思ひこそよらざりつれ 品詞分解。 枕草子雪のいと高う降りたるを299段品詞分解

古典の助動詞です。

思ひこそよらざりつれ 品詞分解

「黒=原文」・ 「青=現代語訳」 解説・品詞分解はこちら 改訂版はこちら かくのみ思ひくんじたるを、心も慰めむと、心苦しがりて、 ただこのようにふさぎ込んでばかりいるのを、心を慰めようと、心配して、 母、物語など求めて見せたまふに、げにおのづから慰みゆく。 母が、物語などを探して見せてくださると、なるほど自然と慰められてゆく。 紫のゆかりを見て、続きの見まほしくおぼゆれど、人語らひなどもえせず。 (源氏物語の)若紫の巻を見て、自然と続きを見たいと思われたが、人に相談することなどもできない。 たれもいまだ都慣れぬほどにて、え見つけず。 いまだ誰も都に慣れない頃であるので、見つけられない。 いみじく心もとなく、ゆかしくおぼゆるままに、 とてもじれったく、読みたいと思われるので、 「この源氏の物語、一の巻よりして、皆見せたまへ」と、心の内に祈る。 「この源氏物語を、一の巻から始めて、全部見せてください。 」と心の中で祈る。 親の太秦(うづまさ)にこもりたまへるにも、異事(ことごと)なく、このことを申して、 親が太秦(の広隆寺)に参籠なさった時にも、他のことは言わず、このことばかりお願い申し上げて、 出でむままにこの物語見果てむと思へど、見えず。 退出したらすぐにこの物語を最後まで読んでしまおうと思ったが、見ることができない。 いと口惜しく思ひ嘆かるるに、をばなる人の田舎より上りたる所に渡いたれば、 ひどく残念で嘆かわしく思わずにはいられないところに、叔母である人が地方から上京してきていた家に行ったところ、 「いとうつくしう生ひなりにけり」など、あはれがり、めづらしがりて、帰るに、 「たいそうかわいらしく成長したなあ。 」などと、いとおしみ、珍しがって、(私が)帰る時に、 「何をか奉らむ。 まめまめしき物はまさなかりなむ。 「何を差し上げましょうか。 実用的なものは、つまらない(よくない)でしょう。 」 ゆかしくしたまふなる物を奉らむ」とて、源氏の五十余巻、櫃(ひつ)に入りながら、 欲しがっていらっしゃると聞いている物を差し上げましょう。 」と言って、源氏物語の五十余巻を、櫃(ふたの付いた大型の木箱)に入ったまま、 在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどいふ物語ども、ひと袋とり入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや。 「在中将」「とほぎみ」「せり河」「しらら」「あさうづ」などといういろいろな物語を、(叔母が)一つの袋に入れて(くださった。 それらを)もらって帰る気持ちの嬉しさといったらたいへんなことよ。 解説・品詞分解はこちら 続きはこちら 問題はこちら lscholar 「黒=原文」・ 「赤=解説」・ 「青=現代語訳」 原文・現代語訳のみはこちら 改訂版はこちら かく のみ 思ひくんじ たるを、心も 慰め むと、 心苦しがりて、 かく=副詞、このように のみ=副助詞、ただ…だけ、…ばかり 思ひくんず=サ変、気がめいる、ふさぎこむ。 「くんず」だけでも同じ意味。 たる=存続の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形。 「完了」の可能性もないこともない。 慰む=マ行下二、慰める、気持ちをなごませる。 四段活用だと「気持ちがなごむ、気がまぎれる」なので注意。 む=意志の助動詞「む」の終止形、接続は未然形。 「む」は文末に来ると「推量・意志・勧誘」のどれかの意味であり、【「心を慰めよう。 」と、】というように「む」の後には句点が省略されているので、文末扱いで「意志」の意味となっている。 心苦し=形容詞シク活用、心配である、心苦しく思われる ただこのようにふさぎ込んでばかりいるのを、心を慰めようと、心配して、 母、物語など求めて 見せ たまふに、 げに おのづから 慰みゆく。 見す=サ行下二、見せる。 四段活用だと尊敬語で「御覧になる」という意味になるので注意。 たまふ=補助動詞ハ行四段、尊敬語、動作の主体(見せる人)である母を敬っている。 げに(実に)=副詞、まことに、なるほど、ほんとうに おのづから=副詞、自然と、ひとりでに、たまたま 慰む=マ行四段、気持ちがなごむ、気分が晴れる、気がまぎれる。 下二段活用だと「慰める、気持ちをなごませる」となり、「使役」の意味を含むので注意。 母が、物語などを探して見せてくださると、なるほど自然と慰められてゆく。 紫のゆかりを見て、続きの見 まほしく おぼゆれど、 人語らひなども え せ ず。 紫のゆかり=名詞、源氏物語の若紫の巻のこと。 「ゆかり」は縁のことである。 まほしく=希望の助動詞「まほし」の連用形、接続は未然形 おぼゆれ=「おぼゆ」の已然形、ヤ行下二、自然と思われる。 「思ふ」に自発・可能・受身の意味を表す「ゆ」がくっついたもの。 人語らひ=名詞、人に相談すること え=副詞、下に打消しの表現を伴って「~できない。 」 せ=サ変動詞「す」の未然形、「~する」 ず=打消しの助動詞「ず」の終止形、接続は未然形 (源氏物語の)若紫の巻を見て、自然と続きを見たいと思われたが、人に相談することなどもできない。 たれもいまだ都慣れ ぬ ほど にて、 え 見つけ ず。 ぬ=打消しの助動詞「ず」の連体形、接続は未然形。 今回は接続だけでは完了・強意の助動詞「ぬ」の終止形と判別は付かないが、直後に体言が来ていることからこの「ぬ」は連体形だと判断し、活用から導き出すことができる。 ほど=名詞、頃、時、限度、様子 に=断定の助動詞「ぬ」の連用形、接続は体言・連体形 え=副詞、下に打消しの表現を伴って「~できない。 」 見つく=カ行下二、見つける。 四段活用だと、「見慣れ親しむ」の意味になるので注意。 ず=打消しの助動詞「ず」の終止形、接続は未然形 いまだ誰も都に慣れない頃であるので、見つけられない。 いみじく 心もとなく、 ゆかしく おぼゆる ままに、 いみじ=形容詞シク活用、(いい意味でも悪い意味でも)程度がひどい、甚だしい、とても 心もとなし=形容詞ク活用、待ち遠しくて心がいらだつ、じれったい ゆかし=形容詞シク活用、心がひきつけられる、見たい、聞きたい、知りたい おぼゆ=ヤ行下二、自然と思われる。 ままに=…にまかせて、思うままに、(原因・理由)…なので、…するとすぐに。 「まま(名詞/に(格助詞)) とてもじれったく、読みたいと思われるので、 「この源氏の物語、一の巻 より して、皆 見せ たまへ」と、心の内に祈る。 より=格助詞、(起点)…から し=サ変動詞「す」の連用形、代動詞であり、本来の動詞は「始む」と思われる。 代動詞はその場面の文脈に応じて適切な動詞に変換して訳す。 「この源氏物語を、一の巻から始めて、全部見せてください。 」と心の中で祈る。 親 の太秦(うづまさ)に こもり たまへ るにも、 異事(ことごと)なく、このことを 申して、 の=格助詞、主格。 「親が太秦に~」 こもる(籠る)=ラ行四段、神社や寺に泊まって祈る、参籠する たまふ=補助動詞ハ行四段、尊敬語、動作の主体である親を敬っている。 る=完了の助動詞「り」の連体形、接続はサ変なら未然形、四段なら已然形。 今回は直前に四段の已然形(たまへ)がきている。 異事=名詞、別の事、他の事 申す=サ行四段、「言ふ・願ふ」などの謙譲語、動作の対象(願われる人)である仏様を敬っていると思われる。 親が太秦(の広隆寺)に参籠なさった時にも、他のことは言わず、このことばかりお願い申し上げて、 出で む ままにこの物語見 果て むと思へど、見 え ず。 む=婉曲の助動詞「む」の連体形、接続は未然形。 ㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文末でなく文中で使われるときは「㋕仮定・㋓婉曲」のどちらかである。 基本的に直後に体言が来ていれば「婉曲」である。 ままに=…するとすぐに、…にまかせて、思うままに、(原因・理由)…なので。 「まま(名詞/に(格助詞)) 果つ=補助動詞タ行下二、…し終わる、すっかり…しきる む=意志の助動詞「む」の終止形、接続は未然形、上記の「む」であるが、『「この物語を見果てむ。 」と思へど』と句点(「。 」)が省略されているので、終止形となり、文末扱いである。 よって、「㋜推量・㋑意志・㋕勧誘」の中から文脈上適切な「意志」と判断する。 え(得)=補助動詞「う(得)」の未然形、ア行下二、「~(することが)できる」 ず=打消しの助動詞「ず」の終止形、接続は未然形 退出したらすぐにこの物語を最後まで読んでしまおうと思ったが、見ることができない。 いと 口惜しく思ひ嘆か るるに、をば なる人 の田舎より上り たる所に 渡い たれ ば、 口惜し=形容詞シク活用、悔しい、残念だ るる=自発の助動詞「る」の連体形、接続は未然形。 「る」は「受身・尊敬・自発・可能」の四つの意味があり、「自発」の意味になるときはたいてい直前に「心情動詞(思う、笑う、嘆くなど)・知覚動詞(見る・知るなど)」があるので、それが識別のポイントである。 自発:「~せずにはいられない、しぜんと~される」 なる=断定の助動詞「なり」の連体形、接続は体言・連体形 の=格助詞、主格。 ひどく残念で嘆かわしく思わずにはいられないところに、叔母である人が地方から上京してきていた家に行ったところ、 「いと うつくしう 生ひなり に けり」など、 あはれがり、 めづらしがりて、帰るに、 うつくしう=形容詞「うつくし」の連用形の音便化したもの、かわいい、いとしい、かわいらしい 生ひ成る=ラ行四段、成長する に=完了の助動詞「ぬ」の連用形、接続は連用形 けり=詠嘆の助動詞「けり」の終止形、接続は連用形。 形容動詞「あはれなり」の語幹(あはれ)に接尾語「がる」が付いて動詞化したもの。 めづらしがる=ラ行四段、珍しがる、珍しいと思う。 形容詞「めづらし」の語幹(めづら)に接尾語「がる」が付いて動詞化したもの。 「たいそうかわいらしく成長したなあ。 」などと、いとおしみ、珍しがって、(私が)帰る時に、 「何を か 奉ら む。 まめまめしき物は まさなかり な む。 か=疑問の係助詞、結びは連体形。 係り結び 奉る=ラ行四段、謙譲語、差し上げる。 動作の対象(差し上げられる人)である作者を敬っている。 む=意志の助動詞「む」の連体形、接続は未然形。 係り結びの結びの部分となっている。 まめまめし=形容詞シク活用、実用的だ、真面目だ、誠実だ まさなし(正無し)=形容詞ク活用、よくない、思いがけない な=強意の助動詞「ぬ」の未然形、接続は連用形。 「つ・ぬ」は「完了・強意」の二つの意味があるが、直後に推量系統の助動詞「む・べし・らむ・まし」などが来るときには「強意」の意味となる む=推量の助動詞「む」の終止形、接続は未然形。 推量系統の助動詞があるため直前の「な」は「強意」である。 「何を差し上げましょうか。 実用的なものは、つまらない(よくない)でしょう。 」 ゆかしく し たまふ なる物を奉ら む」とて、源氏の五十余巻、櫃(ひつ)に入り ながら、 ゆかし=形容詞シク活用、心がひきつけられる、見たい、聞きたい、知りたい し=サ変動詞「す」の連用形 たまふ=補助動詞ハ行四段、尊敬語、動作の主体(欲しがっている人)である作者を敬っている。 なる=伝聞の助動詞「なり」の連体形、接続は終止形(ラ変は連体形)。 「断定・存在」かあるいは「伝聞・推定」の助動詞なのかは文法上判断できず、文脈判断するしかない。 「断定(~である)」と「存在(~にある)」は文脈的に合わない。 また、音声を根拠に推定して「~だろう」と訳す「推定」も合わない。 伝聞:「(伝え聞いて)~だそうだ。 ~ということだ。 」と言って、源氏物語の五十余巻を、櫃(ふたの付いた大型の木箱)に入ったまま、 在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどいふ物語ども、ひと袋とり入れて、得て帰る心地のうれしさ ぞ いみじき や。 ぞ=強調の係助詞 いみじ=形容詞シク活用、(いい意味でも悪い意味でも)程度がひどい、甚だしい、とても や=詠嘆の間投助詞、「…だなあ、…ことよ」 「在中将」「とほぎみ」「せり河」「しらら」「あさうづ」などといういろいろな物語を、(叔母が)一つの袋に入れて(くださった。 それらを)もらって帰る気持ちの嬉しさといったらたいへんなことよ。 続きはこちら 問題はこちら lscholar 「黒=原文」・ 「青=現代語訳」 解説・品詞分解はこちら 改訂版はこちら はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず、心もとなく思ふ源氏を、 (今までは)とぎれとぎれに、少しだけ見ては、(物語の筋を)理解できず、じれったく思っていた源氏物語を、 一の巻よりして、人も交じらず、几帳の内にうち臥して、引き出でつつ見る心地、 一の巻から読み始めて、誰とも合わず、几帳の内に寝転んで、引き出しては読む心地は、 后(きさき)の位も何にかはせむ。 后(皇后・天皇の妻)の位も(比較すると)もののかずではない(ほど楽しかった)。 昼はひぐらし、夜は目の覚めたる限り、灯を近くともして、これを見るよりほかのことなければ、 昼は一日中、夜は目が覚めている限り、燈火を近くにともして、これを読むよりほかのことはしなかったので、 おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、 自然と(物語の文章や人物を)覚えていて頭に浮かぶのを、素晴らしいことだと思っていると、 夢に、いと清げなる僧の、黄なる地の袈裟(けさ)着たるが来て、「法華経五の巻を、とく習へ」と言ふと見れど、 夢に、たいそうさっぱりとして美しい僧で、黄色の地の袈裟を着ている僧が出てきて、「法華経の五の巻を早く習いなさい。 」と言うと見たが、 人にも語らず、習はむとも思ひかけず、物語のことをのみ心にしめて、 人にも話さず、(法華経を)習おうとも心がけず、物語のことだけを深く心に思いこんで、 「われはこのごろわろきぞかし。 盛りにならば、 私は今のところ器量(容貌)はよくないことだよ。 (でも、)女としての盛りの年頃になったら、 かたちも限りなくよく、髪もいみじく長くなりなむ。 顔立ちこの上なくよく、きっと髪もたいそう長くなるだろう。 光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ。 」 光源氏の(愛した)夕顔、宇治の大将の(愛した)浮舟の女君のように(未来の自分は)あるだろう。 」 と思ひける心、まづいとはかなくあさまし。 と思った心は、実にたいそうあてにならなくあきれることだ。 得(え)=ア行下二段活用の動詞「得(う)」の未然形、ア行下二段活用の動詞は「得(う)」・「心得(こころう)」・「所得(ところう)」の3つしかないので、大学受験に向けて覚えておくとよい。 ず=打消の助動詞「ず」の連用形、接続は未然形 心もとなし=形容詞ク活用、待ち遠しくて心がいらだつ、じれったい (今までは)とぎれとぎれに、少しだけ見ては、(物語の筋を)理解できず、じれったく思っていた源氏物語を、 一の巻 より して、 人も交じらず、几帳の内に うち臥して、引き出で つつ見る心地、 より=格助詞、(起点)…から し=サ変動詞「す」の連用形、代動詞であり、本来の動詞は「始む」と思われる。 代動詞はその場面の文脈に応じて適切な動詞に変換して訳す。 「うち」は接頭語なので、訳す際にあまり気にしなくてもよい。 か=疑問・反語の係助詞、結びは連体形 は=強調の係助詞。 現代語でもそうだが、疑問文を強調していうと反語となる。 「~か!(いや、そうじゃないだろう。 )」なので、「~かは・~やは」とあれば反語の可能性が高い。 し=サ変動詞「す」の連体形 む=意志の助動詞「む」の連体形、接続は未然形。 文末に来るときは㋜推量・㋑意志・㋕勧誘の3つのどれかの意味である 何にかはせむ=反語であり、直訳すると「何にしようか、いや、何にもならない。 」だが、「もの数ではない。 問題ではない」などと訳すと自然である。 后(皇后・天皇の妻)の位も(比較すると)もののかずではない(ほど楽しかった)。 昼は ひぐらし、夜は目の覚め たる限り、灯を近くともして、これを見るよりほかのこと なけれ ば、 ひぐらし(日暮らし)=名詞・副詞、一日を過ごすこと、一日中 たる=存続の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形 なけれ=ク活用の形容詞「なし」の已然形。 昼は一日中、夜は目が覚めている限り、燈火を近くにともして、これを読むよりほかのことはしなかったので、 おのづからなどは、 そらにおぼえ浮かぶを、 いみじきことに思ふに、 おのづから=副詞、自然と、ひとりでに そらに=ナリ活用の形容動詞「そらなり」の連用形、暗記して、空で覚えて いみじ=形容詞シク活用、(いい意味でも悪い意味でも)程度がひどい、甚だしい、とても 自然と(物語の文章や人物を)覚えていて頭に浮かぶのを、素晴らしいことだと思っていると、 夢に、いと 清げなる僧 の、黄なる地の 袈裟(けさ)着 たるが来て、「法華経五の巻を、 とく習へ」と言ふと見れど、 清げなり=形容動詞ナリ活用、さっぱりとしていて美しいさま の=格助詞、用法は同格。 「たいそうさっぱりとして美しい僧 で、」 袈裟=名詞、「けさ」という読みはテストによく出る。 