サンタ・サビーナ聖堂 Basilica di Santa Sabina all'Aventino (イタリア語) Basilica Sanctae Sabinae (ラテン語) 基本情報 所在地 : 管理者 ウェブサイト 建設 形式 着工 422年 完成 432年 建築物 正面 南西 横幅 60メートル 200 ft 奥行 30メートル 98 ft 奥行 17メートル 56 ft サンタ・サビーナ聖堂(: Basilica Sanctae Sabinae、: Basilica di Santa Sabina all'Aventino)はのにある名義で、の母教会である。 の丘の上、テヴェレ川のほとりにあり、近くにの本部がある。 5世紀に創建された古いバシリカであり、上から見ると古典的な長方形の形状で、円柱を使っている。 装飾はたいていが白く、創建時の謙虚な状態に復元されている。 そのため、窓から差し込む光に照らされた内部は広々としていて風通しがよい。 などの他のバシリカは、派手に装飾が凝らされていることが多い。 その簡素さから、サンタ・サビーナ聖堂は古代ローマの屋根付きのからキリスト教のへと発展する途中段階を表していると言われている。 の指定巡礼聖堂である。 歴史 [ ] サンタ・サビーナ聖堂は、422年から432年に出身のの が建てた。 その場所は、後にされた2世紀ごろのローマ人女性サビーナ の家があった場所である。 元々はその近くにの神殿があった。 1216年、が説教者修道会を認可し、後にそれがと呼ばれるようになった。 1222年6月5日、ホノリウス3世はサンタ・サビーナの教会をの創立者である聖に与えた。 一説には、ホノリウス3世はサヴェッリ家出身で、サンタ・サビーナの教会はサヴェッリ家の所有する資産の一部だったといわれてきた(そのため、ドミニコ会に寄贈できた)。 しかし、ホノリウス3世がサヴェッリ家出身という事実はない。 おそらくサヴェッリ家出身のと混同したための誤解と考えられる。 いずれにしても、この教会堂はドミニコ会に与えられ、その後一貫してローマにおける同修道会の本部として機能してきた。 外観 [ ] 内部 5世紀当時ののモザイク画は1559年に改修され、のよく似たフレスコ画に置き換えられた。 構図はそのまま保持されていると見られ、キリストが丘の上に座っていて両側に男女の聖人が立っており手前の小川の水を子羊が飲んでいる。 この図像は別の5世紀のモザイク画とよく似ているが、そちら Sant'Andrea in Catabarbara のモザイク画も17世紀に破壊された。 修道院 [ ] 隣接する修道院には聖を初めとして、やが暮らしていたことがある。 ドミニコ会修道士のための修道者独房の内装は同修道会創立初期とほとんど変わっていない。 聖ドミニコの独房もわかっているが、現在は拡張されてに改造されている。 も食事をとったという食堂室もそのまま現存している。 脚注・出典 [ ]• The Order of the Preachers. 2009年1月29日閲覧。 Berthier, L'Eglise de Sainte-Sabine a Rome Rome: M. Bretschneider, 1910. Joan Barclay Lloyd, "Medieval Dominican Architecture at Santa Sabina in Rome, c. 1219-c. 1320. " Papers of the British School at Rome. 2004. v 72, p 231-292, 379. 参考文献 [ ]• Krautheimer, Richard 1984. Early Christian and Byzantine Architecture. New Haven: Yale University Press. 