山 川 国 蔵 加 藤 千太郎 大 村 仁 道 村 田 宇之吉 中 沢 茂 上 條 貢 大久保 重 直 斎 藤 卯 助 窪 寺 伝 吉 斎 藤 清 亮 四 宮 久 吉 大 森 一 雄 糟 谷 磯 平 菊 池 民 一 野 口 辰五郎 秋 山 定 吉 守 本 又 雄 水 戸 三 郎 佐 野 進 大日向 蔦 次 三 浦 八 郎 北 田 一 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 東京都議会委員会条例の一部を改正する条例 東京都議会委員会条例(昭和三十一年九月、東京都条例第六十一号)の一部を次のように改正する。 第二条の見出しを「(常任委員会の名称、所管及び委員定数)」に改め、同条第一項中「委員の定数」を削り、 「一 総務広報渉外委員会 総務局、広報渉外局及び人事委員会に関する事項」を 「一 総務首都整備委員会 企画室、総務局、首都整備局、オリンピック準備局、人事委員会、選挙管理委員会及び監査委員に関する事項並びに他の常任委員会の所管に属しない事項」に、 「五 建設労働委員会 建設局及び労働局に関する事項」を、 「五 建設労働委員会建設局、労働局及び地方労働委員会に関する事項」に、 「六 建築港湾委員会 建築局及び港湾局に関する事項」を、 「六 住宅港湾委員会 住宅局及び港湾局に関する事項」にそれぞれ改める。 第三十条の次に次の一条を加える。 (委員会速記録) 第三十条の二 委員会は、委員会速記録を作り、次の事項を記載する。 一 開会、休憩及び散会の年月日時刻 二 出席委員の氏名 三 出席説明員の氏名 四 会議に付した事件の件名 五 議事 六 公聴会 七 その他必要な事項 付 則 1 この条例は、東京都組織条例( )の施行の日から施行する。 2 この条例施行の際現に総務広報渉外委員会又は建築港湾委員会の委員は、それぞれ総務首都整備委員会又は住宅港湾委員会の委員になるものとする。 (説 明) 都の組織条例の改正に伴い、かつ、その他の事項を整備するため条例を改正する必要があるので、この条例案を提出いたします。 鈴木副知事。 この案は、日本国有鉄道の旅客運賃の等級が昭和三十五年七月一日から改正されるのに伴い、警察参考人等に対する費用弁償に関し条例を改正せんとするものであります。 よろしくご審議をお願いいたします。 昭和三十五年六月三十日 提 出 者 大 山 正 行 岡 田 幸 吉 石 川 治 小 林 三 四 松 本 鶴 二 鏡 省 三 上 山 輝 一 葉 山 政 男 宮 沢 良 雄 石 塚 幸治郎 岸 寛 司 柳 田 豊 茂 中 山 一 川 村 千 秋 梅 津 四 郎 山 岸 信 子 杉 山 三 七 富 沢 仁 細 井 太 七 石 島 参 郎 上 野 藤五郎 小 泉 武 雄 平 山 羊 介 大 山 雅 二 河 野 一 郎 坂 本 重次郎 松 尾 喜八郎 吉 田 秀 英 中 島 喜三郎 田 村 徳 次 嶋 田 繁 正 板 橋 英 雄 渡 辺 文 政 加 藤 清 政 田 山 東 虎 広 川 シズエ 村 上 ヒ デ 山 屋 八万雄 吉 峰 長 利 樋 口 亀 吉 小野田 増太郎 内 田 道 治 加 藤 靖 一 染 野 愛 山 口 虎 夫 佐々木 千 里 小 山 貞 雄 万 田 勇 助 竜 年 光 豊 田 精 三 岸 本 千代子 依 田 圭 五 宮 瀬 睦 夫 大 沢 三 郎 高 橋 清 人 竹 内 雷 男 小 畑 マサエ 藤 田 孝 子 浦 部 武 夫 小 川 精 一 富 田 直 之 森 敬之助 田 村 福太郎 小 野 慶 十 小 山 省 二 荒 木 由太郎 建 部 順 醍 醐 安之助 出 口 林次郎 中 島 与 吉 岡 田 助 雄 川 口 清治郎 河 野 平 次 田 中 貞 造 金 子 伝 吉 実 川 博 久保田 幸 平 岡 謙四郎 清 水 長 雄 藤 森 賢 三 加 藤 好 雄 金 子 二 久 鯨 岡 兵 輔 篠 統一郎 中 田 俊 一 町 田 勝 二 佐々木 恒 司 古 谷 栄 春日井 秀 雄 宮 沢 道 夫 田 村 幾太郎 内 田 雄 三 川 端 文 夫 佐 藤 進 飯 塚 愛之助 青 山 良 道 山 川 国 蔵 加 藤 千太郎 大 村 仁 道 村 田 宇之吉 中 沢 茂 上 條 貢 大久保 重 直 斎 藤 卯 助 窪 寺 伝 吉 斎 藤 清 亮 四 宮 久 吉 大 森 一 雄 糟 谷 磯 平 菊 池 民 一 野 口 辰五郎 秋 山 定 吉 守 本 又 雄 水 戸 三 郎 佐 野 進 大日向 蔦 次 三 浦 八 郎 北 田 一 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 ………………………………… 監査委員の定数増員に関する意見書 現在、都道府県における監査事務は地方自治法に明定されているとおり、一律に四人の監査委員によつて行われている。 