セサミ ストリート ドラキュラ。 セサミストリート

Sesame Street Japan

セサミ ストリート ドラキュラ

諸侯の権力が強かったワラキアにあって中央集権化を推し進め、と対立した。 日本ではしばしば ヴラド・ツェペシュと呼ばれるが、「ツェペシュ」は姓でもミドルネームでもなく、「串刺し公」、原義では「にする者」を意味するの異名、すなわち「ドラキュラ」と同様にニックネームであって、名前は単にヴラドである(の節を参照)。 の小説『』に登場する・のモデルの一人として知られる。 現在は、故国を侵略から守るために戦った英雄として再評価されている。 ドラゴン騎士団の紋章 ヴラド3世は1431年(1430年説もある)、地方のでバサラブ朝ドラクレシュティ家の祖・(通称:ドラクル=竜公、悪魔公とも) の次男として生まれた。 この年、父ヴラド2世は兼王によってハンガリー王国のの団員に叙任されたため、ドラクルという添え名はこの(ドラコ)に由来する。 1436年、父がワラキア公となり、へと進出を続けるに対し、ハンガリーとは緊張関係を孕みつつも共に断続的に交戦した。 1444年にでワラキアを含むバルカン半島の諸侯連合軍であるヴァルナ十字軍がオスマン帝国に敗北すると、ワラキアはオスマン帝国に臣従を余儀なくされる。 ヴラド3世は、父がオスマン帝国から呼び出しを受けた際に弟のとともに抑留され、実質的にオスマン帝国の人質となった。 1447年、ヴラド2世および兄のミルチャが暗殺された(ハンガリー摂政兼トランシルヴァニア侯の指示という説がある)。 フニャディ・ヤーノシュはダネシュティ家の(ヴラド3世の又従兄弟)を支持し、これをワラキア公に据えた。 これに対し、ヴラド3世はワラキア支配をもくろむオスマン帝国の支援を受け、ヴラディスラフ2世を排除しワラキア公(スラヴ語で voivode 、ラテン語ではドゥクス dux 、総督)の座に就いたが、2か月でヴラディスラフ2世に公位を奪還され、母方の伯父の ()が治めるへ亡命した。 1451年、亡命先のモルダヴィアでボグダン2世が暗殺されると、ヴラド3世は従弟のと共にトランシルヴァニアに逃れ、フニャディ・ヤーノシュの許に身を寄せた。 1456年、オスマン帝国に妥協的な政策をとりはじめたヴラディスラフ2世を疎んじたフニャディ・ヤーノシュの支援を受け、ヴラド3世はヴラディスラフ2世を打倒して再びワラキア公に返り咲いた。 ヴラド3世は、ハンガリーと対オスマン同盟を結ぶ一方で、オスマンの要求した6000の貢納金支払いを飲んだことによって、スルタン・から君公として承認された。 1457年にはシュテファン3世を支援して、モルダヴィア公に即位させることに成功した。 しかし、まもなくシュテファン3世とはの要衝・キリアの帰属を巡って争うことになった。 、ヴラド3世はワラキア内の大貴族を粛清して権力を掌握し、中央集権化を進め、公の直轄軍を編成した。 1460年4月にはヴラディスラフ2世の息子であるがワラキア公位を狙って亡命先のトランシルヴァニアから侵攻してきたが、これに勝利した。 捕えられたダン3世は自身の死刑宣言文を読まされ、自分の墓穴を掘ることを強要された末に斬首された。 その後、ヴラド3世はダン3世に加担したに制裁を加えるためトランシルヴァニアに侵攻した。 この戦いの結果、賠償金の支払いや、ワラキアがオスマン帝国やモルダヴィアから攻撃された際には援軍を送ること等ヴラド3世に有利な条項を含んだ平和協約を締結した。 ヴラド3世は、オスマン帝国への貢納 が1万ドゥカートに引き上げられたのを機に拒否する。 オスマン帝国がワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラドは使者を生きたまま串刺し刑にする。 これについてヴラド3世は、無礼があったためと釈明した。 その後、メフメト2世は大軍を率いてワラキアに何度か侵攻したが、兵力に劣るヴラド3世はとでもって激しく抵抗し、その都度撃退する。 のの戦いでヴラド3世は、メフメト2世の首を標的としたをワラキアの首都トゥルゴヴィシュテ城外に敢行してオスマン帝国軍とその先兵であるブルガリア兵を2万人を串刺しにして殺害したという。 しかし、の激しい抵抗にあってメフメト2世を殺すことはできなかった。 その後、入城したメフメト2世を待っていたのは、ヴラド3世による大量のオスマン帝国兵の串刺しの林であり、それを見て戦意を失ったメフメト2世は、陣中に疫病が発生したこともあってワラキアから撤退した。 同年、オスマン帝国はワラキアに残留させたラドゥ美男公を支援し、厭戦気分を深めていた貴族たちを糾合してヴラドの追い落としに成功する。 ヴラドはトランシルヴァニアに落ち延びたが、ハンガリー王(フニャディ・ヤーノシュの子)にオスマン帝国に協力したという罪状で捕らえられ、幽閉の身となる。 この幽閉は、カトリック王としての(対オスマン十字軍の先駆となるべき)体面とオスマン帝国と矛を構えたくない実情との軋轢から、対オスマンの旗印であったヴラドを貶めるためのものと考えられている。 なお、この頃に最初の妻がポエナリの城の塔から投身自殺した。 ちなみに、の映画『』(1992年)では、この事件をヴラドがのとなったきっかけとしている。 1474年、ヴラド3世は12年間におよぶ幽閉から釈放された。 この間、カトリック教国からの支援を得ようとしてからカトリックに改宗し、マーチャーシュ王の妹と結婚したが、この改宗によって正教徒中心であったワラキアの民衆の人心を失った。 1476年、ヴラド3世はトランシルヴァニア軍を率いてワラキアに進軍し、ダネシュティ家のバサラブ・ライオタ公を追放して三たび公位に返り咲く。 遅れてシュテファン3世のモルダヴィア軍も到着したが、まもなく連合軍の大半は自国の事情によって帰還してしまい、手元にはシュテファン3世が残したモルダヴィア兵200人を有するのみとなった。 