大 日本 帝国 映画。 大日本帝国

大日本帝国

大 日本 帝国 映画

紀元はの伝承による。 明治5年太政官布告第342号。 なおこの布告の現在における効力については議論がある。 「大日本帝国」の国号が用いられたのは遅くともの外務省決定からまで。 大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、: 大日本帝󠄁國)とは、のの一つ。 末期()に外交文書に使用され始め、頃まで公式に使用された。 なお、国号を「大日本帝国」と定めた法律は存在しないため、日本の呼称または大日本帝国憲法下の日本の呼称の一つとして扱われる。 一般には(22年)の発布時にの名称として使用されたことから権威づけられ、(22年)の時までの約58年間、が大日本帝国憲法を通じて統治するとして使用された国号のひとつとされる。 日本が大日本帝国と称された期間の最盛時には、現在のに加え、・・・・・などを領有していた他、やにいくつかの領やを保有した。 以下は国号としての大日本帝国を解説し、また大日本帝国憲法下の日本について記述する。 憲法原本での国名 経緯 [ ] 成立後、漢字文化が取り入れられると初め・側の呼称である「」を自国の表記として使用することが多かったが、やがて自国を「日本」、あるいは「倭」を「和」と表記することが増え、701年 大宝元年 のでは日本の国号が使用された。 「倭」や「日本」に「大」を冠する慣習は古代から国内向けの美称として存在するが、対外文書においては末期 まで見られなかった。 「帝國」という文字そのものは代『文中子・問易』やなど古典にも散見される表現であったが、いずれも「徳をもって治める国」あるいは天皇の所在を意味する語であり、近代国家の語義としての国家の政体を表示するものではなかった。 後者の語義としての「帝国」の語は江戸時代後期にオランダ語Keizerdomの翻訳のために採用された、いわば鋳造語であり 、それ以前の時代に漢語として定着した言葉ではなかった。 国学系統では「皇国」という語が比較的早期から使われているものの「帝国」という語は幕末まで見られなかった。 なお、『』()の『木曽の最期』では「日本国」という言葉が登場する。 対外的な国号に「大」を冠したり「帝國」を使用するようになったのはいずれも幕末のことであり、1854年(嘉永7年)にと批准し、の皮切りとなったでは、前文において「帝國日本」(英文では"Empire of Japan")の国号が初めて使われた(各条文では「日本國 Japan」表記)。 そして1858年(安政5年)米国と調印したでは、本文に「帝國大日本」の国号が使われた ほか、は肩書きを「 大日本帝國外國事務」とした。 の正使、副使、監察は(万延元年)、日米修好通商条約を批准した安政五年条約批准条約交換証書 上で、日本側を「大日本帝國 の全権」と記した。 このように、は開国後に「大日本帝國」の国号を使い始めたが、国号表記は条約によってまちまちであり、「日本」「日本國」「帝國日本」「帝國大日本」「日本帝國」などの表記も使用され、一定しなかった。 は(3年)、を宣言。 1871年(明治4年)に鋳造されたには「大日本國璽」と刻まれ、1874年(明治7年)の改鋳に際しても印文は変更されず、今日に至るまで使用されている。 1873年(明治6年)6月30日に在日本オランダ公使からの来翰文邦訳ですでに「大日本帝国天皇陛下ニ祝辞ヲ陳述ス」と記述され 、1889年(明治22年)2月11日には(明治憲法、帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり 大日本帝國という国名を称した。 初めが明治天皇に提出した憲法案では 日本帝國であったが、憲法案を審議する会議の席上、副議長が、皇室典範案に 大日本とあるので文体を統一するために憲法も 大日本に改めることを提案。 これに対して憲法起草者の書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。 結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により 大日本帝國に決められた。 大日本という表記は「オオヤマト」としては古来から用いられており、明治時代に国名として初めて使用されたという訳ではない。 一方、「帝國」は代の『文中子・問易』を初出とし、「徳を以て治める国」とされた。 『』にも「帝國」に「みかど」の訓を当てた用例があるが 、天皇の所在を意味する用語であり、今日の「帝国」とは必ずしも一致しなかった。 一方で、天皇が統治する国という意味で「皇国」、「スメラミクニ」(皇御国)が使われていた。 これらは政治や思想、主義、規模等に基づく「Empire」(帝国)とは本来一線を画していたが、幕末以降に欧米列強の影響を受け、日本側も"Empire"の訳語としての「帝国」を意識するようになった。 帝国憲法の半公式の英訳(訳)では「Empire of Japan」と訳され、「大」の意味合いはなかった。 当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定されたでは 日本帝國、 大日本國と表記し、外交文書では 日本、 日本國とも称しており、国内向けのでも同様であった。 その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対するこだわりが表面化した1935年(昭和10年)7月、は外交文書上 「大日本帝國」に表記を統一することを決定した。 を参照。 その後1947年(昭和22年)5月3日に施行されたにより日本は憲法上「日本國」の名称を用いることとなるが、現在においてなお日本の正式な名称を規定する法令等は存在せず、国号の呼称については慣習によるものとされている。 通称 [ ] 日本水準原点標庫上部。 の部分にと共に右から「大日本帝國」と刻まれている。 ではと呼び、またとも称した。 での「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」が有名。 や日本国は通称としてだけでなく公文書にも使用された。 現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在するのみである。 民間では、(通称「帝劇」)、、、帝国制帽(現:)、、のように、「帝国」を使用しているものもある。 (平成16年)に(東京メトロ)が運営を引き継いだかつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は帝国の首都を意味する「」を冠したであった。 も社名変更前は「京王帝都電鉄」(解体の際に旧京王電気軌道と旧帝都線()だった路線を引き継ぎ設立したことによる名称)、警備会社ではが「帝国警備保障」、が「帝国人造絹糸」などと、それぞれ「帝国」を冠していた。 、などのに基づいて設立された大学は、現在においても と呼ばれる。 また、同様に「大日本」の文字が使用されている企業もある(例: 、)。 国土 [ ] 大日本帝国憲法下の日本の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、に統治を委任された区域があった。 このほか、行政権及び自国民への裁判権を有するがあった。 首都 [ ] 憲法や法令にの規定はないが、関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日詔書)で「ハ帝国ノ首都」とされている。 東京は大日本帝国の首都として と称され、(きゅうじょう、)が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、が開かれ、戦時にはが置かれた。 東京以外の「みやこ」としては、維新初期の政情を背景に天皇の東行を遷都ではなくとして公表した経緯から、京都は旧都としての地位は否定されずはに安置されやが行われていた。 または、中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都を務めたとも言える。 なお、()でになる場合は天皇と大本営をの地下壕()に移す予定であったが、当初は天皇自身が反対した事も有り、本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。 領土 [ ] 大日本帝国の国土(昭和期) 1. 内地、2. 台湾、2'. 新南群島、3. 樺太、4. 朝鮮(以上領土)、5. 関東州、6. 満鉄附属地、7. 南洋群島 (明治憲法)の形質の観点では、明治憲法には領土規定がなく、の案の段階で領土は自明のものであり、また国体に関わり議院に属さないものだとして領土規定が立ち消えたのであるが、実際にはロエスエルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。 明治政府にとって好都合であったことは確かで、露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(「新稿・憲法述義」1924年P. 143)と解されていた。 の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。 1831年のベルギー憲法、1848年プロイセン憲法、1871年のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。 石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や地政学的特性に着目する。 西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された()という枠組みが形成されるにいたった。 19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「」(overseas territories)という領土を作り出したとする。 領土は完全な領有権を有する区域であり、、(後に内地に編入)、、からなる。 このほか一時を領土としたことがあった。 各領土の来歴は下記の通り。 領土面積は最大675,000km 2。 各領土の概要は下記の通り。 内地 日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。 内地の来歴は以下の通り。 ・・:日本の古来からの領土(は以降)。 『』は、、、、と合わせて と呼ぶ。 :中世以来徐々に統治権を及ぼす(参照:、、)。 1855年の(元年締結)によりとの間にを確定。 :日清両属のだったが、1872年、によりを設置して琉球国王を藩王とし(明治5年(1872年)9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。 1879年、を行い琉球藩並びに王統が廃され施政下に入る。 :1875年(明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。 :1876年、を派遣しする旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。 このほか以下の島々を内地に編入した。 ・:1885年調査隊を派遣し国標を建設。 同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。 ・・:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。 :1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。 ・久場島:1895年の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。 現在は尖閣諸島と呼ばれる。 :1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。 :1905年に編入()。 :1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。 その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。 :1931年小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。 