しかるに、東京都は緊急執行を要するオリンピック東京大会に伴う整備事業及び首都圏整備事業の促進等のために、膨大な機構と複雑多岐にわたる事業量をかかえているのであつて、これらの監査事務を現行監査委員の定数で公正、迅速に処理しなければならないということは甚だ困難なことである。 よつて、東京都議会は監査機能の効率化確保の見地から現行定数を倍増きれるような法的措置を強く要望する。 右地方自治法第九十九条第二項の規定により意見書を提出する。 昭和三十五年六月三十日 提 出 者 大 山 正 行 岡 田 幸 吉 石 川 治 小 林 三 四 松 本 鶴 二 鏡 省 三 上 山 輝 一 葉 山 政 男 宮 沢 良 雄 石 塚 幸治郎 岸 寛 司 柳 田 豊 茂 中 山 一 川 村 千 秋 梅 津 四 郎 山 岸 信 子 杉 山 三 七 富 沢 仁 細 井 太 七 石 島 参 郎 上 野 藤五郎 小 泉 武 雄 平 山 羊 介 大 山 雅 二 河 野 一 郎 坂 本 重次郎 松 尾 喜八郎 吉 田 秀 英 中 島 喜三郎 田 村 徳 次 嶋 田 繁 正 板 橋 英 雄 渡 辺 文 政 加 藤 清 政 田 山 東 虎 広 川 シズエ 村 上 ヒ デ 山 屋 八万雄 吉 峰 長 利 樋 口 亀 吉 小野田 増太郎 内 田 道 治 加 藤 靖 一 染 野 愛 山 口 虎 夫 佐々木 千 里 小 山 貞 雄 万 田 勇 助 竜 年 光 豊 田 精 三 岸 本 千代子 依 田 圭 五 宮 瀬 睦 夫 大 沢 三 郎 高 橋 清 人 竹 内 雷 男 小 畑 マサエ 藤 田 孝 子 浦 部 武 夫 小 川 精 一 富 田 直 之 森 敬之助 田 村 福太郎 小 野 慶 十 小 山 省 二 荒 木 由太郎 建 部 順 醍 醐 安之助 出 口 林次郎 中 島 与 吉 岡 田 助 雄 川 口 清治郎 河 野 平 次 田 中 貞 造 金 子 伝 吉 実 川 博 久保田 幸 平 岡 謙四郎 清 水 長 雄 藤 森 賢 三 加 藤 好 雄 金 子 二 久 鯨 岡 兵 輔 篠 統一郎 中 田 俊 一 町 田 勝 二 佐々木 恒 司 古 谷 栄 春日井 秀 雄 宮 沢 道 夫 田 村 幾太郎 内 田 雄 三 川 端 文 夫 佐 藤 進 飯 塚 愛之助 青 山 良 道 山 川 国 蔵 加 藤 千太郎 大 村 仁 道 村 田 宇之吉 中 沢 茂 上 條 貢 大久保 重 直 斎 藤 卯 助 窪 寺 伝 吉 斎 藤 清 亮 四 宮 久 吉 大 森 一 雄 糟 谷 磯 平 菊 池 民 一 野 口 辰五郎 秋 山 定 吉 守 本 又 雄 水 戸 三 郎 佐 野 進 大日向 蔦 次 三 浦 八 郎 北 田 一 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 ………………………………… 家内労働法の制定促進等に関する意見害 昨年七月内職従事者のベンゾール申毒が、大きな社会問題となり、東京都としても現行法のもとに可能なかぎり各般の施策を行い、この予防あるいは事後の措置を講じてきたところである。 しかしながら、この根本的な解決には単独法の制定並びに関連法規の整備にまたなければならないものであるとき、今回労働省ではこれらの問題に対処し、家内労働法の制定を準備しているとのことである。 東京都議会は、同法が速やかに制定され、現行法のひ護の圏外にある内職従事者等家内労働者のために、疾病、災害等の予防あるいは療養補償はもちろん、工賃その他のの改善が行われる方策が樹立されることを期待するところである。 よつて政府は、右の事情から家内労働者等が安んじて働くことができる家内労働法の制定およびこれに関する諸施策が講ぜられるよう強く要望する。 右地方自治法第九十九条第二項の規定により意見書を提出する。 〔佐々木議事部長朗読〕 一、東京都監査委員選任の同意について四件 ………………………………… 三五財主議収第二一五号 昭和三十五年六月三十日 東京都知事 東 龍 太 郎 東京都議会議長 内 田 道 治殿 東京都監査委員選任の同意について 監査委員大山雅二は、昭和三十五年六月三十日辞任したから、下記の者を選任いたしたいので、地方自治法第百九十六条第一項の規定により、東京都議会の同意についてお取り計らい願います。 