今でも寺の坊さんがつけている右肩にかけてつけるもの。 エプロンの肩紐だけないみたいなやつ。 たる=存続の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形。 連体形なのは直後に僧が省略されているため。 「袈裟を着ている僧が来て」 とく(疾く)=副詞、早く 夢に、たいそうさっぱりとして美しい僧で、黄色の地の袈裟を着ている僧が出てきて、「法華経の五の巻を早く習いなさい。 」と言うと見たが、 人にも語ら ず、習は むとも 思ひかけず、物語のことをのみ心に しめて、 ず=打消しの助動詞「ず」の連用形、接続は未然形 む=意志の助動詞「む」の終止形、接続は未然形。 「習はむ。 」と本来はなるので、この「む」は文末扱い。 文末に来るときは㋜推量・㋑意志・㋕勧誘の3つのどれかの意味である 思ひかく(思ひ懸く)=カ行下二、心にかける、予測する しむ(染む)=マ行下二、そめる、心に染まるほど深く思いこむ 人にも話さず、(法華経を)習おうとも心がけず、物語のことだけを深く心に思いこんで、 「われはこのごろ わろき ぞ かし。 盛りに なら ば、 わろし=形容詞ク活用、よくない、美しくない。 「悪い」ではないことに注意。 私は今のところ器量(容貌)はよくないことだよ。 (でも、)女としての盛りの年頃になったら、 かたちも限りなくよく、髪も いみじく長くなり な む。 かたち=名詞、姿、容貌、顔だち いみじ=形容詞シク活用、(いい意味でも悪い意味でも)程度がひどい、甚だしい、とても な=強意の助動詞「ぬ」の未然形、接続は連用形。 「つ・ぬ」は「完了・強意」の二つの意味があるが、直後に推量系統の助動詞「む・べし・けむ・らむ」などが来るときには「強意」の意味となる む=推量の助動詞「む」の終止形、接続は未然形。 推量系統の助動詞があるため直前の「な」は「強意」である。 顔立ちこの上なくよく、きっと髪もたいそう長くなるだろう。 光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうに こそあら め。 」 こそ=強調の係助詞、結びは已然形。 係り結び め=推量の助動詞「む」の已然形、接続は未然形。 前の「こそ」を受けて已然形となっている。 係り結び 光源氏の(愛した)夕顔、宇治の大将の(愛した)浮舟の女君のように(未来の自分は)あるだろう。 」 と思ひ ける心、 まづいと はかなく あさまし。 ける=過去の助動詞「けり」の連体形、接続は連用形 まづ=副詞、実に、なんといっても はかなし=形容詞ク活用、はかない、頼りない、あてにならない あさまし=形容詞シク活用、驚きあきれることだ、びっくりすることだ、浅はかだ と思った心は、実にたいそうあてにならなくあきれることだ。 問題はこちら lscholar 「黒=原文」・ 「赤=解説」・ 「青=現代語訳」 原文・現代語訳のみはこちら 雪のいと高う降り たるを、 例 なら ず 御格子(みかうし)まゐりて、 たる=存続の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形 例=名詞、ふつう なら=断定の助動詞「なり」の未然形、接続は体言・連体形 ず=打消しの助動詞「ず」の連用形、接続は未然形 御格子まゐりて=のちに「御格子上げさせて」とあるので、「御格子をおろして」と訳す 雪がたいそう高く降り積もっているに、いつもとは違って、御格子をおろして 炭櫃(すびつ)に火おこして、 物語などして集まり さぶらふに、 物語=名詞、話すこと、話 さぶらふ=ハ行四段、謙譲語、(貴人のそばに)お仕えする、お仕え申し上げる。 動作の対象である中宮定子を敬っている 炭櫃(囲炉裏)に火をおこして、(女房達が)話などして(中宮定子のそばに)集まってお仕えしていたところ、 「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪、 いかなら む」と 仰せ らるれ ば、 いかなら(如何なら)=ナリ活用の形容動詞「いかなり」の未然形 む=推量の助動詞「む」の終止形 仰す(おほす)=「言ふ」の尊敬語、おっしゃる。 動作の主体(おっしゃる人)である中宮定子を敬っている らるれ=尊敬の助動詞「らる」の已然形、接続は未然形。 直前の「仰せ」と合わせて二重敬語、いずれも中宮定子を敬っている。 助動詞「らる」には「受身・尊敬・自発・可能」の4つの意味があるが、「仰せらる」と来る場合の「らる」は必ず「尊敬」と思ってよい。 「少納言よ、香炉峰の雪はどのようだろう。 」とおっしゃるので、 御格子あげ させて、御簾(みす)を高くあげ たれ ば、笑は せ たまふ。 させ=使役の助動詞「さす」の連用形、接続は未然形。 直後に尊敬語が来ないときは尊敬の意味にはならず「使役」の意味となる。 ここでは、作者(清少納言)が御格子のそばにいた女房に御格子を上げさせたということである。 動作の主体(笑う人)である中宮定子を敬っている。 直後に尊敬語(たまふ)が来ているため「尊敬」か「使役」のどちらの意味であるかは文脈判断で決める。 たまふ=補助動詞ハ行四段、尊敬語。 上記の「せ」と合わせて二重敬語であり、中宮定子を敬っている。 現代語で二重敬語を使うと間違った言葉使いなので、二重敬語であっても現代語訳は普通の敬語で訳す。 (私(作者)が女房に)御格子を上げさせて、御簾を高く上げたところ、(中宮定子が)お笑いになる。 人々も、「 さることは知り、歌などに さへうたへど、思ひ こそよら ざり つれ。 さること(然ること)=そのようなこと、あのようなこと。 ここでは白居易の「香炉峰下~」の漢詩を指している。 「さる(連体詞)/こと(名詞)」 さへ=副助詞、意味は添加、…までも こそ=強調の係助詞、結びは已然形となり、「つれ」が結びとなっている。 係り結び。 ざり=打消の助動詞「ず」の連用形、接続は未然形 つれ=完了の助動詞「つ」の已然形、接続は連用形。 「こそ」を受けて已然形となっている。 係り結び。 女房達も、「そのような漢詩(白居易の「香炉峰下~」の漢詩)は知っており、歌などにまで歌うけれども、(御簾をまき上げる動作でお答えするということは)思いつきませんでした。 なほ、この 宮の人には、 さ べき な めり。 」と言ふ。 なほ=副詞、やはり 宮=名詞、皇族の敬称、天皇の親族である人のことをいう。 ここでは、中宮定子のこと。 さべき=「さ/べき」、しかるべき人、適当である人 さ=副詞、あるいはラ変の動詞「さり(然り)」の連体形が音便化したもの べき=適当の助動詞「べし」の連体形、接続は終止形(ラ変なら連体形)。 「べき」と連体形になっているのは、直後に「人(体言)」が省略されているから。 な=断定の助動詞「なり」の連体形、接続は体言・連体形。 めり=推定の助動詞「めり」の終止形、接続は終止形(ラ変なら連体形)。 「推定」と「推量」は意味が若干異なり、「推量」とは根拠は特にないが予想することであり、「推定」とは何らかの根拠を以て推測することである。 なかでもこの「めり」は見たことを根拠に推測する推定の助動詞である。 やはり、この中宮定子様に(お仕えする人として)は、ふさわしい人であるようだ。 」と言った。 lscholar 「黒=原文」・ 「青=現代語訳」 解説・品詞分解はこちら 中納言参りたまひて、御扇奉らせたまふに、 中納言(隆家)が参上なさって、御扇を(中宮定子に)差し上げなさるときに、 「隆家こそいみじき骨は得てはべれ。 「私(隆家)はすばらしい骨(扇の骨)を手に入れております。 それを張らせて参らせむとするに、 それを張らせて差し上げようと思うのですが、 おぼろげの紙はえ張るまじければ、求めはべるなり。 」 ありふれた普通の紙は張れますまいから、(張るのに相応しい紙を)さがしております。 と申したまふ。 と申しなさる。 「いかやうにかある。 」と問ひきこえさせたまへば、 「(扇の骨は)どのようなのですか。 」とお尋ね申し上げなさると、 「すべていみじう はべり。 『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。 』となむ人々申す。 「すべてにおいてすばらしいのです。 『未だ全く見たことのない骨のようだ。 』と人々が申します。 まことにかばかりのは見えざりつ。 」と、言高くのたまへば、 本当にこれほどのものは見たことがなかった。 」と、声高におっしゃるので、 「さては、扇のにはあらで、くらげのななり。 」と聞こゆれば、 (作者・清少納言が)「それでは、扇の骨ではなく、クラゲの骨なのでしょう。 』と「まことにかばかりのは見えざりつ。 」に対するユーモアで機知に富んだ返し。 「これは隆家が言(こと)にしてむ。 」とて、笑ひたまふ。 (隆家は)「これは私が言ったことにしてしまおう。 」と言ってお笑いになる。 かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、 このような話は、聞き苦しいことの中に入れるべきだが(書くべきではないことだが)、 「一つな落しそ。 」と言へば、いかがはせむ。 「一つたりとも書き落とすな」と人々が言うので、どうしましょうか。 」という作者の気持ちが表されている。 解説・品詞分解はこちら lscholar 「黒=原文」・ 「赤=解説」・ 「青=現代語訳」 原文・現代語訳のみはこちら 中納言 参り たまひて、御扇 奉ら せ たまふに、 参る=ラ行四段、参上する、参る。 謙譲語。 動作の対象(参られる人)である中宮定子を敬っている たまふ=補助動詞ハ行四段、尊敬語。 動作の主体(参る人)である中納言(隆家)を敬っている 奉る=ラ行四段、差し上げる、謙譲する。 謙譲語。 動作の対象(差し上げられる人)である中宮定子を敬っている せ=尊敬所の動詞「す」の連用形、接続は未然形。 助動詞「す」は「使役」と「尊敬」の二つの意味があるが、直後に尊敬語が来ている時には文脈判断しなければならない。 ここでは文脈判断して「尊敬」の意味でとらえる。 たまふ=補助動詞ハ行四段、尊敬語。 動作の主体である隆家を敬っている 中納言(隆家)が参上なさって、御扇を(中宮定子に)差し上げなさるときに、 「隆家 こそ いみじき 骨は 得て はべれ。 こそ=強調の係助詞、結び(文末)は已然形となる。 ここでは「はべれ」が結びにあたる。 係り結び。 「強調」の意味があるが訳す際には無視してもよい いみじき=シク活用の形容詞「いみじ」の連体形。 良い意味でも悪い意味でも程度がひどい。 すばらしい、ひどい 骨=名詞、扇の骨 得(え)=ア行下二段の動詞「得(う)」の連用形。 ア行下二段活用の動詞は「得(う)」「心得(こころう)」「所得(ところう)」の3つしかないので、大学受験に備えて覚えておくとよい。 はべり=ラ変、「あり・居(を)り」の丁寧語、ございます、あります。 已然形になっているのは係助詞「こそ」を受けているから。 係り結び。 会話文で使われているので聞き手である中宮定子を敬っている。 また、丁寧語は使った人(言った人・書いた人)からの敬意なので隆家からの敬意である。 「私(隆家)はすばらしい骨(扇の骨)を手に入れております。 それを張ら せて 参ら せ むとするに、 せ=使役の助動詞「す」の連用形、接続は未然形。 先程とは異なり直後に尊敬語が来ていないため「使役」の意味だと断定してかまわない。 参る=ラ行四段、謙譲語。 動作の対象(扇を差し上げられる人)である中宮定子を敬っている せ=使役の助動詞「す」の未然形、接続は未然形。 直後に尊敬語が来ていないため「使役」の意味だと断定してかまわない。 む=意志の助動詞「む」の終止形、接続は未然形。 本来は『「それを張らせて参らせむ。 」とするに、』となるため、ここの「む」は文末扱いで終止形となっている。 「む」は㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文末に来ると「㋜推量・㋑意志・㋕勧誘」のどれかである。 あとは文脈判断。 それを張らせて差し上げようと思うのですが、 おぼろげの紙は え張る まじけれ ば、求め はべる なり。 」 おぼろげ=ナリ活用の形容動詞「おぼろげなり」の語幹の部分。 なみひととおりのさま、ふつう え=副詞、下に打消しの表現を伴って「~できない。 」 まじけれ=不可能の推量の助動詞「まじ」の已然形、接続は終止形(ラ変は連体形)。 はべり=補助動詞ラ変、丁寧語。 聞き手である中宮定子を敬っている。 話し手である隆家からの敬意。 なり=断定の助動詞「なり」の終止形、接続は体言・連体形 ありふれた普通の紙は張れますまいから、(張るのに相応しい紙を)さがしております。 と 申し たまふ。 申し=サ行四段、謙譲語。 申し上げる。 動作の対象である中宮定子を敬っている たまふ=補助動詞ハ行四段、尊敬語。 動作の主体である隆家を敬っている と申しなさる。 「 いかやうに か ある。 」と問ひ きこえ させ たまへ ば、 いかやうに=ナリ活用の形容動詞「いかやうなり」の連用形。 どのよう、どんなふう か=疑問の係助詞、結びは連体形。 係り結び ある=ラ変動詞「あり」の連体形。 係助詞「か」を受けて連体形となっている。 係り結び。 きこえ=ヤ行下二「聞こゆ」の未然形。 補助動詞、謙譲語。 動作の対象(問われた人)である隆家を敬っている させ=尊敬の助動詞「さす」の連用形、接続は未然形。 直後に尊敬語が来ているので「使役」か「尊敬」か文脈判断。 動作の主体(問うた人)である中宮定子を敬っている たまへ=補助動詞ハ行四段、尊敬語。 上記の「させ」と同様に中宮定子を敬っており、二重敬語である。 この章で二重敬語を使われているのは中宮定子だけであるので、この人が一番敬われている。 「(扇の骨は)どのようなのですか。 」とお尋ね申し上げなさると、 「すべて いみじう はべり。 『 さらにまだ見 ぬ骨のさま なり。 』と なむ人々 申す。 いみじう=シク活用の形容詞「いみじ」の連用形が音便化したもの。 良い意味でも悪い意味でも程度がひどい。 すばらしい、ひどい はべり=補助動詞ラ変、丁寧語。 話し手である隆家から、聞き手である中宮定子への敬意 さらに=下に打消し語を伴って、「まったく~ない、いっこうに~ない」 ぬ=打消の助動詞「ず」の連体形、接続は未然形 なり=断定の助動詞「なり」の終止形、接続は体言・連体形 なむ=強調の係助詞、結びは連体形。 係り結び 申す=サ行四段「申す」の連体形。 係助詞「なむ」を受けて連体形となっている。 係り結び 「すべてにおいてすばらしいのです。 『未だ全く見たことのない骨のようだ。 』と人々が申します。 まことに かばかり のは 見え ざり つ。 」と、 言高く のたまへ ば、 かばかり=副詞、これほど、このくらい、これだけ の=格助詞、用法は準体格。 言高く=ク活用の形容詞「言高し」の連用形。 大きな声で。 得意げな様子が表されている。 のたまふ(宣ふ)=ハ行四段、「言ふ」の尊敬語。 」と、声高におっしゃるので、 「さては、扇 の にはあら で、くらげ の な なり。 」と 聞こゆれ ば、 の=格助詞、用法は準体格。 「の」が準体格なため省略されているが、直前に「骨」という体言が来ている で=接続助詞、打消しの意味が含まれている。 の=格助詞、用法は準体格。 」 な=断定の助動詞「なり」の連体形「なる」が音便化して「なん」となり、さらに無表記化して「な」となったもの。 接続は体言・連体形。 直前が準体格の用法がされている「の」があるため分かりづらいが、直前に「骨」という体言が省略されているので、「断定」の意味だと分かる。 「伝聞・推定の助動詞の「なり」」の方ではない。 なり=推定の助動詞「なり」の終止形、接続は終止形(ラ変は連体形)。 直前に音便化したものや無表記化したものがくると「推定・伝聞」の意味の可能性が高い。 文脈判断でもよい。 聞こゆれ=ヤ行下二「聞こゆ」の已然形、謙譲語、「申し上げる」。 動作の対象(申し上げられた人)である隆家を敬っている。 (作者・清少納言が)「それでは、扇の骨ではなく、クラゲの骨なのでしょう。 』と「まことにかばかりのは見えざりつ。 」に対するユーモアで機知に富んだ返し。 「これは隆家が言(こと)に し て む。 」とて、笑ひ たまふ。 し=サ変「す」の連用形。 て=強意の助動詞「つ」の未然形、接続は連用形。 基本的に助動詞「つ・ぬ」は完了の意味だが、直後に推量系統の助動詞「む・べし・らむ・まし」などがくると「強意」の意味となる。 む=意志の助動詞「む」の終止形、接続は未然形。 ㋜推量・㋑意志・㋕勧誘・㋕仮定・㋓婉曲の五つの意味があるが、文末に来ると「㋜推量・㋑意志・㋕勧誘」のどれかである。 あとは文脈判断。 たまふ=補助動詞ハ行四段、尊敬語。 動作の主体である隆家を敬っている。 (隆家は)「これは私が言ったことにしてしまおう。 」と言ってお笑いになる。 かやうのこと こそは、 かたはらいたきことのうちに 入れ つ べけれど、 こそ=強調の係助詞、結びは已然形。 本来の結びは「べけれ」の部分であるが、接続助詞「ど」が来ているため、結びの部分が消滅してしまっている。 これを「係り結びの消滅」と言う。 「べけれ」は已然形だが、これは「ど」を受けてのものである。 かたはらいたし(傍ら痛し)=形容詞ク活用、はたで見ていて苦々しい、見苦しい、聞き苦しい、気の毒だ 入る=ラ行下二、中に入れる、加える。 ラ行四段の場合には意味が変わり「入る、加わる」と言う意味になるので注意。 つ=強意の助動詞「つ」の終止形、接続は連用形。 