女性 の いない 民主 主義。 「女性のいる民主主義社会」に向けて

前田健太郎『女性のいない民主主義』〈著者からのメッセージ〉

女性 の いない 民主 主義

優れた人による権力・支配、や)との対比で使用され、権力者や支配者が構成員の一部であるか全員であるかを対比した用語である。 古代ギリシアの衰退以降は「デモクラシー」の語はの意味で使われるようになった。 では「デモクラシー」の語は使用されず、を廃止し、とが主権を持つ体制は「」と呼ばれた。 近代の政治思想上で初めて明確にデモクラシー要求を行ったのは、でのレヴェラーズ(、平等派、水平派)であった。 の以降は、「デモクラシー主義」は思想の用語として使われるようになった()。 更に後は君主制・・などとの対比で、20世紀以降はとの対比でも使用される事が増えた。 なおでは、非民主制(の政体)の総称は「制(権威主義制政体)」と呼ばれる。 日本語で「デモクラシー」は通常、主にを指す場合は「 」、主に制度を指す場合は「 民主制」、主に思想・理念・運動を指す場合は「民主主義」などと訳し分けられている。 なおでは、特に思想・理念・運動を明確に指すために「 デモクラティズム」 : democratism、民主主義(思想))が使用される場合もある。 「民主」という語 [ ] 民主という漢語は、伝統的な中国語の語義によれば「民ノ主」すなわち君主の事でありやに見られる用法である。 これをdemocracyやrepublicに対置させる最初期のものはウィリアム・マーティン(丁韙良)(1863年または64年)であり、マーティンは a democratic republic を「民主之国」と対訳していた。 しかしこの漢訳は、中国や日本でその後しばらく見られるようになる democracy と republic の概念に対する理解、あるいはその訳述に対する混乱の最初期の現れであった。 マーティンより以前、イギリスの(馬礼遜)の「華英字典」(1822年)は democracy を「既不可無人統率亦不可多人乱管」(合意することができず、人が多くカオスである)という文脈で紹介し、(麥都思)の「英華字典」(1847年)はやや踏み込み「衆人的国統、衆人的治理、多人乱管、少民弄権」(衆人の国制、衆人による統治理論、人が多く道理が乱れていることをさすことがあり、少数の愚かな者が高権を弄ぶさまをさすことがある)と解説する。 さらにドイツのロブシャイド(羅存徳)「英華字典」(1866年)は「民政、衆人管轄、百姓弄権」(民の政治、多くの人が道理を通そうとしたり批判したりする、多くの名のある者が高権を弄ぶ)と解説していた。 19世紀後半の漢語圏の理解はこの点で一つに定まっておらず、陳力衛によれば Democracy は「民(たみ)が主」という語義と「民衆の主(ぬし、すなわち民選大統領)」という語義が混在していたのである。 一方で日本では democracy および republic に対しては当初はシンプルで区別なく対処しており、1862年にが作成したでは democracy および republic いずれにも「共和政治」の邦訳を充てていた。 これがの渡来とその強力な受容により「民主」なる語の併用と混用の時代を迎えることとなる。 概要 [ ] 民主主義(デモクラシー、、民主制)は、組織の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行う、即ち構成員が最終決定権()を持つという・・であるが、その概念、理念、範囲、制度などは古代より多くの主張や議論がある。 の民主主義は、(少数派支配)に対する人民支配(民衆支配、多数派支配)であり、、、、などの概念と関連していた。 しかしその後は長くを意味するようになり、17世紀以降にによるの立場から再評価され、によりの正統性理念となり、、、などのに大きな影響を与えた。 民主主義はやの立場からも評価されるが、同時に古代より多数派による専制や、民衆の支持を背景に少数独裁に転じる危険性も存在する。 民主主義の理念に対する評価は、2つの世界大戦をきっかけとして20世紀に激変した。 はとなり、、、などでは帝政が終焉した。 では「民主主義と全体主義の対決」という意味づけが特に途中から参戦したアメリカ合衆国によって強調され、の開始後は「全体主義」にのが加えられた。 戦争中は銃後の女性を含め多くの国民が戦争に動員され、戦争に貢献する以上は政治的発言も認められるべきとして、結果として選挙権の拡大につながった。 こうして民主主義の正当性は高まり、最も独裁的な国家も自らこそが真の民主主義を体現していると主張するようになり、民主主義の理念を否定する体制が事実上なくなった反面、民主主義とは何かが曖昧ともなった。 民主主義の種類は大別して、構成員が直接参加すると、構成員が代表を選出して代表が議論や意思決定を行う(代表制民主主義)があり、組織の規模や、意思決定の重要度などによって選択や組み合わせが行われている。 直接民主主義的要素には、構成員全体による会議の他に(住民発案、国民発案)、(住民投票、国民投票)、などがあり、間接民主主義の代表例にはやなどがある。 これらの制度は組織全体の統合機能を持つため、仮に形骸化した場合には統合機能が低下する。 また自由な議論の前提には、、少数派の尊重、なども必要とされる。 民主主義を実現するための制度にはその組織や国の歴史的経緯などにより、による、二元代表制による、あるいはその組み合わせ(半大統領制)などがある。 また権力による独裁を防ぐためのなど各種のがある。 また現代の大衆社会では、、などの役割や影響力も増加した。 種類 [ ] 民主主義の代表的な種類・分類には以下があるが、その分類や呼称は時代・立場・観点などにもよって異り、多くの議論が存在している。 直接民主主義 [ ] 詳細は「」および「」を参照 直接民主主義は、集団の構成員による意思が集団の意思決定に、より直接的に反映されるべきと考える。 直接民主主義の究極の形態は、構成員が直接的に集合し議論して決定する形態であり、高い正統性が得られる反面、特に大規模な集団では物理的な制約や、構成員に高い知見や負担が必要となる。 また議員など代表者を選出する形態でも有権者の選択が重視され、議員は信任されたのではなく有権者の意思を委任された存在であり、有権者の意思に反する場合はや再選挙の対象となりうる。 古代やではが実施された。 現代では、レファレンダム(、など)、リコール(罷免)が直接民主主義に基づく制度とされ、都市国家の伝統を受け継ぐやのなどでは構成員の参加による自治が重視されている。 間接民主主義 [ ] 詳細は「」および「」を参照 のでは、による が行われた。 民会の参加はアテナイ市民権を持つ全成人男性で、奴隷・女性・移住者は対象外であり、議論の後にで決定された。 アテナイではからに移行後は、貴族の(元老院)による支配が行われ、の権限は限定的であった。 7世紀にが従来のを成文化し、貴族による法知識の独占が崩された。 紀元前6世紀、は市民の奴隷への転落を禁止し、全ての市民がに参加することを認める法律を制定した(ソロンの改革)ため、市民と奴隷が明確に二分され、以後は市民間における自由と平等が保証された。 続いて紀元前5世紀、がを追放し、従来の血縁による部族制から居住区(、デモクラシーの語源となった)制への移行、の設置、の創設など、民主制の基礎を確立した。 更に紀元前462年、等がの権限を剥奪した。 しかし後、等の批判で市民裁判によりが処刑されると、弟子のは民主主義はに陥る危険があると考えを主張した。 または六政体論を主張し、ポリテイア(国制)では「等しいものを等しく扱う」事が正義の本質とし、市民間の平等と相互支配(政治的支配)を重視したが、主人の奴隷に対する支配(主人的支配)や親の子に対する支配(王政的支配)は擁護した。 これに対して後のは による奴隷を含めた全ての人間の平等を説いた。 アテナイを含む古代ギリシア衰退後は、民主主義(大衆支配)は合理的な統治形態ではないと考える時代が長く続いた。 古代ローマ [ ] 詳細は「」、「」、「」、および「」を参照 では、古代ギリシアで使われたデモクラシーという言葉は衆愚政治を意味すると考え使用しなかったが、移行後は貴族中心のと平民のが意思決定機関となり、が整備され、王政復活やを防止するためになどのは任期等が制限された。 いわゆるへの移行後も、名目上は共和制で、は()であった。 紀元前509年、古代ローマは王を追放しとなったが、貴族と平民の身分闘争が続き、紀元前494年 平民を保護するが創設されて拒否権が与えられ、紀元前287年 で民会が独自の立法機関となったが、などの改革は失敗した。 または被征服民族などに拡大され、212年ので帝国内の全自由民(成人男性)に拡大された。 は元老院(統治機関)、執政官(元首)、民会(議会)をと考えた。 近代以降、元老院は、民会は、はとなり、ローマ法はヨーロッパ法(、ユス・コムーネ)に影響を与えた。 中世 [ ] ではなど宗教的権威やなどが支配的となったが、ヨーロッパではやの影響、各地の商業都市発達などもあり、多様な場所や形態でや、自治など民主的な概念や制度も存在した。 古代からのものも含め、主な例には以下がある。 の(教皇選挙)• 古代ゲルマン社会の• 中世の、、、、、、などのと• の(19世紀の連邦制移行迄は各州が主権国家)• の(930年、世界初の近代議会)• の議会 1066年• 日本のなどの 近代国家の成立と啓蒙思想 [ ] に作られた、マグナ・カルタの認証付写本 13世紀、でにより王権の制限が定められた。 16世紀以降、やがを唱えて政治権力の権力からの独立を宣言し、が「国家主権論」を唱え、1648年 により中世とは異なる近代的なが成立した。 17世紀以降、によるが主張され、は自由主義や人間の平等を主張した。 17世紀、でリヴェラベーズ(平等派)が社会契約やを要求した。 また人民主権の理論として社会契約論が唱えられた。 の社会契約論は、権力の正統性を神ではなく被支配者である人民に求めたが、国民による統治は構想しなかった。 次にの社会契約論は、更に国民の抵抗権(革命権)を認め、に影響を与えた。 またの社会契約論は、堕落した文明社会を変革する方法として人民が(公共我)を創出するとし、また代表制を批判し直接民主主義の理念を提示し 、後のフランス革命に影響を与えた。 はブルジョワジー、特に知識階級の自由を権力の専制からいかに保障するかを考え、権力分立の形態としてを構想した。 アメリカ独立革命 [ ] 「への署名」(画) 1775年、が発生した。 北アメリカのイギリス植民地では、植民地への重税や植民地からの輸入規制等への不満から、ミルトン、、の理論を学び、基本的人権と代表制(「」)を確立した。 1776年 が起草したでは社会契約論、人民主権、革命権が明文の政治原理として採用された。 各植民地は憲法制定など共和国としての制度を整え、などの伝統が形成されていった。 特に、等の共和国憲法は、人民の意思の反映、議会の優位を強く打ち出し、連邦の強化は専制に繋がるものとして警戒された。 独立戦争後の財政危機、の台頭による政治不安の中、有産階級は各植民地共和国の独立・自治を見直し、強力な中央連邦政府の樹立へ向かった。 1787年採択のは、多数派の権力もまた警戒すべしとの考えから、権力分立の徹底と社会秩序の安定を重視し、議会の二院制、議会から独立した強力な大統領による行政権、立法に優位する司法権を確立した。 この結果、ブルジョワジー中心の体制が確立した。 その後、とが2大潮流となり、また大衆社会による議会制度の形骸化を受けても提唱された。 (人および市民の権利の宣言)• 第1条 人間は、自由かつ権利において平等として生まれ、かつ生存する。 (後略)• 第3条 すべての主権の根源は、本質的に国民にある。 (後略)• 第6条 法律は一般意思の表明である。 すべての市民は、個人的、または彼らの代表者によって、その作成に協力する権利を持つ。 (後略) (憲法 )• 第11条 主権は1つで、分割できず、譲り渡すことができず、かつ時効にもかからない。 主権は国民に属する。 (後略)• 第56条 フランスには、法律の権威に優越する権利は存在しない。 国王は、法律によってのみ統治し、かつ国王が服従を強要することができるのは、ただ法律の名においてのみである。 — 「」、「」、および「」も参照 18世紀から20世紀にかけて、主要各国で男性普通選挙や、女性も含めた完全普通選挙が普及した。 特にやはとなり女性の社会進出が進み、またを掲げての独立が続き、多数のが誕生した。 