同年(1477年説もある)、現在の近郊でオスマン帝国と戦って戦死する。 ヴラドの死には不明なところが多く、一説には、ヴラドに敵対するワラキア貴族による暗殺ともいわれる。 オスマン帝国軍は、ヴラドの首を塩漬けにしてに持ち帰り晒したという。 ヴラドの遺体はスナゴヴの修道院に葬られたとされる。 呼び名 [ ] 日本語においては「串刺し公」を意味する「ツェペシュ」を音訳で用い、ヴラド・ツェペシュと呼ばれることが多い。 存命時はむしろ「ツェペシュ」よりも「ドラキュラ」というニックネームの方が多く用いられたのではないかといわれる。 本人筆と思われるサインにも「ヴラド・ドラキュラ」(正確には表記でWladislaus Drakulya、ヴラディスラウス・ドラクリヤ)と書かれたものが存在するため、ドラキュラというニックネームは本人も好んで使用していたと推測されている。 串刺し公の由来 [ ] ヴラド公の串刺しの様子 トランシルヴァニアやモルダヴィアとは複雑な関係であり、ワラキア領内でのも多く、ヴラドはオスマン帝国軍のみならず自国の貴族や民も数多く串刺しにして処刑したと伝えられる。 串刺し刑はこの時代の国、国のいずれにおいても珍しいものではなかったが、あくまで重罪を犯した農民に限られた。 しかしヴラドの特殊性は、反逆者はたとえ貴族であっても串刺しに処したところにある。 通常、貴族の処刑は斬首によって行われるが、あえて串刺しという最も卑しい刑罰を課すことで、君主の権威の絶対性を表そうとしたと考えられている。 ヴラドを串刺し公と最初に呼んだのは、1460年ごろヴラドの串刺しを目の当たりにしたオスマン帝国の兵士であり、トルコ語で「カズィクル・ベイ」(カズィクルは串刺し、ベイは君主)という。 このカズィクル・ベイのルーマニア語訳がツェペシュである。 また、今日の異常者というイメージは後述するによるの影響が大きい。 ドラキュラ公の由来 [ ] ドラキュラとは、ドラゴンの息子、つまり小竜公とでもいうような意味である。 父ヴラド2世はジギスムント帝によりハンガリー王国のドラゴン騎士団の団員に任じられたことでドラクルと呼ばれたが、、特にでは悪魔は蛇、ドラゴンとして描かれることが多く、ドラゴンと悪魔は同一視されることも多かったため、後世では「ドラゴン公」であるはずの「ドラクル」は「悪魔公」と解釈され、「ドラキュラ公」であるヴラド3世は「悪魔の子」という不名誉な見方をされるに至った。 これは父ドラクルが初めから悪魔と認識されたのではなく、後の串刺し公としてのヴラド3世のイメージからDraculaが「悪魔の子」と先に解釈され、その父ドラクルにまで飛び火して「悪魔公」と呼ばれたものと思われる。 このイメージは後述のように、吸血鬼ドラキュラ伯爵へと発展していく。 治世 [ ] 冷徹な統治 [ ] オスマン帝国の使者とヴラド公(19世紀、テオドール・アマン画) ワラキアは元々土着の豪族による連合政権といった色合いが強かった。 ヴラドの祖父であるは公権を強化したが、彼の死後、息子たちと彼の異母兄であるダン1世の系統(ダネシュティ家)との間の公位争いが激化した。 有力な貴族の合議によってたびたび君主が入れ替わったことでその権威は失墜。 かわって、貴族勢力の専横が著しくなった。 また近隣にオスマン帝国、ハンガリー、といった列強が存在し、それらからの干渉も受けた。 ヴラドもオスマンやハンガリーの思惑で即位したが、その中にあって君主に権力を集め、中央集権化を目指したとされる。 伝承によれば、ヴラドは有力貴族を招待して酒宴を開き、油断した貴族らを皆殺しにしたという。 また治安維持や病気流行の抑止として貧者や病人、(ジプシー)を建物に集めて火を放ったという。 また次のような伝承もある。 オスマン帝国からの使者がヴラドに謁見する際、帽子を被ったままであった。 なぜ帽子を取らないのかと問うと、トルコの流儀であると応えた。 ヴラドはならばその流儀を徹底させてやると言い、帽子ごと使者の頭に釘を打ち付けたという。 オスマン帝国との戦い [ ] オスマン帝国とヴラド公の闘い(19世紀、テオドール・アマン画) ヴラドが生まれた時代は、オスマン帝国の攻勢によってルーマニアやハンガリーが圧迫を受け、その勢力に呑み込まれていく過程にあった。 ヴラドは勇猛で軍略に優れ、オスマン帝国に対してよく抗戦し、近年では、 ()と共にルーマニアを守った英雄とされる。 小国ワラキアが長年にわたってオスマン帝国の侵略に抵抗できたのは、オスマン帝国内部の紛争の他、直轄軍の存在や積極的なの採用がある。 たび重なる戦勝にヨーロッパは沸き立ち、ヴラドが正教徒であるにもかかわらず、関係者から賞賛の声が届くほどであった。 ハンガリーでの幽閉 [ ] ポーランドとハンガリーは、東方のカトリック大国として十字軍を送るべしという有形無形の重圧を、西欧諸国やローマ教会から受けていた。 しかし、両国共に内部に反乱分子を抱えて不安定な情勢にあり、またヴァルナ十字軍を始めとする対オスマン帝国戦争のたび重なる失敗もあり、十字軍を回避しようと画策していた。 その一方で、正教国家とはいえワラキア、モルダヴィア、などの小国がオスマン帝国に善戦している状態で手を引くわけにはいかなかった。 このためハンガリー王は、1462年にヴラドをオスマン帝国に協力していたという罪で捕らえ、幽閉した。 この突拍子もない罪状を世間に受け入れさせるため、マーチャーシュはヴラドの様々な悪行を誇張・捏造して書かせ、パンフレットにして各国に配布した。 曰く、「ヴラドは人を無差別に殺し血肉を食らって晩餐を開いた」「ヴラドは田畑を燃やして農民を飢えさせた」。 これには発明されたばかりのが用いられた。 しかし、対トルコ戦の英雄であるヴラドの幽閉は、諸外国への配慮もあってやがて緩やかになり、一等の城を与えられ、監視付きではあったが出歩くことも許された。 マーチャーシュと共に宴会に出席したこともあった。 