171—174. Richard Delbrueck. "Notes on the Wooden Doors of Santa Sabina", The Art Bulletin, Vol. 34, No. Jun. , 1952 , pp. 139—145. Ernst H. Kantorowicz, "The 'King's Advent': And The Enigmatic Panels in the Doors of Santa Sabina", The Art Bulletin, Vol. 26, No. Dec. , 1944 , pp. 207—231. Alexander Coburn Soper. "The Italo-Gallic School of Early Christian Art", The Art Bulletin, Vol. 20, No. 2 Jun. , 1938 , pp. 145—192. Richard Delbrueck. "The Acclamation Scene on the Doors of Santa Sabina" in Notes , The Art Bulletin, Vol. 31, No. 3 Sep. , 1949 , pp. 215—217. 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 , with Mario Armellini's•
次の「最後の晩餐」サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の見どころと予約方法 誰もが知っているダ・ヴィンチの「最後の晩餐」。 実はこの名画が保管されているのは美術館ではありません。 イタリア、ミラノの小さな教会の食堂の壁に制作以来ずっと飾られているのです。 世界遺産として登録されているサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会です。 最後の晩餐のチケットを予約するには レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「最後の晩餐」はミラノ市内の教会の中にあります。 その教会は「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」。 併設のドメニコ会修道院と共に世界遺産にも登録されています。 完全予約制の上、非常に人気でなかなかチケットが取りにくいので、 イタリア旅行が決まったら、すぐに予約を取ってしまいましょう。 予約方法は公式サイトのスケジュール表から、もしくは電話での予約となります。 cenacolovinciano. チケットは20分前までに受け取らないとキャンセルされますので、早めに行く必要があります。 最後の晩餐が飾られている部屋には、一度に25人までしか入ることができません。 見学時間が近づくと、まず入口のガラス製の自動ドアの前に並びます。 ドアが開き小さな部屋へと入ると、入ってきたドアが閉まり展示室へのドアが開く仕組みになっています。 15分刻みの入れ替え制です。 ちなみに、最後の晩餐の見学が終わるまで外に出られないので注意が必要です。 ここまで厳しくセキュリティ管理されているのに少し驚かれたかもしれません。 実はこれは「最後の晩餐」そのものに理由があります。 最後の晩餐の厳重な管理の理由 最後の晩餐は壁画でよく見かけるフレスコ画ではなく、テンペラ画という技法を用いています。 壁画を描く場合は保存に優れたフレスコ画の技法を用いることが一般的です。 ところがフレスコ画は壁に漆喰を塗ってから乾ききるまでの8時間程度で完成させる必要があり、重ね塗りや書き直しができないのです。 ですが、レオナルド・ダ・ヴィンチは筆が遅いことで有名な画家。 8時間ではとても足りません。 さらにダ・ヴィンチは写実的な絵を描くためには重ね塗りが不可欠と考えていました。 代わりにダ・ヴィンチが採用したテンペラ画は卵、ニカワ、植物性油などを溶剤として顔料を溶く技法です。 フレスコ画と異なり時間の制約が無く、重ね塗りや書き直しも自在です。 その反面、テンペラ画は温度や湿度の変化に弱く壁画には向かないのです。 そしてこの場所は修道院の食堂です。 