ジャコモ カサノヴァ。 帆純まひろが輝く!宝塚99期生、新人公演、歌唱力、バトンが得意?

[B! Wikipedia] ジャコモ・カサノヴァ

ジャコモ カサノヴァ

冬の寒さが春風に駆逐されるころ、1789年4月2日ジャコモ・カサノヴァはヴェネツィアに生を受けました。 今ではカサノヴァの名前は女たらしの代名詞ですが、良い意味でも悪い意味でも1700年代に生きた単なる女たらし以上の存在でした。 古い時代の寵児といっても良いでしょう。 しかし人生を貴族階級のなかで貴族として過ごし、人並み外れた才能で莫大な富を築き、それを瞬く間に浪費しました。 なぜならカサノヴァは良く分かっていたのですー富を作る資源は一つしかない、それは自分自身である、と。 誰もが彼の比類なき才能を認めていました。 カサノヴァは素晴らしい教育を受けて、エレガントな洋服で着飾り、ある種の優美なスタイルを持っていました。 日本的に言うと「一流の教養を身につけた稀代の伊達男」みたいな感じでしょうか。 彼は自分の魅力をフル活用して人間関係を賢く築いていきました。 カサノヴァの幸運は急病で倒れたあるヴェネツィア貴族を救ったことから始まります。 命を救われた貴族は死ぬまで彼に感謝し、彼の保護者でした。 その後ヴェネツィアのスパイとして各地を旅し、多くの偉大な知識人や芸術家(ヴォルテールやモーツァルト、ロシアのエカテリーナ2世など)と親交を持ちました。 そして1756年、フランス政府の株式仲介人になりました。 才知に富むカサノヴァはフランスで蓄財し、シルクの縫製工場を立ち上げますが、あっという間に女と博打で富は胡散霧消しました。 もっとも、カサノヴァという人は企業家ではなく、彼のライフスタイルは「Carpe diem カルペ・ディエム」(ラテン語、前一世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する)、即ち「一日の花を摘め」などと訳されるように「今の瞬間を楽しむ」主義で、「明日のことは明日考える」性格だったようです。 実は「 lotteria 宝くじ」の創案者とはいえなくても、カサノヴァが現在の宝くじシステムを考えていたのは確かなようです。 具体的には国家の財政を支える柱の一つとしてロットの賭け事(1から90までの数字の中から二つの数字、3つの数字、4つの数字、5つの数字の組み合わせを当てる賭け事。 現在のイタリアでは毎土曜日イタリア国内の10都市で回転式抽選機を使って抽選する)を活用するという案でした。 話は変わりますが、カサノヴァ vs. ドン・ジョバンニ、色男の代名詞としてよく引き合いに出される2大色男、でもこの二人には大きな違いがあります。 カサノヴァは実際に生存した人物ですが、ドン・ジョバンニは想像の人物です。 またドン・ジョバンニにとって女性を征服すること=個人的な野心を満足させることでした。 一方カサノヴァは誘惑する全ての女性に恋してしまったのです。 「恋こそこの世でもっとも素晴らしい」こんな哲学を実践したカサノヴァは、胸が高まるほど魅力的な歓楽の都ヴェネツィアでしか生まれなかった人物なのかもしれません。 1766年、ポーランドの大貴族 Franciszek Branicki 伯爵にピストルでの決闘を申し込みをしたときから彼の人生は一転したようです。 決闘の動機はもちろん、女性。 Branicki 伯爵は幸いにも怪我だけで済み、カサノヴァは国を出るように勧告されました。 以来このスキャンダルはヨーロッパのあらゆる宮廷に広まり、常にカサノヴァにつきまといました。 最初カサノヴァは新取の気性に富んだ魅力的な紳士と好意的に見られていたのに、今では危険で短気な男と見なされるようになりました。 このような幾多の運命の転変を経て、カサノヴァは現在のチェコ共和国の Duchcov ドゥフツォフの城に身を寄せます。 Joseph Karl von Waldstein の宮廷は軽薄で魅力的とは言いがたく、また彼ももはや女性を追い掛け回すにはあまりにも年を取りすぎていました。 城の図書館の年寄りの司書、城に常在する寄食者たちとは交わらない孤独な老人…それがかつての偉大な色男の成れの果てでした。 現在カサノヴァの回顧録は文学的に価値があるだけでなく、18世紀の風俗や衣装、習慣などを知る上で貴重な資料と考えられています。 カサノヴァは女たらしの側面ばかりが人々の記憶に残ってしまった、ちょっと残念な人物です。 今では当時の貴族世界の雰囲気を想像することすら困難ですが、カサノヴァはアンシャン・レジームの申し子だったのかもしれません。 copyright c 2004 ACCADEMIA ITALIANA, All Rights Reserved.