基本的に助動詞「つ・ぬ」は完了の意味だが、直後に推量系統の助動詞「む・べし・らむ・まし」などがくると「強意」の意味となる。 べけれ=当然の助動詞「べし」の已然形、接続は終止形(ラ変は連体形)。 このような話は、聞き苦しいことの中に入れるべきだが(書くべきではないことだが)、 「一つ な落しそ。 」と言へ ば、いかがは せ む。 な=副助詞、落し=サ行四段動詞の連用形、そ=終助詞 「な~そ」で「~するな(禁止)」を表す。 接続は未然形。 前の「いかが」に係助詞の「か」含まれているため係り結びが生じて連体形となっている。 「一つたりとも書き落とすな」と人々が言うので、どうしましょうか。 」という作者の気持ちが表されている。 lscholar 「黒=原文」・ 「青=現代語訳」 解説・品詞分解はこちら 改訂版はこちら 京に入り立ちてうれし。 家に至りて、門に入るに、 京に入ってうれしい。 家に着いて、門に入ると、 月明かければ、いとよくありさま見ゆ。 月が明るいので、たいそうよく当たりの様子が見える。 聞きしよりもまして、言ふかひなくぞこぼれ破(や)れたる。 聞いていた話よりも言いようもなく壊れいたんでいる。 家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。 (この様子だと家だけではなく)家を預けていた人の心も荒れているのだなあ。 中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。 (管理を頼んだ相手の家との間に)隔ての垣根はあるが、一軒の家と同じようなものだから、(その相手側から預かりましょうと)望んで預かったのである。 さるは、便りごとに物も絶えず得させたり。 それなのに、機会のあるたびに贈り物を(管理のお礼として)絶えずあげてきたのだ。 今宵、「かかること。 」と、声高にものも言はせず。 (しかし、)今夜は、「このような有様は(どういうことだ。 ひどい。 )」と(従者たちに対して)大声で言ったりすることもさせない。 いとはつらく見ゆれど、志はせむとす。 非常に薄情だと思われるけれども、お礼はしようと思う。 さて、池めいてくぼまり、水つける所あり。 さて、池のようになってくぼまり、水がたまっているところがある。 ほとりに松もありき。 五年六年のうちに、千年や過ぎにけむ、かたへはなくなりにけり。 (池の)ほとりに松もあった。 五年、六年の間に、千年もたってしまったのだろうか、片側は亡くなってしまった。 今生ひたるぞ交じれる。 最近生えた枝が交じっている。 大方のみな荒れにたれば、「あはれ。 」とぞ人々言う。 およそ全体が荒れてしまっているので、「ああ(なんてひどいこと)。 」と人々が言う。 思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、 (そういったものなど見て)思い出さないことなどなく、恋しく思うことの中に、 この家にて生まれし女子の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。 この家で生まれた女の子(土佐へ赴任する時に連れて行った作者の娘)が一緒に帰らないので、どんなに悲しいことか。 船人もみな、子たかりてののしる。 舟に乗っていた他の人もみんな、子供が寄り集まって大声で騒いでる。 かかるうちに、なお悲しきに耐へずして、ひそかに心知れる人と言へりける歌、 このような間に、やはり(娘を失った)悲しい思いに耐えられないで、ひそかに気心の知れた人(紀貫之の妻)と詠んだ歌、 生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ (この家で)生まれた子さえも帰ってこないのに、我が家に(新しく生えている)小松があるのを見るのは悲しいことだ。 とぞ言へる。 なお飽かずやあらむ、また、かくなむ。 と詠んだ。 それでもやはり読み足りなかったのであろうか、このように詠んだ。 見し人の松の千年(ちとせ)に見ましかば遠く悲しき別れせましや (この家で元気な姿を)見ていた子(亡くなった娘)が千年もの寿命がある松のように(生きながらえて)見ることができたなら、どうして遠い土佐での悲しい別れをすることがあっただろうか。 (いや、なかっただろう。 ) 忘れ難く、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。 忘れられず、残念なことが多いけれど、書き尽くすことができない。 とまれかうまれ、とく破りてむ。 ともかく、(この日記は)早く破ってしまおう。 改訂版はこちら lscholar 「黒=原文」・ 「赤=解説」・ 「青=現代語訳」 原文・現代語訳のみはこちら 改訂版はこちら 京に 入り立ち て うれし。 家に 至りて、門に 入る に、 入り立ち=タ行四段、連用形、深く入る、「入る」を強調した言葉 て=接続助詞、現代と同じ用法 うれし=形容詞シク活用、終止形、うれしい 至り=ラ行四段、連用形、着く 入る=ラ行四段、連体形、直後に接続助詞「に」があるため連体形 に=接続助詞、接続(直前の用言の活用形)は連体形、「~したところ・~すると 京に入ってうれしい。 家に着いて、門に入ると、 月 明かけれ ば、いとよくありさま 見ゆ。 見ゆ=ヤ行下二段、「見る」に受身・可能・自発を意味する「ゆ」がくっついたもの、「見える・見ることができる」などと訳す 月が明るいので、たいそうよく当たりの様子が見える。 聞き しよりもまして、 言ふかひなく ぞ こぼれ破(や)れ たる。 し=過去の助動詞「き」の連体形、接続は連用形、連体形であるのは直後に「話・噂・事など」が省略されていると考えられる、「聞いていたこと」 言ふかひなし=形容詞ク活用、言っても何にもならない、言いようもない ぞ=強調の係助詞、結び(文末)は連体形となる、係り結び、強調の意味は訳す際にあまり考慮しなくてよい。 こぼれ破(や)る=ラ行下二、壊れていたんでいる、「こぼる(落ちる)」と「破る(壊れる)」がくっついたもの たる=存続の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形、前に「ぞ(係助詞)」があるため連体形となっている 聞いていた話よりも言いようもなく壊れいたんでいる。 家 に預け たり つる人の心も、荒れ たる なり けり。 に=格助詞、家 に預けるというと変ですが、家 を預けるという意味だと思ってください。 たり=存続の助動詞「たり」の連用形、接続は已然形、直前の「預け」はカ行下二段 つる=完了の助動詞「つ」の連体形、接続は連用形 たる=存続の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形 なり=断定の助動詞「なり」の連用形、接続は体言・連体形 けり=詠嘆の助動詞「けり」の終止形、接続は連用形、基本的には「過去」の意味だが、たまに詠嘆の意味になる。 (この様子だと家だけではなく)家を預けていた人の心も荒れているのだなあ。 中垣 こそあれ、一つ家のやう なれ ば、望みて預かれ る なり。 中垣=隣家との境に設けた垣根 こそ=強調の係助詞、結び(文末)は已然形、ここでの結びは「あれ」である、「こそ~已然形、…」で「~だが、しかし…」というふうに逆接の働きがあることも覚えておく。 なり=断定の助動詞「なり」の終止形、接続は体言・連体形 (管理を頼んだ相手の家との間に)隔ての垣根はあるが、一軒の家と同じようなものだから、(その相手側から預かりましょうと)望んで預かったのである。 さるは、 便りごとに物も 絶えず得 させ たり。 さるは=接続詞、それにしても、それなのに、そうではあるが、そうであるのは 便りごと=名詞、機会のあるたび、便り=機会 絶えず=副詞、絶えることなく させ=使役の助動詞「さす」の連用形、接続は未然形、意味は「使役」と「尊敬」どちらかであるが、直後に尊敬語が来ていないときには必ず「使役」の意味になる。 たり=完了の助動詞「たり」の終止形、接続は連用形 それなのに、機会のあるたびに贈り物を(管理のお礼として)絶えずあげてきたのだ。 今宵、「 かかる こと。 」と、 声高にものも言は せ ず。 ひどい。 )」と(従者たちに対して)大声で言ったりすることもさせない。 いとは つらく 見ゆれ ど、 志は せ む とす。 いと=副詞、たいそう、とても、非常に つらし=形容詞ク活用、薄情だ、耐え難い、心苦しい 見ゆれ=動詞「見ゆ」ヤ行下二の已然形、思われる、「思う」に自発の意味が加わっている ど=逆接の接続助詞、接続は已然形 志=名詞、誠意、物を送ること、贈り物 せ=動詞「す(する)」の未然形、サ行変格活用、直後に推量(ここでは意志)の助動詞「む」の直前に来ているので未然形になっている む=意志の助動詞「む」の終止形、接続は未然形、終止形なのは直後肉店が省略されているから。 (「志はせむ。 」とす。 )、「む」は文末にあると推量・意志・勧誘のどれかの意味になり、文中にあると仮定・婉曲の意味となる 非常に薄情だと思われるけれども、お礼はしようと思う。 改訂版はこちら 続きはこちら lscholar 「黒=原文」・ 「赤=解説」・ 「青=現代語訳」 原文・現代語訳のみはこちら 改訂版はこちら さて、 池めいて くぼまり、 水つけ る所あり。 池めく=カ行四段、池のようになる。 連用形は「池めき」だが音便化して「池めい」となっている くぼまる=ラ行四段、周囲より低くなる、へこむ 水つく=カ行四段、水に浸る、水けを含む。 直後に完了・存続の助動詞があるため已然形となっている。 る=存続の助動詞「り」の連体形、接続はサ変なら未然形・四段なら已然形。 完了か存続の意味かは文脈判断。 連体形であるのは直後に体言が来ているから。 体言に連なる形=連体形 さて、池のようになってくぼまり、水がたまっているところがある。 ほとりに松もあり き。 五年六年のうちに、千年 や 過ぎ に けむ、 かたへは なくなり に けり。 き=過去の助動詞「き」の終止形、接続は連用形 や=疑問の係助詞、結びは連体形、ここでは文末ではないが「けむ」が結びとなり連体形となっている。 係り結び 過ぐ=ガ行上二、ここでは直後に接続が連用形である助動詞「ぬ」が来ているため連用形になっている。 に=完了の助動詞「ぬ」の連用形、接続は連用形 けむ=過去推量の助動詞「けむ」の連体形、接続は連用形。 前の「や」を受けて連体形となっている。 係り結び かたへ=名詞、片側、片方、一部分 なく=形容詞ク活用「無し」の連用形 に=完了の助動詞「ぬ」の連体形、接続は連用形 けり=過去の助動詞「けり」の終止形、接続は連用形 (池の)ほとりに松もあった。 五年、六年の間に、千年もたってしまったのだろうか、片側は亡くなってしまった。 今 生ひ たる ぞ 交じれ る。 生ふ=ハ行上二、生える、生ずる たる=完了の助動詞「たり」の連体形、接続は連用形。 完了か存続の意味かは文脈判断。 直後に物・枝が省略されているため連体形となっている。 「生えた枝」 ぞ=強調の係助詞、結びは連体形。 係り結び 交じる=ラ行四段、ここでは直後に存続の助動詞「り」があるため已然形となっている る=存続の助動詞「り」の連体形、連体形なのは係助詞「ぞ」の結びになってるため。 係り結び。 最近生えた枝が交じっている。 大方のみな 荒れ に たれ ば、「 あはれ。 」と ぞ人々 言う。 あはれ=感嘆詞、「ああ」 ぞ=強調の係助詞、結びは連体形、ここでは「言う」が結びとなっている。 およそ全体が荒れてしまっているので、「ああ(なんてひどいこと)。 」と人々が言う。 思ひ出で ぬことなく、思ひ 恋しきがうちに、 思ひ出づ=ダ行下二、思い出す ぬ=打消しの助動詞「ず」の連体形、接続は未然形 恋しきがうち=恋しく思うことの中に。 恋しき(形容詞シク活用連体形)の直後に事が省略されている。 「恋しき(事)がうち」 (そういったものなど見て)思い出さないことなどなく、恋しく思うことの中に、 この家にて 生まれ し女子の、 もろともに帰ら ね ば、 いかがは 悲しき。 「いかが」には係助詞「か」が含まれており、係り結びがおこっている。 結びは連体形で「かなしき(形容詞シク活用)」の部分である。 この家で生まれた女の子(土佐へ赴任する時に連れて行った作者の娘)が一緒に帰らないので、どんなに悲しいことか。 船人もみな、子 たかりて ののしる。 たかる=ラ行四段、寄り集まる ののしる=ラ行四段、大声で騒ぐ、やかましく音を立てる。 現代語では「罵倒する」だが、そうではないので注意 舟に乗っていた他の人もみんな、子供が寄り集まって大声で騒いでる。 かかるうちに、 なほ悲しきに 耐へ ずして、 ひそかに 心知れる人と言へ り ける歌、 かかる=ラ変、こんなだ、こうだ、かようである なほ=副詞、やはり、それでもやはり 耐ふ=ハ行下二段、我慢する、こらえる ず=打消しの助動詞「ず」の連用形、接続は未然形 ひそかに=形容動詞ナリ活用、こっそり。 紀貫之(作者)はここで、喜んでいる周りの人たちに遠慮しているということが分かる。 心知れる人=気心の知れている人、ここでは紀貫之の妻を意味している。 「心知れ る人」の「る」は存続の助動詞「り」の連体形、接続はサ変の未然形・四段の已然形 り=完了の助動詞「り」の連用形、接続はサ変の未然形・四段の已然形 ける=過去の助動詞「けり」の連体形、接続は連用形 このような間に、やはり(娘を失った)悲しい思いに耐えられないで、ひそかに気心の知れた人(紀貫之の妻)と詠んだ歌、 生まれ しも帰ら ぬ ものをわが宿に 小松のあるを見るが悲しさ し=過去の助動詞「き」の連体形、接続は連用形。 直後に「子」が省略されていて「生まれた子」となる ぬ=打消しの助動詞「ず」の連体形、接続は未然形 ものを=接続助詞、逆接、「~のに」。 「もの」がつく接続助詞はほぼ逆接、たまに順接・詠嘆の時がある 小松=こまつの「こ」は「子」と「小」を表してる。 自分の子は亡くなっていないのに、小松はあるので、見ると思い出して悲しいということを意味している。 ちなみに、掛詞(同音異義語)になるところは基本的にはひらがなで書かれているもの。 漢字で書くと意味を限定してしまうから。 (この家で)生まれた子さえも帰ってこないのに、我が家に(新しく生えている)小松があるのを見るのは悲しいことだ。 と ぞ言へ る。 なお 飽か ず やあら む、また、 かく なむ。 ぞ=強調の係助詞、結びは連体形、係り結び る=完了の助動詞「り」の連体形、接続はサ変の未然形・四段の已然形 飽く=カ行四段、満足する、あきあきする ず=打消しの助動詞「ず」の連用形、接続は未然形 や=疑問の係助詞、結びは連体形、ここでは「む」、係り結び む=推量の助動詞「む」の連体形、接続は未然形、直後に読点があるが文末扱いである。 係り結び。 ちなみに、文末に「む」があると「推量・意志・勧誘」のどれかの意味となり、文中に「む」がくると「家庭・婉曲」のどれかとなる。 かく=副詞、このように なむ=強調の係助詞、結びは連体形。 係り結びの省略がおこっており、「言へる・詠める」が省略されていると考えられる。 下線部の「る」が結びの部分であり、完了の助動詞「り」の連体形である と詠んだ。 それでもやはり読み足りなかったのであろうか、このように詠んだ。 掛詞の見つけ方(あくまで参考に、いずれも必ずではありません。 「見 し人」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形、接続は連用形 ましか=反実仮想の助動詞「まし」の未然形、接続は未然形、事実とは反する仮定(仮想)を表す。 「ましかば~まし。 」あるいは「 せば~まし。 (「せ」は過去の助動詞「き」の未然形)」という形で反実仮想として使われる。 「 することがあっただろうか。 」 や=反語の助動詞、結びは連体形。 結びの省略がおこっており、「ありけむ」が省略されている。 「あっただろうか。 (いや、なかっただろう。 )」「けむ」は過去推量の助動詞「けむ」の連体形、接続は連用形。 (この家で元気な姿を)見ていた子(亡くなった娘)が千年もの寿命がある松のように(生きながらえて)見ることができたなら、どうして遠い土佐での悲しい別れをすることがあっただろうか。 (いや、なかっただろう。 ) 忘れ難く、 口惜しきこと 多かれ ど、 え 尽くさ ず。 口惜し=形容詞シク活用、残念だ、悔しい 多し=形容詞ク活用 ど=接続助詞、逆接、接続は已然形 え=副詞、下に打消しの表現を伴って「~できない。 」 尽くす=サ行四段、全部を出す、ある限り出しきる ず=打消しの助動詞「ず」の終止形、接続は未然形 忘れられず、残念なことが多いけれど、書き尽くすことができない。 とまれかうまれ、 とく 破り て む。 とまれかうまれ=ともかく。 何はともあれ。 一応「とまれ(副詞)・かう(副詞「かく」の音便化)・あれ(動詞)」と品詞分化される とし(疾し)=形容詞ク活用、早い、速い 破る=ラ行四段、破る、こわす。 ちなみに下二段だと、「破れる、壊れる」という意味になる て=強意の助動詞「つ」の未然形、接続は連用形。 「つ・ぬ」は「完了・強意」の二つの意味があるが、直後に推量系統の助動詞「む・べし・らむ・まし」などが来るときには「強意」の意味となる む=意志の助動詞「む」の終止形、接続は未然形。 推量の助動詞という種類なだけで、ここでは「意志」の意味であるから、直前の「て」は「強意」である。 ともかく、(この日記は)早く破ってしまおう。 改訂版はこちら lscholar.