19世紀以降、社会主義の潮流の中より、従来のブルジョワ民主主義を欺瞞として暴力革命を唱える()が登場すると、共産主義陣営は資本主義陣営をと批判し、資本主義陣営は共産主義陣営のを批判した。 更に第二次世界大戦後、イタリアでは、ではが台頭し、やを掲げて民主主義を批判した。 2007年、は9月15日を「」とし、すべての加盟国および団体に対して公的意識向上のための貢献を感謝する決議を行った。 思想 [ ] 民主主義に関する思想、見解、発言には多数のものがあるが、世界的に著名なものには以下がある。 デマラトス [ ] 、の際、大王のと、ペルシャに亡命中の元王のの対話より。 当時は一般的なのペルシャ王は統治の基本原則は恐怖であり、とは放任状態で統制のとれない状態と考えるが、例外的に の権威の下に団結して 自由を唱える市民団からなるでは、法の下での平等な関係を踏まえた自治があり、言論が人を動かす道具で、ポリスの自由により市民が政治に参加できていた。 (クセルクセス1世)デマラトスよ、一千の兵がこれほどの大軍を相手に戦うなど、そなたは何という笑止なことを申すのか。 (中略)それたの者たちが一人の指揮者の采配の元にあるのではなく、ことごとくが一様に自由であるとするならば、どうしてこれほどの大軍に向かって対抗し得ようか。 (中略)一人の統率下にあれば、指揮官を恐れる心から実力以上の力も出そうし、鞭に脅かされて寡勢を顧みず大軍に向かって突撃もしよう。 しかしながら自由に放任しておけば、そのいずれもするはずがなかろう。 (デマラトス)彼らは自由であるとはいえ、いかなる点においても自由であると申すのではありません。 彼らはと申す主君を頂いておりまして、彼らがこれを怖れることは、殿のご家来が殿を怖れるどころではないのでございます。 いずれにせよ彼らはこの主君の命じるままに行動いたしますが、この主君の命じますことは常に一つ、すなわちいかなる大軍を迎えても決して敵に後ろを見せることを許さず、あくまでも己の部署にふみとどまって敵を制するか自ら討たれるかせよ、ということでございます。 — 「」 ペリクレス [ ] われらの政体は他国の制度を追従するものではない。 ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。 その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、 民主政治と呼ばれる。 わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。 だが一個人が才能の秀でていることが世に分かれば、無分別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公の高い地位を授けられる。 またたとえ貧窮に身を起こそうとも、ポリスに益をなす力を持つ人ならば、貧しさゆえに道を閉ざされることはない。 われらはあくまで自由に公に尽くす道を持ち、また日々互いに猜疑の目を恐れることなく自由な生活を享受している。 (中略)私の生活においてわれらは互いに掣肘を加えることはしない、だが事公に関するときは、法を犯す振る舞いを深く恥じおそれる。 時の政治をあずかるものに従い、法を敬い、とくに侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼ぶさます不文の掟とを、熱く尊ぶことを忘れない。 まとめて言えば、我等のポリス全体はギリシア人が追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己の治世の円熟を期することができると思う。 — 『』 プラトン [ ] 、は著作『』で、国家のの次の段階は民主制だが、行き過ぎた自由により崩壊してになるとし、理想を「」と記した。 、は著作『』でを支配者の数と、共通の利益にかなうかどうかで6政体に分類した。 アリストテレスは現実に最善な政体はポリティア(ポリスの国制)と考え、それは寡頭政と民主政を混合したもので、富者と貧者の対立調停を主眼に置いて選挙と抽選を併用し、また支配と服従の両方を経験した中間階層の役割が安定の基礎と説いた。 他方では「の生まれで財産の無い者が多数であって支配者である」政体だが、「悪い政体」の中では「最も悪くないもの」で、では法の支配が確保されるためには例外的にのみ開かれる事が大事で、民衆が農民ならば権利はあっても政治に参加する閑暇が無いためは穏健なものとなるが、民衆が職人・商人・日雇いから成る場合はは極端な形態に陥りやすい、と記した。 また民主政治の前提条件に「自由」、「政権や権力の交代」、「平等」、「原理」などを挙げた。 アリストテレスの六政体論 一人による支配 少数者による支配 多数者による支配 共通の利益にかなう(良い)政体 バシレイア(basileia ) アリストクラティア(aristokratia ) ポリテイア(politeia ポリスの国制、) 共通の利益にかなわない(悪い)政体 テュランニス(tyrannis ) オリガルキア(oligarchia ) デモクラティア(demokratia ) 民主制的国制の根本原理は自由である。 そして自由の一つは順番に支配されたり、支配することである。 というのは民主制的「正」は、人の値打ちに応じてではなくて、人の数に応じて等しきものを持つことであるが、(中略)大衆は必然的に者であり、また何事によらず、より多数の者が決定することが最終的なものであり、またそれが正しいことである。 (中略)次のようなことが民主制的なことである - すなわちすべての人々がもろもろの役人をすべての人から選挙すること、すべての人々が一方において個々の人を支配し、他方において個々の人が順番にすべての人を支配すること、もろもろの役は財産を全然その資格としないこと、あるいはできるだけ小額を資格とすること、同一人がどんな役にも二度と就かないこと... (中略)貧乏な人々が裕福な人々よりも少しも多く支配に与らないこと、あるいはただ貧乏人だけ主権者であることなく、すべての人々が数に応じて等しくそうであることが、(中略)そうであってこそ国制には平等と自由が存在すると人々は信ずるだろうからである。 — 『』第6章 国家共同体でも中間的な人々によって支配されているものが最善であり、(中略)未熟粗暴な民主制からも寡頭制からも独裁制は生じてくるものであるが、中間的な国制やそれにちかいものから生じることははるかに少ない。 — 『』第4巻 第11章 ポリュビオス [ ] は『』を執筆し、ローマが短期間に覇権を確立した理由を分析した。 王政・貴族政・民主政は、長く続くと腐敗や制度老朽化によりそれぞれ僭主政・寡頭政・衆愚政へ堕落し、僭主政は貴族により打倒され、衆愚政は独裁者を招き寄せるため、この六政体は永遠に循環する(政体循環論)。 しかしローマ人は、単一の原理に基づく限りいかなる国制も衰えると考え、執政官・元老院・民会の三機関にそれぞれ王政的要素・貴族政的要素・民主政的要素を担わせた政治体制を構築することで政治の安定を実現した、と考えた。 アリストテレスは富者と貧者の均衡を重視して寡頭政と民主政を混合させた国制(ポリテイア)を構想したが、ポリュビオスは諸機関の均衡を強調した。 この混合政体論( )は以後の政治論の重要なモデルとなった。 キケロ [ ] 、は著作『』、『』、『』などで、人間は生来自由であるが、社会秩序のために社会契約を結んで国家成立したため、その政府は人民の に従う必要があるとした。 一般意思とは「ただ共通の利益だけを考慮する」もので、特殊意思の総和である全体意思とは異なり、「常に公明正大であり、公共的な功利に向かっている」ものとした。 は一般意思の行使であり、譲渡や分割や、一般意思からの逸脱はできない。 ルソーはである人民は立法権を行使し続けるべきと主張し、代表者()という発想を、中世以来の政治的堕落の産物として批判した。 また、すべての政体には特色と欠点があるが、最低限執行権と立法権の分離が必要で、定期的集会により政府の形態や執行者について投票で決めるべきとした。 ルソーの社会契約論はホッブスやロックとは大幅に異なり、ギリシャのポリスを理想とし、社会契約による変革が不可能な時は天才的立法者のによる一般意思の強制的創出をも提唱しているが、代表制の欺瞞を指摘し の理念を提示した。 人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。 あるものは他人の主人と信じているが、事実は彼ら以上に奴隷である。 国家的秩序は神聖な権利で、他のあらゆる権利の基礎をなしている。 それにもかかわらず、この権利は自然から由来するものでなく、したがっていくつかの合意にもとづくものである。 (中略)最強者であっても、自己の力を権利に、彼に対する服従を義務に変えなかったならば、いつでも支配者でいられるほど強力なわけではない。 (中略)自己保存のためには、力を集合して力の総和をつくって、障害の抵抗を克服できるようにし、ただ一つの原動力でこれらの力を動かし、そろって作用させるよりほかに方法はない。 — 『社会契約論』第1編 (イギリス人は)自らが自由だと思っているが、それは大間違いだ。 彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや否や、彼らは奴隷となる。 (中略)主権が譲り渡すことができないと同じ理由で、主権は代表されることはできない。 それは本質的に一般意思に存する。 そして意思は代表されない。 意思は自分のものか、あるいは他人のものである。 その中間はない。 それゆえに、人民の代議士は一般意思を代表しているものでもないし、代表することもできない。 彼らはその用達人でしかない。 彼らは決定的に何ものも決めることはできない。 人民が誰も批准しなかった一切の法律は無効である。 それは法律ではない。 — ジャン=ジャック・ルソー モンテスキュー [ ] これらの勇敢な父祖たちの死を無駄にしないために、神のもとで新しい自由を生み出し、そして、 人民の人民による人民のための政治・統治がこの地上から失われてしまわないよう高らかに決意しなければならない。 — ベンサム [ ] 18世紀後半から19世紀前半にかけて、は自然権や社会契約などの抽象的理論を斥け、の立場から政治の目標を「 最大多数の最大幸福」に置き、国家は個人の安全に必要な限度で存在すべきとして、などを提案した。 ミル [ ] には、ベンサムと同じく功利主義に立ったが個人の精神的自由を重視し、少数者の自由を抑圧する 多数者による専制に危惧を抱き、教養ある人々に複数の投票権を与える不平等選挙や、少数者も代表を選出しうるを提案した。 トクヴィル [ ]• 支配階級のどの成員が議会で人民を抑圧し、蹂躙するかを、数年にただ一度決めること - この点に議会制立憲国をはじめ最も民主的な共和国においてもブルジョア議会主義の真の本質がある。 (中略)議会制度からの活路は、もちろん、代議機関と選挙制の廃棄にあるのではなく、代議機関をおしゃべり小屋から「行動的」団体へ転化することにある。 「コンミューンは、議会ふうの団体ではなくて、執行府であると同時に立法府でもある行動的」団体でなければならなかった。 (国家が社会の名においてを掌握した後の、すなわち後の時代では)この時期の「国家」の政治形態がもっとも完全な民主主義であることを、われわれはみな知っている。 (中略)民主主義もまた国家であり、したがって、国家が死滅するときには民主主義もまた消滅する。 (中略)あらゆる国家は、被抑圧階級を「抑圧するための特殊な力」である。 だから、あらゆる国家は不自由で、非人民的である。 — 『』 トロツキー [ ] は、を批判し、社会主義に民主主義が必要と述べた。 ソ連崩壊以降、社会制度を巡るイデオロギーの対立が終わり、民主主義が政治体制の最終形態となり、永遠に存在し得る制度となった。 — 制度 [ ] 少数者支配の集団では制度は支配者の効率や都合次第でも良いが、多数者支配である民主主義では多数者による支配(意思決定)を実現し、独裁や専制の発生を抑止するための制度が必要となるため、歴史的にも多数の理念・制度・議論が存在している。 近代国家の政治制度論は近代政治思想の影響を受けて、国民の自由を妨げないための相互牽制(権力分立)、国民のための機関であるという正統性、国民の統合などを目指しているが、具体的な制度は必ずしも理論的産物ではなく、多様な伝統・歴史の産物でもある。 近代以前 [ ] で有名な葬送演説をするを描いた絵(19世紀、Philipp Foltz) のでは、市民が主権者で、を中心としたが行われた。 