上人が訪れるなど、古くはから日本との関わり(参照:)があり、はのやなどとの交易場所(参照:)なども設けられていたが、の混乱期になどのでとの雑居地とされた後、1875年、によりロシアに譲渡。 1905年、()でし、同年の(日露講和条約、明治38年勅令号外)により50度以南をさせ回復。 1943年内地に編入した(昭和18年法律第85号)。 を参照。 第四代: 台湾本島とをで占領し、1895年、(日清講和条約、明治28年勅令号外)により、に割譲させて獲得。 1938年、を台湾に編入した(昭和14年台湾総督府令第31号、台湾総督府告示第122号)。 の項を参照。 (奉天半島) 日清戦争で占領し、1895年、下関条約により清国に割譲させて獲得したが、を受けて、同年中の(明治28年勅令号外)により返還した。 この間、ごく短期ではあるが、領土であった。 1910年、(明治43年条約第3号)により領土に加え、(明治43年勅令第318号)により朝鮮に改称した。 の項を参照。 租借地 [ ] 租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。 中国からと一時()を租借した。 遼東半島先端の・近辺。 ロシアの租借地だったが、日露戦争で占領。 1905年、ポーツマス条約により清国の承諾を条件に租借権を譲り受け、日清間満洲ニ関スル条約(明治39年勅令号外)により清国の承諾を得て租借した。 租借期限は1923年までだったが、1915年に中華民国との南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約(大正4年条約第3号)により1997年まで延長された。 1932年の満洲国の成立に伴い、満洲国の一部を租借する形式に改定した(受諾により1945年に失効)。 南岸の近辺。 の租借地だったが、で占領。 1920年(大正8年条約第1号)により租借地とするが、2年後の(大正11年条約第3号)により中華民国に返還。 委任統治区域 [ ] 西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。 ドイツ領であったが、第一次世界大戦で占領、1920年(大正8年条約第1号)により、のに基づき統治する委任統治区域とした。 日本が国際連盟を脱退すると、連盟との関係における委任統治の根拠は薄くなったが、1933年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、委任統治はヴェルサイユ条約での批准事項であることを盾に引き続き委任統治を行った。 なお国際連盟への統治に関する年次報告は1938年まで行っている。 一部統治区域 [ ] 初代総裁・ (満鉄附属地) (満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地やなどからなる。 満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部としてにおける行政権を獲得した。 行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。 1937年、行政権をに移譲するとともに、を撤廃した(昭和12年条約第15号)。 専管租界を1897年とに、1898年とに、1901年に、それぞれ開設した。 また、の に参加していた。 には正式な租界ではないが、事実上の共同租界として機能した 公使館区域があった。 このほか、、に租界を設置する権限があったが設置しなかった。 租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。 1943年、中華民国()に対し租界を還付し治外法権を撤廃した(昭和18年条約第1号、同第2号)。 住民 [ ] 大日本帝国憲法下の日本で大日本帝国の国籍を有する者を 日本人、 日本国民、 日本臣民といった。 大日本帝国憲法では 日本臣民の名称が使用されている。 国籍の要件は(明治32年法律第66号)で規定された。 下のいずれに属するかによって法制度上異なる取り扱いを受けることがあった。 国民 [ ] 内地人 内地人とは(明治31年法律第12号)の適用を受ける国民である。 現在の日本国民にほぼ相当する。 内地人には、、の別があり、華族は議員たる資格を有するなど特殊な地位にあったが、士族と平民の間に差異はなく、法的にも1914年(大正3年)に族籍記載が撤廃された。 1947年の戸籍法改正により、これらの別は完全に消滅した。 樺太人 樺太人は樺太の在来住民であり、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件(明治40年法律第25号)などの法令では 土人と呼ばれた。 また 樺太土人ともいう。 樺太人は大日本帝国籍を有しなかったという説(百瀬後掲書)もあるが、当時の憲法学書では大日本帝国籍を有するものとしていた(美濃部後掲書)。 樺太人のうち8割近くが樺太であり、他に、(当時の通称はオロッコ族)などがいた。 1932年、樺太アイヌが内地人になり(昭和7年勅令第373号)、他は1943年の樺太の内地編入(昭和18年法律第85号)の際に内地人になった。 台湾人 台湾人はの在来住民である。 ともいう。 1895年台湾割譲の際に大日本帝国国民になった。 戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。 本島人のうち9割が、1割がである。 行政上はの発効により日本国籍を喪失したものとして扱われたが、判例上はの発効により日本国籍(旧大日本帝国籍)を喪失したとされている()。 朝鮮人 朝鮮人は朝鮮の在来住民である。 の韓国併合の際に大日本帝国国民になった。 戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。 朝鮮人のうち旧の皇族は、一部のや韓国併合に功績のあった者はに封じられた。 これらの人々は1947年、により、外国人扱いのに組み込まれ、1952年、の発効により日本国籍(旧大日本帝国籍)を喪失した(平和条約国籍離脱者)。 法令等では、台湾戸籍令(1905年)、民籍法(1909年、大韓帝国)のち朝鮮戸籍令(1923年)などにもとづく台湾戸籍や朝鮮戸籍に所属する「帝国臣民」であり、内地人を「戸籍法ノ適用ヲ受クル者」と称したのに対して、内地人以外の日本国民を総称して「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル者」などと言った(例: 23条、同52条)。 なお、公式文書でも、「内地人」、「台湾人」、「朝鮮人」などと表記された。 国民以外 [ ] 正式な領土とされなかった統治区域の在来住民は、大日本帝国籍が与えられず、国民として扱われなかった。 からの委任統治区域であったの在来住民を 島民といった。 島民は国籍がなかった。 島民の大部分はであり、他にがいた。 租借地である関東州や満鉄附属地の在来住民は当初籍、後に籍を経て、1932年にが建国された後には(1940年、満洲国籍に準じるもの) が導入された。 内国や台湾・朝鮮からの移住者は内国戸籍や台湾・朝鮮の民籍と二重登録されるなどした。 租界の在来住民は清国籍・中華民国籍とみなされた。 これらの大部分はである。 統治機構 [ ] 大日本帝國の統治機構 大日本帝国は1890年の帝国憲法施行に伴い、立憲君主国家に移行した。 帝国憲法上は国家元首であるが統治権全体を掌握する建前であったが(憲法第4条)、実質上は国家の各機関が権限を分掌していた。 これは「統治構造の割拠性」といわれる。 「明治憲法体制下においては、天皇は、親政をとらず、内閣等の輔弼に従って名目的な統括者として権力を行使する存在であった」「各輔弼機関は分立的・割拠的であったため、その調整は事実上、元老に委ねられていたが、元老の消滅に伴い、実質的な統治の中心が不在となってしまった」政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会(第五回)参考人。 内閣と宮中 [ ] 統治権に関する天皇の権限はの輔弼(補佐)に基づいて行使された(憲法第55条)。 は国務大臣で組織され(内閣官制第1条)、帝国憲法上とされた権限は原則として内閣の決定に基づいて行われた。 は国務大臣の首班であり、重要決定事項を天皇に報告し、その了解に基づいて行政を統制した(内閣官制第2条)。 内閣総理大臣の選任方法については、明文の規定はなく、(のち)と呼ばれる有力者たちが内閣総理大臣を選んだ。 の実際の役割は、内閣の決定に従ってこれに形式的な裁可を与えて国家意思を確定することであった。 ただし、天皇は単なる傀儡ではなく、当時のイギリス国王など他のと同様、政治上の決定に関与していた()。 天皇の側近には、やなどがおり、特に内大臣は昭和期に天皇の政治秘書として活動した。 その他、皇室の事務についてはが輔弼した。 なお、内大臣と宮内大臣は国務大臣ではなく内閣に関与しない。 天皇は帝国憲法に定める通り立憲主義を重んじ、国政に直接関与し、自身の意志のみによってこれを左右することを許さなかった。 帝国議会と枢密院 [ ] 立法権は、天皇がの協賛(同意)に基づいて行った(憲法第5条)。 帝国議会は・の二院制であり、貴族院はと勅任議員(元官僚など)で組織され、は公選された議員から組織された(憲法第33 - 35条)。 帝国議会はの制定について協賛(同意)する権限を持った(憲法第37条)。 国民の権利・義務に関わる事項は原則として法律によらなければ(すなわち帝国議会の同意がなければ)侵害されなかった(憲法第2章)。 また、帝国議会は毎年のに対しても協賛権を持った(憲法第64条)。 予算が不成立の場合は前年度の予算が施行されるが(憲法第71条)、前年度予算では行政が成り立たないため、帝国議会の予算審議が内閣の死命を制することとなり、これによりへの道が開かれた。 ただし、他の立憲諸国と比較すれば、以下の点で議会の権限は弱かった。 政府は法律の定めのない事項につきにより法規を定める権限を有した(憲法第9条)。 国際条約の締結に関して帝国議会の協賛は不要であった(憲法第12条)。 教育関係の規定は、国民の権利義務に関わる事項であっても、法律ではなく勅令で定められる慣習があり、帝国議会の協賛は不要であった。 改正については帝国議会の協賛は不要であった(憲法第74条)。 憲法改正については帝国議会に発案権がなかった(憲法第73条)。 もっとも、これらの事項に関しても政府が自由に裁量できるものではなく、帝国議会の代わりにの審議を経る必要があった。 枢密院は天皇の諮詢(相談)を受けて重要な国務を審議する機関にすぎないが(憲法第56条)、これらの事項に関して事実上の拒否権を有した。 枢密院は行政への関与を禁じられたが(第8条)、しばしば政府に干渉した。 裁判所 [ ] 司法権は天皇の委任により裁判所が行った(憲法第57条)。 民事・刑事の裁判については、を頂点とする通常裁判所が裁判したが(裁判所構成法)、欧州大陸型の司法制度に倣って、行政訴訟は特別のが扱った(憲法第61条、行政裁判法)。 陸海軍 [ ] 詳細は「」および「」を参照 陸海軍の統帥(憲法第11条)は国務大臣の輔弼の外に置かれ、統帥部が担当した( の独立)。 統帥部はのとのが並立し、戦時に両者は形だけ統合してが置かれた。 統帥部は内閣を経ないで天皇に決定を求める権という特権を有した。 陸軍大臣と海軍大臣は、国務大臣であるとともに統帥機関としての地位も有し、やはり帷幄上奏権を行使したほか、帷幄上奏を通じて統帥に関するの決定を求め、これに副署する権限を有した。 この勅令は総理大臣の副署を要しなかったが、1907年の制定によって全ての勅令に総理大臣の副署が必要になると、勅令とは別に「」という法形式を新設し(明治40年軍令第1号)、陸海軍大臣のみが副署する権限を保った。 この 統帥権の独立によって陸海軍に対するシビリアンコントロール()が機能せず、その結果軍部の独走を助長し、国内の混乱及び諸外国との軍事的衝突をいたずらに広める結果となった。 外地統治 [ ] からまでの軍事勢力版図(ロシア出兵、南洋諸島等を含まず。 概観図)。 勢力範囲は1938年時点で 1,984,000㎢ とする研究がある。 支那事変中の1940年にフランス領インドシナに進軍し、1941年にはやオランダ、に対して()を行いが勃発。 日本はをもとにの建設を目標に掲げ、これらの国や植民地へ本格的に進出し占領地を拡大した。 