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ジャコモ・カサノヴァ : definition of ジャコモ・カサノヴァ and synonyms of ジャコモ・カサノヴァ (Japanese)

ジャコモ カサノヴァ

冬の寒さが春風に駆逐されるころ、1789年4月2日ジャコモ・カサノヴァはヴェネツィアに生を受けました。 今ではカサノヴァの名前は女たらしの代名詞ですが、良い意味でも悪い意味でも1700年代に生きた単なる女たらし以上の存在でした。 古い時代の寵児といっても良いでしょう。 しかし人生を貴族階級のなかで貴族として過ごし、人並み外れた才能で莫大な富を築き、それを瞬く間に浪費しました。 なぜならカサノヴァは良く分かっていたのですー富を作る資源は一つしかない、それは自分自身である、と。 誰もが彼の比類なき才能を認めていました。 カサノヴァは素晴らしい教育を受けて、エレガントな洋服で着飾り、ある種の優美なスタイルを持っていました。 日本的に言うと「一流の教養を身につけた稀代の伊達男」みたいな感じでしょうか。 彼は自分の魅力をフル活用して人間関係を賢く築いていきました。 カサノヴァの幸運は急病で倒れたあるヴェネツィア貴族を救ったことから始まります。 命を救われた貴族は死ぬまで彼に感謝し、彼の保護者でした。 その後ヴェネツィアのスパイとして各地を旅し、多くの偉大な知識人や芸術家(ヴォルテールやモーツァルト、ロシアのエカテリーナ2世など)と親交を持ちました。 そして1756年、フランス政府の株式仲介人になりました。 才知に富むカサノヴァはフランスで蓄財し、シルクの縫製工場を立ち上げますが、あっという間に女と博打で富は胡散霧消しました。 もっとも、カサノヴァという人は企業家ではなく、彼のライフスタイルは「Carpe diem カルペ・ディエム」(ラテン語、前一世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩に登場する)、即ち「一日の花を摘め」などと訳されるように「今の瞬間を楽しむ」主義で、「明日のことは明日考える」性格だったようです。 実は「 lotteria 宝くじ」の創案者とはいえなくても、カサノヴァが現在の宝くじシステムを考えていたのは確かなようです。 具体的には国家の財政を支える柱の一つとしてロットの賭け事(1から90までの数字の中から二つの数字、3つの数字、4つの数字、5つの数字の組み合わせを当てる賭け事。 現在のイタリアでは毎土曜日イタリア国内の10都市で回転式抽選機を使って抽選する)を活用するという案でした。 話は変わりますが、カサノヴァ vs. ドン・ジョバンニ、色男の代名詞としてよく引き合いに出される2大色男、でもこの二人には大きな違いがあります。 カサノヴァは実際に生存した人物ですが、ドン・ジョバンニは想像の人物です。 またドン・ジョバンニにとって女性を征服すること=個人的な野心を満足させることでした。 一方カサノヴァは誘惑する全ての女性に恋してしまったのです。 「恋こそこの世でもっとも素晴らしい」こんな哲学を実践したカサノヴァは、胸が高まるほど魅力的な歓楽の都ヴェネツィアでしか生まれなかった人物なのかもしれません。 1766年、ポーランドの大貴族 Franciszek Branicki 伯爵にピストルでの決闘を申し込みをしたときから彼の人生は一転したようです。 決闘の動機はもちろん、女性。 Branicki 伯爵は幸いにも怪我だけで済み、カサノヴァは国を出るように勧告されました。 以来このスキャンダルはヨーロッパのあらゆる宮廷に広まり、常にカサノヴァにつきまといました。 最初カサノヴァは新取の気性に富んだ魅力的な紳士と好意的に見られていたのに、今では危険で短気な男と見なされるようになりました。 このような幾多の運命の転変を経て、カサノヴァは現在のチェコ共和国の Duchcov ドゥフツォフの城に身を寄せます。 Joseph Karl von Waldstein の宮廷は軽薄で魅力的とは言いがたく、また彼ももはや女性を追い掛け回すにはあまりにも年を取りすぎていました。 城の図書館の年寄りの司書、城に常在する寄食者たちとは交わらない孤独な老人…それがかつての偉大な色男の成れの果てでした。 現在カサノヴァの回顧録は文学的に価値があるだけでなく、18世紀の風俗や衣装、習慣などを知る上で貴重な資料と考えられています。 カサノヴァは女たらしの側面ばかりが人々の記憶に残ってしまった、ちょっと残念な人物です。 今では当時の貴族世界の雰囲気を想像することすら困難ですが、カサノヴァはアンシャン・レジームの申し子だったのかもしれません。 copyright c 2004 ACCADEMIA ITALIANA, All Rights Reserved.