また、この幽閉中にマーチャーシュの妹と結婚した。 子孫 [ ] ヴラドは唯一の嫡出子・ミフネア悪党公の他、数人の子を持った。 直系男子は6代の子孫で断絶した。 にドラキュラ城が国から王家の子孫に返還されるという報道があった。 この子孫はヴラドの一族とは異なる、後に成立したルーマニア王家(ワラキアやモルダヴィアが合同した)の子孫であるため、ドラキュラ城と呼ばれるの城主の子孫ではあるが、ヴラドとの関係は極めて薄い。 に「ドイツ在住のドラキュラの子孫が死去した」と報じられた。 ドラキュラの子孫として報じられたは、ヴラドの子孫である女性の養子であり、家系上はヴラドと連なるものの、血縁はない。 にルーマニアの観光キャンペーンのビデオ内で、イギリス王室のが、ヴラドの子孫であると名乗っている。 評価 [ ] を処刑するがヴラド公の容貌で描かれている(1470年から1480年頃の画) ヴラドの人物像には、前述の王のプロパガンダやそれを基にした逸話が多く混ざっているため、正確なことはわかっていない。 パンフレットの亜種と思われるものが数種類見つかっているが、西欧のものと、東欧で発見されたものには内容の相違がある。 東欧では、ヴラドの改宗については非難しているものの、貴族を串刺しにしたり、病人を焼き殺したりした点についてはむしろ治安維持の観点などから肯定的に書かれており、西欧版に存在した悪行のいくつかが削除されている。 このことから、東欧においては対オスマン帝国戦争の英雄として積極的に肯定しようとしていたことが伺える。 また、ヴラド公の容貌は、聖書画の中で「悪役」のモデルにもされた。 ドラキュラ [ ] 吸血鬼伝説との関係 [ ] 「残酷」で知られたヴラドは、後世になって吸血鬼伝承と合体し、の作家によって小説『』に登場するのモデルとされた。 はスラヴ系ではないため、トランシルヴァニア地方が吸血鬼の発祥地とされることもあるが、それはあくまで創作によるものとする説もある。 ヴラドはドラキュラ伯爵のモデルの一人ではあるが、小説の中には「ヴラド」の名は出てこない。 にもかかわらず、ドラキュラ伯爵のモデルがヴラドであることが有名になるにつれ、この小説を原作とした作品(映画、演劇の他、コンピュータ・ゲームなど)では、本来原作には登場しないヴラドという名が、伯爵の本名であると設定されることも多くなった。 また、伯爵の過去のエピソードとして、史実のヴラドが体験した内容をアレンジして付加していることもある など、史実のワラキア公ヴラドがその後吸血鬼と化した、という設定の作品も存在する。 ドラキュラ城 [ ] 現在、がドラキュラ城として知られるが、この城は、が創建し、ドラキュラ公ヴラド3世の祖父にあたるがに居城としたもので、ヴラド自身は一時期とどまったに過ぎないといわれる。 ヴラドの本拠地と宮殿は、の北西ワラキア領内のにあった。 また、ヴラドと所縁の深い ()もモデルとされているが、ストーカーがこの城について知っていたという話はない。 作品のモデルとなった城は『 The Essential Dracula 』という本の中で、作者の Clare Haword-Maden はブラム・ストーカーが招かれたことがあるイギリスにある ()から着想を得たと見解を述べている。 ヴラドを直接題材としたフィクション [ ] 歴史上のヴラド3世を直接的に題材としたフィクションとして、以下の作品が挙げられる。 『夜叉姫伝』、1989年。 主人公の強敵として立ちはだかる• 2017年にアニメ化。 黒のランサーとして登場。 「ドラキュラの館」 『』• 『』(休刊に伴いに移籍)、2014年から連載中。 罪人格の一人として登場。 参考文献 [ ]• 『ドラキュラ公 ヴラド・ツェペシュ』、1997年。 『教科書には載せられない 暴君の素顔』、2008年。 ニコラエ・ストイチェスク『ドラキュラ伯爵 ルーマニアにおける正しい史伝』・訳、〈〉、1988年(後に改版、、2002年)。 『』訳、〈〉、1971年• ブラム・ストーカー『』・訳、、2000年 脚注 [ ]• 『ドラキュラ伯爵 ルーマニアにおける正しい史伝』、81頁• オスマン帝国が属国などに課す税金。 伝統的にイスラム世界では人頭税()と土地税()が存在する。 このうち、人頭税は庁が(宗教共同体)を代表して貢納しており、ワラキアなどに課せられたのは土地税であった。 また、子供を差し出すという内容はオスマン帝国の制による徴兵であると考えられる。 の時代は拡大戦争の最中で、兵士と軍資金調達が急がれたが故の要求と言える。 「改訂版 世界の民族地図」p117 高崎通浩著 1997年12月20日初版第1刷発行• 「ドラキュラ城」が約60年ぶりに所有者に返還される - ルーマニア• ドラキュラの「子孫」が死去 ドイツ東部• のアメリカ映画『』(原題: Bram Stoker's Dracula)や、から発売されている『』シリーズ、の漫画『』など。 Haword-Maden, Clare. The Essential Dracula. London: Bison Books, 1992• Buildings at Risk Register for Scotland. Royal Commission on the Ancient and Historical Monuments of Scotland. 2012年10月17日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 先代: ワラキア公 1448年 次代: 先代: ワラキア公 1456年 - 1462年 次代: 先代: ワラキア公 1476年 - 1477年 次代:.

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ドラキュラ伯爵の正体は? モデルになった人物は残虐な英雄将軍!