またなど独裁の発生防止になどが行われた。 では、が主権者で、とが意思決定機関となり、独裁の発生防止にや非常時の等は任期制とされた。 13世紀 では王権制限のためが制定され、の先駆となった。 議会 [ ] 議会主義 [ ] は政治的主導権が議会に与えられる政治運営の体制で、この場合の議会とは「国民の代表」とされる選挙された議員から成る会議体であり、政治的主導権とは立法権更には行政監督権限である。 中世身分制議会は、国民代表ではなく、諮問機関にすぎないため、議会主義における議会ではない。 また憲法上で議会の主導権が認められていても、実際の運用上で行政権を制御できないなどは議会主義と言えず、逆に制度上は諮問機関でも議会が内閣を選出する慣習ができれば議会主義が成り立っているといえる。 議会は中世ヨーロッパの各国で貴族・僧侶・平民などの身分制議会が定期的に招集されるようになった事に始まり、中世が崩壊と絶対王政確立により廃止され、による王政打倒後に近代議会が誕生した。 ただしイギリスではブルジョワ革命の比較的穏やかな進展により、身分制議会が国民を代表する近代議会に成長した。 多数決原理 [ ] 近代議会は個々人の政治的主張を調整する事により社会を統合する機関であり、その統合は社会全体の代表者である議員達の自由で理性的な討論と説得、そして妥協の積み重ねによるが、現実に解決すべき政治的課題の緊急性から意見の一致が得られぬ場合には、集団的意思決定手段として、相対的多数者の意見が暫定的に議会の意思とされる。 しかし議会による統合の観点より、多数派と少数派の差異は常に相対的とされて将来の状況変化や討論進展による逆転可能性が留保されている必要がある。 議会制を採用していても、 a 的価値観の社会への浸透(複数の価値観が承認されうる社会) b 議員とその背後の社会構成員の一体的同質性(、、等の対立が激しくない社会) c 理性的かつ客観的な判断ができる議員 d 意見発表の自由とその機会の均等、などの条件が揃わない場合には議会主義は変質または形式化する。 代表制原理 [ ] 近代議会を構成する議員は「国民の代表」のため、彼らの意思が国民全体の意思とされるが、この「代表」の意味はブルジョワ革命期より根本的な思想的対立がある。 (ナシオン)代表原理 - 自由制(信託制)、 の主張、らによるなどが起源。 各議員は全国民の代表として全国民のために政治活動し、自分のや出身階級などの利害のためには活動してはならないと考え、などの直接民主主義的制度は禁止される。 この原理の代表は、具体的に現実の国民の意思と結びついている必要は無いため、身分制選挙や制限選挙により選出された議員でも国民を代表できる。 (プープル)代表原理 - 拘束制、 起源は中世身分制議会の諸身分代表で、議員の地方代表性を強調した、道徳的市民が直接民主制の人民集会で一般意思を表示すべしとしたルソー、その思想を反映したなどに例が見られる。 各議員は現実に存在する一定の人民から委託を受けた代表で、議会は社会全体の縮図と捉える。 議員は全て直接普通選挙で選ばれ、選出母体の意思を忠実に議会で代弁し主張すべきため、選出母体の意思に反した場合はリコールが認められる。 討論による説得や妥協は困難なため、同質性の高い小共同体など以外では採用が難しいが、のなどが精神を受け継いでいる。 二院制 [ ] 議会政治の母国とされるイギリスでは、中世身分制議会が連続的に近代議会に発展した歴史よりとのだが、二院制の目的や性格は各国により異なる。 階級別 - 、かつてのなど• 連邦の各邦の代表による一院を加える - 、、など• 選出方法に差を設けて「数」と「理」を各院に代表させる - フランス、、日本など• 立法作用を慎重にする - (下院議員間の互選で4分の1が上院議員となる) 二院制は権力分立、自由主義を背景とした制度であり、フランス革命や社会主義の理論など自由主義よりも民主主義を代表する立場からは批判される。 またの発達による両院の性格相違の減少もあり、新たに二院制を採用する国は少ない。 が設置されている 18世紀のイギリスで形成された。 国王の行政権が次第に大臣に移り、1742年に国王の信認を得ていた首相が議会の不信任により辞職し、大臣も議会の信任なくしては在職できない慣習が確立した。 その後に連帯責任の原則、議会の首相指名による内閣成立制度などが整備された。 議院内閣制では内閣成立の指名と内閣の責任追及において議会が内閣をコントロールし、内閣はにより議会に対する選挙民の信任を問いうる事で、両者間に抑制と均衡が成立する。 このようなイギリス型の議会制度はモデルとも呼ばれる。 短所 - 議会の多数派が内閣を組織するため、内閣の予算や法案が容易に通過し、の追及が困難(権力分立が不十分。 では政権交代による権力分立でこの弊害を緩和) 大統領制 [ ] の アメリカ合衆国の政治体制として創始された。 大統領は国民の間接選挙(実質的には直接選挙)により選出され、任期の間は弾劾決議成立を除き免職は無い。 議会は大統領の責任を追及できない反面、大統領は議会を解散できない。 また大統領は議会への法案提出権が無いが、議会で成立した法案の施行へのがある(両院が3分の2以上の多数で再可決すれば拒否にかかわらず成立)。 長所 - 徹底した権力分立(全国民から直接選ばれるとの強い正統性を背景にした、大統領への強力な行政権限の集中)• 短所 - 1 立法府と行政府の対立による非効率 2 失政責任を大統領と議会多数派が押しつけ合う事が可能 3 民主主義の未定着国で大統領が独裁者と化す危険性 アメリカ型の純粋な大統領制を採用する国は少ないが、儀礼象徴的な大統領制はドイツ、イタリア、スイスなど多数ある。 フランスは直接国民投票によって選ばれ、首相任命権、議会解散権などの強大な権力を持ち、議院内閣制と大統領制の混合形態と考えられる。 政党 [ ] 詳細は「」および「」を参照 政党は、17世紀のイギリスの前後に生まれたとが最初とされるが、19世紀後半迄の政党はいわゆる貴族政党()で、「財産と教養」ある階層によるサロン的なグループで、特にや組織を持たず、個々の議員に対する拘束力は非常に緩かった。 実施後の現代の(組織政党)は、議員以外にも多数の一般党員を全国的に組織し、綱領や役割組織も備え、党費により財政を賄い、議員や党員は党議に拘束され違反には除名などの罰則が設けられているが、これら拘束は「議員は全く自由な個人として討議し議決する」との近代議会主義の原則からは本来は認められないため、、、らは政党否定論を唱えた。 普通選挙が進み近代ブルジョワ国家から現代へ変質すると、従来の「理性的な個人」とされた財産と教養あるブルジョワジーによる議会主義が形骸化し、有権者と候補者を政治的に組織する媒体として政党(大衆政党)が登場した。 政党は私的結社として生まれたが、一定の条件( 1 普通選挙制と議会主義 2 の存在 3 党内民主主義)を満たす場合には公的役割を果たしていると言える。 また近代議会制民主主義の自由委任制は大衆社会では修正を余儀なくされ、有権者の意思を正しく議会に反映させるために選挙制度における人口比例が重要となった。 詳細は「」を参照 利益団体(圧力団体)は、政党以上に近代的な議会主義から離れており、特定の利益集団により民意や政治を歪める存在とも批判されるが、議会の統合機関としての役割低下に伴い大衆の直接的な要求を議会や行政府に働きかける側面も持つ。 利益団体の発生は19世紀のアメリカでので、利益団体の機能には、職能代表的機能、政策に対するチェック機能、政治家養成機能、団体構成員への教育機能、などがある。 利益団体の分類はR・T・マッケンジーによる以下の3分類が一般的である。 部分利益集団 - 社会の一部を構成する、、、などの諸集団による共通利益の擁護(例:、、、消費者団体、等)• 促進的団体 - 一定の社会的主張の実現を目指す団体(例:人権擁護団体、、等)• 潜在的集団 - 社会的にたまたま共通の利益に立った者たちが結集した団体(例:反対などの、被害者同盟、等) 議論 [ ] 民主主義(、民主制)に関する議論は、その用語や概念自体に関する解釈を含めて多数の議論が存在するが、主な議論の要素には以下があり、各要素は相互に関連している。 構成員 [ ] 「」、「」、「」、「」、「」、「」、「」、および「」も参照 民主主義では集団の重要な意思決定を構成員が行うため、構成員の正統性や範囲などが議論となる。 民主主義は特定の範囲のもの(同質性)を平等に扱うため、全人類を範囲としない限り、その範囲外のもの(異質性)は区別し排除する事になる。 のでは、はポリスの軍務を担える者とされ、そのためなどの装備や軍務を自費で担える、一定資産を持つ成人男性の自由民のみが市民とされ、無産者、奴隷、女性、他のポリスからの移住者や子孫などは原則として除外された。 しかしでの漕ぎ手が貢献すると無産市民も発言力を高めた。 ではが被支配民族や被支配地域に徐々に拡大され、以降は兵役満期後の属州民の子供にも拡大され、更にでローマ帝国内の全自由民に拡大された。 近代のブルジョワ民主主義による議会制民主主義では、「理性や教養を持つ市民」が議会で議論し決定するとされ、そのため「理性や教養を持つ市民」とされたの成人男性のみが参政権を持つが行われた。 では全ての人間は普遍的に人権を持ち平等とされたが、以後も無産者、女性、植民地住民などは参政権は無く、各国で徐々にや、あるいは独立などが進んだ。 またフランス革命以降、多くの時代や地域で・・などの社会的同質性によるを統合の理念としたが普及したが、その反面として、、、などへの差別や排斥も発生している。 現代の現実的な民主主義は国民的な同質性原理により、国民意識が普遍的人権より上位におかれている。 現代でも一部の、、などでは本国に対する参政権は無い。 の範囲は国により対応が異なる。 代表制 [ ] 「」、「」、「」、および「」も参照 (代表制民主主義、)では、選挙や議員の位置づけについて複数の潮流がある。 では、市民全員参加のや、選出された評議員によるなどがあった。 共和制ローマでは、とがあり、現在の()と()の起源となった。 代表制原理には多数の議論がある。 間接民主主義を重視する観点からは、有権者は適切と考える人物に投票し、選出された議員や大統領は全構成員の代表として信任されたとされ、自己の理性と知見に従い自由に議論し決定する。 この観点からは、次の選挙まで議員の身分は保証され、次の選挙まで民意反映の機会もなく、選挙制度や政党は重視されない。 他方、直接民主主義を重視する観点からは、理想は直接参加であるが、議員を選出する場合でも信任ではなく限定的な委任であり、議員が有権者の意思に反する場合にはリコール等も認められる。 近代の自由主義によるブルジョワ民主主義では権力による独裁を警戒し、当初の選挙は「理性と教養ある市民」とされた有産階級の成人男性のみによる制限選挙で、選出された議員は全体の代表として自由に議論でき、また権力分立として三権分立や二院制も採用された。 この観点からは、普通選挙は無産階級による多数派支配が警戒された。 、、らは政党否定論を唱えた。 しかし普通選挙が進展した大衆社会となり、階級対立など社会の同質性が低下して議会の形骸化が進展し、支持する勢力を議会に送り込むために選挙制度や、更にはの重要性が増大した。 人民の意思の反映()をより重視する立場からは、やなど公民権の拡大、議会の優越()、直接民主主義的要素(、、)などが唱えられる。 は議会制民主主義(間接民主主義)の欺瞞を主張し、(憲法)は直接民主主義的要素を採用した。 また多くの国や組織で、特に重要な意思決定にはレファレンダムが併用されるようになった。 は()が多数派の労働者・農民を代表するとしてを行った(、)。 または自己をドイツ民族の指導者と主張して独裁を行い()、はを最も民主主義的と評価した。 これらの独裁を批判する立場や理念には、自由主義、、、や、、などがある。 デモクラシーは古代ギリシアの政体論の一分類として生れ、自由で平等な市民による相互支配が本質で、全市民によるでの意思決定だけではなく、公職は抽選により、民衆裁判への市民参加が重視された。 は、デモクラシーでは支配と服従の両方を経験する事が重要とした。 これに対して選挙は貴族政的な制度であり、選挙によって選出された代表者の意思決定を大幅に取り入れて、市民が代議士に政治を委ねる近代のデモクラシーは「自由な寡頭制」の面もあり、同じくデモクラシーと呼べるかは問題が残るが、しかし市民による自己統治の理念は現代でも重要な意味を持っている。 意思決定方法 [ ] 「」、「」、「」、および「」も参照 民主主義は構成員全体によるのため、全構成員による集会や、代表者による議会のいずれの場合でも、合意形成方法が議論となる。 