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枕草子雪のいと高う降りたるを299段品詞分解

思ひこそよらざりつれ 品詞分解

「枕草子:雪のいと高う降りたるを」の現代語訳 雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子 みかうし参りて、炭櫃 すびつに火おこして、 雪がたいそう高く降り積もっているのに、いつもと違って御格子をお下げして、角火鉢に火をおこして、 物語などして集まり候 さぶらふに、 (女房たちが)話などをして集まってお仕え申し上げていると、 「少納言よ。 香炉峰の雪いかならむ。 」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾 みすを高くあげたれば、笑はせ給ふ。 (中宮は)「少納言よ。 香炉峰の雪はどうであろう。 」とおっしゃるので、御格子を上げさせて、(私が)御簾を高く上げたところ、お笑いになる。 人々も「さることは知り、歌などにさへうたへど、思ひこそ寄らざりつれ。 なほ、この宮の人にはさべきなめり。 」と言ふ。 人々も「そのようなことは知り、歌などにまで歌うが、思いもよらなかった。 やはり、この中宮の(もとでお仕えする)人としてはそうあるべきであるようだ。 」と言う。 (第二百八十段) 脚注• 御格子 建物の内と外とを隔てる板戸。 細い木を縦横に組み合わせて板を張ったもの。 炭櫃 角火鉢。 出典 枕草子 まくらのさうし 参考 「国語総合(現代文編・古典編)」数研 「教科書ガイド国語総合(現代文編・古典編)数研版」学習ブックス.

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古典の助動詞です。

思ひこそよらざりつれ 品詞分解

更級日記(全文) 更級日記(全文)• あつま路の道のはてよりも、なお奥つ方に生い出でたる人、 いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、 世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやとおもひつつ、 つれづれなる昼間、宵居などに、姉・継母などやうの人々の、 その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、 ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、 わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。 いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏をつくりて、 手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、 「京にとくあげ給て、物語の多く候ふなる、あるかぎり見せ給へ」 と、身を捨てて額をつき、祈り申すほどに、十三になる年、 のぼらむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所に移る。 年ごろ遊びなれつる所を、あらはにこぼち散らして、たちさはぎて、 日の入りぎはの、いとすごくきりわたりたるに、車に乗るとて、 うち見やりたれば、人まには参りつつ、額をつきし薬師仏の立ち給へるを、 見捨て奉る悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。 門出したる所は、めぐりなどもなくて、 かりそめの茅屋の、しとみなどもなし。 簾かけ、幕などひきたり。 南ははるかに野の方見やらる。 ひむがし西は海近くて、いとおもしろし。 夕霧たちわたりて、いみじうをかしければ、 朝寝などもせず、かたがた見つつ、 ここをたちなむこともあはれに悲しきに、 同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、 しもつさの国のいかたといふ所に泊りぬ。 庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐ろしくていもねられず。 野中に岡だちたる所に、ただ木ぞ三つたてる。 その日は雨にぬれたる物どもほし、国にたちおくれたる人々待つとて、 そこに日を暮らしつ。 十七日のつとめて、たつ。 昔、しもつさの国に、まののてうといふ人住みけり。 ひきぬのを千むら、万むら織らせ、さらせけるが家の跡とて、深き河を舟にて渡る。 昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、川の中に四つ立てり。 その夜は、くろとのはまといふ所にとまる。 かたつかたはひろ山なる所の、すなごはるばるとしろきに、松原しげりて、 月いみじうあかきに、風のをともいみ じう心ぼそし。 人々おかしがりてうたよみなどするに、 まどろまじこよひならではいつか見む くろとのはまの秋のよの月• そのつとめて、そこをたちて、しもつさ のくにと、むさしとのさかひにてある ふとゐがはといふがかみのせ、まつさとの わたりのつにとまりて、夜ひとよ、舟 にてかつがつ物などわたす。 めのとなる 人は、おとこなどもなくなして、さか ひにてこうみたりしかば、はなれて べちにのぼる。 いとこひしければ、いかま ほしく思に、せうとなる人いだきて ゐていきたり。 みな人は、かりそめのかり やなどいへど、風すくまじくひきわた しなどしたるに、これはおとこなどもそはねば、 いとてはなちに、あらあらしげにて、とまと いふ物をひとへうちふきたれば、月 のこりなくさしいりたるに、紅のきぬ うへにきて、うちなやみてふしたる、月 かげさやうの人にはこよなくすきて、 いとしろくきよげにて、めづらしと おもひてかきなでつつうちなくをいと あはれに見すてがたくおもへど、いそぎ ゐていかるる心地、いとあかずわりなし。 おもかげにおぼえてかなしければ、月のけうも おぼえず、くんじふしぬ。 つとめて、舟 に車かきすへてわたして、あなたの きしにくるまひきたてて、をくりに きつる人々これよりみなかへりぬ。 のぼ るはとまりなどして、いきわかるるほど、 ゆくもとまるも、みななきなどす。 おさ な心地にもあはれに見ゆ。 今はむさ しのくにになりぬ。 ことにおかしき所 も見えず。 はまもすなごしろくなども なく、こひぢのやうにて、むらさきおふと きく野も、あしおぎのみたかくおいて、 むまにのりてゆみもたるすゑ見えぬま で、たかくおいしげりて、中をわけゆく に、たけしばといふ寺あり。 はるかに、 ははさうなどいふ所の、らうのあとの いしずゑなどあり。 いかなる所ぞととへば、 「これは、いにしへたけしばといふさか也。 くにの人のありけるを、火たきやの 火たく衞じにさしたてまつりたり けるに、御前の庭をはくとて、「などや くるしきめを見るらむ、わがくにに 七三つくりすへたるさかつぼに、さ しわたしたるひたえのひさごの みなみ風ふけばきたになびき、 北風ふけば南になびき、にしふけ ば東になびき、東ふけば西になび くを見て、かくてあるよ」と、ひとりごち、つ ぶやきけるを、その時、みかどの御むすめ いみじうかしづかれ給、たゞひとりみ すのきはにたちいで給て、はしらによ りかかりて御覧ずるに、このをのこの かくひとりごつを、いとあはれに、いか なるひさごの、いかになびくならむと、 いみじうゆかしくおぼされければ、 みすををしあげて、「あのをのこ、こち よれ」とめしければ、かしこまりてか うらんのつらにまいりたりければ、 「いひつること、いまひとかへりわれにいひて きかせよ」とおほせられければ、さかつぼ のことを、いまひとかへり申ければ、「我 ゐていきて見せよ。 さいふやうあり」と おほせられければ、かしこくおそろ しと思けれど、さるべきにやありけむ、 おいたてまつりてくだるに、ろんなく 人をひてくらむと思て、その夜、勢 多のはしのもとに、この宮をすへたて まつりて、せたのはしをひとまばかり こぼちて、それをとびこえて、この宮 をかきおいたてまつりて、七日七夜と いふに、むさしのくににいきつきにけり。 みかど、きさき、みこうせ給ひぬとおぼし まどひ、もとめ給に、武蔵のくにの衞 じのをのこなむ、いとかうばしき物 をくびにひきかけてとぶやうににげ けると申いでて、このをのこたづぬるに なかりけり。 ろんなくもとのくにに こそゆくらめと、おほやけよりつかひ くだりてをふに、勢たのはしこぼれて、 えゆきやらず、三月といふにむさし のくににいきつきて、このをのこたづぬるに、 このみこおほやけづかひをめして、「我 さるべきにやありけむ、このをのこの 家ゆかしくて、ゐてゆけといひしかば ゐてきたり。 いみじくここありよく おぼゆ。 このをのこつみしれうぜら れば、我はいかであれと。 これもさきの 世にこのくににあとをたるべきすくせ こそありけめ。 はやかへりておほやけに このよしをそうせよ」とおほせられけ れば、いはむ方なくて、のぼりて、みかど にかくなむありつるとそうしければ、 「いふかひなし。 そのをのこをつみし ても、いまはこの宮をとりかへし、みや こにかへしたてまつるべきにもあらず。 たけしばのをのこにいけらむ世の かぎり、武蔵のくにをあづけとら せて、おほやけごともなさせじ、たゞ 宮にそのくにをあづけたてまつらせ 給」よしの宣旨くだりにければ、この家 を内裏のごとくつくりてすませたてまつりける 家を、宮などうせ給にければ、寺に なしたるを、たけしばでらといふ也。 その宮のうみ給へるこどもは、やがて むさしといふ姓をえてなむありける。 それよりのち、火たきやに女はゐる 也」と語る。 野山、あしおぎのなかを わくるよりほかのことなくて、むさしと さがみとの中にゐてあすだ河と いふ。 在五中将の「いざこととはむ」とよみ けるわたりなり。 中将のしふには すみだ河とあり。 舟にてわたりぬれば、 さがみのくにになりぬ。 にしとみといふ 所の山、ゑよくかきたらむ屏風をた てならべたらむやう也。 かたつかたは 海、はまのさまも、よせかへる浪のけ しきも、いみじうおもしろし。 もろこ しがはらといふ所も、すなごのいみじ うしろきを二三日ゆく。 「夏はやま となでしこのこくうすくにしきを ひけるやうになむさきたる。 これは 秋のすゑなればみえぬ」といふに、猶 ところどころはうちこぼれつつ、あはれげ にさきわたれり。 もろこしがはらに、 山となでしこもさきけむこそ など、人々おかしがる。 あしがら山と いふは、四五日かねて、おそろしげに くらがりわたれり。 やうやういりたつ ふもとのほどだに、そらのけしき、はかばか しくも見えず。 えもいはずしげり わたりて、いとおそろしげなり。 ふもとにやどりたるに、月もなく くらき夜の、やみにまどふやうなるに あそび三人、いづくよりともなくいで きたり。 五十許なるひとり、二十許 なる、十四五なるとあり。 いほのまへに からかさをささせてすへたり。 をのこ ども、火をともして見れば、むかし、こ はたといひけむがまごといふ。 かみいと ながく、ひたひいとよくかかりて、いろし ろくきたなげなくて、さてもありぬべき しもづかへなどにてもありぬべし など、人々あはれがるに、こゑすべて にるものなく、そらにすみのぼり てめでたくうたをうたふ。 人々 いみじうあはれがりて、けぢかくて 人々もてけうずるに、「にしくにのあ そびはえかからじ」などいふをききて、 「なにはわたりにくらぶれば」とめでた くうたひたり。 見るめのいときたな げなきに、こゑさへにるものなく うたひて、さばかりおそろしげなる 山中にたちてゆくを、人々あかず思 てみななくを、おさなき心地には、ま してこのやどりをたたむことさへあ かずおぼゆ。 まだあかつきよりあし がらをこゆ。 まいて山のなかのおそろ しげなる事いはむ方なし。 雲は あしのしたにふまる。 山のなから許 の、木のしたのわづかなるに、あふひ のたゞみすぢばかりあるを、世はなれて かかる山中にしもおいけむよと、人々 あはれがる。 水はその山に三所ぞ ながれたる。 からうじて、こえいでて、せき 山にとゞまりぬ。 これよりは駿河也。 よこはしりの関のかたはらに、いは つぼといふ所あり。 えもいはずおほ きなるいしのよほうなる中に、あなの あきたる中よりいづる水の、きよくつ めたきことかぎりなし。 ふじ の山はこのくに也。 わがおいいでし くににてはにしをもてに見えし山也。 その山のさま、いと世に見えぬさま なり。 さまことなる山のすがたの、こむ じゃうをぬりたるやうなるに、ゆき のきゆる世もなくつもりたれば、 いろこききぬに、しろきあこめきた らむやうにも見えて、山のいたゞきの すこしたひらぎたるより、けぶりは たちのぼる。 ゆふぐれは火のもえ立 も見ゆ。 きよみがせきは、かたつかたは 海なるに、関屋どもあまたありて、 うみまでくぎぬきしたり。 けぶり あふにやあらむ、きよみがせきの浪も たかくなりぬべし。 おもしろきこと かぎりなし。 たごの浦は浪たかくて、 舟にてこぎめぐる。 おほゐがはと いふわたりあり。 水の、世のつねならず、 すりこなどを、こくてながしたらむ やうに、しろき水、はやくながれたり。 ふじ河といふはふじの山より おちたる水也。 そのくにの人のいでて かたるやう、「ひととせごろ物にまかり たりしに、いとあつかりしかば、この 水のつらにやすみつつ見れば、河上 の方よりきなる物ながれきて、物に つきてとゞまりたるを見れば、ほぐ なり。 とりあげて見れば、きなるかみ に、にして、こくうるわしくかかれたり。 あやしくて見れば、らいねんなるべき くにどもを、ぢもくのごとみなかきて、 このくにらいねんあくべきにも、かみ なして、又そへて二人をなしたり。 あやし、あさましと思て、とりあげて、 ほして、おさめたりしを、かへる年の つかさめしに、このふみにかかれ たりし、ひとつたがはず、このくにのかみ とありしままなるを、三月のうちに なくなりて、又なりかはりたるも、こ のかたはらにかきつけたれたりし 人なり。 かかる事なむありし。 らいねんのつかさめしなどは、ことし この山に、そこばくの神々あつまりて、 ない給なりけりと見給へし。 めづらかな る事にさぶらふ」とかたる。 ぬまじりと いふ所もすがすがとすぎて、いみじく わづらひいでて、とうたうみにかかる。 さやのなか山などこえけむほども おぼえず。 いみじくくるしければ、天 ちうといふ河のつらに、かりやつくり まうけたりければ、そこにて日ごろ すぐるほどにぞ、やうやうをこたる。 冬ふかくなりたれば、河風けはし くふきあげつつ、たえがたくおぼ えけり。 そのわたりしてはまなの はしについたり。 はまなのはし くだりし時はくろ木をわたし たりし、このたびは、あとだに見えね ば、舟にてわたる。 