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諸侯の権力が強かったワラキアにあって中央集権化を推し進め、と対立した。 日本ではしばしば ヴラド・ツェペシュと呼ばれるが、「ツェペシュ」は姓でもミドルネームでもなく、「串刺し公」、原義では「にする者」を意味するの異名、すなわち「ドラキュラ」と同様にニックネームであって、名前は単にヴラドである(の節を参照)。 の小説『』に登場する・のモデルの一人として知られる。 現在は、故国を侵略から守るために戦った英雄として再評価されている。 ドラゴン騎士団の紋章 ヴラド3世は1431年(1430年説もある)、地方のでバサラブ朝ドラクレシュティ家の祖・(通称:ドラクル=竜公、悪魔公とも) の次男として生まれた。 この年、父ヴラド2世は兼王によってハンガリー王国のの団員に叙任されたため、ドラクルという添え名はこの(ドラコ)に由来する。 1436年、父がワラキア公となり、へと進出を続けるに対し、ハンガリーとは緊張関係を孕みつつも共に断続的に交戦した。 1444年にでワラキアを含むバルカン半島の諸侯連合軍であるヴァルナ十字軍がオスマン帝国に敗北すると、ワラキアはオスマン帝国に臣従を余儀なくされる。 ヴラド3世は、父がオスマン帝国から呼び出しを受けた際に弟のとともに抑留され、実質的にオスマン帝国の人質となった。 1447年、ヴラド2世および兄のミルチャが暗殺された(ハンガリー摂政兼トランシルヴァニア侯の指示という説がある)。 フニャディ・ヤーノシュはダネシュティ家の(ヴラド3世の又従兄弟)を支持し、これをワラキア公に据えた。 これに対し、ヴラド3世はワラキア支配をもくろむオスマン帝国の支援を受け、ヴラディスラフ2世を排除しワラキア公(スラヴ語で voivode 、ラテン語ではドゥクス dux 、総督)の座に就いたが、2か月でヴラディスラフ2世に公位を奪還され、母方の伯父の ()が治めるへ亡命した。 1451年、亡命先のモルダヴィアでボグダン2世が暗殺されると、ヴラド3世は従弟のと共にトランシルヴァニアに逃れ、フニャディ・ヤーノシュの許に身を寄せた。 1456年、オスマン帝国に妥協的な政策をとりはじめたヴラディスラフ2世を疎んじたフニャディ・ヤーノシュの支援を受け、ヴラド3世はヴラディスラフ2世を打倒して再びワラキア公に返り咲いた。 ヴラド3世は、ハンガリーと対オスマン同盟を結ぶ一方で、オスマンの要求した6000の貢納金支払いを飲んだことによって、スルタン・から君公として承認された。 1457年にはシュテファン3世を支援して、モルダヴィア公に即位させることに成功した。 しかし、まもなくシュテファン3世とはの要衝・キリアの帰属を巡って争うことになった。 、ヴラド3世はワラキア内の大貴族を粛清して権力を掌握し、中央集権化を進め、公の直轄軍を編成した。 1460年4月にはヴラディスラフ2世の息子であるがワラキア公位を狙って亡命先のトランシルヴァニアから侵攻してきたが、これに勝利した。 捕えられたダン3世は自身の死刑宣言文を読まされ、自分の墓穴を掘ることを強要された末に斬首された。 その後、ヴラド3世はダン3世に加担したに制裁を加えるためトランシルヴァニアに侵攻した。 この戦いの結果、賠償金の支払いや、ワラキアがオスマン帝国やモルダヴィアから攻撃された際には援軍を送ること等ヴラド3世に有利な条項を含んだ平和協約を締結した。 ヴラド3世は、オスマン帝国への貢納 が1万ドゥカートに引き上げられたのを機に拒否する。 オスマン帝国がワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラドは使者を生きたまま串刺し刑にする。 これについてヴラド3世は、無礼があったためと釈明した。 その後、メフメト2世は大軍を率いてワラキアに何度か侵攻したが、兵力に劣るヴラド3世はとでもって激しく抵抗し、その都度撃退する。 のの戦いでヴラド3世は、メフメト2世の首を標的としたをワラキアの首都トゥルゴヴィシュテ城外に敢行してオスマン帝国軍とその先兵であるブルガリア兵を2万人を串刺しにして殺害したという。 しかし、の激しい抵抗にあってメフメト2世を殺すことはできなかった。 その後、入城したメフメト2世を待っていたのは、ヴラド3世による大量のオスマン帝国兵の串刺しの林であり、それを見て戦意を失ったメフメト2世は、陣中に疫病が発生したこともあってワラキアから撤退した。 同年、オスマン帝国はワラキアに残留させたラドゥ美男公を支援し、厭戦気分を深めていた貴族たちを糾合してヴラドの追い落としに成功する。 ヴラドはトランシルヴァニアに落ち延びたが、ハンガリー王(フニャディ・ヤーノシュの子)にオスマン帝国に協力したという罪状で捕らえられ、幽閉の身となる。 この幽閉は、カトリック王としての(対オスマン十字軍の先駆となるべき)体面とオスマン帝国と矛を構えたくない実情との軋轢から、対オスマンの旗印であったヴラドを貶めるためのものと考えられている。 なお、この頃に最初の妻がポエナリの城の塔から投身自殺した。 ちなみに、の映画『』(1992年)では、この事件をヴラドがのとなったきっかけとしている。 1474年、ヴラド3世は12年間におよぶ幽閉から釈放された。 この間、カトリック教国からの支援を得ようとしてからカトリックに改宗し、マーチャーシュ王の妹と結婚したが、この改宗によって正教徒中心であったワラキアの民衆の人心を失った。 1476年、ヴラド3世はトランシルヴァニア軍を率いてワラキアに進軍し、ダネシュティ家のバサラブ・ライオタ公を追放して三たび公位に返り咲く。 遅れてシュテファン3世のモルダヴィア軍も到着したが、まもなく連合軍の大半は自国の事情によって帰還してしまい、手元にはシュテファン3世が残したモルダヴィア兵200人を有するのみとなった。 