副議長辞職許可の件を本日の日程に追加し、追加日程第十八として直ちに議題に供します。 前副議長北田一郎君よりごあいさつがあります。 百二十番北田一郎君。 顧みますれば、昨年の五月、皆さんのご支援によりまして副議長に就任いたしましてから今日まで、大過なくその職務を遂行し得ましたことは、これひとえに皆さんのご厚情のたまものでありまして、深く感謝し、厚くお礼を申し上げます。 今後は一議員として皆さんとともに都政発展のためにさらに努力をいたしたいと考えますので、相変らざるご指導、ご支援のほどお願い申し上げます。 ここに在任中における皆さんのあたたかいご支援ご協力に対しまして、深く感謝し、辞任のごあいきつといたします。 ありがとうございました。 追加日程第十九、副議長の選挙を行ないます。 副議長には加藤千太郎君をご指名申し上げます。 これにご異議ありませんか。 よつて副議長には加藤千太郎君がご当選になりました。 (拍手) 副議長加藤千太郎君のごあいさつがあります。 副議長加藤千太郎君。 本日は皆さんの誠意あふるるご支援をいただきまして、満場一致の形で副議長に就任さしていただきますることを深く私は感謝申し上げたいと思います。 顧みますれば、私は今から三十六、七年前、岩手県の一農村から出て参りました。 この長い間、皆さんとともに東京都民として生活して参りました。 むろん私の歩んで参りました過程の中においては、少からざる悲しいこと、つらいこともたくさんございましたが、しかし、その悲しみとつらいことを払拭してもなお余りあるものを私は感じておりました。 それは東京都民としての誇りであり、都民としての喜びでございます。 しかし、この誇りと喜びは私だけのものであつてはならない、私個人のものであつてはならない、九百万都民ことごとくの人たち、とりわけ恵まれざる人々にとつても誇りと喜びを持ち得るような東京都政を作らなければならないというのが私の考え方、信条でございまして、いわゆる福祉都政の実現をめざして適進いたしたいと存じます。 非常にふつつかな者でございまするが、どうか先輩各位のご指導とご鞭錘を今後ともお願い申し上げまして、一言副議長就任のごあいさつにかえたいと思います。 よつて本件は動議の通り辞職を許可することに決しました。 前議長内田道治君のごあいさつがあります。 四十四番内田道治君。 また今回は気ままなお願いをもお聞きとどけてくださいましたことを、ここに厚く御礼を申し上げます。 今後とも変らざるご指導のほどを伏してお願い申し上げます。 ありがとう存じました。 よつて議長選挙の件を本日の日程に追加いたします。 追加日程第二十一議長の選挙を行います。 議長には村田宇之吉君をご指名申し上げます。 これにご異議はありませんか。 よつて議長には村田宇之吉君がご当選になりました。 (拍手) 議長村田宇之吉君よりごあいさつがあります。 議長村田宇之吉君。 つつしんで衷心より感謝申し上げる次第であります。 この上は、私は全力を傾けて、東京都政の運営は申すまでもなく、都民の福祉増進に邁進する覚悟でありまするけれども、何といたしましても村田は浅学非才でありまする関係から、皆さまの絶大なるご支援を賜わらなければ、とうていこの任を全うすることができませんので、より以上のご支援を賜わりますことを切にお願い申し上げまして、私の就任のあいさつにかえきしていただきます。 議事部長をして朗読いたさせます。 〔佐々木議事部長朗読〕 決算特別委員会継続審査要求書 一、昭和三十三年度東京都各会計歳入歳出決算の認定について 本委員会は昭和三十四年十二月十五日付託された右決算を審査中であるが今会期中に審査を結了することが困難なので閉会中もなお継続審査せしめられたい。 これにご異議ありませんか。 本日までに受理いたしました請願十七件及び陳情五件は、お手元に配付の請願陳情付託事項表の通り、各委員会に審査を付託いたします。 ただいま委員会に付託いたしました請願及び陳情は、お手元に配付した委員会より要求の継続審査件名表の分とあわせて、閉会中も継続審査に付したいと思います。 これにご異議ありませんか。 これにご異議ありませんか。

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