1939年-1945年• (1940年 - 1945年)• (大宮島)(1941年 - 1944年)• (大鳥島)(1941年 - 1945年)• (1941年 - 1943年)• (1941年 - 1945年)• イギリス(1941年 - 1945年)• イギリス保護国(1941年 - 1945年)• イギリス保護国(1941年 - 1945年)• (1942年 - 1945年)• (1942年 - 1945年)• (のみ)(1942年 - 1945年)• (1942年 - 1943年)• (1942年 - 1945年)• (鳴神島)(1942年 - 1943年)• アメリカ合衆国アラスカ準州(熱田島)(1942年 - 1943年)• (1942年 - 1945年)• (1942年 - 1945年)• (1942年 - 1945年)• 太洋島 (1942年 - 1945年)• (1942年 - 1943年) 占領地での政権樹立 [ ] で進出した中国大陸や、大東亜戦争で米英仏蘭のだった地域を次々すると、次々と政権を樹立した。 しかし連合国の反撃や日本のにより、独立宣言は無効とされた国が多い。 中国大陸• (1932年3月1日 - 1945年8月18日)• (1939年9月1日 - 1945年8月9日)• ()(1940年 - 1945年) フランス領インドシナ• (1945年3月11日 - 1945年8月30日)• (1945年3月12日 - 1945年8月)• (1945年4月8日 - 1945年8月) オランダ領東インド• (1945年8月19日にする予定だったが、日本の敗戦で8月17日に前倒しとなり、が勃発する) アメリカ自治領フィリピン• (1943年10月14日 - 1945年9月3日) イギリス領ビルマ• (1943年8月1日 - 1945年3月27日) イギリス領インド• (1943年10月21日 - 1945年) その他 [ ]• の領有により、大日本帝国はから新高山()へと変わった。 第二次世界大戦中、軍部の使用に便を図るため、東京のタクシー会社は4社に統合させられた。 構成4社(・・・)の社名は、「大日本帝国」を分割したものに由来するといわれている。 東京四社営業委員会を設立し、戦後も業界大手として営業し、タクシーチケット、タクシークーポンの共通化など連携した営業行動をとる。 現在でも、に属するタクシー会社4社の通称として「大日本帝国」と呼ぶことがある。 政府は1937年に軍艦建造の財源捻出のため、との売却を検討し日本に打診した。 日本は主に漁業基地としての有用性を認めたが、が ()と面会したところ、及びにも売却が打診されているとの説明がなされたため、しばらく静観するのが得策であるとの意見が出されていた。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 本記事でも記述しているが、日本では建国以来、過去一度も「国名」に関する法律(古代の法体系も含む)が制定された事は無く憲法にも「国名は日本国とする」などの条文が明記された事が無く、大日本帝国憲法下の日本では外交文書などで「日本国」「大日本国」などが併用されていた。 現在も使用されている(国家の表徴として押す璽(印章または印影))には「大日本國璽」(大日本国)と"大"が冠されている。 1789年(寛政元年)刊行のヨーロッパ地誌『泰西輿地図説』()で、"Keizerdom"の訳語として「」が初めて登場した。 1810年(文化7年)刊行の蘭和辞典『譯鍵』(藤林淳道)でも、「帝国」が訳語として採用された。 出典 [ ]• , p. 27-28. , p. 28-30. - 国立国会図書館デジタルコレクション• - 国立国会図書館デジタルコレクション• 日本経済新聞 2019年12月12日. 2018年8月20日閲覧。 近代デジタルライブラリー - 万延元年遣米使節図録 田中一貞 編、1920年• , p. - アジア歴史史料センター• 2014年8月18日時点の [ ]よりアーカイブ。 2014年8月29日閲覧。 枢密院会議筆記明治21年(1888年)6月18日午後。 - 『成城大學經濟研究』 199 , 31-58, 2013-01,• 『日本書紀』• - 桐原健真• 外務省条約局作成(昭和11年5月)「我国国号問題二関スル資料」(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」所収)。 昭和21年7月23日提出『衆議院議員田中伊三次外一名提出憲法改正案に関する質問主意書に対する答弁書』。 大辞林• 前野みち子『言語文化研究叢書』 第5号(2006年3月)「日本像を探る」• 旧都については 昭和22年5月2日廃止 第11条では「卽位ノ禮及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と規定され典憲の上で配慮されていた。 この点につき「皇室典範義解」は「維新の後明治元年8月27日即位の礼を挙行せられ臣民再ひ祖宗の遺典を仰望することを得たり13年車駕京都に駐まる旧都の荒廃を嘆惜したまひ後の大礼を行ふ者は宜く此の地に於てすへしとの旨あり勅して宮闕を修理せしめたまへり本条に京都に於て即位の礼及大嘗祭を行ふことを定むるは大礼を重んし遺訓を恪み又本を忘れさるの意を明にするなり」と説明している。 枢密院議長伊藤伯著「帝国憲法皇室典範義解」(国家学会刊行 明治22. 1)P. 157-158• 石村修、「」法制理論 39 pp. 158-185, 2007-03. 新潟大学法学会 : ,• 「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)• 1924年に台湾で使用された地理教科書によれば「我が大日本帝国はアジア州の東部に位して、太平洋中に長くつづいている大小数千の島々と、朝鮮半島から成り立っています。 島の主なものは本州、四国、九州、台湾、北海道本道、樺太です。 全国の面積は4万三千余方里で凡そその三分の一は本州、三分の一は朝鮮、残り三分の一はその他の地方です」。 韓炫精、「」『研究室紀要』2014年7月 40巻 p. 423平方キロメートル。 『海外各地在留本邦人人口表. 昭和6年10月1日現在』(者:外務省通商局第三課 [編]。 出版者:外務省通商局)の『例言』(昭和7年12月に通商局第三課が記したもの)に「2. 本表ニハ海外在留本邦内地人ノ「国別人口」、「在外公館別男女人口」、「職業別人口」及「明治三十七年乃至昭和六年ニ於ケル比較数」ヲ集録シタリ 朝鮮人及台湾人ニ付テハ其ノ多数カ在外公館ニ対シ正規ノ登録ヲ為ササル為在留者ニ対スル正確ナル計数ヲ得難ク仍而本表ニハ現ニ登録済ミノ者の数ヲ掲ケタリ」と書かれている。 『海外各地在留本邦人人口表. 昭和13年10月1日現在』(著者:外務省調査部第二課 [編]。 出版者:外務省調査部)の『例言』(昭和14年10月に外務省調査部第二課が記したもの)にも「三、朝鮮人及台湾人ハ其ノ多数カ在外帝国公館ニ対シ正規ノ登録ヲ為ササル為メ在留者ニ対スル適確ナル計数ヲ得難ク本調書ニハ現ニ登録済ミノ者人口ノミ掲記セリ」と書かれている。 ただし満洲国には国籍法が存在しなかったため、法的な「満洲国民」は存在しなかった。 を参照のこと。 この概念の先駆はである。 西本筆、「」『北海道大学教育学部紀要』1990年2月 54巻 p. 97-111 P. 98 , 北海道大學教育學部。 辻の階統制と割拠性についての解説としては 小西徳慶、「」『政經論叢』 2011年3月 79巻 3-4号 p. 115-160 , 明治大学政治経済研究所。 「戦前の統治構造における割拠性については改めて言及するまでもなかろう。 明治22年の内閣官制、非連帯責任制の採用、統帥権の独立、枢密院・貴族院の存在等々、幾多の障壁が内閣の一体性の確保を阻害していた」大河内繁男、「」『上智法學論集』 1985年 28巻 1-3号 p. 133-154, , 上智大學法學會• 中曽根康弘、石原慎太郎共著『永遠なれ日本』(PHP研究所 2001年)p. 115• 台湾研究フォーラム• Harrison, Mark 2000. Cambridge University Press. 2016年10月2日閲覧。 - 日本経済新聞電子版(2013年10月25日)• 2013年3月5日閲覧。 NHK 2018年4月26日. 2020年1月25日時点のよりアーカイブ。 2018年4月28日閲覧。 参考文献 [ ]• 美濃部達吉著『憲法撮要』改訂第5版、有斐閣、1932年(復刻1999年)• 百瀬孝著・伊藤隆監修『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』吉川弘文館、1990年• ジョン・トーランド著『大日本帝国の興亡』ハヤカワ文庫、毎日新聞社訳、1984年• 前野みち子、「」『言語文化研究叢書』 2006年3月 第5号 p. 27-62, 名古屋大学大学院国際言語文化研究科• 我国国号問題ニ関スル資料(外務省記録「条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件」外務省条約局第一課昭和11年5月 アジア歴史資料センター所収)レファレンスコード「B04013401600」で検索可能• 板垣竜太、戸邉秀明、水谷智、「」 同志社大学研究紀要論文 『社会科学』 2010年 88巻 p. 27-59, , :, 同志社大学人文科学研究所• 長谷川伸、「」『法政史学』 1992年 44巻 p. 97-111, , 法政大学史学会 関連項目 [ ]•

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新皇居於テ正殿憲法発布式之図 1889年 明治22年 、画 大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、:大日本帝󠄁國憲󠄁法)は、1889年(22年)2月11日に、1890年(明治23年)11月29日にされたの。 略して「帝国憲法」、明治に発布されたことから俗称として「明治憲法」とも。 また、現行のとの対比で 旧憲法 ( きゅうけんぽう )とも呼ばれる。 東アジア最初の近代憲法である。 1947年(22年)5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間 、一度も改正されることはなかった。 1947年(昭和22年)5月2日まで存続し、1946年(昭和21年)11月3日にの憲法改正手続による公布を経て、翌1947年(昭和22年)5月3日にが施行された。 大日本帝国憲法の施行期間を通算すると20972日となる。 大日本帝国憲法「本文」4頁目 明治維新による国制の変化 日本では、明治初年に始まるにより、さまざまな改革が行われ、旧来の国制は根本的に変更された。 3年(1867年11月9日)、第15代のがに統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した()。 同年(1868年1月3日)には廃止され、新政府(明治政府)が設立された()。 新政府は天皇の官制大権を前提として近代的なの構築を目指した。 これにより、日本は、封建的なに基づく代表的から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。 は官制大権が天皇に属すると規定している。 明治2年(1869年7月25日)、「」がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地とに対する統治権をすべてに奉還した。 これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(の権・権・権)を行使することを意味する。 さらに、4年(1871年8月29日)には「」が行われ、名実共に藩は消滅し、がに集中された。 およびは、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定している。 版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。 は臣民のを保障し、は臣民の居住移転の自由を保障している。 新政府は版籍奉還と同時に、とをといったが授与された特権階級)に、武士をに、足軽などをに、その他の人民を「大日本帝国(日本国民)」としてに改組した。 明治4年(1871年)には士族の公務を解いて・・の自由を与え、また平民も等しく公務に就任できることとした。 