いり江にわたりし はし也。 とのうみはいといみじくあしく 浪たかくて、いり江のいたづらなるす どもにこと物もなく、松原のしげれる なかより、浪のよせかへるも、いろいろの たまのやうに見え、まことに松のす ゑよりなみはこゆるやうに見えて、 いみじくおもしろし。 それよりかみ は、ゐのはなといふさかの、えもいはず わびしきをのぼりぬれば、みかはのく にのたかしのはまといふ。 やつはし は名のみして、はしの方もなく、なにの 見所もなし。 ふたむらの山の中にとま りたる夜、おほきなるかきの木の したにいほをつくりたれば、夜ひ とよ、いほのうへにかきのおちかかりたる を、人々ひろひなどす。 宮ぢの山とい ふ所こゆるほど、十月つごもりなるに、 紅葉ちらでさかりなり。 あらしこそふきこざりけれみやぢ山 まだもみぢばのちらでのこれる 参河と尾張となるしかすがのわたり、 げに思わづらひぬべくおかし。 おはり のくに、なるみのうらをすぐるに、ゆふ しほたゞみちにみちて、こよひやど らむも、ちうげんにしほみちきなば、 ここをもすぎじと、あるかぎりはしり まどひすぎぬ。 みののくにになるさかひ に、すのまたといふわたりしてのがみ といふ所につきぬ。 そこにあそびど もいできて、夜ひとよ、うたうたふにも、 あしがらなりし思いでられて、あはれに こひしきことかぎりなし。 雪ふり あれまどふに、もののけうもなくて、 ふわのせき、あつみの山などこえて、 近江国、おきながといふ人の家にや どりて、四五日あり。 みつさかの山の ふもとに、よるひる、しぐれ、あられ ふりみだれて、日のひかりもさやか ならず、いみじう物むつかし。 そこを たちて、いぬがみ、かむざき、やす、くるもと などいふ所々、なにとなくすぎぬ。 水うみのおもてはるばるとして、なで しま、ちくぶしまなどいふ所の見え たる、いとおもしろし。 勢多のはし みなくづれて、わたりわづらふ。 あはづ にとゞまりて、しはすの二日京にいる。 くらくいきつくべくと、さるの時許 にたちてゆけば、関ちかくなりて、 山づらにかりそめなるきりかけと いふ物したるかみより丈六の仏の いまだあらづくりにおはするが、 かほばかり見やられたり。 あはれに、人 はなれて、いづこともなくておはする ほとけかなと、うち見やりてすぎぬ。 ここらの国々をすぎぬるに、するが のきよみが関と、相坂の関とばかりは なかりけり。 いとくらくなりて、三条 の宮[一品宮脩子内親王]のにしなる所につきぬ。 ひろびろ とあれたる所の、すぎきつる山々にも おとらず、おほきにおそろしげ なるみやま木どものやうにて、 みやこの内とも見えぬ所のさまなり。 ありもつかず、いみじうものさはが しけれども、いつしかと思し事なれば、 「ものがたりもとめて見せよ、見せよ」とはは をせむれば、三条の宮に、しぞくなる人の衛門の命婦とてさぶらひ けるたづねて、ふみやりたれば、めづ らしがりて、よろこびて、御前のをお ろしたるとて、わざとめでたきさう しども、すゞりのはこのふたにいれて をこせたり。 うれしくいみじくて、よる ひるこれを見るよりうちはじめ、 又々も見まほしきに、ありもつかぬ みやこのほとりに、たれかは物がたり もとめ見する人のあらむ。 ままははなりし人は、宮づかへせしがくだり しなれば、思しにあらぬことどもなど ありて、世中うらめしげにて、ほかに わたるとて、いつつばかりなるちご どもなどして、「あはれなりつる心のほど なむ、わすれむ世あるまじき」など いひて、梅の木の、つまちかくて、いと おほきなるを、「これが花のさかむおり はこむよ」といひをきてわたりぬるを、 心の内にこひしくあはれ也と思つつ、 しのびねをのみなきて、その年もかへりぬ。 いつしか梅さかなむ、こむとあ りしを、さやあると、めをかけてまち わたるに、花もみなさきぬれど、をとも せず、思わびて、花をおりてやる。 たのめしを猶やまつべき霜 がれし梅をも春はわすれざりけり といひやりたれば、あはれなることども かきて、 猶たのめ梅のたちえはちぎりをかぬ おもひのほかの人もとふなり• その春、世中いみじうさはがしう て、まつさとのわたりの月かげあはれに見し めのとも、三月ついたちになくなり ぬ。 せむ方なく思なげくに、物がたりの ゆかしさもおぼえずなりぬ。 いみ じくなきくらして見いだしたれば、 ゆふ日のいとはなやかにさしたるに、 さくらの花のこりなくちりみだる。 ちる花も又こむ春も見もやせむ やがてわかれし人ぞこひしき• 又きけば、侍従の大納言のみむすめ なくなり給ひぬなり。 殿の中将のおぼ しなげくなるさま、わがもののかなしき おりなれば、いみじくあはれなりと きく。 のぼりつきたりし時、「これ手 本にせよ」とて、このひめぎみの御てを とらせたりしを、「さ夜ふけてねざ めざりせば」などかきて、「とりべ山 たににけぶりのもえたたばはか なく見えしわれとしらなむ」と、 いひしらずおかしげに、めでたく かき給へるを見て、いとゞなみだをそへ まさる。 かくのみ思くんじたるを、心も なぐさめむと、心ぐるしがりて、はは、物 がたりなどもとめて見せ給に、げに をのづからなぐさみゆく。 むらさき のゆかりを見て、つゞきの見まほ しくおぼゆれど、人かたらひなども えせず。 たれもいまだみやこなれぬ ほどにて、え見つけず。 いみじく心も となく、ゆかしくおぼゆるままに、「この 源氏の物がたり、一のまきよりして みな見せ給へ」と心の内にいのる。 おやの うづまさにこもり給へるにも、こと事 なく、この事を申て、いでむままに この物がたり見はてむとおもへど、見え ず。 いとくちおしく思なげかるるに、 をばなる人のゐ中よりのぼりたる 所にわたいたれば、「いとうつくしう、 おいなりにけり」など、あはれがり、 めづらしがりて、かへるに、「なにをかたて まつらむ、まめまめしき物は、まさなか りなむ、ゆかしくし給なるものをた てまつらむ」とて、源氏の五十餘巻、ひつ にいりながら、ざい中将、とをぎみ、 せり河、しらら、あさうづなどいふ物 がたりども、ひとふくろとりいれて、えて かへる心地のうれしさぞいみじきや。 はしるはしる、わづかに見つつ、心もえず 心もとなく思源氏を、一の巻よりして、 人もまじらず、木ちゃうの内にう ちふしてひきいでつつ見る心地、き さきのくらひもなににかはせむ。 ひるは ひぐらし、よるはめのさめたるかぎ り、火をちかくともして、これを見る よりほかの事なければ、をのづから などは、そらにおぼえうかぶを、いみ じきことに思に、夢にいときよげ なるそうの、きなる地のけさきたるが きて、「法華経五巻をとくならへ」と いふと見れど、人にもかたらず、なら はむとも思かけず、物がたりの事をのみ 心にしめて、われはこのごろわろき ぞかし、さかりにならば、かたちもかぎり なくよく、かみもいみじくながくな りなむ。 ひかるの源氏のゆふがほ、 宇治の大将のうき舟の女ぎみのや うにこそあらめと思ける心、まづいと はかなくあさまし。 五月ついたちごろ、 つまちかき花たちばなの、いとしろく ちりたるをながめて、 時ならずふる雪かとぞながめまし 花橘のかほらざりせば あしがらといひし山のふもとに、 くらがりわたりたりし木のやうに、 しげれる所なれば、十月許の紅葉、 よもの山辺よりもけに、いみじく おもしろく、にしきをひけるやう なるに、ほかよりきたる人の、「今、まいり つるみちにもみぢのいとおもしろき 所のありつる」といふに、ふと、 いづこにもおとらじ物をわがやどの 世を秋はつるけしき許は• 物がたりの事を、ひるはひぐらし思 つゞけ、よるはめのさめたるかぎりは、 これをのみ心にかけたるに、夢に見ゆ るやう、「このごろ皇太后宮の一品の宮の 御れうに、六角堂にやり水をなむ つくるといふ人あるを、「そはいかに」と とへば、「あまてる御神をねむじませ」と いふ」と見て、人にもかたらず、なに ともおもはでやみぬる、いといふかひ なし。 春ごとに、この一品宮をなが めやりつつ、 さくとまちちりぬとなげく春はたゞ わがやどがほに花を見るかな• 三月つごもりがた、つちいみに人の もとにわたりたるに、さくらさかりに おもしろく、いままでちらぬもあり。 かへりて又の日、 あかざりしやどの桜を春くれて ちりがたにしもひとめ見し哉 といひにやる。 花のさきちるおりごとに、 めのとなくなりしおりぞかしと のみあはれなるに、おなじおりな くなり給し侍従大納言の御むすめ の手を見つつ、すゞろにあはれなるに、 五月許、夜ふくるまで、物がたりをよ みておきゐたれば、きつらむ方も見 えぬに、ねこのいとなごうないたるを、 おどろきて見れば、いみじうおかし げなるねこあり。 いづくよりきつる ねこぞと見るに、あねなる人、「あな かま、人にきかすな。 いとおかしげなる ねこなり。 かはむ」とあるに、いみじう ひとなれつつ、かたはらにうちふした り。 たづぬる人やあると、これをかく してかふに、すべて下すのあたりにも よらず、つとまへにのみありて、物もき たなげなるは、ほかざまにかほを むけてくはず。 あねおととの中につと まとはれて、おかしがりらうたがる ほどに、あねのなやむことあるに、もの さはがしくて、このねこをきたおもて にのみあらせてよばねば、かしがまし くなきののしれども、なをさるものにて こそはと思てあるに、わづらふあね おどろきて、「いづら、ねこは。 こちいてこ」と あるを、「など」ととへば、「夢にこのねこ のかたはらにきて、「をのれは、じしうの 大納言殿の御むすめのかくなりたる なり。 さるべきえんのいささかありて、 この中のきみのすずろにあはれと 思いで給へば、ただしばしここにある を、このごろ下すのなかにありて、いみ じうわびしきこと」といひて、いみじう なくさまは、あてにおかしげなる ひとと見えて、うちおどろきたれば、 このねこのこゑにてありつるが、いみじく あはれなる也」とかたり給をきくに、 いみじくあはれ也。 そののちは、このねこ を北をもてにもいださず、思かしづく。 たゞひとりゐたる所に、このねこがむか ひゐたれば、かいなでつつ、「侍従大納言の ひめぎみのおはするな。 大納言殿にし らせたてまつらばや」といひかくれば、かほ をうちまもりつつ、なごうなくも、心の なし、めのうちつけに、れいのねこ にはあらず、ききしりがほにあはれ也。 世中に長恨歌といふふみを、物がたり にかきてある所あんなりときくに、 いみじくゆかしけれど、えいひよらぬに、 さるべきたよりをたづねて、七月七日 いひやる。 ちぎりけむ昔のけふのゆかしさに あまの河なみうちいでつるかな 返し、 たちいづるあまの河邊のゆかしさに つねはゆゆしきこともわすれぬ• その十三日の夜、月いみじくくまなく あかきに、みな人もねたる夜中許に、 えんにいでゐて、あねなる人、そらを つくづくとながめて、「たゞいまゆくゑな くとびうせなばいかゞ思べき」ととふに、 なまおそろしとおもへるけしきを 見て、こと事にいひなしてわらひなど してきけば、かたはらなる所に、さき をふくるまとまりて、「おぎのはおぎのは」と よばすれど、こたへざなり。 よびわづら ひて、ふえをいとおかしくふきすま して、すぎぬなり。 ふえのねのたゞ秋風ときこゆるに などおぎのはのそよとこたへぬ といひたれば、げにとて、 おぎのはのこたふるまでのふきよらで たゞにすぎにるふえのねぞうき かやうにあくるまでながめあかいて、 夜あけてぞみな人ねぬる。 そのかへる年、四月の夜中ばかりに火のことありて、 大納言殿のひめぎみと思かしづきし ねこもやけぬ。 「大納言殿のひめぎみ」と よびしかば、ききしりがほになきて あゆみきなどせしかば、ててなりし 人も、「めづらかにあはれなる事也。 大納言に申さむ」などありしほどに、 いみじうあはれに、くちおしくおぼゆ。 ひろびろとものふかきみ山のやうには ありながら、花紅葉のおりは、よもの 山辺もなにならぬを見ならひた るに、たとしへなくせばき所の、庭の ほどもなく、木などもなきに、いと心 うきに、むかひなる所に、むめ、こうばい などさきみだれて、風につけて、かかえ 萬壽元年歟 くるにつけても、すみなれしふるさと かぎりなく思いでらる。 にほひくるとなりの風を身にしめて ありしのきばのむめぞこひしき• その五月のついたちに、あねなる人、こ うみてなくなりぬ。 よそのことだに、おさ なくよりいみじくあはれと思わたるに、 ましていはむ方なく、あはれかなしと おもひなげかる。 ははなどはみななく なりたる方にあるに、かたみにとまりた るおさなき人々を左右にふせたる に、あれたるいたやのひまより月のも りきて、ちごのかほにあたりたるが、 いとゆゆしくおぼゆれば、そでをうち おほひて、いまひとりをもかきよせて、 思ぞいみじきや。 そのほどすぎて、し ぞくなる人の許より、「むかしの人の かならずもとめてをこせよとありしかば、 もとめしに、そのおりはえ見いで ずなりにしを、いましも人のをこせたる が、あはれにかなしきこと」とて、かばね たづぬる宮といふ物がたりおこせたり。 まことにぞあはれなるや。 返ごとに、 うづもれぬかばねをなににたづねけむ こけのしたには身こそなりけれ• めのとなりし人、「いまはなににつけ てか」など、なくなくもとありける所にかへり わたるに、 「ふるさとにかくこそ人はかへりけれ あはれいかなるわかれなりけむ むかしのかたみには、いかでとなむ思」 などかきて、「すずりの水こほれば、み なとぢられてとゞめつ」といひたるに、 かきながすあとはつららにとぢてけり なにをわすれぬかたみとか見む といひやりたる返ごとに、 なぐさむる方もなぎさのはまちどり なにかうき世にあともとゞめむ このめのと、はか所見て、なくなくかへりたりし、 のぼりけむのべは煙もなかりけむ いづこをはかとたづねてか見し これをききてままははなりし人、 そこはかとしりてゆかねどさきにたつ なみだぞみちのしるべなりける かばねたづぬる宮をこせたりし人、 すみなれぬのべのささはらあとはかも なくなくいかにたづねわびけむ ?? これを見て、せうとは、その夜をくり にいきたりしかば、 見しままにもえし煙はつきにしを いかがたづねし野べのささはら 雪の日をへてふるころ、よしの山に すむあまぎみを思やる。 ゆきふれてまれの人めもたえぬらむ よしのの山のみねのかけみち 萬壽元年?二年歟 かへるとし、む月のつかさめしに、おやの よろこびすべきことありしに、かひなき つとめて、おなじ心におもふべき人の もとより、「さりともと思つつ、あくるをま ちつる心もとなさ」といひて、 あくるまつかねのこゑにもゆめさめて 秋のもも夜の心地せしかな といひたる返ごとに、 あか月をなににまちけむ思事 なるともきかぬかねのをとゆへ 四月つごもりがた、さるべきゆへありて、 東山なるところへうつろふ。 みちのほど、 田の、なはしろ水まかせたるも、うへたるも、 なにとなくあおみ、おかしう見えわた りたる。 山のかげくらう、まへちかう見 えて、心ぼそくあはれなるゆふぐれ、 くひないみじくなく。 