大別して以下の決定方式がある。 - 全構成員または全出席者の賛成をもって決する。 民主主義の理念上、最大の正統性が得られる。 各構成員が拒否権を持つ事と同等で多数派による専制の懸念が無いが、説得や調整が重要となり、対立を含む議案では合意形成の困難性が高い。 (の総会、のなど)• (過半数) - 全構成員または全出席者の、過半数をもって決する。 効率的な意思決定が可能だが、多数派による専制となり議会が形骸化する、過半数で勝敗が分かれるため僅かな状況変化により結論が二転三転する、過半数形成のための駆け引きや取引が重要となる、などの懸念もある。 (古代アテナイの民会、多くの近代議会における通常の立法など)• 多数決(特別多数) - 全構成員または全出席者の、過半数よりも更に多い特定の数などをもって決する。 特に重要な意思決定を慎重に行う目的で採用される(改正の発議 、の改正など) 一般的には、議論による説得・妥協・交渉などを続けて全会一致となるまで合意形成を図る事が理想的だが、意見集約が困難で期限が求められる場合には多数決も採用される。 しかし多数決は「多数派による専制」(トグウィル)ともなり、特に階級や民族など同質性が低い集団では、多数派と少数派が固定化し、議会における実質的な審議機能が低下すると、民主主義による全体の統合機能が形骸化する。 また自由な議論には、、などが前提となるため、形式的には民主主義でもこれら前提が実質的には不十分な場合にはなどとも呼ばれる。 自由主義や多元主義の観点からは、複数の意見が存在して議論や選択の余地がある事自体が健全であり、説得や状況によって現在の少数派も将来は多数派になる可能性が確保されている事が、議会や民主主義の統合機能には必要となる。 古代アテナイでは議論を行った後に、決着しない場合には多数決が行われた。 モンテスキューはによる慎重な審議を主張し、ルソーは人民主権を重視してを主張した。 多くの近代憲法では、憲法改正など重要な意思決定には単純過半数より厳しい、半数を超える成立要件やレファレンダム要件などが定められている。 独裁との関連 [ ]。 はに際して軍事独裁政権を樹立し、国会の議決と国民投票を経てに即位した。 民主主義と独裁や専制は、歴史的にも多数の議論が存在している。 古代よりの一部では非常時における独裁の制度があり、また人民の意思の実現には革命や独裁なども含めた強権が必要との主張も存在する。 他方で独裁の実施者の多くは、非常事態における民主主義の防衛などを独裁の理由として主張している。 古代のでは、独裁の発生を防ぐため公職の抽選やが行われた。 が市民による公開裁判で死刑になった後、ははに陥ると考えてを主張し、は(共和制、国政)が堕落すると王政(僭主政)になると考えた。 では非常時に任期限定のを設置できたが、が民衆人気を背景に終身独裁官となりの基礎を築いた。 、らは独裁を防ぐためを主張したが、はのためには強制的な力の創出が必要とも主張した。 フランス革命では民衆を支持基盤とするがを行い、は国会の議決とを経て「」となった。 または社会の実現のための廃止と独裁を主張し、後のやに影響を与えた。 らはフランス革命を批判しの潮流となった。 マルクスは資本主義社会から社会主義社会への過渡期にはが必要として独裁を肯定したが、その独裁は短期間で激しくないと考えていた。 レーニンはブルジョワ民主主義を欺瞞と批判し、後に「最も完全な民主主義」が実現すると記し、後に独裁を行い、約10年で共産主義社会は実現すると約束したが、1年後に約束を撤回した。 レーニンの後継者となったは「社会主義建設が進むほど階級闘争も激化する」との階級闘争激化論を掲げた()。 後、「世界で最も民主的な憲法」と言われた下ので、率いるがドイツ民族の危機を訴えてで大躍進し、更にで「」となった。 法学者のは、民衆の望む政治を行う事こそが民主主義と考え、アドルフ・ヒトラーを最も民主主義的と評価した。 は後に「」と呼んだ。 終結後、では共産主義による脅威を背景にとしてが発生した。 現代でもなどはとを掲げている。 またなどで形式的には民主制が採用されている国家を含め、多くの国家や地方で治安維持やなどの緊急事態制度を使用してや的な政治が実施されている。 自由主義との関連 [ ] 「」、「」、「」、および「」も参照 多数派による支配を意味する民主主義と、個人の自由を最大限に尊重する自由主義が緊張関係にある事は、フランス革命以来、繰り返し強調されてきた。 、、等は、次第に権力を増大させ、道徳的・知的な権威さえも確保しつつあった「民主主義」(の名の下に政治を支配する多数派)の圧力から、個人の自由を守る自由主義の視点より議論を展開した()。 世論 [ ] 「」、「」、「」、「」、「」、「」、および「」も参照 民主主義は構成員(人民、民衆、国民)による意思決定であるため、構成員全体の意思(、輿論、民意、人民の意思)が反映されるべきだが、それが正しいまたは適切であるか、更には世論とは存在し提示可能なものか、などの議論がある。 プラトンは民主主義は衆愚政治に陥ると考えた。 マキャベリやヒトラーは、大衆は愚かであると考えた。 ロック、モンテスキュー、ジェファーソンなどは自由主義の観点から多数派による専制を警戒し、権力分立が必要と主張した。 は著書『近代民主政治』で、近代デモクラシーでは「世論」こそ政治が従わねばならない基準とした。 またによるも理想化された世論と言える。 しかしアメリカ合衆国で選挙予測から始まったの進歩もあり、1922年 は著作『』で、世論はによる的思考に影響され、が現実には情報を意識的・無意識的に取捨選択して大衆のステレオタイプ的思考を促進しており、世論は容易に操作され、変化されると述べた。 他方では著書『人々の選択』で、マスメディアによる投票者への影響は直接的ではなく間接的で、有権者はとのパーソナル・コミュニケーションにより自らの意思を形成していく、と述べた。 参照文献 [ ]• 『右翼と左翼』、2006年。 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学』、2011年。 『西洋政治思想史』、2013年。 『世界史で学べ! 間違いだらけの民主主義』、2016年。 『反・民主主義論』、2016年。 『民主主義という不思議な仕組み』、2007年。 『国民票決と国民発案 - ワイマール憲法の解釈および直接民主制に関する一考察』 監訳・解説、訳、、2018年。 小学館国語辞典編集部「近代社会」『精選版 日本国語大辞典』、2019年。 精選版 日本国語大辞典『』 -• 小学館国語辞典編集部「民主主義」『精選版 日本国語大辞典』、2019年。 精選版 日本国語大辞典『』 -• 『デモクラシーの論じ方』、2001年。 『ルソー』、1969年。 『現代政治がわかる古典案内 - マキャベリから漱石まで』、2002年。 ブリタニカ・ジャパン「民主主義」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、2019年。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『』 -• 平凡社「民主主義」『百科事典マイペディア』、2019年。 百科事典マイペディア『』 -• 「近代社会」『 第三版』、2019年。 大辞林 第三版『』 -• 「市民社会」『』、2019年。 デジタル大辞泉『』 -• 「民主主義」『』、2019年。 デジタル大辞泉『』 -• Weblio「democracy」『』ウェブリオ株式会社、2019年。 脚注 [ ]• , p. 「democracy」. , p. 「民主主義」. , p. 「民主主義」. , p. 「民主主義」. , p. 「近代社会」. , p. 「市民社会」. , p. 「近代社会」. 「民主主義」. , p. 「民主主義」. p14• この項、陳力衛、「[ 「民主」と「共和」 : 近代日中概念の形成とその相互影響 岩本修巳名誉教授退任記念号 ]」『成城大學經濟研究』 2011年 194号 p. 9-35, 成城大學經濟研究 から、「民主」という語の履歴について解説する目的で引用した。 条文番号は編別ではなく通番• 山本浩三、「」『同志社法學』11巻 4号、同志社法學會、124-136頁、1960年1月20日、• 山本浩三、「」『同志社法學』11巻 6号、同志社法學會、103-112頁、1960年3月20日、• Session 62 Resolution 7. page 3. 8 November 2007. Retrieved 2008-08-23. トゥキディデス『戦史』(訳、)第2巻37、41より• 意訳を含め、良い政体を、悪い政体をとする出典も存在する( p57、など)• p62-63• 『ジョージ王朝時代のイギリス』 ジョルジュ・ミノワ著 手塚リリ子・手塚喬介訳 白水社文庫クセジュ 2004年10月10日発行 p. p63-65• p63-65• p185-201• p45• p206-211• p65-66• p66-69• p45• p65-66• p75• p75-76• p80-81• p80-81• 、、、()、• (デジタル民主主義)、• (多数支配)• 外部リンク [ ]• (英語) - 「民主主義」の項目。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 に関連の辞書項目があります。

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『女性のいない民主主義』(前田健太郎、岩波新書)を読む

女性 の いない 民主 主義

優れた人による権力・支配、や)との対比で使用され、権力者や支配者が構成員の一部であるか全員であるかを対比した用語である。 古代ギリシアの衰退以降は「デモクラシー」の語はの意味で使われるようになった。 では「デモクラシー」の語は使用されず、を廃止し、とが主権を持つ体制は「」と呼ばれた。 近代の政治思想上で初めて明確にデモクラシー要求を行ったのは、でのレヴェラーズ(、平等派、水平派)であった。 の以降は、「デモクラシー主義」は思想の用語として使われるようになった()。 更に後は君主制・・などとの対比で、20世紀以降はとの対比でも使用される事が増えた。 なおでは、非民主制(の政体)の総称は「制(権威主義制政体)」と呼ばれる。 日本語で「デモクラシー」は通常、主にを指す場合は「 」、主に制度を指す場合は「 民主制」、主に思想・理念・運動を指す場合は「民主主義」などと訳し分けられている。 なおでは、特に思想・理念・運動を明確に指すために「 デモクラティズム」 : democratism、民主主義(思想))が使用される場合もある。 「民主」という語 [ ] 民主という漢語は、伝統的な中国語の語義によれば「民ノ主」すなわち君主の事でありやに見られる用法である。 これをdemocracyやrepublicに対置させる最初期のものはウィリアム・マーティン(丁韙良)(1863年または64年)であり、マーティンは a democratic republic を「民主之国」と対訳していた。 しかしこの漢訳は、中国や日本でその後しばらく見られるようになる democracy と republic の概念に対する理解、あるいはその訳述に対する混乱の最初期の現れであった。 マーティンより以前、イギリスの(馬礼遜)の「華英字典」(1822年)は democracy を「既不可無人統率亦不可多人乱管」(合意することができず、人が多くカオスである)という文脈で紹介し、(麥都思)の「英華字典」(1847年)はやや踏み込み「衆人的国統、衆人的治理、多人乱管、少民弄権」(衆人の国制、衆人による統治理論、人が多く道理が乱れていることをさすことがあり、少数の愚かな者が高権を弄ぶさまをさすことがある)と解説する。 さらにドイツのロブシャイド(羅存徳)「英華字典」(1866年)は「民政、衆人管轄、百姓弄権」(民の政治、多くの人が道理を通そうとしたり批判したりする、多くの名のある者が高権を弄ぶ)と解説していた。 19世紀後半の漢語圏の理解はこの点で一つに定まっておらず、陳力衛によれば Democracy は「民(たみ)が主」という語義と「民衆の主(ぬし、すなわち民選大統領)」という語義が混在していたのである。 一方で日本では democracy および republic に対しては当初はシンプルで区別なく対処しており、1862年にが作成したでは democracy および republic いずれにも「共和政治」の邦訳を充てていた。 