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我が生涯の物語

ジャコモ カサノヴァ

内容 [ ] 12巻からなる本書の全ページ数はおよそ3500にもおよび、出生からまでのカサノヴァの生涯が語られている。 また18世紀当時のヨーロッパの風俗や事件が活写されているが、性的描写が多く含まれているため、後世においても出版に当たってはたびたびの対象や処分となることがあった。 手稿の歴史 [ ] 老いたカサノヴァは、深い病に伏せっていたに本書冒頭の数章を起稿したと伝えられている。 1794年、カサノヴァは ()と知り合い、友情を育んだ。 この公爵がカサノヴァの回想録を読みたいと所望したため、カサノヴァはリーニュ公に渡す前に原稿を推敲することに決めた。 原稿の少なくとも最初の3分冊を読んだリーニュ公は、この回想録を出版して年金代わりに原稿料を手にするため、の編集者に打診してはどうかと提案した。 カサノヴァは手稿の刊行を承知したが、提案とは別のつてを頼ることとした。 1797年、カサノヴァは内閣の大臣マルコリーニ・ディ・ファノに出版の手助けを求めた。 カサノヴァはドゥックスで孤独な晩年を過ごしていた。 1798年死期を悟ったカサノヴァは、自分の最期を看取ってもらうため、ドレスデンに住んでいた家族たちを呼び寄せた。 カサノヴァの姪の夫にあたるカルロ・アンジョリーニが急遽ドレスデンからドゥックスを訪れた。 カサノヴァの死後、カルロは原稿を携えてドレスデンへ戻った。 カルロ本人は1808年に死去し、原稿はその娘カミラの手に渡った。 の真っ只中であった当時の情勢では、過去の時代の人物の回想録を出版できる見込みはなかった。 戦争の趨勢を決した(1813年)ののち、原稿のことをまだ覚えていたマルコリーニがカミラの後見人に2500での譲渡を申し出たが、提示額が安すぎるとの理由でこの提案は断られた。 ところが数年後に大規模なが起こり、カミラの家庭も家計が傾いたため、カミラは兄弟のカルロに即刻この原稿を売りに出すよう頼み込んだ。 その後1821年に、原稿は編集者の(の編纂によって知られる)に売却される。 ブロックハウス社は、ヴィルヘルム・フォン・シュッツに原稿の訳を依頼した。 翻訳の抄録と第1巻が刊行されたのはの初頭である。 ブロックハウスとシュッツの共同作業は第5巻刊行後の1824年に終わり、それ以降の巻は別の人物によって翻訳されているが、この訳者が誰であったのかは知られていない。 ドイツ語版の成功を受けて、フランスの編集者トゥールナションが版の刊行を決意した。 トゥールナションはオリジナルの原稿を入手できなかったので、そのフランス語版はドイツ語版からの重訳である。 このテキストは、訳出の過程で多くの箇所が削除されている。 この海賊判の出版に対応するため、ブロックハウスはフランス語原典の第2版を出すことを決め、編集改訂に当たったのはジャン・ラフォルグ(1772年 - 1852年)なる人物だが、ラフォルグの担当した版は、性的な描写の削除だけでなく、カサノヴァ自身の宗教的・政治的見解まで改竄するという、極めて信頼に値しないものであった。 これらのフランス語版は1826年から1838年にかけ版を重ね、いずれの版も売れ行きはよく、やがてドイツ語版を元にした別の重訳によるフランス語版が新たに海賊出版された。 当時、ドイツ語版はそれほど広くフランスには流通していなかったため、この版は翻訳者が自ら考え出して追加されたくだりが含まれていると伝えられている。 からまでに刊行された回想録の諸版はすべて、これらの版のいずれかを底本としたものである。 はこれらの不正確な版の一つを用いて英訳を試み、に発表した。 英語圏では、これが長らく普及版とされていた。 オリジナル手稿は、1945年6月までにあったブロックハウス社の本社に保管されていたが、ライプツィヒへの激しい爆撃が始まる直前にの新本社へ移された。 、ブロックハウス社とフランス人編集者プロンの共同作業によって、初めて原稿のオリジナル版が陽の目を見ることとなった。 窪田般彌の全訳は、自筆原稿を元にしたブロックハウス版で、1968年~69年に(全6巻、画家の挿画入り)で出版された。 抜粋訳が出版された以外は、長らく品切状態が続いたが、訳者が再度改訂し1995年~96年に(全12巻)で出されたが、ほぼ初版のみで品切となった。 主な日本語訳 [ ]• 『カザノヴァ回想録』の題で、訳( 全7巻、訳者急逝で未完) 訳( 全4巻/版 全8巻で再刊) 訳( 全6巻/新装版 全12巻)。 前者は装画・箱入。 第1巻 少女たちの誘惑• 第2巻 恋と賭博の修業• 第3巻 パリの社交界• 第4巻 修道女と大脱獄• 第5巻 魔術師の野望• 第6巻 ヨーロッパ放浪• 第7巻 占星術とぺてん師• 第8巻 仮装舞踏会• 第9巻 ロンドンの娼婦• 第10巻 性と愛の哲学• 第11巻 永遠の麗しき女性• 第12巻 最後の色事師 なお初訳は1926年刊の『カザノヴァ情史』(国際文献刊行会) 関連項目 [ ]• ・ 外部リンク [ ]• (アーサー・マッケンによる1894年の英語版)• (アーサー・マッケンによる1894年の英語版に、アーサー・シモンズの発見した章を加えた増補版)• (ラフォルグによるフランス語訳の1880年版)• (英語).

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