明治5年(1872年)にはを採用してとなったため、士族による的の独占は破られた。 このようにして武士の階級的な特権は廃止された。 は人民の等しい公務就任権を規定し、はの義務を規定した。 (:「」と:「」の)の開設に先立ち、1884年(明治17年)には「」を定めて華族を「」・「」・「」・「」・「」の5爵のに再編するとともに身分的特権を与えた。 大日本帝国憲法34条は華族の列席特権を規定した。 明治の変革 「」によって設置された総裁・議定・参与ののうち、実務を担うの一員となった・・らは、の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5か条にまとめた。 4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったのが である。 一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス 一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ — 「五箇条の御誓文」 政府は、この五箇条の御誓文に示された諸原則を具体化するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、 を公布して統治機構を改めた。 すなわち、の考えを入れたを設置し、そのうちの一官を公議輿論の中心となる立法議事機関としてとすることなどを定めた。 議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定と参与で構成とし、下局は各藩の代表者1名から3名からなるをその構成員とするものだった。 しかし終結の見通しがつき始めると、政府は公議輿論の尊重には消極的となり、結局同年9月に議政官は廃止されてしまった。 明治2年3月(1869年4月)には議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関としてが設置された。 これは各藩の代表者1名により構成されるもので、これが同年9月にはに改組される。 明治4年7月14日(1871年8月29日)にが実施されると、同年には太政官官制が改革された。 太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。 1874年(明治7年)、前年のでの争議に敗れて下野した・・・らは連署により を左院に提出した。 この建白書には、新たに官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張されていた。 これを契機として薩長による政権運営に対する批判が噴出、これがとなって盛り上がり、各地で政治結社が名乗りを上げた。 さらにこの頃には各地でによる反乱が頻発するようになり、日本のはきわめて悪化した。 その代表的なものとしては、1874年(明治7年)の、1876年(明治9年)の、1877年(明治10年)のなどが挙げられる。 ……茲ニヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メヲ置キ以テ審判ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ圖リ漸次ニ國家立憲ノ政體ヲ立汝衆庶ト倶ニソノ慶ノ賴ラント欲ス…… — 「立憲政体の詔書」(抄) すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的にに移行することを宣言したのである。 これは、やら政府要人と、や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した大阪会議の結果だった。 また地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)にはを公布して各府県に民選のである 府県会を設置した。 これが日本で最初の民選議会となった。 私擬憲法 1874年(明治7年)からの「 」において、さまざまな憲法私案( )が各地で盛んに執筆された。 しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。 政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の、、1880年(明治13年)のなどさまざまな法令を定めた。 1887年(明治20年)のでは、民権運動家はより退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。 私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。 政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、に関する規定が詳細なことはおおむね共通する。 天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある。 「自由民権家は皆を闘った家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。 例えば、草の根の人権憲法として名高いらの憲法草案(いわゆる)でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは大日本帝国憲法と同様である。 国憲起草への動き 1876年(明治9年)9月6日、は「元老院議長へ国憲起草を命ずるの」を発し、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じた。 朕、 爰 ここニ我カ建國ノ體ニ基キ、廣ク海外各國ノ成法ヲ斟酌シ、以テ國憲ヲ定メントス。 ソレ宜ク汝等之カ草案ヲ起創シ、以テ 聞 ぶんセヨ。 朕、將ニ之ヲ撰ハントス — 国憲起草を命ずるの勅語 元老院はこの諮問に応え、を設置し、同時に・やらを中心に、治罪法()や、などの構築作業がフランスやベルギーのを基盤に置いて展開された。 これに対し、英語・ドイツ語圏の側は、1877年に前身の博愛社を設立し、また駐ドイツ帝国公使は1878年10月、ドイツ人(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)を日本に送り込むという動きを見せた。 1880年(明治13年)、元老院は「 日本国国憲按」を成案として提出し、また、・も「憲法意見」を提出した。 しかし日本国国憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強権を定めるなど、憲法(1831年)やドイツ帝国統一前の憲法(1850年)の影響を強く受けていたことから・らの反対に遭い、大隈の意見もまた採択されるに至らなかった。 国会開設の勅諭 1881年(明治14年)8月31日、伊藤博文を中心とする勢力はによって大隈重信を罷免し、その直後にを開いて国会開設を決定した。 この協会には法律家のみならずドイツ人造船技術者なども参加していた。 その結果、10月12日に次のような「 」が発された。 この勅諭では、第1に、1890年(明治23年)の国会()開設を約束し、第2に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第3に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。 この勅諭を発することにより、ドイツ勢力は政局の主導権を取った。 制定までの経緯 1882年(明治15年)3月、独逸学協会名誉会員でありのらは「在廷臣僚」として、政府の命をうけてに渡り、ドイツ帝国系立憲主義、の理論と実際について調査を始めた。 伊藤は、の、のの両学者から、「はその国の・・に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。 その結果、()の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価するをたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない。 またとドイツのは性質も異なる)。 伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。 翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。 1885年(明治18年)にはを廃止して が創設され、が初代(首相)となり、同じく独逸学協会のも再任され、やも来日した。 1886年には長の在職中の自殺事件が起きるが、井上は、政府の法律顧問となったロエスレルや(Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。 この草案を元に、()にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、、らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。 当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、(現:)の東屋旅館に移り作業を継続、しかしメンバーがへ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生、民権派の犯行も疑われたが、見つかったカバンからは金品のみなくなっていたことからであったとされる。 そのため最終的には夏島に移っての作業になった。 その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。 その直後、伊藤は天皇の諮問機関としてを設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。 枢密院での審議は1889年(明治22年)1月に結了した。 ロエスレルらの提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどがの下で受け入れられた。 ウィキソースに の原文があります。 憲法発布式に関わった皇族や官吏に授与された(金)。 1889年(明治22年)2月11日、より「 大日本憲法発布の」 が出されるとともに 大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。 この憲法はが首相に手渡すというの形で発布され、日本はで初めてを有するとなった。 また、同時に、皇室の家法であるも定められた。 また、、貴族院令、衆議院議員選挙法、なども同時に定められた。 大日本帝国憲法は実施後の第1回が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。 国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。 当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った。 自由民権家のは「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。 他方、は主宰する『』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。 もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。 玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。 国民の愚かなるにして狂なる。 何ぞ斯くの如きなるや」と書生のに溜息をついている。 制定後の出来事 1880年当初の憲法草案と同時期に成立した1880年治罪法は、帝国憲法施行の1890年に刑事訴訟法と置き換えられて消滅した。 または、帝国憲法と同時に一旦公布はされたものの、の転回や山田の政策と相まってが生じ、施行されないまま廃止された。 ここで人権保護的な法規は非常に減じたことになる。 1891年(明治24年)、日本を訪問中の皇太子・ニコライ(のちの)が、で警備中の巡査・に突然斬りかかられ負傷した。 いわゆる である。 この件で、時のは対露関係の悪化をおそれ、の適用と、津田に対するを求め、に圧力をかけた。 