たたくともたれかくひなのくれぬるに 山ぢをふかくたづねてはこむ 霊山ちかき所なれば、まうでておがみ たてまつるに、いとくるしければ、山で らなるいし井によりて、手にむすびつつ のみて、「この水のあかずおぼゆるかな」と いふ人のあるに、 おく山のいしまの水をむすびあげて あかぬものとはいまのみやしる といひたれば、水のむ人、 山の井のしづくににごる水よりも こは猶あかぬ心地こそすれ かへりて、ゆふ日けざやかにさしたるに、 宮この方ものこりなく見やらるるに、 このしづくににごる人は、京にかへる とて、心くるしげに思て、またつとめて、 山のはにいり日のかげはいりはてて 心ぼそくぞながめやられし 念佛するそうのあか月にぬかづく をとのたうとくきこゆれば、とををし あけたれば、ほのぼのとあけゆく山ぎわ、 こぐらきこずゑどもきりわたりて、花 もみぢのさかりよりも、なにとなく、しげり わたれるそらのけしき、くもらはし くおかしきに、ほととぎすさへ、いとち かきこずゑにあまたたびないたり。 たれにみせたれにきかせむ山ざとの このあかつきもおちかへるねも このつごもりの日、たにの方なる木のう へに、ほととぎす、かしがましくないたり。 みやこにはまつらむ物を郭公 けふ日ねもすになきくらすかな などのみ、ながめつつ、もろともにある人、 「たゞいま京にもききたらむ人あら むや。 かくてながむらむと思をこする 人あらむや」などいひて、 山ふかくたれか思はをこすべき 月見る人はおほからめども といへば、 ふかき夜に月見るおりはしらねども まづ山ざとぞ思やらるる あか月になりやしぬらむと思ほどに、 山の方より人あまたくるをとす。 おどろきて 見やりたれば、しかのえんのもとまで きて、うちないたる、ちかうてはなつか しからぬもののこゑなり。 秋の夜のつまこひかぬるしかのねは とを山にこそきくべかりけれ しりたる人のちかきほどにきてかへりぬ ときくに、 まだひとめしらぬ山辺の松風も をとしてかへるものとこそきけ 八月になりて、廿よ日のあかつきがたの月、 いみじくあはれに山の方はこぐらく、 たきのをともにる物なくのみながめ られて、 思しる人に見せばや山ざとの 秋のよふかきありあけの月 亰にかへりいづるに、わたりし時は 水ばかり見えし田どもも、みなかり はててけり。 なはしろの水かげ許見えし田の かりはつるまでながゐしにけり 十月つごもりがたに、あからさまにきて 見れば、こぐらうしげれりしこのはど ものこりなくちりみだれて、いみじく あはれげに見えわたりて、心ちよげに ささらぎながれし水もこのはにうづ もれて、あとばかり見ゆ。 水さへぞすみたえにけるこのはちる あらしの山の心ぼそさに そこなる尼に、「春までいのちあらば かならずこむ。 花ざかりはまづつげよ」 などいひてかへりにしを、年かへりて 三月十餘日になるまでをともせねば、 ちぎりをきし花のさかりをつげぬ哉 春やまだこぬ花やにほはぬ たびなる所にきて、月のころ、竹の もとちかくて、風のをとにめのみさめ て、うちとけてねられぬころ、 竹の葉のそよぐ夜ごとにねざめして なにともなきに物ぞかなしき 秋ごろ、そこをたちて、ほかへうつろひ て、そのあるじに、 いづことも露のあはれはわはれじを あさぢがはらの秋ぞこひしき ままははなりし人、くだりしくにの 名を宮にもいはるるに、こと人かよは してのちも、猶その名をいはるときき て、おやのいまはあいなきよし、いひ やらむとあるに、 あさくらやいまは雲井にきく物を 猶木のまろがなのりをやする かやうに、そこはかなきことを思つゞく くるをやくにて、物まうでをわづかにし ても、はかばかしく、人のやうならむとも ねむぜられず、このころの世の人は 十七八よりこそ経よみ、をこなひも すれ、さること思かけられず。 からうじ て思よることは、いみじくやむごとなく、 かたちありさま、物がたりにあるひかる 源氏などのやうにおはせむ人を、 年にひとたびにてもかよはしたて まつりて、うき舟の女君のやうに、山ざとに かくしすへられて、花、紅葉、月、雪を ながめて、いと心ぼそげにて、めでたか らむ御ふみなどを、時々まち見など こそせめとばかり思つゞけ、あらまし 事にもおぼえけり。 おや なり なば、いみじうやむごとなくわが身も なりなむなど、たゞゆくゑなき事を うち思すぐすに、おや、からうじて、はる かにとをきあづまになりて、「年ごろは、 ?? いつしか思やうにちかき所になりたらば、 まづむねあく許かしづきたてて、ゐて くだりて、海山のけしきも見せ、それ をばさる物にて、わが身よりもたかう もてなしかしづきて見むとこそ おもひつれ、我も人もすくせのつた なかりければ、ありありてかくはるかな るくにになりにたり。 おさなかりし 時、あづまのくににゐてくだりてだに、 心地もいささかあしければ、これをや、 このくにに見すてて、まどはむとすらむと 思ふ。 人のくにのおそろしきにつけ ても、わが身ひとつならば、やすらかな らましを、ところせうひきぐして、 いはまほしきこともえいはず、せまほ しきこともえせずなどあるが、わび しうもあるかなと心をくだきしに、 いまはまいておとなになりにたるを、 ゐてくだりて、わがいのちもしらず、亰 のうちにてさすらへむはれいのこと、 あづまのくに、ゐなかびとになりて まどはむ、いみじかるべし。 亰とても、 たのもしうむかへとりてむと思ふるい、 しぞくもなし。 さりとて、わづかになり たるくにをじじ申すべきにもあら ねば、亰にとゞめて、ながきわかれにて やみぬべき也。 京にも、さるべきさまに もてなしてとゞめむとは思よる事にも あらず」と、よるひるなげかるるをきく 心地、花もみぢのおもひもみなわす れてかなしく、いみじく思なげかるれど、 いかゞはせむ。 七月十三日にくだる。 五日かねては見むも中々なべければ、 内にもいらず。 まいてその日はたち さはぎて、時なりぬれば、いまはとて すだれをひきあげて、うち見あはせ てなみだをほろほろとおとして、や がていでぬるを見をくる心地、めもくれ まどひて、やがてふされぬるに、とま るをのこのをくりしてかへるに、ふと ころがみに、 おもふ事心にかなふ身なりせば 秋のわかれをふかくしらまし とばかりかかれたるをも、え見やられず、 事よろしき時こそこしおれかゝり たる事も思つゞけけれ、ともかくも いふべき方もおぼえぬまゝに、 かけてこそおもはざりしかこの世にて しばしもきみにわかるべしとは とやかかれにけむ。 いとゞ人めも見えず、 さびしく心ぼそくうちながめつゝ、いづこばかりと、 あけくれ思やる。 道のほどもしりに しかば、はるかにこひしく心ぼそき ことかぎりなし。 あくるよりくるゝまで、 東の山ぎはをながめてすぐす。 八月許にうづまさにこもるに、一条 よりまうづる道に、おとこぐるまふた つばかりひきたてて、物へゆくに、もろ ともにくべき人まつなるべし。 すぎ てゆくに、ずいじんだつものをゝこせて、 花見にゆくときみを見るかな といはせたれば、かゝるほどの事はいら へぬもびんなしなどあれば、 千ぐさなる心ならひに秋のゝの とばかりいはせていきすぎぬ。 七日さ ぶらふほども、たゞあづまぢのみ思ひ やられてよしなし。 「こと、からうじては なれて、たひらかにあひ見せ給へ」と 申すは、仏もあはれとききいれさせ 給けむかし。 冬になりて、ひぐらし あめふりくらいたる夜、くもかへる風 はげしううちふきて、そらはれて 月いみじうあかうなりて、のきちか きおぎのいみじく風にふかれて、 くだけまどふが、いとあはれにて、 秋をいかに思いづらむ冬ふかみ あらしにまどふおぎのかれはは あづまより人きたり。 「神拜といふ わざしてくにの内ありきしに、水 おかしくながれたる野の、はるばるとある に、木むらのある、おかしき所かな、 見せでと、まづ思いでて、こゝはいづことか いふとゝへば、こしのびのもりとなむ申 すとこたへたりしが、身によそへら れて、いみじくかなしかりしかば、むま よりおりて、そこにふた時なむな がめられし。 とゞめをきてわがごと物や思ひけむ 見るにかなしきこしのびのもり となむおぼえし」とあるを、見る心地、 いへばさらなり。 返ごとに、 こしのびをきくにつけてもとゞめをきし ちゝぶの山のつらきあづまぢ かうて、つれづれとながむるに、などか物ま うでもせざりけむ。 はゝいみじかり しこだいの人にて、はつせには、あな おそろし、ならざかにて人にとら れなばいかゞせむ。 いし山、せき山こ えていとおそろし。 くらまはさる 山、ゐていでむ、いとおそろしや。 おや のぼりて、ともかくもと、さしはなち たる人のやうに、わづらはしがりて、 わづかに清水にゐてこもりたり。 そ れにも、れいのくせは、まことしかべい事 も思ひ申されず。 ひがんのほどにて、 いみじうさはがしうおそろしき までおぼえて、うちまどろみいりたるに、 み帳の方のいぬふせぎの内に、あおき をりものの衣をきて、にしきをかし らにもかづき、あしにもはいたるそう の、別当とおぼしきがよりきて、「ゆく さきのあはれならむもしらず、 さもよしなし事をのみ」と、うちむづ かりて、み帳の内にいりぬと見ても、うち おどろきても、かくなむ見えつるとも かたらず、心にも思とゞめでまかでぬ。 はゝ一尺の鏡をいさせて、えゐて まいらぬかはりにとて、そうをいだ したててはつせにまうでさすめり。 「三日さぶらひて、この人のあべからむ さま、夢に見せ給へ」などいひて、ま うでさするなめり。 そのほどは精 進せさす。 このそうかへりて、「夢をだ に見でまかでなむがほいなきこと、いかゞ かへりても申すべきと、いみじうぬかづき をこなひてねたりしかば、御帳の方 より、いみじうけだかうきよげに おはする女の、うるわしくさうぞき 給へるが、たてまつりしかゞみをひき さげて、「このかゞみには、ふみやそひ たりし」ととひ給へば、かしこまりて、「ふ みもさぶらはざりき。 このかゞみをなむ たつまつれと侍し」とこたへたてまつれば、 「あやしかりける事かな、ふみそふべ きものを」とて、「このかゞみを、こなたに うつれるかげを見よ、これ見ればあは れにかなしきぞ」とて、さめざめとなき 給を見れば、ふしまろびなき なげきたるかげうつれり。 「このかげを 見れば、いみじうかなしな。 これ見よ」と て、いまかたつかたにうつれるかげを見 せたまへば、みすどもあおやかに、木長 をしいでたるしたより、いろいろのきぬ こぼれいで、梅さくらさきたるにうぐ ひすこづたひなきたるを見せて、「こ れを見るはうれしな」と、の給となむ 見えし」とかたるなり。 いかに見えけるぞ とだに、みゝもとゞめず。 物はかなき 心にも、「つねにあまてる御神をねむ じ申せ」といふ人あり、いづこにおは します、神仏にかはなど、さはいへど、 やうやう思ひわかれて、人にとへば、「神に おはします。 伊勢におはします。 紀 伊のくにに、きのこくざうと申すは、この 御神也。 さては内侍所に、すべら神 となむおはします」といふ。 「伊勢の くにまでは思かくべきにもあらざ なり。 内侍所にも、いかでかはまいり おがみたてまつらむ。 空のひかりを ねむじ申すべきにこそは」など、うき ておぼゆ。 しぞくなる人、あまにな りて、すがく院にいりぬるに、冬ごろ、 なみださへふりはへつゝぞ思やる あらしふくらむ冬の山ざと 返し、 わけてとふ心のほどの見ゆるかな こかげをぐらき夏のしげりを あづまにくだりしおや、からうじて のぼりて、西山なる所におちつきたれ ば、そこにみな渡て見るに、いみじ うゝれしきに、月のあかき夜ひと よものがたりなどして、 かゝる世もありける物をかぎりとて きみにわかれし秋はいかにぞ といひたれば、いみじくなきて、 思事かなはずなぞといとひこし いのちのほどもいまぞうれしき これぞわかれのかどでといひしらせ しほどのかなしさよりは、たいらか にまちつけたるうれしさもかぎり なけれど、「人のうへにても見しに、 おいおとろへて世にいでまじらひしは、 おこがましく見えしかば、我はかくて とぢこもりぬべきぞ」とのみ、のこりな げに世を思ひいふめるに、心ぼそさた えず。 東は野のはるばるとあるに、ひむ がしの山ぎはは、ひえの山よりして、い なりなどいふ山まであらはに見え わたり、南はならびのをかの松風、 いとみゝちかう心ぼそくきこえて、 内にはいたゞきのもとまで、田とい ふものの、ひたひきならすをとなど、ゐ中の心ちして、 いとおかしきに、月のあかき夜などは、 いとおもしろきを、ながめあかし くらすに、しりたりし人、さととをく なりてをともせず。 たよりにつけて、 「なにごとかあらむ」とつたふる人に おどろきて、 思いでて人こそとはね山ざとの まがきのおぎに秋風はふく といひにやる。 十月になりて亰にう つろふ。 はゝ、あまになりて、おなじ 家の内なれど、かたことにすみなれて あり。 てゝはたゞ我をおとなにしすへ て、我は世にもいでまじらはず、かげ にかくれたらむやうにてゐたるを見 るも、たのもしげなく心ぼそくお ぼゆるに、きこしめすゆかりある ?? 所に、「なにとなくつれづれに心ぼそく てあらむよりは」とめすを、こだいのおや は、宮づかへ人はいとうき事也と思て、 すぐさするを、「今の世の人は、さのみ こそはいでたて。 さてもをのづから よきためしもあり。 さても心見よ」と いふ人々ありて、しぶしぶにいだし たてらる。 まづ一夜まいる。 きくの こくうすき八ばかりに、こきかいねり をうへにきたり。 さこそ物がたりに のみ心をいれて、それを見るよりほか にゆきかよふるい、しぞくなどだに ことになく、こだいのおやどものかげ ばかりにて、月をも花をも見るより ほかの事はなきならひに、たちいづる ほどの心地、あれかにもあらず、うつゝとも おぼえで、あかつきにはまかでぬ。 さと びたる心地には、中々、さだまりたらむ さとずみよりは、おかしき事をも見 きゝて、心もなぐさみやせむと思おりおり ありしを、いとはしたなくかなし かるべきことにこそあべかめれとおも へど、いかゞせむ。 しはすになりて 又まいる。 つぼねしてこのたびは日 ごろさぶらふ。 うへには時々、よるよる ものぼりて、しらぬ人の中にうち ふして、つゆまどろまれず。 はづかしう ものゝつゝましきまゝに、しのびて うちなかれつゝ、あかつきには夜ふ かくおりて、ひぐらし、てゝのおいおと ろへて、我をことしもたのもしからむ かげのやうに思たのみ、むかひゐたる に、こひしくおぼつかなくのみおぼゆ。 はゝなくなりにしめひどもも、むまれ しよりひとつにて、よるはひだりみぎに ふしおきするも、あはれに思いでられ などして、心もそらにながめくらさる。 たちぎき、かいまむ人のけはひし て、いといみじくものつゝまし。 十日 ばかりありてまかでたれば、てゝはゝ、 すびつに火などをこしてまちゐたり けり。 くるまよりおりたるをうち 見て、「おはする時こそ人めも見え、さぶらひなども ありけれ、この日ごろは人ごゑもせず、 まへに人かげも見えず、いと心ぼそく わびしかりつる。 