これがの渡来とその強力な受容により「民主」なる語の併用と混用の時代を迎えることとなる。 概要 [ ] 民主主義(デモクラシー、、民主制)は、組織の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行う、即ち構成員が最終決定権()を持つという・・であるが、その概念、理念、範囲、制度などは古代より多くの主張や議論がある。 の民主主義は、(少数派支配)に対する人民支配(民衆支配、多数派支配)であり、、、、などの概念と関連していた。 しかしその後は長くを意味するようになり、17世紀以降にによるの立場から再評価され、によりの正統性理念となり、、、などのに大きな影響を与えた。 民主主義はやの立場からも評価されるが、同時に古代より多数派による専制や、民衆の支持を背景に少数独裁に転じる危険性も存在する。 民主主義の理念に対する評価は、2つの世界大戦をきっかけとして20世紀に激変した。 はとなり、、、などでは帝政が終焉した。 では「民主主義と全体主義の対決」という意味づけが特に途中から参戦したアメリカ合衆国によって強調され、の開始後は「全体主義」にのが加えられた。 戦争中は銃後の女性を含め多くの国民が戦争に動員され、戦争に貢献する以上は政治的発言も認められるべきとして、結果として選挙権の拡大につながった。 こうして民主主義の正当性は高まり、最も独裁的な国家も自らこそが真の民主主義を体現していると主張するようになり、民主主義の理念を否定する体制が事実上なくなった反面、民主主義とは何かが曖昧ともなった。 民主主義の種類は大別して、構成員が直接参加すると、構成員が代表を選出して代表が議論や意思決定を行う(代表制民主主義)があり、組織の規模や、意思決定の重要度などによって選択や組み合わせが行われている。 直接民主主義的要素には、構成員全体による会議の他に(住民発案、国民発案)、(住民投票、国民投票)、などがあり、間接民主主義の代表例にはやなどがある。 これらの制度は組織全体の統合機能を持つため、仮に形骸化した場合には統合機能が低下する。 また自由な議論の前提には、、少数派の尊重、なども必要とされる。 民主主義を実現するための制度にはその組織や国の歴史的経緯などにより、による、二元代表制による、あるいはその組み合わせ(半大統領制)などがある。 また権力による独裁を防ぐためのなど各種のがある。 また現代の大衆社会では、、などの役割や影響力も増加した。 種類 [ ] 民主主義の代表的な種類・分類には以下があるが、その分類や呼称は時代・立場・観点などにもよって異り、多くの議論が存在している。 直接民主主義 [ ] 詳細は「」および「」を参照 直接民主主義は、集団の構成員による意思が集団の意思決定に、より直接的に反映されるべきと考える。 直接民主主義の究極の形態は、構成員が直接的に集合し議論して決定する形態であり、高い正統性が得られる反面、特に大規模な集団では物理的な制約や、構成員に高い知見や負担が必要となる。 また議員など代表者を選出する形態でも有権者の選択が重視され、議員は信任されたのではなく有権者の意思を委任された存在であり、有権者の意思に反する場合はや再選挙の対象となりうる。 古代やではが実施された。 現代では、レファレンダム(、など)、リコール(罷免)が直接民主主義に基づく制度とされ、都市国家の伝統を受け継ぐやのなどでは構成員の参加による自治が重視されている。 間接民主主義 [ ] 詳細は「」および「」を参照 のでは、による が行われた。 民会の参加はアテナイ市民権を持つ全成人男性で、奴隷・女性・移住者は対象外であり、議論の後にで決定された。 アテナイではからに移行後は、貴族の(元老院)による支配が行われ、の権限は限定的であった。 7世紀にが従来のを成文化し、貴族による法知識の独占が崩された。 紀元前6世紀、は市民の奴隷への転落を禁止し、全ての市民がに参加することを認める法律を制定した(ソロンの改革)ため、市民と奴隷が明確に二分され、以後は市民間における自由と平等が保証された。 続いて紀元前5世紀、がを追放し、従来の血縁による部族制から居住区(、デモクラシーの語源となった)制への移行、の設置、の創設など、民主制の基礎を確立した。 更に紀元前462年、等がの権限を剥奪した。 しかし後、等の批判で市民裁判によりが処刑されると、弟子のは民主主義はに陥る危険があると考えを主張した。 または六政体論を主張し、ポリテイア(国制)では「等しいものを等しく扱う」事が正義の本質とし、市民間の平等と相互支配(政治的支配)を重視したが、主人の奴隷に対する支配(主人的支配)や親の子に対する支配(王政的支配)は擁護した。 これに対して後のは による奴隷を含めた全ての人間の平等を説いた。 アテナイを含む古代ギリシア衰退後は、民主主義(大衆支配)は合理的な統治形態ではないと考える時代が長く続いた。 古代ローマ [ ] 詳細は「」、「」、「」、および「」を参照 では、古代ギリシアで使われたデモクラシーという言葉は衆愚政治を意味すると考え使用しなかったが、移行後は貴族中心のと平民のが意思決定機関となり、が整備され、王政復活やを防止するためになどのは任期等が制限された。 いわゆるへの移行後も、名目上は共和制で、は()であった。 紀元前509年、古代ローマは王を追放しとなったが、貴族と平民の身分闘争が続き、紀元前494年 平民を保護するが創設されて拒否権が与えられ、紀元前287年 で民会が独自の立法機関となったが、などの改革は失敗した。 または被征服民族などに拡大され、212年ので帝国内の全自由民(成人男性)に拡大された。 は元老院(統治機関)、執政官(元首)、民会(議会)をと考えた。 近代以降、元老院は、民会は、はとなり、ローマ法はヨーロッパ法(、ユス・コムーネ)に影響を与えた。 中世 [ ] ではなど宗教的権威やなどが支配的となったが、ヨーロッパではやの影響、各地の商業都市発達などもあり、多様な場所や形態でや、自治など民主的な概念や制度も存在した。 古代からのものも含め、主な例には以下がある。 の(教皇選挙)• 古代ゲルマン社会の• 中世の、、、、、、などのと• の(19世紀の連邦制移行迄は各州が主権国家)• の(930年、世界初の近代議会)• の議会 1066年• 日本のなどの 近代国家の成立と啓蒙思想 [ ] に作られた、マグナ・カルタの認証付写本 13世紀、でにより王権の制限が定められた。 16世紀以降、やがを唱えて政治権力の権力からの独立を宣言し、が「国家主権論」を唱え、1648年 により中世とは異なる近代的なが成立した。 17世紀以降、によるが主張され、は自由主義や人間の平等を主張した。 17世紀、でリヴェラベーズ(平等派)が社会契約やを要求した。 また人民主権の理論として社会契約論が唱えられた。 の社会契約論は、権力の正統性を神ではなく被支配者である人民に求めたが、国民による統治は構想しなかった。 次にの社会契約論は、更に国民の抵抗権(革命権)を認め、に影響を与えた。 またの社会契約論は、堕落した文明社会を変革する方法として人民が(公共我)を創出するとし、また代表制を批判し直接民主主義の理念を提示し 、後のフランス革命に影響を与えた。 はブルジョワジー、特に知識階級の自由を権力の専制からいかに保障するかを考え、権力分立の形態としてを構想した。 アメリカ独立革命 [ ] 「への署名」(画) 1775年、が発生した。 北アメリカのイギリス植民地では、植民地への重税や植民地からの輸入規制等への不満から、ミルトン、、の理論を学び、基本的人権と代表制(「」)を確立した。 1776年 が起草したでは社会契約論、人民主権、革命権が明文の政治原理として採用された。 各植民地は憲法制定など共和国としての制度を整え、などの伝統が形成されていった。 特に、等の共和国憲法は、人民の意思の反映、議会の優位を強く打ち出し、連邦の強化は専制に繋がるものとして警戒された。 独立戦争後の財政危機、の台頭による政治不安の中、有産階級は各植民地共和国の独立・自治を見直し、強力な中央連邦政府の樹立へ向かった。 1787年採択のは、多数派の権力もまた警戒すべしとの考えから、権力分立の徹底と社会秩序の安定を重視し、議会の二院制、議会から独立した強力な大統領による行政権、立法に優位する司法権を確立した。 この結果、ブルジョワジー中心の体制が確立した。 その後、とが2大潮流となり、また大衆社会による議会制度の形骸化を受けても提唱された。 (人および市民の権利の宣言)• 第1条 人間は、自由かつ権利において平等として生まれ、かつ生存する。 (後略)• 第3条 すべての主権の根源は、本質的に国民にある。 (後略)• 第6条 法律は一般意思の表明である。 すべての市民は、個人的、または彼らの代表者によって、その作成に協力する権利を持つ。 (後略) (憲法 )• 第11条 主権は1つで、分割できず、譲り渡すことができず、かつ時効にもかからない。 主権は国民に属する。 (後略)• 第56条 フランスには、法律の権威に優越する権利は存在しない。 国王は、法律によってのみ統治し、かつ国王が服従を強要することができるのは、ただ法律の名においてのみである。 — 「」、「」、および「」も参照 18世紀から20世紀にかけて、主要各国で男性普通選挙や、女性も含めた完全普通選挙が普及した。 特にやはとなり女性の社会進出が進み、またを掲げての独立が続き、多数のが誕生した。 19世紀以降、社会主義の潮流の中より、従来のブルジョワ民主主義を欺瞞として暴力革命を唱える()が登場すると、共産主義陣営は資本主義陣営をと批判し、資本主義陣営は共産主義陣営のを批判した。 更に第二次世界大戦後、イタリアでは、ではが台頭し、やを掲げて民主主義を批判した。 2007年、は9月15日を「」とし、すべての加盟国および団体に対して公的意識向上のための貢献を感謝する決議を行った。 思想 [ ] 民主主義に関する思想、見解、発言には多数のものがあるが、世界的に著名なものには以下がある。 デマラトス [ ] 、の際、大王のと、ペルシャに亡命中の元王のの対話より。 当時は一般的なのペルシャ王は統治の基本原則は恐怖であり、とは放任状態で統制のとれない状態と考えるが、例外的に の権威の下に団結して 自由を唱える市民団からなるでは、法の下での平等な関係を踏まえた自治があり、言論が人を動かす道具で、ポリスの自由により市民が政治に参加できていた。 (クセルクセス1世)デマラトスよ、一千の兵がこれほどの大軍を相手に戦うなど、そなたは何という笑止なことを申すのか。 (中略)それたの者たちが一人の指揮者の采配の元にあるのではなく、ことごとくが一様に自由であるとするならば、どうしてこれほどの大軍に向かって対抗し得ようか。 (中略)一人の統率下にあれば、指揮官を恐れる心から実力以上の力も出そうし、鞭に脅かされて寡勢を顧みず大軍に向かって突撃もしよう。 しかしながら自由に放任しておけば、そのいずれもするはずがなかろう。 (デマラトス)彼らは自由であるとはいえ、いかなる点においても自由であると申すのではありません。 彼らはと申す主君を頂いておりまして、彼らがこれを怖れることは、殿のご家来が殿を怖れるどころではないのでございます。 いずれにせよ彼らはこの主君の命じるままに行動いたしますが、この主君の命じますことは常に一つ、すなわちいかなる大軍を迎えても決して敵に後ろを見せることを許さず、あくまでも己の部署にふみとどまって敵を制するか自ら討たれるかせよ、ということでございます。 — 「」 ペリクレス [ ] われらの政体は他国の制度を追従するものではない。 ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。 その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、 民主政治と呼ばれる。 わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。 だが一個人が才能の秀でていることが世に分かれば、無分別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公の高い地位を授けられる。 またたとえ貧窮に身を起こそうとも、ポリスに益をなす力を持つ人ならば、貧しさゆえに道を閉ざされることはない。 われらはあくまで自由に公に尽くす道を持ち、また日々互いに猜疑の目を恐れることなく自由な生活を享受している。 (中略)私の生活においてわれらは互いに掣肘を加えることはしない、だが事公に関するときは、法を犯す振る舞いを深く恥じおそれる。 時の政治をあずかるものに従い、法を敬い、とくに侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼ぶさます不文の掟とを、熱く尊ぶことを忘れない。 まとめて言えば、我等のポリス全体はギリシア人が追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己の治世の円熟を期することができると思う。 — 『』 プラトン [ ] 、は著作『』で、国家のの次の段階は民主制だが、行き過ぎた自由により崩壊してになるとし、理想を「」と記した。 、は著作『』でを支配者の数と、共通の利益にかなうかどうかで6政体に分類した。 アリストテレスは現実に最善な政体はポリティア(ポリスの国制)と考え、それは寡頭政と民主政を混合したもので、富者と貧者の対立調停を主眼に置いて選挙と抽選を併用し、また支配と服従の両方を経験した中間階層の役割が安定の基礎と説いた。 他方では「の生まれで財産の無い者が多数であって支配者である」政体だが、「悪い政体」の中では「最も悪くないもの」で、では法の支配が確保されるためには例外的にのみ開かれる事が大事で、民衆が農民ならば権利はあっても政治に参加する閑暇が無いためは穏健なものとなるが、民衆が職人・商人・日雇いから成る場合はは極端な形態に陥りやすい、と記した。 また民主政治の前提条件に「自由」、「政権や権力の交代」、「平等」、「原理」などを挙げた。 アリストテレスの六政体論 一人による支配 少数者による支配 多数者による支配 共通の利益にかなう(良い)政体 バシレイア(basileia ) アリストクラティア(aristokratia ) ポリテイア(politeia ポリスの国制、) 共通の利益にかなわない(悪い)政体 テュランニス(tyrannis ) オリガルキア(oligarchia ) デモクラティア(demokratia ) 民主制的国制の根本原理は自由である。 そして自由の一つは順番に支配されたり、支配することである。 というのは民主制的「正」は、人の値打ちに応じてではなくて、人の数に応じて等しきものを持つことであるが、(中略)大衆は必然的に者であり、また何事によらず、より多数の者が決定することが最終的なものであり、またそれが正しいことである。 (中略)次のようなことが民主制的なことである - すなわちすべての人々がもろもろの役人をすべての人から選挙すること、すべての人々が一方において個々の人を支配し、他方において個々の人が順番にすべての人を支配すること、もろもろの役は財産を全然その資格としないこと、あるいはできるだけ小額を資格とすること、同一人がどんな役にも二度と就かないこと... (中略)貧乏な人々が裕福な人々よりも少しも多く支配に与らないこと、あるいはただ貧乏人だけ主権者であることなく、すべての人々が数に応じて等しくそうであることが、(中略)そうであってこそ国制には平等と自由が存在すると人々は信ずるだろうからである。 — 『』第6章 国家共同体でも中間的な人々によって支配されているものが最善であり、(中略)未熟粗暴な民主制からも寡頭制からも独裁制は生じてくるものであるが、中間的な国制やそれにちかいものから生じることははるかに少ない。 — 『』第4巻 第11章 ポリュビオス [ ] は『』を執筆し、ローマが短期間に覇権を確立した理由を分析した。 王政・貴族政・民主政は、長く続くと腐敗や制度老朽化によりそれぞれ僭主政・寡頭政・衆愚政へ堕落し、僭主政は貴族により打倒され、衆愚政は独裁者を招き寄せるため、この六政体は永遠に循環する(政体循環論)。 しかしローマ人は、単一の原理に基づく限りいかなる国制も衰えると考え、執政官・元老院・民会の三機関にそれぞれ王政的要素・貴族政的要素・民主政的要素を担わせた政治体制を構築することで政治の安定を実現した、と考えた。 アリストテレスは富者と貧者の均衡を重視して寡頭政と民主政を混合させた国制(ポリテイア)を構想したが、ポリュビオスは諸機関の均衡を強調した。 この混合政体論( )は以後の政治論の重要なモデルとなった。 キケロ [ ] 、は著作『』、『』、『』などで、人間は生来自由であるが、社会秩序のために社会契約を結んで国家成立したため、その政府は人民の に従う必要があるとした。 一般意思とは「ただ共通の利益だけを考慮する」もので、特殊意思の総和である全体意思とは異なり、「常に公明正大であり、公共的な功利に向かっている」ものとした。 は一般意思の行使であり、譲渡や分割や、一般意思からの逸脱はできない。 ルソーはである人民は立法権を行使し続けるべきと主張し、代表者()という発想を、中世以来の政治的堕落の産物として批判した。 また、すべての政体には特色と欠点があるが、最低限執行権と立法権の分離が必要で、定期的集会により政府の形態や執行者について投票で決めるべきとした。 ルソーの社会契約論はホッブスやロックとは大幅に異なり、ギリシャのポリスを理想とし、社会契約による変革が不可能な時は天才的立法者のによる一般意思の強制的創出をも提唱しているが、代表制の欺瞞を指摘し の理念を提示した。 人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。 あるものは他人の主人と信じているが、事実は彼ら以上に奴隷である。 国家的秩序は神聖な権利で、他のあらゆる権利の基礎をなしている。 それにもかかわらず、この権利は自然から由来するものでなく、したがっていくつかの合意にもとづくものである。 (中略)最強者であっても、自己の力を権利に、彼に対する服従を義務に変えなかったならば、いつでも支配者でいられるほど強力なわけではない。 (中略)自己保存のためには、力を集合して力の総和をつくって、障害の抵抗を克服できるようにし、ただ一つの原動力でこれらの力を動かし、そろって作用させるよりほかに方法はない。 — 『社会契約論』第1編 (イギリス人は)自らが自由だと思っているが、それは大間違いだ。 彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや否や、彼らは奴隷となる。 (中略)主権が譲り渡すことができないと同じ理由で、主権は代表されることはできない。 それは本質的に一般意思に存する。 そして意思は代表されない。 意思は自分のものか、あるいは他人のものである。 その中間はない。 それゆえに、人民の代議士は一般意思を代表しているものでもないし、代表することもできない。 彼らはその用達人でしかない。 彼らは決定的に何ものも決めることはできない。 人民が誰も批准しなかった一切の法律は無効である。 それは法律ではない。 — ジャン=ジャック・ルソー モンテスキュー [ ] これらの勇敢な父祖たちの死を無駄にしないために、神のもとで新しい自由を生み出し、そして、 人民の人民による人民のための政治・統治がこの地上から失われてしまわないよう高らかに決意しなければならない。 — ベンサム [ ] 18世紀後半から19世紀前半にかけて、は自然権や社会契約などの抽象的理論を斥け、の立場から政治の目標を「 最大多数の最大幸福」に置き、国家は個人の安全に必要な限度で存在すべきとして、などを提案した。 ミル [ ] には、ベンサムと同じく功利主義に立ったが個人の精神的自由を重視し、少数者の自由を抑圧する 多数者による専制に危惧を抱き、教養ある人々に複数の投票権を与える不平等選挙や、少数者も代表を選出しうるを提案した。 トクヴィル [ ]• 支配階級のどの成員が議会で人民を抑圧し、蹂躙するかを、数年にただ一度決めること - この点に議会制立憲国をはじめ最も民主的な共和国においてもブルジョア議会主義の真の本質がある。 (中略)議会制度からの活路は、もちろん、代議機関と選挙制の廃棄にあるのではなく、代議機関をおしゃべり小屋から「行動的」団体へ転化することにある。 「コンミューンは、議会ふうの団体ではなくて、執行府であると同時に立法府でもある行動的」団体でなければならなかった。 (国家が社会の名においてを掌握した後の、すなわち後の時代では)この時期の「国家」の政治形態がもっとも完全な民主主義であることを、われわれはみな知っている。 (中略)民主主義もまた国家であり、したがって、国家が死滅するときには民主主義もまた消滅する。 (中略)あらゆる国家は、被抑圧階級を「抑圧するための特殊な力」である。 だから、あらゆる国家は不自由で、非人民的である。 — 『』 トロツキー [ ] は、を批判し、社会主義に民主主義が必要と述べた。 ソ連崩壊以降、社会制度を巡るイデオロギーの対立が終わり、民主主義が政治体制の最終形態となり、永遠に存在し得る制度となった。 — 制度 [ ] 少数者支配の集団では制度は支配者の効率や都合次第でも良いが、多数者支配である民主主義では多数者による支配(意思決定)を実現し、独裁や専制の発生を抑止するための制度が必要となるため、歴史的にも多数の理念・制度・議論が存在している。 近代国家の政治制度論は近代政治思想の影響を受けて、国民の自由を妨げないための相互牽制(権力分立)、国民のための機関であるという正統性、国民の統合などを目指しているが、具体的な制度は必ずしも理論的産物ではなく、多様な伝統・歴史の産物でもある。 近代以前 [ ] で有名な葬送演説をするを描いた絵(19世紀、Philipp Foltz) のでは、市民が主権者で、を中心としたが行われた。 またなど独裁の発生防止になどが行われた。 では、が主権者で、とが意思決定機関となり、独裁の発生防止にや非常時の等は任期制とされた。 13世紀 では王権制限のためが制定され、の先駆となった。 議会 [ ] 議会主義 [ ] は政治的主導権が議会に与えられる政治運営の体制で、この場合の議会とは「国民の代表」とされる選挙された議員から成る会議体であり、政治的主導権とは立法権更には行政監督権限である。 中世身分制議会は、国民代表ではなく、諮問機関にすぎないため、議会主義における議会ではない。 また憲法上で議会の主導権が認められていても、実際の運用上で行政権を制御できないなどは議会主義と言えず、逆に制度上は諮問機関でも議会が内閣を選出する慣習ができれば議会主義が成り立っているといえる。 議会は中世ヨーロッパの各国で貴族・僧侶・平民などの身分制議会が定期的に招集されるようになった事に始まり、中世が崩壊と絶対王政確立により廃止され、による王政打倒後に近代議会が誕生した。 ただしイギリスではブルジョワ革命の比較的穏やかな進展により、身分制議会が国民を代表する近代議会に成長した。 多数決原理 [ ] 近代議会は個々人の政治的主張を調整する事により社会を統合する機関であり、その統合は社会全体の代表者である議員達の自由で理性的な討論と説得、そして妥協の積み重ねによるが、現実に解決すべき政治的課題の緊急性から意見の一致が得られぬ場合には、集団的意思決定手段として、相対的多数者の意見が暫定的に議会の意思とされる。 しかし議会による統合の観点より、多数派と少数派の差異は常に相対的とされて将来の状況変化や討論進展による逆転可能性が留保されている必要がある。 議会制を採用していても、 a 的価値観の社会への浸透(複数の価値観が承認されうる社会) b 議員とその背後の社会構成員の一体的同質性(、、等の対立が激しくない社会) c 理性的かつ客観的な判断ができる議員 d 意見発表の自由とその機会の均等、などの条件が揃わない場合には議会主義は変質または形式化する。 代表制原理 [ ] 近代議会を構成する議員は「国民の代表」のため、彼らの意思が国民全体の意思とされるが、この「代表」の意味はブルジョワ革命期より根本的な思想的対立がある。 (ナシオン)代表原理 - 自由制(信託制)、 の主張、らによるなどが起源。 各議員は全国民の代表として全国民のために政治活動し、自分のや出身階級などの利害のためには活動してはならないと考え、などの直接民主主義的制度は禁止される。 この原理の代表は、具体的に現実の国民の意思と結びついている必要は無いため、身分制選挙や制限選挙により選出された議員でも国民を代表できる。 (プープル)代表原理 - 拘束制、 起源は中世身分制議会の諸身分代表で、議員の地方代表性を強調した、道徳的市民が直接民主制の人民集会で一般意思を表示すべしとしたルソー、その思想を反映したなどに例が見られる。 各議員は現実に存在する一定の人民から委託を受けた代表で、議会は社会全体の縮図と捉える。 