しかし、長のは、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。 かくして、津田を無期徒刑(無期)とする判決が下された。 この一件によって、日本が立憲・法治国家としてと司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。 もっとも、本件は当時の司法権の独立の危うさを語っている。 また、大審院長が裁判に介入したことから、個々の裁判官の独立は守られていないことに注意を要する。 1930年(昭和5年)、を締結した政府に対し、と、団体が、政府によるの干犯であると難じ、・が右翼団体員に襲撃される事件が起きた。 いわゆる 干犯問題である。 これ以後、立憲政党政治は弱体化してゆくこととなる。 1935年(昭和10年)、議員でのが、当時、通説的地位を持っていた統治機構に関する学説であるをに反するものと非難。 機関説の主唱者であり、貴族院議員でもあったは反論の演説をするも、攻撃の声は止まず、貴族院議員を辞職した。 また、岡田内閣も右翼・軍部の攻撃を恐れ、を出し、美濃部の著書を発禁処分とした。 いわゆる である。 ちなみに、昭和天皇はこのとき、「機関説でよいではないか」と側近に漏らしていたという。 近代立憲国家の一般的な理解でさえも押し潰されたこととなり、ここに大日本帝国憲法による立憲政治はその実質を失ったことを示す。 日本国憲法への移行 1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。 1945年(昭和20年)8月、日本政府が を受諾してを迎えた。 政府は内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。 政府は松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「 憲法改正要綱()」として総司令部に提出した。 この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、さまざまな憲法改正案が発表された。 政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付『』が「松本委員会試案」なるものをスクープした。 スクープされたものは松本委員会の委員の一人であるが作成した試案であって、松本試案とは異なるものであった。 そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。 しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。 総司令部はその記事に示された「松本委員会試案」は受け入れがたいと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。 総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「 」をまとめた。 2月13日、総司令部は、松本国務大臣と首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。 政府は「松本試案」の再考を求めたもののいれられず、あらためて、「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「 日本側草案(3月2日案)」を作成した。 政府は総司令部と折衝の上、3月6日に「 憲法改正草案要綱(3月6日案)」を政府案として国民に公表した。 「憲法改正草案」をみると、方式ではなく、新法制定形式を採用しているようである。 」と記述しなければならないが、本草案中には「大日本帝国憲法は、廃止する。 」という文言はない。 この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日にはが行われた(もっとも、国民の最大の関心は新憲法より生活の安定にあった)。 政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「 憲法改正草案」を公表した。 4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。 6月20日、政府は、の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。 6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。 続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。 翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。 憲法改正案はふたたび枢密院にはかられ、10月29日に可決された。 天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法は改正され として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 大日本帝国憲法の問題点 内閣と総理大臣についての規定の欠落 大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣」の規定がない。 これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法(、1871年)を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。 グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。 なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。 あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」と助言した。 この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になったが、のちにこの欠陥に気づいた軍部が「陸海軍は天皇に直属する」という規定を盾に政府を無視して暴走することになった。 こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。 昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。 そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。 これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える。 ビスマルク憲法のほうは大日本帝国憲法成立後の改正によって大臣解任権が議会に与えられたが、日本においては現在も事実上の大臣解任権を持つ(国会) や、独立の大臣等罷免審査の機関()が存在しない。 詳細は「」を参照 前述するとおり、憲法の改正はの規定によって行われた。 この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可することになっており、実際、憲法改正の上諭文には、「 朕は…憲法の改正を 裁可し…」との記述()がなされた。 この表現が、日本国憲法前文の「 日本国民は…この憲法を確定する」()の文言と矛盾することが一部学説で問題とされた。 憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則()を変更する憲法改正は法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。 この学説では、憲法の「改正権」という概念は「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは法的に許されないとする。 このため、これらの矛盾を説明するために「」が主張されるようになった。 したがって、帝国憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は改正ではなく「新たに制定」、両者の間の法的連続性は「実質的にはなし」という解釈が取られている。 ちなみに、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定にのっとり改正された以上、憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。 なお、各国の憲法の中には「憲法改正の限界」を憲法に明記しているものも存在する。 現行法制度との関係 大日本帝国憲法は、に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。 日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。 大日本帝国憲法の下で成立した法令は、により、「その条規に反する」ものについて同時に失効している。 また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。 効力を有する場合、法律は法律として扱われ、はとして、は省令として扱われる。 勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものはとして扱われた。 などのいわゆる(ポツダム命令)は、法律または政令として扱われる。 特徴 大日本帝国憲法下の統治機構図。 カッコで括った機関は、憲法に規定がない。 この憲法はの要素との要素をあわせもつであり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。 日本国憲法成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、的と評された。 構成 大日本帝国憲法は7章76条からなる。 構成は以下の通り。 初期のビスマルク憲法と同様に内閣及び首相に関する規程がない(なおビスマルク憲法のほうは、後になって議会に大臣解任権が与えられた)。 なお、既存項目が存在する条文のみ列挙した。 全文はのを参照のこと。 第1章 天皇• 天皇主権• 皇位継承• 統治大権• 官制大権及び任免大権• 編制大権• 外交大権• 戒厳大権• 第2章 臣民権利義務• 公務への志願の自由• 兵役の義務• 居住・移転の自由• 言論・出版・集会・結社の自由• 非常大権• 第3章 帝国議会• 貴族院• 第4章 国務大臣及枢密顧問• 第5章 司法• 第6章 会計• 第7章 補則• 憲法改正 立憲主義の要素 立憲主義の要素としては次の諸点がある。 言論の自由 ・や信書の秘密など臣民の権利がのもとで保障されていること(第2章)。 これらの権利は天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」としてその享有が保障されていた。 ではこれらの権利を永久不可侵の「」と規定する。 また、権利制限の根拠は、「法律ニ定メタル場合」、「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。 この点も、基本的人権の制約を「公共の福祉」に求める日本国憲法とは異なる。 ただし、現憲法の「公共の福祉」による制限も法律による人権の制限の一種であり、現在、教育の現場で解説されるような、「旧憲法のそれは非常に制限的であり、現憲法のそれは開放的である」とする程の本質的な差はないとする意見もある(ただし、比較的な傾向としては肯定する)。 その立場からは、「人権が上位法の憲法典の形で明文で保障された」点に第一の意義があり、また内容としては当時においてはかなり先進的なものであったとする。 議会制 を開設し、は皇族華族及び勅任議員からなり、は公選された議員からなること(第3章)。 帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。 また、帝国議会は予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。 衆議院が予算先議権を持つ以外は、貴衆両院は対等とされた。 