部屋にこもった食べ物の湿気や熱が、この絵を侵食する原因となりました。 それだけではありません。 17世紀には絵の下側、中央部分に出入り口用の扉を作ってしまいました。 当然、その部分は完全に失われてしまいます。 さらには17世紀末のナポレオンの時代には馬小屋として使用されました。 絵の保存環境としては最悪です。 そのうえ、ミラノは2度の大洪水に襲われており、壁画全体が水浸しとなったこともあります。 第二次世界大戦中の空爆では、食堂自体が破壊されました。 現在まで残っていることが奇跡なのです。 最後の晩餐はここを見よう 待合室で待機しているとやがて自動扉が開き、いよいよ最後の晩餐との対面の時がやってきます。 薄暗い展示室に足を踏み入れると、奥の壁に淡い光に照らされた最後の晩餐が浮かび上がっています。 想像していたよりも大きく、迫力を感じることでしょう。 ダ・ヴィンチが描いた最後の晩餐は当時としては革新的な遠近法を駆使し、さらには人物の配置も計算され尽くされているます。 この絵はヨハネによる福音書13章21節から、 「12弟子の中の一人が私を裏切る」とイエス・キリストが予言したまさにその場面を描いています。 イエスの発言に対して使徒たちの間に生じた緊迫した雰囲気が生き生きと大迫力で描かれています。 この絵は細かい所を見る事で、よりその世界に入り込み、面白くなります。 様々な説がありますが、有力なものをご紹介しましょう。 まず、注目していただきたいのはイエスのすぐ右側の3人の人物です。 イエスの隣で反対方向に寄りかかっているヒゲのない人物、身を乗り出している白髪の老人、対照的に身を引いている黒髪黒ひげの人物。 右手にナイフを持っている白髪の老人はイエスの言葉に激しく反応し勢い良く立ち上がり、まるで「誰が裏切り者なのですか!?」と追及しているようです。 彼は十二使徒の統率者で使徒の中でイエスと最も親しくしていたペテロです。 そして、対照的にのけぞっている黒髪黒ひげの人物。 彼こそがイエスを支配層に引き渡すという裏切りを行ったイスカリオテのユダです。 イエスの発した言葉によって裏切りがバレている事に気づきました。 明らかに他の使徒達とは違ったリアクションをしています。 他の使徒は驚きや怒りの表情をしているのに対し、ユダは裏切りが発覚した恐怖をその表情に浮かべているのが感じられるでしょうか? そして右手に握り締めている袋。 そうです。 この袋にはイエスの身を売り、受け取った銀貨30枚が入っています。 次にイエスのすぐ右側でイエスに寄りかかっている弟子に注目してください。 通説ではイエスが最も愛した弟子であるヨハネとされています。 ヨハネ福音書にしたがえば、弟子が全員男性であったとは書いておらず、出席者のリストもありません。 ヨハネの福音書では最後の晩餐の場面で、「イエスの胸元には一人の弟子が寄りかかっていた。 イエスはこの弟子を愛されていた。 」と書かれています。 そういうわけでイエスの愛する弟子は最後の晩餐ではイエスの隣でイエスの胸もとで眠っている姿で描かれることが多いのです。 また、この人物に髭は無く、若者か女性的な容姿で描くのを通例としています。 ダ・ヴィンチもおおむねこれに従っています。 そのため、映画ダヴィンチ・コードで語られたようにこの人物が「マグダラのマリア」である可能性も残されているのです。 マグダラのマリアとはキリストの妻であり、キリストの子を身篭っているとされる人物です。 この人物が実在すれば「ダヴィンチ・コード」で描かれたようにイエスに子孫が居る事になります。 もっと知りたい人はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のガイドを聴こう サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の見どころはまだまだ続きます。 気になった方は現地でガイドを聴いてみましょう。 cenacolovinciano.