議員は全て直接普通選挙で選ばれ、選出母体の意思を忠実に議会で代弁し主張すべきため、選出母体の意思に反した場合はリコールが認められる。 討論による説得や妥協は困難なため、同質性の高い小共同体など以外では採用が難しいが、のなどが精神を受け継いでいる。 二院制 [ ] 議会政治の母国とされるイギリスでは、中世身分制議会が連続的に近代議会に発展した歴史よりとのだが、二院制の目的や性格は各国により異なる。 階級別 - 、かつてのなど• 連邦の各邦の代表による一院を加える - 、、など• 選出方法に差を設けて「数」と「理」を各院に代表させる - フランス、、日本など• 立法作用を慎重にする - (下院議員間の互選で4分の1が上院議員となる) 二院制は権力分立、自由主義を背景とした制度であり、フランス革命や社会主義の理論など自由主義よりも民主主義を代表する立場からは批判される。 またの発達による両院の性格相違の減少もあり、新たに二院制を採用する国は少ない。 が設置されている 18世紀のイギリスで形成された。 国王の行政権が次第に大臣に移り、1742年に国王の信認を得ていた首相が議会の不信任により辞職し、大臣も議会の信任なくしては在職できない慣習が確立した。 その後に連帯責任の原則、議会の首相指名による内閣成立制度などが整備された。 議院内閣制では内閣成立の指名と内閣の責任追及において議会が内閣をコントロールし、内閣はにより議会に対する選挙民の信任を問いうる事で、両者間に抑制と均衡が成立する。 このようなイギリス型の議会制度はモデルとも呼ばれる。 短所 - 議会の多数派が内閣を組織するため、内閣の予算や法案が容易に通過し、の追及が困難(権力分立が不十分。 では政権交代による権力分立でこの弊害を緩和) 大統領制 [ ] の アメリカ合衆国の政治体制として創始された。 大統領は国民の間接選挙(実質的には直接選挙)により選出され、任期の間は弾劾決議成立を除き免職は無い。 議会は大統領の責任を追及できない反面、大統領は議会を解散できない。 また大統領は議会への法案提出権が無いが、議会で成立した法案の施行へのがある(両院が3分の2以上の多数で再可決すれば拒否にかかわらず成立)。 長所 - 徹底した権力分立(全国民から直接選ばれるとの強い正統性を背景にした、大統領への強力な行政権限の集中)• 短所 - 1 立法府と行政府の対立による非効率 2 失政責任を大統領と議会多数派が押しつけ合う事が可能 3 民主主義の未定着国で大統領が独裁者と化す危険性 アメリカ型の純粋な大統領制を採用する国は少ないが、儀礼象徴的な大統領制はドイツ、イタリア、スイスなど多数ある。 フランスは直接国民投票によって選ばれ、首相任命権、議会解散権などの強大な権力を持ち、議院内閣制と大統領制の混合形態と考えられる。 政党 [ ] 詳細は「」および「」を参照 政党は、17世紀のイギリスの前後に生まれたとが最初とされるが、19世紀後半迄の政党はいわゆる貴族政党()で、「財産と教養」ある階層によるサロン的なグループで、特にや組織を持たず、個々の議員に対する拘束力は非常に緩かった。 実施後の現代の(組織政党)は、議員以外にも多数の一般党員を全国的に組織し、綱領や役割組織も備え、党費により財政を賄い、議員や党員は党議に拘束され違反には除名などの罰則が設けられているが、これら拘束は「議員は全く自由な個人として討議し議決する」との近代議会主義の原則からは本来は認められないため、、、らは政党否定論を唱えた。 普通選挙が進み近代ブルジョワ国家から現代へ変質すると、従来の「理性的な個人」とされた財産と教養あるブルジョワジーによる議会主義が形骸化し、有権者と候補者を政治的に組織する媒体として政党(大衆政党)が登場した。 政党は私的結社として生まれたが、一定の条件( 1 普通選挙制と議会主義 2 の存在 3 党内民主主義)を満たす場合には公的役割を果たしていると言える。 また近代議会制民主主義の自由委任制は大衆社会では修正を余儀なくされ、有権者の意思を正しく議会に反映させるために選挙制度における人口比例が重要となった。 詳細は「」を参照 利益団体(圧力団体)は、政党以上に近代的な議会主義から離れており、特定の利益集団により民意や政治を歪める存在とも批判されるが、議会の統合機関としての役割低下に伴い大衆の直接的な要求を議会や行政府に働きかける側面も持つ。 利益団体の発生は19世紀のアメリカでので、利益団体の機能には、職能代表的機能、政策に対するチェック機能、政治家養成機能、団体構成員への教育機能、などがある。 利益団体の分類はR・T・マッケンジーによる以下の3分類が一般的である。 部分利益集団 - 社会の一部を構成する、、、などの諸集団による共通利益の擁護(例:、、、消費者団体、等)• 促進的団体 - 一定の社会的主張の実現を目指す団体(例:人権擁護団体、、等)• 潜在的集団 - 社会的にたまたま共通の利益に立った者たちが結集した団体(例:反対などの、被害者同盟、等) 議論 [ ] 民主主義(、民主制)に関する議論は、その用語や概念自体に関する解釈を含めて多数の議論が存在するが、主な議論の要素には以下があり、各要素は相互に関連している。 構成員 [ ] 「」、「」、「」、「」、「」、「」、「」、および「」も参照 民主主義では集団の重要な意思決定を構成員が行うため、構成員の正統性や範囲などが議論となる。 民主主義は特定の範囲のもの(同質性)を平等に扱うため、全人類を範囲としない限り、その範囲外のもの(異質性)は区別し排除する事になる。 のでは、はポリスの軍務を担える者とされ、そのためなどの装備や軍務を自費で担える、一定資産を持つ成人男性の自由民のみが市民とされ、無産者、奴隷、女性、他のポリスからの移住者や子孫などは原則として除外された。 しかしでの漕ぎ手が貢献すると無産市民も発言力を高めた。 ではが被支配民族や被支配地域に徐々に拡大され、以降は兵役満期後の属州民の子供にも拡大され、更にでローマ帝国内の全自由民に拡大された。 近代のブルジョワ民主主義による議会制民主主義では、「理性や教養を持つ市民」が議会で議論し決定するとされ、そのため「理性や教養を持つ市民」とされたの成人男性のみが参政権を持つが行われた。 では全ての人間は普遍的に人権を持ち平等とされたが、以後も無産者、女性、植民地住民などは参政権は無く、各国で徐々にや、あるいは独立などが進んだ。 またフランス革命以降、多くの時代や地域で・・などの社会的同質性によるを統合の理念としたが普及したが、その反面として、、、などへの差別や排斥も発生している。 現代の現実的な民主主義は国民的な同質性原理により、国民意識が普遍的人権より上位におかれている。 現代でも一部の、、などでは本国に対する参政権は無い。 の範囲は国により対応が異なる。 代表制 [ ] 「」、「」、「」、および「」も参照 (代表制民主主義、)では、選挙や議員の位置づけについて複数の潮流がある。 では、市民全員参加のや、選出された評議員によるなどがあった。 共和制ローマでは、とがあり、現在の()と()の起源となった。 代表制原理には多数の議論がある。 間接民主主義を重視する観点からは、有権者は適切と考える人物に投票し、選出された議員や大統領は全構成員の代表として信任されたとされ、自己の理性と知見に従い自由に議論し決定する。 この観点からは、次の選挙まで議員の身分は保証され、次の選挙まで民意反映の機会もなく、選挙制度や政党は重視されない。 他方、直接民主主義を重視する観点からは、理想は直接参加であるが、議員を選出する場合でも信任ではなく限定的な委任であり、議員が有権者の意思に反する場合にはリコール等も認められる。 近代の自由主義によるブルジョワ民主主義では権力による独裁を警戒し、当初の選挙は「理性と教養ある市民」とされた有産階級の成人男性のみによる制限選挙で、選出された議員は全体の代表として自由に議論でき、また権力分立として三権分立や二院制も採用された。 この観点からは、普通選挙は無産階級による多数派支配が警戒された。 、、らは政党否定論を唱えた。 しかし普通選挙が進展した大衆社会となり、階級対立など社会の同質性が低下して議会の形骸化が進展し、支持する勢力を議会に送り込むために選挙制度や、更にはの重要性が増大した。 人民の意思の反映()をより重視する立場からは、やなど公民権の拡大、議会の優越()、直接民主主義的要素(、、)などが唱えられる。 は議会制民主主義(間接民主主義)の欺瞞を主張し、(憲法)は直接民主主義的要素を採用した。 また多くの国や組織で、特に重要な意思決定にはレファレンダムが併用されるようになった。 は()が多数派の労働者・農民を代表するとしてを行った(、)。 または自己をドイツ民族の指導者と主張して独裁を行い()、はを最も民主主義的と評価した。 これらの独裁を批判する立場や理念には、自由主義、、、や、、などがある。 デモクラシーは古代ギリシアの政体論の一分類として生れ、自由で平等な市民による相互支配が本質で、全市民によるでの意思決定だけではなく、公職は抽選により、民衆裁判への市民参加が重視された。 は、デモクラシーでは支配と服従の両方を経験する事が重要とした。 これに対して選挙は貴族政的な制度であり、選挙によって選出された代表者の意思決定を大幅に取り入れて、市民が代議士に政治を委ねる近代のデモクラシーは「自由な寡頭制」の面もあり、同じくデモクラシーと呼べるかは問題が残るが、しかし市民による自己統治の理念は現代でも重要な意味を持っている。 意思決定方法 [ ] 「」、「」、「」、および「」も参照 民主主義は構成員全体によるのため、全構成員による集会や、代表者による議会のいずれの場合でも、合意形成方法が議論となる。 大別して以下の決定方式がある。 - 全構成員または全出席者の賛成をもって決する。 民主主義の理念上、最大の正統性が得られる。 各構成員が拒否権を持つ事と同等で多数派による専制の懸念が無いが、説得や調整が重要となり、対立を含む議案では合意形成の困難性が高い。 (の総会、のなど)• (過半数) - 全構成員または全出席者の、過半数をもって決する。 効率的な意思決定が可能だが、多数派による専制となり議会が形骸化する、過半数で勝敗が分かれるため僅かな状況変化により結論が二転三転する、過半数形成のための駆け引きや取引が重要となる、などの懸念もある。 (古代アテナイの民会、多くの近代議会における通常の立法など)• 多数決(特別多数) - 全構成員または全出席者の、過半数よりも更に多い特定の数などをもって決する。 特に重要な意思決定を慎重に行う目的で採用される(改正の発議 、の改正など) 一般的には、議論による説得・妥協・交渉などを続けて全会一致となるまで合意形成を図る事が理想的だが、意見集約が困難で期限が求められる場合には多数決も採用される。 しかし多数決は「多数派による専制」(トグウィル)ともなり、特に階級や民族など同質性が低い集団では、多数派と少数派が固定化し、議会における実質的な審議機能が低下すると、民主主義による全体の統合機能が形骸化する。 また自由な議論には、、などが前提となるため、形式的には民主主義でもこれら前提が実質的には不十分な場合にはなどとも呼ばれる。 自由主義や多元主義の観点からは、複数の意見が存在して議論や選択の余地がある事自体が健全であり、説得や状況によって現在の少数派も将来は多数派になる可能性が確保されている事が、議会や民主主義の統合機能には必要となる。 古代アテナイでは議論を行った後に、決着しない場合には多数決が行われた。 モンテスキューはによる慎重な審議を主張し、ルソーは人民主権を重視してを主張した。 多くの近代憲法では、憲法改正など重要な意思決定には単純過半数より厳しい、半数を超える成立要件やレファレンダム要件などが定められている。 独裁との関連 [ ]。 はに際して軍事独裁政権を樹立し、国会の議決と国民投票を経てに即位した。 民主主義と独裁や専制は、歴史的にも多数の議論が存在している。 古代よりの一部では非常時における独裁の制度があり、また人民の意思の実現には革命や独裁なども含めた強権が必要との主張も存在する。 他方で独裁の実施者の多くは、非常事態における民主主義の防衛などを独裁の理由として主張している。 古代のでは、独裁の発生を防ぐため公職の抽選やが行われた。 が市民による公開裁判で死刑になった後、ははに陥ると考えてを主張し、は(共和制、国政)が堕落すると王政(僭主政)になると考えた。 では非常時に任期限定のを設置できたが、が民衆人気を背景に終身独裁官となりの基礎を築いた。 、らは独裁を防ぐためを主張したが、はのためには強制的な力の創出が必要とも主張した。 