上奏権や建議権も限定付きながら与えられた(最終的には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であったが、建議権を通じた事実上の政策への関与が可能とされた)。 大臣責任制・大臣助言制 天皇のの行使にの(天皇が権能を行使するに際し、助言を与える事)を必要とする体制(または)を定めたこと(第4章)。 やに関する規定は憲法典ではなくに定められた。 内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの同輩中の首席とされ、国務大臣(各省大臣)に対する任免権がないため、明文上の権限は強くない。 しかし、内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。 司法権の独立 司法権の独立を確立したこと。 司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。 また、欧州大陸型の司法制度を採用し、の管轄は裁判所にはなくの管轄に属していた。 この根拠については著の『』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。 国体の要素 の要素としては次の諸点が挙げられる。 万世一系 「天壌無窮の神勅」 日本書紀に書かれた、天照大神が孫のニニギノミコトに言ったという言葉。 「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。 宜爾皇孫、就而治焉。 寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。 」 「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ、吾が子孫の王たるへき地なり。 宣しく爾皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。 行(さまく)矣(ませ)。 宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当に天壌(あまつち)と窮り無けむ。 」 大日本帝国憲法では皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。 『』(憲法前文)には以下のような文章がある。 …天壤無窮ノ 宏謨 ( こうぼ )ニ 循 ( したが )ヒ 惟神 ( かんながら )ノ寳祚ヲ承継シ… — 『大日本帝国憲法』告文、日本の憲法 輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位を継承し… そして、で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。 近代的な政治文書で「」のような詩的な文言が用いられたのはこれが初めてである。 「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。 学校や兵舎でも公式な告知や発表文でも広く使われて周知されていった。 総攬者 「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の、統治権の総攬者としての地位に置いた。 この天皇が日本を統治する体制を 国体という。 天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。 一つは起草者の一人であるらが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは、後に、、らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。 井上らの国体論は、神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。 これに対して、高山らの国体論は、当時、広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。 憲法制定当初は井上らの国体論を基礎的原理とした。 しかし、後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、以後は、「君民一体の一大家族国家」(「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。 天皇大権 が天皇大権と呼ばれる広範な権限を有したこと。 特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。 なお、天皇の権限といっても、運用上は天皇が単独で権限を行使することはなく、()が天皇の了解を得て決断を下す状態が常であった。 立法権 立法権を有するのは天皇であり、は立法機関ではなく立法協賛機関とされた。 立法権を有するのは天皇であるが、法律の制定には、帝国議会の協賛を得たうえで天皇の裁可を要するものとされた。 同時代の君主国憲法の多くが立法権を君主と国会が共有する権能としていたことと比すると特異な立法例であるといえるが、帝国議会の協賛がなければ法律を制定することができないこと、帝国議会が可決した法律案を天皇が裁可しなかったことは一度もなかったことから、事実上、帝国議会が唯一の立法機関であった。 ただし、例外として、天皇には、やを発する権限など、実質的な立法に関する権限が留保された。 また、憲法改正の発案権は天皇のみにあり、帝国議会にはなかった。 さらに、帝国議会の一院に公選されないを置き、衆議院とほぼ同等の権限を持たせた。 また、など内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。 このほか、、、など法令に規定されない役職や機関が多数置かれた。 統帥権 を独立させ、・は議会(立法府)や政府・内閣(行政府)に対し、一切責任を負わないものとされた。 統帥権は慣習法的に軍令機関(・)の専権とされ、(シビリアン・コントロール)の概念に欠けていた。 元来は政争の道具として軍が使われないようにと元勲が企図したものだが、統帥権に基づいて軍令機関は帷幄上奏権を有すると解し、とともに軍部の政治力の源泉となった。 後に、に入ってから、軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は大元帥である天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。 皇室自律主義 皇室自律主義を採り、などの重要な憲法的規律を憲法典から分離し、議会に関与させなかったこと。 宮中(皇室、、)と府中(政府)の別が原則とされ、互いに干渉しあわないこととされた。 もっとも、宮中の事務をつかさどるが内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられた。 分立主義 「」も参照 本憲法の統治構造は、国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が各々独立して天皇に輔弼ないし協賛の責任を持つという形をとっており、必然的にどの国家機関も他に優越することはできなかった(分立主義)。 そして、実際には天皇が能動的に統治行為を行わない以上()、権力の分立を避けるために憲法外に実質的な統合者(など)を必要としていた。 そしてこの、権力が割拠し、中枢を欠くという問題を解決するために、権力の統合を進めようとする動きがあった。 はその試みのうちの有力なものである。 しかし、そういった動きに対しては、天皇主権を否定し、「幕府的存在」を作ることになるとの反発などもあり(例:における大宰相主義の否定、違憲論など)、ついに解消されることはなかった。 起草前後の政情 『憲法草創之處』碑() 当時、欧米諸国以外で立憲政治を実現した国はなかった。 1876年に()がを制定し立憲政治を始めたが、わずか2年で憲法停止・議会解散に追い込まれていた。 (ただしには制度など比較的民主的な制度が存在した)。 明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていたため、民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文にいわせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」であった。 また、一部の保守派には絶対君主制を目指す動きがあった。 伊藤はが日本の現状に適合しているとして憲法制定を推進した。 それまで日本は幕藩体制の中でばらばらの状況であり、一つの国家と国民という結びつきができていなかった。 そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を制定する必要があった。 憲法の起草は、夏島(現在の夏島町)の別荘を本拠に、1887年(明治20年)6月4日ごろから行われた。 伊藤の別荘は手狭だったことから、事務所として料理旅館の「東屋」(現在の)を当初は用いていた。 しかし、8月6日、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難にあったことから、その後は伊藤別荘で作業が進められた。 鞄は後に近くの畑でみつかり、草案は無事だったという(脚注を参照)。 東屋には、憲法ゆかりの地であることを記念して、1935年(昭和10年)に、起草メンバーの一人であった書による「憲法草創の処」の碑が建てられた。 その後、東屋は廃業し、一時的に、野島公園(同区)に碑も移転したが、現在は東屋跡地に近い洲崎広場に設置されている。 なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に、に移築され、(大正)で焼失しているため現存しない。 夏島の跡地には明治憲法起草地記念碑が建てられている。 また、のちに、伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。 脚注 [] 注釈• 大日本帝国憲法には、表題に「」が使用されているが、では「大日本憲法」と称しており、正式なと規定されたものではない。 1936年(昭和11年)から第二次世界大戦終戦までは外交文書において「大日本帝国」に統一されたが、それ以外では「日本国」「日本」等の名称も使用された。 正確には56年5か月4日(20608日)• 当時のとドイツ帝国の貴族は同族氏族関係にあった。 制定の過程において新聞紙上及び民権運動家から様々な批判があったにもかかわらず、発布に際しては国を挙げた奉祝ムードにあったことを、当時、医学部で教鞭を執っていたが記している(『ベルツの日記』)。 衆議院には内閣不信任権が憲法で明記されている。 柴田勇之助 編、「大日本憲法發布の詔勅」『明治詔勅全集』、p26-27、1907年、皇道館事務所。 『世界史に躍り出た日本』第5巻 明治編、〈渡部昇一「日本の歴史」〉、2010年5月21日。 (第8章1『日本王朝の太古的古さ』)を参照。 この章は、を参照。 参考文献• ピゴット『』、伊藤博文『秘書類纂』。 官報、1890年10月11日。 『帝国憲法義解』、1889年4月24日。 伊藤博文『帝国憲法皇室典範義解』、1889年6月1日、5版。 - 国家学会蔵版。 伊藤博文『帝国憲法皇室典範義解』丸善、1935年4月22日、増補15版。 - 国家学会蔵版。 伊藤博文『帝国憲法義解 新訳』訳註、日本国学振興会、1938年5月5日。 伊藤博文『』校註、岩波書店〈〉、1940年4月15日。 『』上巻、、1960年4月、オンデマンド版。 稲田正次『』下巻、有斐閣、1962年1月、オンデマンド版。 『』〈講談社選書メチエ286〉、2003年12月。 『』(上)憲法と現人神、講談社〈講談社現代新書1534〉、2001年1月。 『』〈PHP新書201〉、2002年4月。 関連項目 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキソースに の原文があります。 -大日本帝国憲法を基にして制定された。 外部リンク• 伊東巳代治関係文書『』• ニッポニカ 『』 -• 第2版『』 -• 伊藤博文 著『』 - 近代デジタルライブラリー• 『』、最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会(2003年(平成15年)5月) - 衆議院憲法調査会事務局.