次のイタリア・ドライブ'97 12 ミラノ・コモ編 2 [6月17日](火) 9:00頃 地下鉄でサンタ・マリア・デッレ・グラッツェ教会へ。 すでに教会前は超長蛇の列。 11:30頃 やっと入れて「最後の晩餐」見物、10分で出る。 12:30頃 ホテル、チェックアウト。 車と荷物はそのまま置かせてもらい、シエスタの街でウィンドウ探査。 14:00頃 ドゥオーモ広場に面したデパートの上の食堂で昼食 15:00頃 店が開き始め、夕方までお買い物。 18:00頃 ミラノを出てコモ湖へ 19:00頃 コモ湖畔のホテル、 到着 20:00頃 コモの街散策。 バールででも夕食をと思ったのだが、いまいち食欲なし 21:00頃 部屋で夕食 一度きりで結構だぞレオナルド ホテル・マンゾーニは朝食なし。 前回、時間の関係で見学できなかった「最後の晩餐」。 やっぱ見なきゃでしょうと、サンタ・マリア・デッレ・グラッツェ教会へ行く。 どうせ駐車場所に困るだろうと地下鉄で行くことにした。 モンテ・ナポレオーネ通りを東へ行くとサン・バビラ広場に出る。 ここの地下鉄駅から4つ行くとカドルナ駅に着く。 ここは鉄道北駅に接していて、駅の正面に出る。 駅からは大量の通勤客が吐き出されている。 せかせかと通勤を急ぐミラノっこの群の中、改めて都会さ来たなあと実感し、こちらの足取りも自ずと速くなる。 教会はすぐ近くだ。 ところが教会前広場まで来てびっくり。 早くも長蛇の列が広場を一周して並んでいる。 4百人はいそうだ。 8割がた日本人で、1割がドイツ人、アメリカ人、残りが韓国、中国(香港?)といった構成のようだ。 広場に面したバールで焼きたてのパンと水を買ってきて、並んだまま朝食。 しかし入場規制しているので、これがなかなか進まない。 こりゃ昼までかかるかもよ。 妻は午前中の買い物をあきらめた。 2時間以上並び続けてやっと入場。 入場料が2万リラ(あやふや)もする。 いままで大抵の美術館が千5百とか2千リラ程度だから10倍だ。 ここでも日本人ぼられるの法則なのか。 10人程度づつ5間隔ぐらいで入って行く。 例の食堂だった暗い部屋にはレオナルドの壁画と、反対側にはモントルファノの「キリストの磔刑」。 それだけ。 もう出口。 「二度と来ねぇぞ。 」 思わずいささか下品なつぶやきも出るというものだ。 ちなみに教会の建物自体はブラマンテの完成させた美しいもので、内部はフリーなので、並んでいる間、交代で見学するのもいいだろう。 97年ミラノのハヤリもの どっちかといえば流行モノには疎い方なので、眉に唾つけてもらっていいのだが、やたらに目に付いた感じでは以下の3点。 サングラスのカチューシャ的利用 イボイボ底のドライビングシューズ ブルドッグ系の鼻ペチャ顔の犬 ドライビングシューズは妻につられて自分の分も買ってしまったが、靴底の柔らかいイボイボラバーはすぐにでも減ってしまいそうだし、そうなったらいったい修理できるのだろうかという不安がある。 買い物三昧 チェックアウト時間に30分遅れてホテルに帰ったが、別にとがめる様子はない。 チェックアウトして、夕方まで車を置かせてくれるかと聞くと、これも全然オッケーだ。 別にお金を取られもしなかった。 なかなかいいっすねマンゾーニ。 (げんきんな奴) 確かに、ホテル・マンゾーニは安い割には、水周りやセキュリティ設備がしっかりしていて清潔だし、好感度高し。 サービスがそっけないのはしかたないことだ。 手ぶらでウィンドウチェック。 当然、昼からは3時頃まで閉店なのだ。 ドゥオーモ広場に面してデパートがあるのは有名だが、わざわざ彼の国でもとめるほどのものはない。 ここは上の階の食堂がお奨め。 現代的な窓のすぐ外にドゥオーモのゴシックの黒い骨組みが迫り、そこを屋上ツアーのカラフルな観光客が右往左往するという、何ともシュールな光景を眺めつつ、安っぽいイタ飯が楽しめます。 さて妻の下僕に徹することになったぼくは、荷物が両手いっぱいになるとホテルへ戻って車に積み込み、また出かける。 これを何回か繰り返す。 駐車場係りのオヤジは「また来たのか。 まだ買いに行くのか。 」と笑っていたが、その都度重そうな電動扉をガーと操作して「プレーゴ」と招き入れてくれる。 