同年(1477年説もある)、現在の近郊でオスマン帝国と戦って戦死する。 ヴラドの死には不明なところが多く、一説には、ヴラドに敵対するワラキア貴族による暗殺ともいわれる。 オスマン帝国軍は、ヴラドの首を塩漬けにしてに持ち帰り晒したという。 ヴラドの遺体はスナゴヴの修道院に葬られたとされる。 呼び名 [ ] 日本語においては「串刺し公」を意味する「ツェペシュ」を音訳で用い、ヴラド・ツェペシュと呼ばれることが多い。 存命時はむしろ「ツェペシュ」よりも「ドラキュラ」というニックネームの方が多く用いられたのではないかといわれる。 本人筆と思われるサインにも「ヴラド・ドラキュラ」(正確には表記でWladislaus Drakulya、ヴラディスラウス・ドラクリヤ)と書かれたものが存在するため、ドラキュラというニックネームは本人も好んで使用していたと推測されている。 串刺し公の由来 [ ] ヴラド公の串刺しの様子 トランシルヴァニアやモルダヴィアとは複雑な関係であり、ワラキア領内でのも多く、ヴラドはオスマン帝国軍のみならず自国の貴族や民も数多く串刺しにして処刑したと伝えられる。 串刺し刑はこの時代の国、国のいずれにおいても珍しいものではなかったが、あくまで重罪を犯した農民に限られた。 しかしヴラドの特殊性は、反逆者はたとえ貴族であっても串刺しに処したところにある。 通常、貴族の処刑は斬首によって行われるが、あえて串刺しという最も卑しい刑罰を課すことで、君主の権威の絶対性を表そうとしたと考えられている。 ヴラドを串刺し公と最初に呼んだのは、1460年ごろヴラドの串刺しを目の当たりにしたオスマン帝国の兵士であり、トルコ語で「カズィクル・ベイ」(カズィクルは串刺し、ベイは君主)という。 このカズィクル・ベイのルーマニア語訳がツェペシュである。 また、今日の異常者というイメージは後述するによるの影響が大きい。 ドラキュラ公の由来 [ ] ドラキュラとは、ドラゴンの息子、つまり小竜公とでもいうような意味である。 父ヴラド2世はジギスムント帝によりハンガリー王国のドラゴン騎士団の団員に任じられたことでドラクルと呼ばれたが、、特にでは悪魔は蛇、ドラゴンとして描かれることが多く、ドラゴンと悪魔は同一視されることも多かったため、後世では「ドラゴン公」であるはずの「ドラクル」は「悪魔公」と解釈され、「ドラキュラ公」であるヴラド3世は「悪魔の子」という不名誉な見方をされるに至った。 これは父ドラクルが初めから悪魔と認識されたのではなく、後の串刺し公としてのヴラド3世のイメージからDraculaが「悪魔の子」と先に解釈され、その父ドラクルにまで飛び火して「悪魔公」と呼ばれたものと思われる。 このイメージは後述のように、吸血鬼ドラキュラ伯爵へと発展していく。 治世 [ ] 冷徹な統治 [ ] オスマン帝国の使者とヴラド公(19世紀、テオドール・アマン画) ワラキアは元々土着の豪族による連合政権といった色合いが強かった。 ヴラドの祖父であるは公権を強化したが、彼の死後、息子たちと彼の異母兄であるダン1世の系統(ダネシュティ家)との間の公位争いが激化した。 有力な貴族の合議によってたびたび君主が入れ替わったことでその権威は失墜。 かわって、貴族勢力の専横が著しくなった。 また近隣にオスマン帝国、ハンガリー、といった列強が存在し、それらからの干渉も受けた。 ヴラドもオスマンやハンガリーの思惑で即位したが、その中にあって君主に権力を集め、中央集権化を目指したとされる。 伝承によれば、ヴラドは有力貴族を招待して酒宴を開き、油断した貴族らを皆殺しにしたという。 また治安維持や病気流行の抑止として貧者や病人、(ジプシー)を建物に集めて火を放ったという。 また次のような伝承もある。 オスマン帝国からの使者がヴラドに謁見する際、帽子を被ったままであった。 なぜ帽子を取らないのかと問うと、トルコの流儀であると応えた。 ヴラドはならばその流儀を徹底させてやると言い、帽子ごと使者の頭に釘を打ち付けたという。 オスマン帝国との戦い [ ] オスマン帝国とヴラド公の闘い(19世紀、テオドール・アマン画) ヴラドが生まれた時代は、オスマン帝国の攻勢によってルーマニアやハンガリーが圧迫を受け、その勢力に呑み込まれていく過程にあった。 ヴラドは勇猛で軍略に優れ、オスマン帝国に対してよく抗戦し、近年では、 ()と共にルーマニアを守った英雄とされる。 小国ワラキアが長年にわたってオスマン帝国の侵略に抵抗できたのは、オスマン帝国内部の紛争の他、直轄軍の存在や積極的なの採用がある。 たび重なる戦勝にヨーロッパは沸き立ち、ヴラドが正教徒であるにもかかわらず、関係者から賞賛の声が届くほどであった。 ハンガリーでの幽閉 [ ] ポーランドとハンガリーは、東方のカトリック大国として十字軍を送るべしという有形無形の重圧を、西欧諸国やローマ教会から受けていた。 しかし、両国共に内部に反乱分子を抱えて不安定な情勢にあり、またヴァルナ十字軍を始めとする対オスマン帝国戦争のたび重なる失敗もあり、十字軍を回避しようと画策していた。 その一方で、正教国家とはいえワラキア、モルダヴィア、などの小国がオスマン帝国に善戦している状態で手を引くわけにはいかなかった。 このためハンガリー王は、1462年にヴラドをオスマン帝国に協力していたという罪で捕らえ、幽閉した。 この突拍子もない罪状を世間に受け入れさせるため、マーチャーシュはヴラドの様々な悪行を誇張・捏造して書かせ、パンフレットにして各国に配布した。 曰く、「ヴラドは人を無差別に殺し血肉を食らって晩餐を開いた」「ヴラドは田畑を燃やして農民を飢えさせた」。 これには発明されたばかりのが用いられた。 しかし、対トルコ戦の英雄であるヴラドの幽閉は、諸外国への配慮もあってやがて緩やかになり、一等の城を与えられ、監視付きではあったが出歩くことも許された。 