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大日本帝国 あらすじ

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上映データ [ ]• 公開日:(昭和57年)()• 上映時間:180分、、• 映倫No. 110827 概要 [ ] 「シンガポールへの道」と「愛は波濤をこえて」との二部構成の長編。 『』の大ヒットを受けて製作された。 前半に東映が8月に公開していた一連の監督、脚本の戦争映画の1本で、さらに続いて製作された『』を加えて、東映の、同監督・同脚本による、戦史映画三部作となる。 製作の経緯 [ ] 『』の大ヒットを受けてに が東映社長(当時)と企画部長(当時)と繰り出したおり、岡田から「もう一度戦争映画を作ろう」と指示を受けた。 岡田はさらにをテーマとした脚本執筆を指示し、企画がスタートした。 タイトルも岡田の命名。 『二百三高地』の翌年に公開の予定で企画されたが、東宝が「8. 15シリーズ」と称する戦記映画の一環として『』を公開したため、競合を避けて翌々年の公開となった。 また、軽快なマーチ()に乗せて米兵が日本兵の頭蓋骨をボール替わりに戯れる場面なども描かれ、「反米色もきわめて濃厚」である。 あらすじ [ ] によって窮地に立たされた日本政府は、対立するアメリカとの和解を模索していたが、対米開戦を強力に主張するを中心とした勢力に屈し、は総辞職した。 そこで強硬派の急先鋒であるをあえて首相に任命したは、そのうえで対米開戦を回避するよう指示した。 これに最初は応えていた東條首相だったが、いずれ国内の強硬派を抑えきれなくなると読んでいたアメリカは、先制攻撃をさせるため日本を挑発する。 そしてついに、海軍によるを天皇は了承してしまい、は開戦した。 その当時、東京のではの小田島剛一がの任命式を受けていた。 同じ頃、ではであるの・江上孝が、恋人の目前でに連行された。 このあと江上は、不本意ながら処世術として軍隊に志願する。 多くの庶民も戦争にかり出された。 その一人である床屋の小林幸吉は、見合いによるの直後に東南アジア戦線へ出征した。 小田島の指揮する中隊の所属となった小林らは、自転車などを駆使してに従軍する。 で、イギリス軍が地元住民に防衛を任せており、激しく日本軍に抵抗する地元民に衝撃を受け、自分らが考えていたからの解放の戦争という単純な図式は成立せず、今後戦争が長引くことを予感する。 また、イギリス軍のブキテマ高地における最後の猛反撃の中で日本軍はだまし討ちに遭い、小林の所属する分隊の桐山軍曹らが戦死し、小林も負傷したが、そのことにより小林らはイギリス軍に対する憎しみを募らせていった。 その頃小林の新妻となった美代は妊娠しており、戦地の夫を心配していた。 彼女はラジオで大本営発表が「大元帥陛下」と言うのを聞き、どうして天皇は戦場で直接指揮を執らずに宮城にいるのかと疑問に思う。 その後、シンガポールから帰還して陸軍病院で静養してた小林に面会に行くと、戦友の死や敵兵に対する憎しみにより、第一線で闘う軍人の思考に変わっていた夫を強く窘めた。 東南アジアでは順調な進撃を続けていた日本軍であったが、やで米軍に致命的な敗北を喫すると、攻守が逆転し日本軍の戦況は不利となっていった。 この事態打開に藁をもつかむ思いの東條は、当時対立していたに助言を求めるが、石原莞爾からは、撤退すべきと現実を突き付けられ厳しい言葉を浴びせられただけであった。 東條は石原に対して別れ際に「ただ私は総理だ。 私への反逆はお上への反逆になるということを、忘れんでくれ給え」と言い放ち、結局孤立を深めてしまう。 米軍はついにの一角に攻めてきた。 サイパン島には小田島とシンガポール戦での負傷後一旦は除隊した小林が再召集され配置されていたが、「100匹の猫が1匹の鼠を食い殺す」ような戦力差と言われたの中で日本軍は組織的な抵抗力を失い、小田島ら日本軍の敗残兵は、サイパン島に居住していた日本の一般市民と共にジャングルを彷徨い歩くこととなる。 進退窮まった多くの残存日本兵と一般市民はを合唱しながらを敢行するが、アメリカ軍の十字砲火で次々と倒れていった。 残った一般市民もバンザイクリフで次々と自決する中、小田島と小林とで小料理屋を営んでいた小田島の恋人国吉靖子らは懸命に生き抜こうとするが、飲み水を汲みに行った際に康子はアメリカ軍に発見され、手榴弾で自決してしまう。 ここに及んで軍人としての忠節を貫く事に疑問を感じた小田島は自ら階級章をはぎ取り、アメリカ軍に投降の話し合いに行くが、砂浜で日本兵の頭蓋骨を弄ぶアメリカ軍兵士のカップルを見て逆上し、カップルに対し発砲したが、絶命寸前の女性兵士に反撃されて死んでしまう。 この後サイパン島はアメリカ軍の手に落ち、この責任を問われた東條は、首相を辞すことになる。 一方、江上は予備学生として海軍航空隊に入り、フィリピンでに志願し出撃するが、悪天候で引き返してしまう。 それを不満に思った戦闘機パイロット大門勲に詰め寄られ、二人は対立を深めていった。 その後アメリカ軍の進撃で飛行場を追われ、ジャングルに逃げ込んだ江上らは、秘密保持の為に連れてきた現地民を虐殺する。 その中には江上の恋人柏木京子に瓜二つのマリアがいたが、大門よりの部隊を守る為という強硬な申し出に対して、江上は虐殺を容認してしまう。 フィリピンを失った日本はその後硫黄島や沖縄も失った。 本土への空襲も激化し、で美代は焼きだされてしまう。 その後、広島と長崎へ原爆も投下された。 こうした事態をうけて、が開かれた。 ここで天皇は、これ以上の犠牲を出したくないと言って泣く。 これにより、徹底抗戦を叫ぶ者たちも戦争続行を諦めざるを得なかった。 この結果、日本はしたが、内で天皇の責任を問う声が高まっていた。 このような流れの中で、陸軍大臣が、開廷が予想される軍事裁判で、日本側の立場を主張できるのは東條のみと敢えて恥を忍んで法廷に立つことを説得していた。 その後、GHQのMPが戦争犯罪人として逮捕に押し掛ける非礼に憤慨した東條は拳銃で自決を図る。 重症を負った東條を、なんとしてもとして裁判にかけたいアメリカ占領軍は、当時最高の医療を施して救命した。 こうして囚われの身となった東條は、の法廷で、天皇は大戦前に詠った和歌から判るように開戦は望んでいなかったこと、東條ら当時の軍の開戦の決定を不承不承認めた事を説明し、「全ての戦争責任は自分にあり、陛下や他の者に責任を問うのは間違っている」「戦争は相手のあるものだから、連合国の指導者も法廷に立たないと真実の究明にならない」という主張も虚しく、絞首刑の判決を受ける。 その後、面会に来た妻子に、自分がに帰依したことを伝え、「仏様の偉大さに比べたら、この世の帝王なんて実に小さい」と全てを達観した表情で説き、経を念じながら死刑台の階段を上がっていった。 天皇の戦争責任については、アメリカの日本の占領統治には天皇の存在が不可欠という政治判断もあり不問とされた。 同じころ、東南アジアでとなった日本の兵士たちが、無抵抗の現地人を殺害したとして戦争犯罪に問われていた。 江上と大門もマリアらを虐殺した罪に問われていたが、大門は軍事法廷を「インチキ裁判」と詰り、江上だけは生き残るようにと説得する。 