かうてのみも、まろが身 をば、いかゞせむとかする」とうちなくを 見るもいとかなし。 つとめても、「けふ はかくておはすれば、うちと人お ほく、こよなくにぎわゝしくもなり たるかな」とうちいひてむかひたるも、 いとあはれに、なにのにほひある にかとなみだぐましうきこゆ。 ひじりなどすら、さきの世のことゆめ に見るは、いとかたかなるを、いとかう、 あとはかないやうに、はかばかしからぬ心地 に、ゆめに見るやう、きよ水のらい 堂にゐたれば、別当とおぼしき人 いできて、「そこはさきの生に、このみ てらのそうにてなむありし。 仏師に て、ほとけをいとおほくつくりたて まつりしくどくによりて、ありしす ざうまさりて、人とむまれたるなり。 このみだうの東におはする丈六の 仏は、そこのつくりたりし也。 はくを をしさしてなくなりにしぞ」と。 「あ ないみじ。 さは、あれにはくおした てまつらむ」といへば、「なくなりにしかば、 こと人はくをしたてまつりて、こと人 くやうもしてし」と見てのち、きよ水に ねむごろにまいりつかうまつらまし かば、さきの世にそのみてらに仏ねむ じ申けむちからに、をのづからようも やあらまし。 いといふかひなく、まうで つかうまつることもなくてやみにき。 十二月廿五日、宮の御仏名にめしあれば、 その夜ばかりと思てまいりぬ。 しろき きぬどもに、こきかいねりをみなきて、 四十余人ばかりいでゐたり。 しるべし いでし人のかげにかくれて、あるが中 にうちほのめいて、あか月にはまかづ。 ゆきうちちりつゝ、いみじくはげしく さえこほるあかつきがたの月の、 ほのかにこきかいねりのそでにうつれ るも、げにぬるゝかほなり。 みちすがら、 年はくれ夜はあけがたの月かげの そでにうつれるほどぞはかなき かうたちいでぬとならば、さても、宮づかへ の方にもたちなれ、世にまぎれたる も、ねぢけがましきおぼえもなき ほどは、をのづから人のやうにもお ぼしもてなさせ給やうもあらまし。 おやたちもいと心えず。 ほどもなく こめすへつ。 さりとてそのありさまの、 たちまちにきらきらしきいきほひ などあんべいやうもなく、いとよし なかりけるすゞろ心にても、ことの ほかにたがひぬるありさまなり かし。 いくちたび水の田ぜりをつみしかば 思しことのつゆもかなはぬ とばかりひとりごたれてやみぬ。 そのゝ ちはなにとなくまぎらはしきに、ものがたりのことも、 うちたえわすられて、物まめやかなる さまに、心もなりはててぞ、などて、 おほくの年月を、いたづらにてふし をきしに、をこなひをも物まうで をもせざりけむ。 このあらましごと とても、思しことどもは、この世にあん べかりけることどもなりや。 ひかる源氏 ばかりの人は、この世におはしけり やは。 かほる大将の宇治にかくし すへ給べきもなき世なり。 あな物 くるをし、いかによしなかりける心也 と思しみはてて、まめまめしくすぐすと ならば、さてもありはてず、まいり そめし所にも、かくかきこもりぬる を、まことともおぼしめしたらぬ さまに人々もつげ、たえずめし などする、中にも、わざとめして、わかい ひとまいらせよとおほせらるれば、 えさらずいだしたつるにひかされて、 又時々いでたてど、すぎにし方の やうなるあいなだのみの心をごりを だに、すべきやうもなくて、さすがに わかい人にひかれて、おりおりさしいづる にも、なれたる人は、こよなく、なにご とにつけてもありつきがほに、我は いとわかうどにあるべきにもあらず、 又おとなにせらるべきおぼえも なく、時々のまらうどにさしはなた れて、すゞろなるやうなれど、ひとへに そなたひとつをたのむべきならねば、 我よりまさる人あるも、うらやましく もあらず、中々心やすくおぼえて、 さんべきおりふしまいりて、つれづれな る、さんべき人と物がたりして、 めでたきことも、おかしくおもしろ きおりおりも、わが身はかやうにたち まじり、いたく人にも見しられむに も、はゞかりあんべければ、たゞおほ かたの事にのみききつゝすぐすに、 ?? ?? 内の御ともにまいりたるおり、あり あけの月いとあかきに、わがねむじ 申すあまてる御神は内にぞおは しますなるかし。 かゝるおりにまい りておがみたてまつらむと思て、四月 ばかりの月のあかきに、いとしのびて まいりたれば、はかせの命婦はしる たよりあれば、とうろの火のいとほ のかなるに、あさましくおい神さびて、 さすがにいとよう物などいひゐたる が、人ともおぼえず、神のあらはれ たまへるかとおぼゆ。 又の夜も、月の いとあかきに、ふぢつぼのひむがしの とをゝしあけて、さべき人々物がた りしつゝ、月をながむるに、むめつぼ ?? の女御のゝぼらせ給なるをとなひ、 いみじく心にくゝ、いかなるにも故宮の ?? おはします世ならまし。 こはかやう にのぼらせ給はまし、など人々い ひいづる、げにいとあはれなりかし。 あまのとを雲井ながらもよそに見て むかしのあとをこふる月かな 冬になりて、月なく、ゆきもふらず ながら、ほしのひかりに、そらさすがに くまなくさえわたりたる夜のかぎ り、殿の御方にさぶらふ人々と物 がたりしあかしつゝ、あくればたち わかれわかれしつゝ、まかでしを、思いでけ れば、 月もなく花も見ざりし冬のよの 心にしみてこひしきやなぞ 我もさ思ことなるを、おなじ心なる も、おかしうて さえし夜の氷は袖にまだとけで 冬の夜ながらねをこそはなけ 御前にふしてきけば、池の鳥ども のよもすがら、こゑごゑはぶきさはぐ をとのするに、めもさめて、 わがごとぞ水のうきねにあかしつゝ うはげのしもをはらひわぶなる とひとりごちたるを、かたわらに ふし給へる人ききつけて、 ましておもへ水のかりねのほどだにぞ うわげのしもをはらひわびける かたらふ人どち、つぼねのへだてなる やりどをあけあはせて物がたりなど しくらす日、又、かたらふ人の、うへに ものしたまふをたびたびよびおろすに、 「せちにことあらばいかむ」とあるに、かれ たるすゝきのあるにつけて、 冬がれのしのゝすゝき袖たゆみ まねきもよせじ風にまかせむ 上達部、殿上人などにたいめんする 人は、さだまりたるやうなれば、うゐうゐ しきさと人は、ありなしをだに しらるべきにもあらぬに、十月ついた ちごろの、いとくらき夜、ふだん経に、 こゑよき人々よむほどなりとて、 ?? そなたちかきとぐちにふたりばかり たちいでで、ききつゝ物がたりして、より ふしてあるに、まいりたる人のあるを、 「にげいりて、つぼねなるひとびとよび あげなどせむも見ぐるし、さはれ、 たゞおりからこそ、かくてたゞ」と いふいまひとりあれば、かたわらに てきゝゐたるに、おとなしくしづやか なるけはいにて、物などいふ。 くちおしから ざなり。 「いまひとりは」などとひて、世の つねの、うちつけの、けさうびてなども いひなさず、世中のあはれなることゞ もなど、こまやかにいひいでて、さすがに、 きびしうひきいりがたいふしぶし ありて、我も人もこたえなどする を、まだしらぬ人のありけるなど めづらしがりて、とみにたつべくも あらぬほど、ほしのひかりだに見えず くらきに、うちしぐれつゝ、このはに かゝるをとのおかしきを、「中々に えむにおかしき夜かな。 月のく まなくあかゝらむも、はしたなく、 まばゆかりぬべかりけり」春秋の 事などいひて、「時にしたがひ見る ことには、春がすみおもしろく、 そらものどかにかすみ、月のおもて もいとあかうもあらず、とをうながるゝ やうに見えたるに、琵琶のふかう てうゆるゝかにひきならしたる、 いといみじくきこゆるに、又秋にな りて、月いみじうあかきに、そらは きりわたりたれど、手にとるばかり、 さやかにすみわたりたるに、かぜの をと、むしのこゑ、とりあつめたる 心地するに、箏のことかきならされ たる、ゐやう定のふきすまされたる は、なぞの春とおぼゆかし。 わが心のなびき、そのお りのあはれとも、おかしとも思事 のある時、やがてそのおりのそら のけしきも、月も花も心にそめ らるゝにこそあべかめれ。 春秋を しらせ給けむことのふしなむ、いみ じううけたまはらまほしき。 冬の夜の月は、むかしよりすさま じきもののためしにひかれて侍 けるに、又いとさむくなどしてことに 見られざりしを、斎宮の御もぎの 敕使にてくだりしに、あかつきの のぼらむとて、日ごろふりつみた る雪に月のいとあかきに、たびの そらとさへおもへば心ぼそくおぼ ゆるに、まかり申にまいりたれば、よの 所にもにず、思なしさへけおそろ しきに、さべきところにめして、 円融院の御世よりまいりたりける 人の、いといみじく神さび、ふるめ いたるけはいの、いとよしふかく、むか しのふるごとどもいひいで、うちな きなどして、ようしらべたるびわの 御ことをさしいでられたりしは、こ の世のことともおぼえず、夜の ?? あけなむもおしう、京のことも 思たえぬばかりおぼえ侍しよりなむ、 冬の夜の雪ふれる夜は、思しら れて、火をけなどをいだきても、かな らずいでゐてなむ見られ侍。 おまへ たちも、かならずさおぼすゆへ侍ら むかし。 さらばこよひよりは、くらき やみの夜の、しぐれうちせむは、又 心にしみ侍なむかし。 斎宮の雪の 夜におとるべき心ちもせずなむ」などいひて ?? わかれにしのちは、たれとしられ じと思しを、又のとしの八月に、 内へいらせ給に、よもすがら殿上にて ?? 御あそびありけるに、この人のさぶ らひけるもしらず、そのよはしもに あかして、ほそどののやりとをゝし あけて見いだしたれば、あか月方 の月の、あるかなきかにおかしきを 見るに、くつのこゑきこえて、ど経 などする人もあり。 ど経の人はこの やりどぐちにたちとまりて、物などい ふにこたへたれば、ふと思いでて、「時雨 の夜こそ、かた時わすれずこひしく 侍れ」といふに、ことながうこたふべき ほどならねば、 なにさまで思いでけむなをざりの このはにかけししぐればかりを ともいひやらぬを、人々又きあへ ば、やがてすべりいりて、そのよさり、 まかでにしかば、もろともなりし 人たづねて、返ししたりしなども、 のちにぞきく。 「ありししぐれの ?? やうならむに、いかでびわのねの おぼゆるかぎりひきてきかせむと なむある」ときくに、ゆかしくて、我 もさるべきおりをまつに、さらに なし。 はるごろ、のどやかなるゆふ つかた、まいりたなりとききて、その夜 もろともなりし人とゐさりいづ るに、とに人々まいり、うちにもれい のひとびとあれば、いでさいていりぬ。 あの人もさや思けむ。 しめやかなる ゆふぐれををしはかりて、まいりてり けるに、さはがしかりければまかづ めり。 かしまみてなるとのうらにこがれいづる 心はえきやいそのあま人 ?? とばかりにてやみにけり。 あの人がら も、いとすくよかに、世のつねならぬ 人にて、その人はかの人はなども、 たづねとはですぎぬ。 いまは、むかし のよしなし心もくやしかりけりと のみ、思しりはて、おやのものへゐて まいりなどせでやみにしも、もどかし く思いでらるれば、いまはひとへに、 ゆたかなるいきおひになりて、 ふたばの人をも、おもふさまにか しづきおほしたて、わが身も、みくら の山につみあまるばかりにて、のちの 世までのことをもおもはむと思は げみて、しも月の廿よ日、いし山に まいる。 ゆきうちふりつゝ、みちのほどさ へおかしきに、あふさかのせきを見る にも、むかしこえしも冬ぞかし と思いでらるゝに、そのほどしもいと あらうふいたり。 あふさかの関のせき風ふくこゑは むかしききしにかはらざりけり せきでらのいかめしうつくられたる を見るにも、そのおりあらづくり の御かほばかり見られしおり思 いでられて、年月のすぎにけるも いとあはれ也。 うちいでのはまのほ どなど、見しにもかはらず。 くれかゝる ほどにまうでつきて、ゆやにおりて みだうにのぼるに、人ごゑもせず、 山かぜおそろしうおぼえて、をこ なひさしてうちまどろみたる夢 に、中堂より御かう給はりぬ。 とく かしこへつげよといふ人あるに、 うちおどろきたれば、ゆめなりけりと おもふに、よきことならむかしと思て、 をこなひあかす。 又の日も、いみじく 雪ふりあれて、宮にかたらひきこ ゆる人のぐし給へると、ものがたり して心ぼそさをなぐさむ。 三日 さぶらひてまかでぬ。 そのかへる年 ?? の十月廿五日大嘗會の御禊とのゝ しるに、はつせの精進はじめて、その 日京をいづるに、さるべき人々、 「一代に一度の見ものにてゐ中せ かいの人だに見る物を、月日おほ かり、その日しも京をふりいでて いかむも、いとものぐるおしく、なが れてのものがたりともなりぬべき 事也」など、はらからなる人は、いひ はらだてど、ちごどものおやなる人 は、「いかにも、いかにも、心にこそあらめ」とて、 いふにしたがひて、いだしたつる心ばへ もあはれ也。 ともにゆく人々も、いとい みじく物ゆかしげなるは、いとおし けれど、「もの見てなににかはせむ、かゝ るおりにまうでむ心ざしを、さり ともおぼしなむ。 かならず仏の御しるしを 見む」と思たちて、そのあか月に京 をいづるに、二条のおほぢをしも、 わたりていくに、さきにみあかしもた せ、ともの人々上えすがたなるを、そ こら、さじきどもにうつるとて、いきちが ふむまもくるまの、かち人も、「あれ はなぞ、なぞ」と、やすからずいひおどろき、 あざみわらひ、あざける物どももあり。 ?? よしよりの兵衛のかみと申し人の家 のまへをすぐれば、それさじきへ わたり給なるべし、かどひろうをし あけて、ひとびとたてるが、「あれは物まう で人なめりな、月日しもこそ世に おほかれ」とわらふなかに、いかなる心 ある人にか、「一時がめをこやしてなに にかはせむ。 いみじくおぼしたちて、 仏の御とくかならず見給べき人に こそあめれ。 よしなしかし。 物見で、 かうこそ思たつべかりけれ」とまめや かにいふ人、ひとりぞある。 みちけんぞう ならぬさきにと、夜ふかういでし かば、たちをくれたる人々もまち、いと おそろしうふかききりをもすこし はるけむとて、法性寺の大門にたち とまりたるに、ゐなかより物見にのぼる ものども、水のながるゝやうにぞ見ゆ るや。 すべて道もさりあへず、物の心 しりげもなきあやしのわらはべま で、ひきよせてゆきすぐるを、くるま をおどろきあざみたることかぎり なし。 これらを見るに、げにいかにい でたちしみちなりともおぼゆれど、 ひたぶるに仏をねむじたてまつりて、 宇治の渡にいきつきぬ。 そこにも 猶しもこなたざまにわたりする物 ども立こみたれば、舟のかぢとりたる をのこども、ふねをまつ人のかずも しらぬに心おごりしたるけしき にて、袖をかいまくりて、かほにあてゝ、 さおにをしかかりて、とみに舟も よせず、うそぶいて見まわし、いと いみじうすみたるさま也。 むごに えわたらで、つくづくと見るにむらさ きの物がたりに、宇治の宮のむすめ どもの事あるを、いかなる所なれば、 そこにしもすませたるならむと、 ゆかしく思し所ぞかし。 