マーチャーシュと共に宴会に出席したこともあった。 また、この幽閉中にマーチャーシュの妹と結婚した。 子孫 [ ] ヴラドは唯一の嫡出子・ミフネア悪党公の他、数人の子を持った。 直系男子は6代の子孫で断絶した。 にドラキュラ城が国から王家の子孫に返還されるという報道があった。 この子孫はヴラドの一族とは異なる、後に成立したルーマニア王家(ワラキアやモルダヴィアが合同した)の子孫であるため、ドラキュラ城と呼ばれるの城主の子孫ではあるが、ヴラドとの関係は極めて薄い。 に「ドイツ在住のドラキュラの子孫が死去した」と報じられた。 ドラキュラの子孫として報じられたは、ヴラドの子孫である女性の養子であり、家系上はヴラドと連なるものの、血縁はない。 にルーマニアの観光キャンペーンのビデオ内で、イギリス王室のが、ヴラドの子孫であると名乗っている。 評価 [ ] を処刑するがヴラド公の容貌で描かれている(1470年から1480年頃の画) ヴラドの人物像には、前述の王のプロパガンダやそれを基にした逸話が多く混ざっているため、正確なことはわかっていない。 パンフレットの亜種と思われるものが数種類見つかっているが、西欧のものと、東欧で発見されたものには内容の相違がある。 東欧では、ヴラドの改宗については非難しているものの、貴族を串刺しにしたり、病人を焼き殺したりした点についてはむしろ治安維持の観点などから肯定的に書かれており、西欧版に存在した悪行のいくつかが削除されている。 このことから、東欧においては対オスマン帝国戦争の英雄として積極的に肯定しようとしていたことが伺える。 また、ヴラド公の容貌は、聖書画の中で「悪役」のモデルにもされた。 ドラキュラ [ ] 吸血鬼伝説との関係 [ ] 「残酷」で知られたヴラドは、後世になって吸血鬼伝承と合体し、の作家によって小説『』に登場するのモデルとされた。 はスラヴ系ではないため、トランシルヴァニア地方が吸血鬼の発祥地とされることもあるが、それはあくまで創作によるものとする説もある。 ヴラドはドラキュラ伯爵のモデルの一人ではあるが、小説の中には「ヴラド」の名は出てこない。 にもかかわらず、ドラキュラ伯爵のモデルがヴラドであることが有名になるにつれ、この小説を原作とした作品(映画、演劇の他、コンピュータ・ゲームなど)では、本来原作には登場しないヴラドという名が、伯爵の本名であると設定されることも多くなった。 また、伯爵の過去のエピソードとして、史実のヴラドが体験した内容をアレンジして付加していることもある など、史実のワラキア公ヴラドがその後吸血鬼と化した、という設定の作品も存在する。 ドラキュラ城 [ ] 現在、がドラキュラ城として知られるが、この城は、が創建し、ドラキュラ公ヴラド3世の祖父にあたるがに居城としたもので、ヴラド自身は一時期とどまったに過ぎないといわれる。 ヴラドの本拠地と宮殿は、の北西ワラキア領内のにあった。 また、ヴラドと所縁の深い ()もモデルとされているが、ストーカーがこの城について知っていたという話はない。 作品のモデルとなった城は『 The Essential Dracula 』という本の中で、作者の Clare Haword-Maden はブラム・ストーカーが招かれたことがあるイギリスにある ()から着想を得たと見解を述べている。 ヴラドを直接題材としたフィクション [ ] 歴史上のヴラド3世を直接的に題材としたフィクションとして、以下の作品が挙げられる。 『夜叉姫伝』、1989年。 主人公の強敵として立ちはだかる• 2017年にアニメ化。 黒のランサーとして登場。 「ドラキュラの館」 『』• 『』(休刊に伴いに移籍)、2014年から連載中。 罪人格の一人として登場。 参考文献 [ ]• 『ドラキュラ公 ヴラド・ツェペシュ』、1997年。 『教科書には載せられない 暴君の素顔』、2008年。 ニコラエ・ストイチェスク『ドラキュラ伯爵 ルーマニアにおける正しい史伝』・訳、〈〉、1988年(後に改版、、2002年)。 『』訳、〈〉、1971年• ブラム・ストーカー『』・訳、、2000年 脚注 [ ]• 『ドラキュラ伯爵 ルーマニアにおける正しい史伝』、81頁• オスマン帝国が属国などに課す税金。 伝統的にイスラム世界では人頭税()と土地税()が存在する。 このうち、人頭税は庁が(宗教共同体)を代表して貢納しており、ワラキアなどに課せられたのは土地税であった。 また、子供を差し出すという内容はオスマン帝国の制による徴兵であると考えられる。 の時代は拡大戦争の最中で、兵士と軍資金調達が急がれたが故の要求と言える。 「改訂版 世界の民族地図」p117 高崎通浩著 1997年12月20日初版第1刷発行• 「ドラキュラ城」が約60年ぶりに所有者に返還される - ルーマニア• ドラキュラの「子孫」が死去 ドイツ東部• のアメリカ映画『』(原題: Bram Stoker's Dracula)や、から発売されている『』シリーズ、の漫画『』など。 Haword-Maden, Clare. The Essential Dracula. London: Bison Books, 1992• Buildings at Risk Register for Scotland. Royal Commission on the Ancient and Historical Monuments of Scotland. 2012年10月17日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 先代: ワラキア公 1448年 次代: 先代: ワラキア公 1456年 - 1462年 次代: 先代: ワラキア公 1476年 - 1477年 次代:.