その後、天皇が援軍を率いて救出に来ると信じて疑わない大門は、江上に脱獄を提案する。 しかし脱走を試みるも失敗に終わり、大門は看守に殺害され、江上は戦犯としてを宣告される。 恋人の京子が助命の為に支援活動をしていたがそれを拒否し、江上は死刑台で「天皇陛下、お先に参ります。 天皇陛下万歳」と叫びながら絶命した。 一方、戦火の中を生き延びた美代は、戦後の混乱の中で死物狂いで生き抜き、遂に復員した幸吉と海岸で再会を果たすのだった。 出演 [ ]• 小田島剛一 -• 大門勲 -• 江上孝 -• 小林幸吉 -• 新井美代 -• 国吉靖子 -• 柏木京子・マリア(二役) -• 玉江 -• 由良一等兵 -• 本堂一等兵 -• 小森軍医 -• 桐山軍曹 -• 古川曹長 -• 小川金作 -• ヒゲ兵曹 -• 北川勝馬 -• 東条君枝 -• 西谷二飛曹 -• 参謀 -• 警官 -• 刑事 -• 刑事 -• その他 -• ナレーター - スタッフ [ ]• プロデューサー:、、、• 脚本:• 音楽:• スクリプター:• :北川弘• 助監督:• 監督補:• : 特殊技術• 光学撮影:• 操演:• : 映像ソフト [ ]• 『大日本帝国』【DVD】(2011年11月1日、)• 『大日本帝国』【Blu-ray】(2015年8月5日、東映ビデオ) 主題歌 [ ]• 作詞:• 作曲:五木ひろし• 編曲:• 発売日:1982年7月1日• 販売元:徳間音楽 評価 [ ] 東映の社長は、本作を製作する気になったのは「が、戦前戦時の日本が生んだ悲劇の人物だと思ったから。 は東條が一人で計画したのでもなんでもない、開戦の僅か一ヶ月前、満州から呼び戻され総理大臣に据えられた、開戦総理大臣なんです。 当時の日本は既に戦わざるをえない状況に追い込まれていた。 なぜ、彼が総理に据えられたかというと性格が生真面目で、軍部が操り易いということだったに過ぎない。 敗戦の責めを一人背負って処刑されたんだが、それで本当に日本としてけじめが付いたのか。 開戦から敗戦までの日本の歴史を東条英機という悲劇の人を軸にして描く、当時の日本の有様に、今こそ目を向ける必要がある」などと話している。 脚本のによると、右派の作曲家は「非常に巧みに作られた左翼映画」と評し、左派の映画監督は「非常にうまく作られた右翼映画」と評したとのことである。 その原因の一つは、戦犯として処刑される兵士(篠田三郎)の吐く「天皇陛下、 お先に参ります」という台詞だった。 山本薩夫はこれを天皇への忠節と解釈し、一方では「天皇も戦争の責任を取ってあの世へ来い」という天皇批判という解釈もあり、どちらか判断しづらいと公開当時問題になった。 脚本の笠原自身は天皇批判の意図であり、直接天皇批判を盛り込むのは東映が難色を示すため、間接的な表現で巧妙に仕込んだものだったという。 監督の舛田利雄も、新井美代(関根恵子)の「天皇陛下も戦争に行くのかしら」という台詞と合わせ、笠原には一貫した天皇制批判の意図があったことを証言している。 舛田自身も終戦当時、天皇は戦犯になるものと思っており、「兵士がそのような形で死んでいったのに、の政策的意図で生かされたは気の毒な方」「天皇陛下の名の下に、みんな戦争にかり出されて、死んだら白木の箱に入ってに祀られる。 そのシステムの中で庶民はどう生きたか、どういう思いで亡くなったのか、ということが僕や笠原としてはある」と述べている。 「」同様、の機関紙「赤旗(現・)」からは、らによって「戦争賛美映画」「軍国主義賛美映画」「映画である」と批判されている。 映画評論家のは、戦争指導者に同情的なことや、日本の戦争責任の描き方に批判的な論調であるが、太平洋戦争を全面的には美化せず、戦死者を無駄死にと描いており、日本人の自己憐憫の映画だと指摘している。 はが崩壊しつつあった中で観客を大量動員するための企画の1本で、内容的には軍事強国だった日本へのをかきたてるものだと、日本映画史の中で位置付けている。 中国国営新華社通信は、ちょうど公開当時に、日本の歴史教科書の記述が外交問題に発展した「教科書問題」が起きていたため、東條英機を主人公にした映画が製作されるほど、日本の風潮は右傾化していると報じた。 その他 [ ]• 予告編でもアピールされているが、海外ロケが全般になっており、太平洋戦線上のやなどでも撮影された。 作中に登場するはロケ地の一つのの車両を借りたものである。 演じる小林美代が入隊した演じる夫の幸吉に面会に行く場面で、戦地に戻ろうとする幸吉を引き留めるために乳房を出して誘惑するシーンがあるが、乳房のアップの部分のみ(別の女優のもの)である。 ラストシーンは、監督舛田と脚本笠原の世代の万感の思いが込められている。 舞台は舛田の記憶の中にある終戦の日のように、よく晴れ上がった海岸。 生きて帰ってくるとは思わない夫が海の向こうからやってくるシーン。 戦争が終わり戦後が始まろうとする瞬間、関根扮する美代の中で交錯する様々な思いを笠原はシナリオに書き連ねていた。 関根はこの複雑な思いを顔一つで表さないといけないという難しいシーンで、舛田監督も演技指導の方法もなく困り果てた。 舛田は脚本の笠原の要求に応えてないんじゃないかと思い込み、さらに2回撮り直しが行われ、関根が「もうできません」とワーッと泣きじゃくり撮影が終了した。 このシーンを観た東映社長は、関根に面と向かって「あんた、僕はそんなに名優だと思っていなかったけど、実は名優なんだねえ」と褒めたという。 東條英機が自決に失敗して連合軍に連行されるシーンは、実際に起きた場所(東條邸)で撮影されている。 が50000円以上購入した顧客を対象に、本映画の鑑賞券をプレゼントするキャンペーンを実施していた。 2003年、全国で開催されたを偲ぶ「永遠の夏目雅子展」を訪れた岡田茂(当時東映相談役)が「ウチの映画(東映の夏目出演映画)は、まだになっとらんのか」と"ツルの一声"を発し、急遽本作と夏目が6代目マドンナを演じた『』、『』が同年12月初DVD化された。 『』で8月15日(第一部)、16日(第二部)の2日間にわたって本作が放送された。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 石井博士ほか『日本特撮・幻想映画全集』勁文社、1997年、281頁。 96-97• 2015年7月3日, at the. 、7頁• 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、p151• 佐藤忠男『日本映画史 第3巻』、1995年、p147-p148• 四方田犬彦『日本映画史100年』、2000年、p203• 『映画監督 舛田利雄』での舛田の証言(同書p325)• 参考文献 [ ]• ・・『昭和の劇:映画脚本家笠原和夫』、2002年。。 笠原和夫『映画はやくざなり』、2003年。。 『映画監督 舛田利雄』シンコーミュージック、2007年 関連項目 [ ]• - 本作と同じく、東條英機をモチーフとした日本映画。 外部リンク [ ]• - (英語)• - (英語).

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