まあ、最初に多めにお礼を払っておいたせいかもしれないが。 われわれ夫婦はイタリアの服はドゥオーモあまり合わない顔つきと体型をしているので、結局買ったモノは靴関係が主で、あとは若干の生地モノ(スカーフとかネクタイなど)程度だ。 くわしいことは忘れた。 最後の滞在地、コモ湖へ 夕方、とはいってもまだ北イタリアの日は高いが、ホテルを出発。 スフォルツェスコ城を回ってセンピオーネ通りを郊外に走るとすぐに外環状線にぶつかる。 そこから専用道に乗って高速8号に入る。 都心に向かうのは苦労するのに、出て行くのは簡単なのだ。 BMW318iは高速に乗ると、やはりローヴァー618より俄然安定がいいように思える。 まもなく高速9号線に分岐して北へ向かう。 高台にあるインターを出て湖岸に下って行くとコモの町に入る。 最後の宿、ヴィラ・デステはコモ湖にあるというのは知られているが、実際はコモの町ではなく時計回りに隣町、チェルノッビオに位置する。 ミシュラン赤でもコモの項にはないので不思議に思っていたのだが、予約を入れて住所を見て初めて分かったのだった。 コモ湖畔の夕暮れ そろそろ黄味がかかってきた日を浴びる山と、藍色の空を写す湖面を右手に見つつ走ると、まもなくチェルノッビオの小さな町を過ぎる。 あとは看板にしたがって進むと のゲートに至る。 詰め所でいったん止められるが、宿泊だと言うと、別に調べもせずどうぞとなった。 この時顔を覚えたのかナンバーを控えたのか、その後は止められることもなく、何度も出入りできるのだった。 フロントでチェックインをすると部屋は別館だという。 広大な敷地にはスポーツクラブ棟を挟んで2棟のヴィラがあり、白い建物が本館、レンガ色の建物が別館だ。 本館はホールやメイン・ダイニングがあってやたら豪華。 別館はアンティークでヴィラとしてはこちらの方が静かで落ち着いている印象だった。 広大な敷地を車で回っていくと、有名な遠近法的庭園の途中、ちょうどグロッタ装飾の壁の向こう側を横切るようになっている。 しかも背後の森にまっすぐ登っていく庭園の途中は陸橋になっており、下を一般道が抜けているのだった。 湖畔側から見ると絶対気付かないように、巧みに作ってあるものだ。 部屋の窓から見下ろすとポーターが思案顔で叫ぶ。 「シニョール。 これ全部運ぶんですかぁ。 」 「そう。 トゥッティ。 お願い。 」 バラバラの買い物の品々がトランクに入っていたことを忘れていた。 ヴィラ・デステでカップ麺 コモの街のバールで軽く食事しようと、少し休んで外出。 実はこの日、ホテルではなにかパーティがあったらしく、ダイニングや庭園は黒タイとイブニングドレスで溢れていたのである。 さすがに疲れて、がちっとした格好で食事をする気がしなかったのだ。 しかし夕暮れの湖畔を散歩しただけで、2人ともあまり食欲もなく、むしろもうベッドにひっくり返りたいぞと、意見が一致。 部屋でクラブサンド、それに熱いお湯をポットで持ってきてくれと頼む。 「シニョール。 日本の緑茶もご用意できますが。 」 「あ。 いいのいいの。 僕たちは特別の茶を飲むのだから。 くれぐれも熱々のを頼みますよ。 」 嘘つきである。 ホントは日本から持ってきたまま、食べる機会もなくずっと持ち歩いてきたカップ麺を食べるためだったのである。 「ヴィラ・デステくんだりまできて、カップ麺食べるのは俺達ぐらいだろうね。 」 「この梅干しも美味しいよ。 」 「あちゃー。 このタオルミーナで買ったグラッパ、日本までもたないぞ。 」 妻は部屋のウェルカム・シャンパンとフルーツに持参の梅干し、僕はグラッパを飲みつつ、カップラーメンと大盛りのクラブサンドを食べてそれなりに幸せなのであった。 本日のお買い物 婦人靴4足/フェラガモ ひもサンダルみたいな靴/ブルーノ・マリ ドライビングシューズ男女2足/JPトッブス 紳士靴/フラテッリ・ロセッティ 紳士サマーセーター/ドゥオーモ広場に面したどこか あとなんだかんだ。 一気に買い物すると、何を買ったのかなんてすぐ忘れてしまいます。
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