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世界初『セサミストリートカリキュラム』が日本国で誕生—学校教育にセサミストリートを導入

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1. セサミストリートとは? (1) セサミストリートとは? 「図-セサミストリートとは?」 「セサミストリート」は、アメリカで誕生した子ども向け教育番組で、その理想を、「子どもは社会全体の宝」「子どもたちの可能性がすべてに優先する」と掲げています。 エルモ、オスカー、クッキーモンスター、グローバー、ビッグバード、など、マペットと呼ばれるキャラクターたちと、アラン、ゴードン、スーザン、ボブ、マリアやルイスといったヒューマン・キャストと呼ばれる実際の人間の俳優のキャラクターたちがさまざまな物語をくり広げます。 いずれの物語も、子育て支援や教育に関する啓発・意識改革を行っていくことを目的とされ、またその世界観を反映するものとなっています。 (2) セサミストリートの歴史と現在 セサミストリートが誕生したのは1969年です。 以来、150以上の国と地域で放映された他、世界の放送業界で権威と歴史のあるエミー賞を、2015年までに164個受賞。 これはテレビ番組の受賞数の最多記録なのだそうです。 他にも、毎年のように新たな賞を受賞するなど、さまざまな記録を更新し続けてもいます。 日本では、1971年にNHKでの放映が始まり、2004年の3月までアメリカ本国のオリジナル版の放映が続いた他、2004年10月から3年間は、日本の子どもたちが置かれている環境と問題点に合わせた共同制作版の番組制作と放映が、テレビ東京系列で行われました。 現在は、YouTubeに公式チャンネル「セサミストリート日本公式」で、プログラムが見られるようになっています。 「相手を尊敬する心や思いやりが大事にし、また、全ての子どもが教育を受けられることも重視している」とは、番組制作責任者の言葉。 これが日本での放映が、地上波放映からYouTubeでの放映に切り替わった一つの理由ととらえることもできるのかもしれません。 (3) 本物のセサミストリートがニューヨークに誕生 これまでセサミストリートの舞台は、ニューヨークのとあるダウンタウンの架空のストリート「セサミストリート」とされてきました。 つまり、実在する「通り=ストリート」ではなかったわけです。 が、誕生から50年を迎える2019年、ニューヨークの中心部に、正式にその名のついた「通り」が誕生し、大いに話題となっています。 その場所は、ウェスト63rdストリートのブロードウェイからセントラルパークの西側までの区間。 まさにニューヨークのど真ん中とも言える場所が「セサミストリート」となり、通り名のついた標識が設置されたのです。 その事実だけを取ってみても、セサミストリートの影響力の大きさを物語っているのではないでしょうか。 2. セサミストリートに登場した自閉症のある子ども「ジュリア」 (1) 自閉症と正面から向き合うスタイル 「図-セサミストリートにおける自閉症の扱い方」 そのような教育番組であるセサミストリートに、2017年から登場しているキャラクターに「ジュリア」がいます。 ジュリアは自閉症のある4歳の子どもという設定です。 ジュリアとビッグバードとが初めて出会う場面である「Meet Julia・ジュリアの紹介()」。 話しかけても、ハイタッチを求めても反応してくれないジュリアに「嫌われたのではないか?」と落ち込むビッグバードに、ヒューマン・キャラクターであるアランが、「ジュリアは自閉症なんだ」と説明します。 さらに、「自閉症って何?」とたずねるビッグバードに、「何か聞かれても、すぐには答えられないことがある」「期待している返事や対応をしてくれないこともある」「みんなとやり方が違う、ジュリアスタイルがある」「時々、みんなには理解しにくいことをすることもある」と続けます。 日本でも、特に幼児向け番組には、あいさつすることに無頓着だったり、謝ることがニガテだったり、人と話すのがニガテだったり、特定の物事へのこだわりが非常に強かったりと、さまざまな個性を持つ人物が登場するのではないかと思います。 「個性豊か」と表現できる一方で、「少し風変り」と表現することもできる人物たちを登場させることで、「いろいろな人がいる」「みんな違う」「それがいい」というメッセージを込めているのではないかと思います。 と同時に、自閉症をはじめとする障害に関する知識が少しあると、「ひょっとしたらこの子は、自閉症の子どもを参考にしているのかもしれない」と思う場合もあります。 ただこれは、「そうなのではないか?」という推測に過ぎません。 一方、アメリカでも、ジュリアの登場がさまざまなメディアで大きく取り上げられたり、SNSで話題を集めたりするなど、大きな反響を呼ぶ出来事になったとのこと。 つまり、このような「自閉症と正面から向き合う」と表現できるようなスタイルは、お国柄と言うよりはむしろ、セサミストリートの大きな特徴と言った方が良さそうなのです。 そして、このようなスタイルだからこそ、自閉症というものについて、「こういう面がある」「このような場合もある」と、「直接的に」表現することができ、子どもであっても「自閉症とは何なのか?」を理解しやすい面があるのではないかとも考えられるのです。 (2) セサミストリートと自閉症 セサミストリートは、自閉症に関して紹介するサイトも運営しています。 こちらは残念ながらすべて英語ですが、子ども向け、保護者の方向けのそれぞれの動画の他、オンラインブックやプリントして使える自閉症啓発に関する教育グッズなどを見たり、ダウンロードしたりすることなどができます。 なお、ジュリアのマペットの操作と声を務めているステイシー・ゴードンさんは、自閉症のある子どもを持つお母さん。 「(お子さんの)友だちが、テレビを通して(ジュリアという)キャラクターを知っていたら、(お子さんの)その行動を目にしても驚かなかったかも。 遊ぶ時にはみんなと違う行動をすることがわかっても、それをやめさせようとするのではなく、それでいいんだと考えてくれたかも」と、インタビューで話しています。 (3) 厚労省が発達障害の啓発に起用 毎年4月2日は、国連の定めた「世界自閉症啓発デー」なのですが、厚労省は2日から8日までの一週間を「発達障害者啓発週間」と位置づけ、自閉症だけでなく、発達障害全般に関するの理解促進のためのシンポジウムの開催やシンボルカラーの「青」を使った全国各地のランドマークのブルーライトアップなどの集中啓発活動を行っています。 2018年のこの活動で、厚労省はセサミストリートを啓発活動のポスターに起用しました。 