げにおか しき所哉と思つゝ、からうじ て渡て、殿の御らう所のうぢ殿をいりて 見るにも、うきふねの女ぎみの、 かゝる所にやありけむなど、まづ思いで らる。 夜ふかくいでしかば、人々こう じて、やひろうちといふ所にとゞまり て、ものくひなどするほどにしも、 ともなる物ども、「かうみゃうのくりこ ま山にはあらずや。 日もくれがたに なりぬめり。 ぬしたちてうどとりお はさうぜよや」といふを、いと物おそ ろしうきく。 その山こえはてて、にへ のゝ池のほとりへいきつきたるほど、 日は山のはにかゝりにたり。 「今はやど とれ」とて、人々あかれて、やどもとむる、 所はしたにて、「いとあやしげなる 下すのこいへなむある」といふに、「いかゞは せむ」とて、そこにやどりぬ。 みな人々 京にまかりぬとて、あやしのをのこふ たりぞゐたる。 その夜もいもねず、 このをのこいでいりしありくを、お くの方なる女ども、「など、かくしあり かるゝぞ」ととふなれば、「いなや、心も しらぬ人をやどしたてまつりて、かま ばしもひきぬかれなば、いかにすべ きぞと思て、えねでまはりありく ぞかし」と、ねたると思ていふ。 きくに、 いとむくむくしくおかし。 つとめて そこをたちて、東大寺によりてお がみたてまつる。 いその神も、まこと にふりにける事、思やられて、むげ にあれはてにめり。 その夜、山のべと いふ所のてらにやどりて、いとくるし けれど、経すこしよみたてまつりて、 うちやすみたるゆめに、いみじく やむごとなくきよらなるおんなのおは するにまいりたれば、風いみじう ふく。 見つけて、うちゑみて、「なにしに おはしつるぞ」ととひたまへば、「いかで かはまいらざらむ」と申せば、「そこは 内にこそあらむとすれ。 はかせの命 婦をこそよくかたらはめ」とのたまふ と思て、うれしくたのもしくて、いよいよ ねむじたてまつりて、はつせ河など うちすぎて、その夜みてらにまう でつきぬ。 はらへなどしてのぼる。 三日さぶらひて、あか月まかでむ とてうちねぶりたるよさり、みだう の方より、「すはみなりよりたまはる しるしのすぎよ」とて物をなげいづる やうにするに、うちおどろきたれば ゆめなりけり。 あか月よふかくいでゝ、 えとまらねば、ならざかのこなたなる 家をたづねてやどりぬ。 これも、いみ じげなるこいゑ也。 「こゝはけしき ある所なめり。 ゆめいぬな。 れうがいの ことあらむに、あなかしこ、をびえさ はがせ給な。 いきもせでふさせ給 へ」といふをきくにも、いといみじう わびしくおそろしうて、夜を あかすほど、ちとせをすぐす心地す。 からうじてあけたつほどに、「これは ぬす人の家也、あるじの女、けしき ある事をしてなむありける」など いふ。 いみじう風のふく日、宇治の 渡をするに、あじろいとちかう こぎよりたり。 をとにのみききわたりこし宇治河の あじろの浪もけふぞかぞふる 二三年、四五年へだてたることを、 しだいもなく、かきつゞくれば、やが てつゞきたちたるす行者めきた れど、さにはあらず、年月へだゝれる事也。 春ごろくらまにこもりたり。 山ぎは かすみわたり、のどやかなるに、やまの 方よりわづかに、ところなどほりも てくるもおかし。 いづるみちは花も みなちりはてにければ、なにとも なきを、十月許にまうづるに、道の ほど、山のけしき、このごろは、いみじ うぞまさる物なりける、山のは、に しきをひろげたるやう也。 たぎりて ながれゆく水、すいしゃうをちらす やうにわきかへるなど、いづれもすぐ れたり。 まうでつきて、そうぼうに いきつきたるほど、かきしぐれたる 紅葉の、たぐひなくぞ見ゆるや。 おく山の紅葉のにしきほかよりも いかにしぐれてふかくそめけむ とぞみやらるゝ。 二年ばかりありて、 又いし山にこもりたれば、よもすが ら、あめぞいみじくふる、たびゐは 雨いとむつかしき物とききて、しとみ をゝしあげて見れば、ありあけの 月の、たにのそこさへくもりなく すみわたり、雨ときこえつるは、木 のねより水のながるゝをと也。 谷河の流は雨ときこゆれど ほかよりけなる在明の月 又はつせにまうづれば、はじめに こよなくものたのもあし。 所々にま うけなどして、いきもやらず、山 しろのくにはゝそのもりなどに、 もみぢいとおかしきほど也。 はつせ 河わたるに、 はつせ河立帰つゝたづぬれば すぎのしるしもこのたびや見む と思もいとたのもし。 三日さぶらひて、 まかでぬれば、れいのならざかの こなたに、こ家などに、このたびは、 いとるいひろければ、えやどるまじ うて、野中にかりそめにいほつくりて すへたれば、人はたゞ野にゐて夜 をあかす。 草のうへにむかばきなどを うちしきて、うへにむしろをしきて、 いとはかなくて夜をあかす。 かしらも しとゞにつゆをく。 あか月がたの月、 いといみじくすみわたりて、よにし らずおかし。 ゆくゑなきたびのそらにもをくれぬは 宮こにて見しありあけの月 なにごとも心にかなはぬこともなき まゝに、かやうにたちはなれたる物 まうでをしても、道のほどを、おかし ともくるしとも見るに、をのづから心 もなぐさめ、さりともたのもしう、 さしあたりてなげかしなどおぼ ゆることなどもないまゝに、たゞおさ なき人々を、いつしか思さまにし たてゝ見むと思に、年月のすぎ行 を、心もとなく、たのむ人だに、人の やうなるよろこびしてばとのみ 思わたる心地、たのもしかし。 いにし へ、いみじうかたらひ、よる・ひるうた などよみかはしし人の、ありありても、 いとむかしのやうにこそあらね、た えずいひわたるが、越前守のよめ にてくだりしが、かきたえをともせ ぬに、からうじてたよりたづねてこれ より、 たえざりし思も今はたえにけり こしのわたりの雪のふかさに といひたる返ごとに、 しら山のゆきのしたなるさゞれいしの 中のおもひはきえむものかは やよひのついたちごろに、西山のお くなる所にいきたる、人めも見 えず、のどのどとかすみわたりたるに、 あはれに心ぼそく、花ばかりさき みだれたり。 さととをみあまりおくなる山ぢには 花見にとても人こざりけり 世中むつかしうおぼゆるころ、 うづまさにこもりたるに、宮にかた らひきこゆる人の御もとよりふみ ある、返ごときこゆるほどに、かねの をとのきこゆれば、 しげかりしうき世の事もわすられず いりあひのかねの心ぼそさに とかきてやりつ。 うらうらとのどかなる 宮にて、おなじ心なる人、三人許、 ものがたりなどして、まかでて又の日、 つれづれなるまゝに、こひしう思いで らるれば、ふたりの中に、 袖ぬるゝあらいそ浪としりながら ともにかづきをさせいぞこひしき ときこえたれば、 あらいそはあされどなにのかひなくて うしほにぬるゝあまのそで哉 いま一人、 見るめおふる浦にあらずはあらいその なみまかぞふるあまもあらじを おなじ心に、かやうにいひかはし、世 中のうきもつらきもおかしきも、 かたみにいひかたらふ人、ちくぜんに くだりてのち、月のいみじうあか きに、かやうなりし夜、宮にまいりて あひては、つゆまどろまず、ながめあか いしものを、こひしく思つゝねい りにけり。 宮にまいりあひて、うつゝ にありしやうにてありと見て、うち おどろきたれば、ゆめなりけり。 月も山もはちかうなりにけり。 さめ ざらましをと、いとゞながめられて、 夢さめてねざめのとこのうく許 こひきとつげよにしへゆく月 さるべきやうありて、秋ごろいづみ にくだるに、よどといふよりして、みちの ほどのおかしうあはれなること、いひ つくすべうもあらず。 たかはまと いふ所にとゞまりたるよ、いとくらき に、夜いたうふけて、舟のかぢの をときこゆ。 とふなれば、あそびのき たるなりけり。 ひとびとけうじて 舟にさしつけさせたり。 とをき 火のひかりに、ひとへのそでながやか に、あふぎさしかくして、うたうた ひたる、いとあはれに見ゆ。 又の日、山 のはに日のかゝるほど、すみよしの 浦をすぐ。 そらもひとつにきりわ たれる、松のこずゑも、うみのおも てもなみのよせくるなぎさの ほども、ゑにかきてもをよぶべき 方なうおもしろし。 いかにいひなににたとへてかたらまし 秋のゆふべのすみよしのうら と見つゝ、つなでおひきすぐるほど、 かへりみのみせられて、あかずおぼゆ。 冬になりてのぼるに、おほつといふ うらに、舟にのりたるに、その夜 雨風みはもうごく許ふりふゞ きて、神さへなりてとゞろくに、 浪のたちくるをとなひ、風のふき まどひたるさま、おそろしげなる こと、いのちかぎりつと思まどはる。 をかのうへに舟をひき上げて夜を あかす。 雨はやみたれど、風猶ふきて 舟いださず。 ゆくゑもなきをかの うへに、五六日とすぐす。 からうじて 風いさゝかやみたるほど、舟のすだれ まきあげて見わたせば、ゆふしほ たゞみちにみちくるさま、とりも あへず、入江のたづの、こゑおしまぬ もおかしく見ゆ。 くにのひとびとあつま りきて、「その夜この浦をいでさせ 給て、いしづにつかせたまへらまし かば、やがてこの御舟なごりなくな りなまし」などいふ。 心ぼそうきこゆ。 あるゝ海に風よりさきにふなでして いしづの浪ときえなましかば 世中に、とにかく心のみつくすに、 宮づかへとても、もとはひとすぢに つかうまつりつがばや、いかゞあらむ、時々 たちいでばなになるべくもなかめり。 としはやゝさだすぎゆくに、わかわか しきやうなるも、つきなうおぼえ ならるゝうちに、身のやまひいとを もくなりて、心にまかせて物まうで などせしこともえせずなりたれば、 わくらばのたちいでもたえて、なが らふべき心地もせぬまゝに、おさな きひとびとを、いかにもいかにもわがあらむ 世に見をくこともがなと、ふしお き思なげき、たのむ人のよろこび のほどを心もとなくまちなげかるゝに、 ?? 秋になりてまちいでたるやうなれ ど、思しにはあらず、いとほいなく くちおし。 おやのおりより立帰つゝ 見しあづまぢよりはちかきやうに きこゆれば、いかゞはせむにて、ほども なく、ゝだるべきことどもいそぐに、 かどではむすめなる人のあたらし くわたりたる所に、八月十よ日にす。 のちのことはしらず、そのほどのあ りさまは、物さはがしきまで人 おほくいきほいたり。 廿七日にくだる に、おとこなるはそひてくだる。 紅の ?? うちたるに、萩のあを、しをんのを りもののさしぬききて、たちはきて、 しりにたちてあゆみいづるを、それも をり物のあをにびいろのさしぬき、 かりぎぬきて、らうのほどにてむま にのりぬ。 のゝしりみちてくだりぬる のち、こよなうつれづれなれど、いといたう とをきほどならずときけば、さきざきの やうに、心ぼそくなどはおぼえで あるに、をくりのひとびと、又の日かへり て、いみじうきらきらしうてくだり ぬなどいひて、このあか月に、いみじく おほきなる人だまのたちて、京ざま へなむきぬるとかたれど、ともの人 などのにこそはと思、ゆゝしきさまに 思だによらむやは。 いまはいかでこ のわかきひとびとおとなびさせむと おもふよりほかの事なきに、かへる 年の四月にのぼりきて、夏秋も すぎぬ。 九月廿五日よりわづらひいでて、 十月五日にゆめのやうに見ないて ?? おもふ心地、世中に又たぐひある事 ともおぼえず。 はつせにかゞみたて まつりしに、ふしまろび、なきたる かげの見えけむは、これにこそは ありけれ。 うれしげなりけむかげは、 きし方もなかりき。 いまゆくすゑは、 あべいやうもなし。 廿三日、はかなく くもけぶりになす夜、こぞの秋、 いみじくしたて、かしづかれて、うちそひ てくだりしを見やりしを、いとくろき きぬのうへに、ゆゝしげなるものを きて、くるまのともに、なくなくあゆみ いでゝゆくを、見いだして思いづる 心地、すべてたとへむ方なきまゝ に、やがて夢ぢにまどひてぞ思に、 その人やみにけむかし。 昔より、 よしなき物がたり、うたのことを のみ心にしめで、よるひる思て、をこ なひをせましかば、いとかゝるゆめの 世をば見ずもやあらまし。 はつせ にて、まへのたび、いなりよりたまふ しるしのすぎよとて、なげいでられし を、いでしまゝにいなりにまうで たらましかかば、かゝらずやあらまし。 年ごろあまてる御神をねんじた てまつれと見ゆるゆめは、人の御 めのとして内わたりにあり、みかど きさきの御かげにかくるべきさま をのみゆめときもあはせしかども、 そのことはひとつかなはでやみぬ。 たゞかなしげなりと見しかゞみの かげのみたがはぬ、あはれに心うし。 かうのみ、心に物のかなふ方なうて やみぬる人なれば、くどくもつくら ずなどしてたゞよふ。 さすがにいの ちはうきにもたえず、ながらふめれど、 のちの世も、思ふにかなはずぞあら むかしとぞ、うしろめたきに、たの むことひとつぞありける。 天喜三年 十月十三日の夜の夢に、ゐたる所の やのつまの庭に、阿彌陀佛たち たまへり。 さだかには見えたまはず、 きりひとへへだたれるやうに、すき て見え給を、せめてたえまに見たて まつれば、蓮華の座の、つちをあが りたるたかさ三四尺、仏の御たけ 六尺ばかりにて、金色にひかりかゞ やき給て、御手かたつかたをばひろ げたるやうに、いまかたつかたには、 いんをつくり給たるを、こと人の めには見つけたてまつらず、我一 人見たてまつるに、さすがにいみじ く、けおそろしければ、すだれの もとちかくよりても、え見たてまつ らねば、仏、「さは、このたびはかへりて、 のちにむかへにこむ」とのたまふこゑ、 わがみゝひとつにきこえて、人はえ きゝつけずと見るに、うちおどろ きたれば、十四日也。 このゆめ許 ぞ、のちのたのみとしける。 をいどもなど、ひと所にて、あさゆふ見 るに、かうあはれにかなしきことと のちは、所々になりなどして、たれも 見ゆることかたうあるに、いとくらい 夜、六らうにあたるをいのきたる に、めづらしうおぼえて、 月もいででやみにくれたるをばすてに なにとてこよひたづねきつらむ とぞいはれにける。 ねむごろにか たらふ人の、かうてのち、をとづれぬに、 いまは世にあらじ物とや思らむ あはれなくなく猶こそはふれ 十月許、月のいみじうあかきを、 なくなくながめて、 ひまもなき涙にくもる心にも あかしと見ゆる月のかげかな 年月はすぎかはりゆけど、ゆめの やうなりしほどを思いづれば、心ちも まどひ、めもかきくらすやうなれば、 そのほどの事は、まださだかにも おぼえず。 人々はみなほかに すみあかれて、ふるさとにひとり、 いみじう心ぼそくかなしくて、 ながめあかしわびて、ひさしう をとづれぬ人に、 しげりゆくよもぎがつゆにそぼちつゝ 人にとはれぬねをのみぞなく あまなる人也。 世のつねのやどのよもぎを思やれ そむきはてたるにはのくさむら ひたちのかみすがはらのたかすゑ のむすめの日記也。 母倫寧朝臣女。 傅のとのゝはゝうへのめひ也。 よはのねざめ、みつのはまゝつ、 みづからくゆる、あさくらなどは この日記の人のつくられたるとぞ。 へ E-mail : kc2h-msm asahi-net. jp三島 久典.

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