フランス革命では民衆を支持基盤とするがを行い、は国会の議決とを経て「」となった。 または社会の実現のための廃止と独裁を主張し、後のやに影響を与えた。 らはフランス革命を批判しの潮流となった。 マルクスは資本主義社会から社会主義社会への過渡期にはが必要として独裁を肯定したが、その独裁は短期間で激しくないと考えていた。 レーニンはブルジョワ民主主義を欺瞞と批判し、後に「最も完全な民主主義」が実現すると記し、後に独裁を行い、約10年で共産主義社会は実現すると約束したが、1年後に約束を撤回した。 レーニンの後継者となったは「社会主義建設が進むほど階級闘争も激化する」との階級闘争激化論を掲げた()。 後、「世界で最も民主的な憲法」と言われた下ので、率いるがドイツ民族の危機を訴えてで大躍進し、更にで「」となった。 法学者のは、民衆の望む政治を行う事こそが民主主義と考え、アドルフ・ヒトラーを最も民主主義的と評価した。 は後に「」と呼んだ。 終結後、では共産主義による脅威を背景にとしてが発生した。 現代でもなどはとを掲げている。 またなどで形式的には民主制が採用されている国家を含め、多くの国家や地方で治安維持やなどの緊急事態制度を使用してや的な政治が実施されている。 自由主義との関連 [ ] 「」、「」、「」、および「」も参照 多数派による支配を意味する民主主義と、個人の自由を最大限に尊重する自由主義が緊張関係にある事は、フランス革命以来、繰り返し強調されてきた。 、、等は、次第に権力を増大させ、道徳的・知的な権威さえも確保しつつあった「民主主義」(の名の下に政治を支配する多数派)の圧力から、個人の自由を守る自由主義の視点より議論を展開した()。 世論 [ ] 「」、「」、「」、「」、「」、「」、および「」も参照 民主主義は構成員(人民、民衆、国民)による意思決定であるため、構成員全体の意思(、輿論、民意、人民の意思)が反映されるべきだが、それが正しいまたは適切であるか、更には世論とは存在し提示可能なものか、などの議論がある。 プラトンは民主主義は衆愚政治に陥ると考えた。 マキャベリやヒトラーは、大衆は愚かであると考えた。 ロック、モンテスキュー、ジェファーソンなどは自由主義の観点から多数派による専制を警戒し、権力分立が必要と主張した。 は著書『近代民主政治』で、近代デモクラシーでは「世論」こそ政治が従わねばならない基準とした。 またによるも理想化された世論と言える。 しかしアメリカ合衆国で選挙予測から始まったの進歩もあり、1922年 は著作『』で、世論はによる的思考に影響され、が現実には情報を意識的・無意識的に取捨選択して大衆のステレオタイプ的思考を促進しており、世論は容易に操作され、変化されると述べた。 他方では著書『人々の選択』で、マスメディアによる投票者への影響は直接的ではなく間接的で、有権者はとのパーソナル・コミュニケーションにより自らの意思を形成していく、と述べた。 参照文献 [ ]• 『右翼と左翼』、2006年。 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学』、2011年。 『西洋政治思想史』、2013年。 『世界史で学べ! 間違いだらけの民主主義』、2016年。 『反・民主主義論』、2016年。 『民主主義という不思議な仕組み』、2007年。 『国民票決と国民発案 - ワイマール憲法の解釈および直接民主制に関する一考察』 監訳・解説、訳、、2018年。 小学館国語辞典編集部「近代社会」『精選版 日本国語大辞典』、2019年。 精選版 日本国語大辞典『』 -• 小学館国語辞典編集部「民主主義」『精選版 日本国語大辞典』、2019年。 精選版 日本国語大辞典『』 -• 『デモクラシーの論じ方』、2001年。 『ルソー』、1969年。 『現代政治がわかる古典案内 - マキャベリから漱石まで』、2002年。 ブリタニカ・ジャパン「民主主義」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、2019年。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『』 -• 平凡社「民主主義」『百科事典マイペディア』、2019年。 百科事典マイペディア『』 -• 「近代社会」『 第三版』、2019年。 大辞林 第三版『』 -• 「市民社会」『』、2019年。 デジタル大辞泉『』 -• 「民主主義」『』、2019年。 デジタル大辞泉『』 -• Weblio「democracy」『』ウェブリオ株式会社、2019年。 脚注 [ ]• , p. 「democracy」. , p. 「民主主義」. , p. 「民主主義」. , p. 「民主主義」. , p. 「近代社会」. , p. 「市民社会」. , p. 「近代社会」. 「民主主義」. , p. 「民主主義」. p14• この項、陳力衛、「[ 「民主」と「共和」 : 近代日中概念の形成とその相互影響 岩本修巳名誉教授退任記念号 ]」『成城大學經濟研究』 2011年 194号 p. 9-35, 成城大學經濟研究 から、「民主」という語の履歴について解説する目的で引用した。 条文番号は編別ではなく通番• 山本浩三、「」『同志社法學』11巻 4号、同志社法學會、124-136頁、1960年1月20日、• 山本浩三、「」『同志社法學』11巻 6号、同志社法學會、103-112頁、1960年3月20日、• Session 62 Resolution 7. page 3. 8 November 2007. Retrieved 2008-08-23. トゥキディデス『戦史』(訳、)第2巻37、41より• 意訳を含め、良い政体を、悪い政体をとする出典も存在する( p57、など)• p62-63• 『ジョージ王朝時代のイギリス』 ジョルジュ・ミノワ著 手塚リリ子・手塚喬介訳 白水社文庫クセジュ 2004年10月10日発行 p. p63-65• p63-65• p185-201• p45• p206-211• p65-66• p66-69• p45• p65-66• p75• p75-76• p80-81• p80-81• 、、、()、• (デジタル民主主義)、• (多数支配)• 外部リンク [ ]• (英語) - 「民主主義」の項目。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 に関連の辞書項目があります。

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女性のいない民主主義|海と風の湘南から|シニアコムブログ

女性 の いない 民主 主義

私たち老夫婦は、東京では相変わらず「stay home」ですが、短期間、長野県蓼科の古い田舎家には行ってきました。 自宅だからそろそろ許されるかなと車で移動して、畑をいじったり本を読んだり静かに過ごしました。 散歩で鹿にも会いましたが、例年以上に人を恐れず悠々と歩いていました。 田植えが終わり、こなしや藤の花も咲き、新緑がみごとでした。 ということで山奥で読み返した本を紹介します。 『女性のいない民主主義』(郎、、2019年9月)。 刊行直後から話題になりました。 このところ、このブログで、タイム誌選出の「100年の100人の女性」の記事やNZの女性首相・ドイツのさんなどを紹介してきました。 「日本でも女性にもっと活躍してほしい」という岡村さんのコメントにも共感し、紹介しました。 1 著者は1980年生まれの気鋭の者、東大准教授。 本書は、「いままでのは「男性の」に過ぎなかったのではないか」という反省に立って、「政治」「民主主義」「政策」「政治家」の4つのテーマを「の視点」で見直し、日本の政治状況が「男性優位」の構造になっている現状、その理由や問題点を鋭く指摘します。 このような国は、他にあまり見かけない。 日本の民主主義は、いわば「女性のいない民主主義」である」。 2 ここで「」とは、「人間の生物学的な性別とは区別された社会的な性質、単すれば「男らしさ」「女らしさ」を意味する」。 「男は仕事、女は家庭」というのも規範であり、政治に使われると「女性は政治に向かない」という偏見になる(ドイツやNZの例にも拘わらず)。 「の視点」をあらゆる政治現象に取り入れることで、「世界の見方が違ってくる。 どのような政治現象を見ても、「では、女性はどこにいて、何をしているのだろうか」「あの政治家が行った選択は、その人が男性だったことと関係があるのだろうか」などと問いかける習慣が身についてくる」。 このような観点に立って、著者はまずは「政治」を定義することから始めます。 1 「政治とは、公共の利益を目的とする活動である」 2 「政治の基礎は、政治共同体の構成員による話合いである。 公共の利益は、多様な視点を持つ人々によるコミュニケーションを通じて明らかになる」。 3 「政治とは、権力を握る人々が、それ以外の人々に自らの意思を強制する行動である」・・・・と定義した上で、 いまの日本で果たして「男性と女性とが平等に話合う政治が行われているか?男性の手に政治権力が集中しているのではないか?結果として、女性が重要と考える争点や課題が国の政策として反映されにくいのではないか?」と問いかけます。 4 その前提として、政治において大切な「話合い」における男性の言動を以下3つあげます。 ・発言の横取りー女性が何か言っても、自分の意見として認められないことがある。 4「(このような)、男性が一方的に意見を言う状況は、常に生じるわけではない」。 1 女性が発言しやすい条件が整う場合もある。 とくに男女比は重要な鍵を握る。 組織の構成員の男女比が均等であれば、その組織が男性を優遇するわけではないというシグナルが伝わり、女性も男性と対等に議論に参加できるようになる。 ここで著者は、「クリティカル・マス」理論を紹介し、この理論によれば「女性議員の数が一定の水準、例えば30%程度に到達して初めて、女性議員は本来の力を発揮することができるようになり、男性議員と対等に意見が言えるようになる」と言います(日本のの女性比率は、現状約10%)。 2 女性が発言しやすい条件を整えるには、女性の構成員を増やすことが大事で、そうなれば女性が重要と考える課題が「政治」の世界でまともに取り上げられるようになる。 男女の意見が平等に反映される体制という意味での民主主義がもたらされる。 3 こう説明した上で、諸外国では、選挙における候補者やを男性と女性とに一定の比率で割り当てるクオータ制が用いられている事例を具体的に紹介します。 このような「議会における男女比の隔たりを是正する制度は、政治における男女の不平等の背後にある規範(女性は政治に向いていないという偏見)をも変化させる可能性を持っている」。 4 制度導入とともに重要なのは、やはり私たち自身の規範を見直すことです。 「規範を内面化したは、その候補者が男性であるというだけで、男性の候補者に投票する。 者は、女性らしい振る舞いをすれば政治的な能力に欠けると言われ、政治家としてのリーダーシップを発揮しようとすれば、女性らしさに欠けると批判される」。 5 さらに大事なのは、立候補者を増やすことだと、著者は言います。 例えば、直近の2017年の総選挙でも、立候補した1180人のうち女性の候補者は209人にすぎない。 女性が立候補しにくい社会環境に加えてここにも規範が働いている。 「女性が選挙に立候補しないことこそが、日本で女性議員が少ない決定的な原因なのである」。 以上は、本書の中身をほんの一部を紹介したに過ぎません。 1 しかし、女性議員の少ない現状では、女性の意見が政治に反映されにくく、真の民主主主義ではない。 その理由として、男性高齢者を中心とする規範が強く働いているという指摘は重要だと思います。 2 日本の政治については、利権や地盤やの問題などどろどろした側面があるのでしょう。 著者の言うきれいごとだけでは解決できない、という批判もありそうです。 しかし、他の諸外国で実現できて、日本でできないことはないのではないか。 私たちの「規範」を少し変えていけば、未来は変わるのではないか・・・・と思わせる良書です。 3 そもそも、男性の者による、従来のの反省に立った分析はまことに貴重だと思います。 私のような素人でも読みながら、「女性と真面目に政治を話し合い、女性の視点から教えてもらおうとしたことがあるだろうか?」と自己反省する気持ちになりました。 ksen.

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