実際に起用したのは、ジュリアの他、その良き理解者とされるエルモとクッキーモンスターで、そのポスターは、全国の自治体を通じて、学校、保育所、福祉関係施設、地域の公民館等に加え、医療機関や鉄道会社に、7万部配布されたとのことです。 ここで、改めて、自閉症とは何か? を見ていきます。 自閉症は、近年では、アスペルガー症候群などとともに、本質的には同じひとつの障害単位であると考えられるようになってきています。 実際、疾患や障害を分類するマニュアルである「DSM-5」では、自閉症スペクトラム障害という診断名で統一されるようになっています。 「スペクトラム」とは、「連続体」という意味。 ひと言で言うなら、切れ目が不明確で、分けられない、あるいは、分けにくいという特徴があると言えるかもしれません。 その典型的な特徴である自閉的特徴には、対人関係・コミュニケーションの障害、興味や行動の偏りやこだわりの大きくは2つがあります。 この特性により、その場の空気や相手の様子などを読むことができない、周囲に配慮しながら行動することができない、あいさつや礼儀をわきまえない、間違っていても謝らない、といった行動に結びつきがちです。 そのため、ご本人には全く悪気はないのに、「非常識」「自己中心的」と見られやすくなり、他人の怒りをかってしまうことにつながる場合が多くあると言われています。 一方でこの特性は、周囲に関係なく自由な発想ができる、孤立してもやり続けられる・やり遂げられる、周囲の感情に惑わされないといった、長所となることでもあります。 この特性は、相手に興味があるかないかに関わらず話し続ける、相手の話はまったく聞かず一方通行で話す、相手が話している途中で他のことを始める、といった行動に結びつきがちとされています。 また、仲間と一緒に何かをやるといった場面で他人の言うことはまったく聞かなかったり、休憩時間と勉強時間などの切り替えができずに話し続けたり、といった問題を起こす場合もあるようです。 一方でそれは、印象に残ったことを率直に話せる、独特の言い回しなどが面白い、あることについてとことん話を続けられる、といった長所にもなることと考えられます。 (2) 興味や行動の偏り・こだわり(パターン化した興味や活動) 決められた手順や一度決めたルールなどに徹底してこだわる、という特性です。 このため、突然のスケジュール変更や中止、ルールの変更、などを極端に嫌がり、時にパニック状態になったりする場合もあると言われています。 これは、次に何が起こるか、どんなことが起きる可能性があるか、といった想像力を働かせることがニガテであることが原因と考えられます。 また、例外を認めなかったり、他人の誤りを許さなかったり、といったことも、同じ特性が原因であらわれがちのようです。 ただこの特性は、物事に真剣に取り組む、単純作業などを嫌がらずに続けられる、規則正しく生活できる、記憶力が高いなどの長所となってあらわれるとも言えるのです。 他にも、自閉症のある方は、さまざまな刺激に対して過敏であるケースも多いようです。 たとえば、音、光、色、臭いなど、さまざまなものが考えられますが、これにも個人差があるとのこと。 自閉症スペクトラム障害なら、すべての方が同じように、刺激に対して過敏というわけではないという点に注意が必要と言うこと。 つまり、一人ひとりということです。 【関連記事】 4. 自閉症を理解して、そして、認める、接するために 上記のような自閉症の特徴を理解することは、自閉症のある方と接する際の大きなヒントになると言えるでしょう。 そして、セサミストリートがジュリアを通じて示す「自閉症と正面から向き合うと言えるような態度」と、「自閉症のある方への接し方」が、その基本として最も重要なことと言えるのではないかとも考えられます。 具体的な「接し方」としては、たとえば次のようなものが考えられるわけですが、その基本にあるのは、「相手を尊敬する心や思いやりを大事にする」という、セサミストリートの基本的な姿勢・考え方と言えます。 (1) 簡単で、短い言葉で伝える (2) いっしょに楽しむ (3) 話したいことは黙って、しっかりと聞く (4) ルールを守っていないときは、静かに教える (5) 急な予定変更などを避ける そもそも目指すべきは、このような接し方ができるようになることであり、あるいは適切な接し方を考えられるようになること。 その目的を優先するのであれば、より直接的に自閉症を扱うこと、つまり、「自閉症とは何か?」を直接的に表現するというセサミストリートの手法は、遠回しに「いろいろな個性を持つ人々がいる」と伝えるよりも有効である可能性が高いのではないかとも考えられるのです。 最後に セサミストリートは、アメリカで誕生した子ども向け教育番組で、その理想を、「子どもは社会全体の宝」「子どもたちの可能性がすべてに優先する」と掲げています。 いずれの物語も、子育て支援や教育に関する啓発・意識改革を行っていくことを目的とされています。 セサミストリートには、2017年から自閉症のあるキャラクターであるジュリアが登場しています。 その登場場面である「Meet Julia・ジュリアの紹介」では、ジュリアは「自閉症なんだ」と、非常に直接的な表現で紹介され、続いて「何か聞かれても、すぐには答えられないことがある」「期待している返事や対応をしてくれないこともある」「みんなとやり方が違う、ジュリアスタイルがある」「時々、みんなには理解しにくいことをすることもある」といった特徴が説明されています。 このような取り上げ方は、少なくとも日本においては一般的とは言いにくい方法かもしれません。 しかし、そもそもの目的としては、自閉症と気づけるようになることではなく、「では、どのように接すればよいのか?」を考えられるようになることが優先されるはず。 現実問題として、接し方がわからない限り、問題は何も解決しないからです。 また、同じことは、自閉症だけでなく、他の障害にも当てはまりますし、広く「多様性を受け入れる」ことにも通ずるはず。 そう考えると、まずは「〇〇は、こういうもの」という知識を与え、その上でどうしたら良いかを考えさせるような教育手法が、発達段階によってはより有効だと考えられるのかもしれません。 「多様性を受け入れ、その接し方を考えること」のきっかけとして、セサミストリートの日本公式サイトをのぞいてみて、子どもと一緒に考えるアプローチを試してみる価値は大いにあるのではないでしょうか。 なお、この記事に関連するおススメのサイトは下記の通りとなります。 参考までご確認ください。 cao. mhlw. mhlw. ncnp. youtube. zaikei. html.

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