熊川 哲也。 熊川哲也Kバレエ カンパニー『海賊』Autumn2020|ローチケ[ローソンチケット] クラシックチケット情報・販売・予約

熊川哲也『メイド・イン・ロンドン』文藝春秋社、1998年12月

熊川 哲也

略歴 [ ] 出身。 従姉のの影響で10歳でバレエを始める。 久富淑子、久光孝生に師事。 (61年)、14歳のときに参加した札幌の講習会で、世界的名バレエ教師のハンス・マイスターにその才能を認められ、翌(昭和62年)9月英国ロイヤルバレエ学校アッパークラスに留学。 在学中の(63年)、ソ連レニングラード・ワガノワバレエ学校創立250年祭に英国代表として出演、日本人で初めてで踊る。 翌年には、第17回に出場、日本人初のゴールドメダルを受賞し 、世界中から脚光を浴びる。 同年、パリでヨーロピアン・ヤングダンサーズ・オブ・ザ・イヤーに英国代表として出場、金賞を受賞。 (元年)2月、英国に東洋人として初めて入団し 、同年7月にバレエ団最年少(17歳)でに昇進。 12月にはの新作『パゴダの王子』の道化役に抜擢される。 、マクミラン振付『ダンセズ・コンチェルタンセス』で初主演、ファースト・ソリストに昇格 、第4回グローバル賞受賞。 1992年、振付『』で全幕主演デビュー。 怪我したダンサーの代役でわずか4日で振りを覚え『』のソロルを踊り成功を納める。 (平成5年)5月にプリンシパルに昇格。 天性の体のバネを生かした、滞空時間の長い跳躍と切れ味鋭い回転が持ち味で、版『』のバジルは各方面で絶賛される。 英国チャールズ皇太子主催『チャイコフスキー没後100年記念ガラ・コンサート』出演。 1995年、振付『ミスター・ワードリー・ワイズ」マスター・ブリング・ザ・バッグを初演。 1996年には、「ローザンヌ国際バレエコンクール」審査員を務める。 ロイヤルの男性プリンシパル4人とともに、初のセルフ公演「メイド・イン・ロンドン」を日本で行い成功させる。 1997年、日本公演『ジゼル』に主役アルブレヒトで客演。 新国立劇場開場記念公演『眠れる森の美女』で主役デジレ王子を踊る。 1998年、渋谷BunkamuraオーチャードホールでのドンボスコチャリティーステージVol. 3『男五人の華麗な企み』出演。 英国ロイヤル・バレエ団には約10年間在籍し、世界各国の舞台で踊る。 (平成10年)に退団。 その後99年1月に熊川は、自らを創立。 日本で唯一の株式会社が運営するバレエカンパニーとなる。 民放のテレビ局、をビジネスパートナーとして提携し、旗揚げ公演『IndepenDANCE JAPAN TOUR 99 SPRING』を開催。 以降、毎年全国ツアー定期開催が始まる。 イタリア・スポレート・フェスティバルに招かれる。 Bunkamuraオーチャードホール10周年ガラに出演、振付『ボレロ』を踊る。 東急ジルベスター・コンサートでも同作品を踊る。 2000年、イングリッシュ・ナショナル・バレエ50周年公演『くるみ割り人形』に客演(ロンドン)。 2001年、イングリッシュ・ナショナル・バレエ『白鳥の湖』日本公演に客演。 英国ロイヤル・バレエに招かれ『サー・アンソニー・ダウエル退任記念ガラ』に出演。 ロリン・マゼール指揮『スーパー・ワールド・オーケストラ2001』にゲスト出演。 この年、Kバレエカンパニーとして初の古典全幕作品『ジゼル』(演出・再振付:熊川哲也)を初演。 以来国内外で活動を続ける傍ら同カンパニーの芸術監督としてプロデュース・・なども手がけ、現在は年に二度の全国ツアーを中心に、年間約10万人の観客を動員し公演を行っている。 2003年、英国ロイヤル・バレエ『ルドルフ・ヌレエフ・トリビュート』にゲスト出演。 2004年、Kバレエカンパニー初の海外公演、ニューヨークのリンカーン・センター・フェスティバル『アシュトン記念公演』に日本のバレエ団として初めて招かれ、メトロポリタン歌劇場でアシュトン振付『ラプソディ』を披露し、高い評価を受ける。 2013年、『ローザンヌ国際バレエコンクール」審査員を務める。 同年、紫綬褒章受章。 2014年、『カルメン』(演出・振付:熊川哲也)初演。 同公演に天皇皇后両陛下の行幸啓を賜る。 2017年、完全オリジナルの全幕作品『クレオパトラ』を発表し、大きな話題を呼び国内外より高い評価を受ける。 2018年、『クレオパトラ』の演出・振付に至る長年の功績が評価され、毎日芸術賞特別賞を受賞。 主な上演作品には「ドン・キホーテ」「白鳥の湖」「ロミオとジュリエット」「海賊」「シンデレラ」「くるみ割り人形」など熊川版古典作品や新作の振付を精力的に発表している。 その他、サー・フレデリック・アシュトン、サー・ケネス・マクミラン、ジョージ・バランシン、ローラン・プティなどの世界的振付家や、若手振付家による作品の上演も行っている。 、、、など、世界的なバレエダンサーとの共演も多い。 (平成19年)に札幌市で行われた『海賊』の公演中、ジャンプの着地の際に右ひざをひねり公演途中で舞台を降板した。 翌日、都内病院で右膝前十字靭帯損傷と診断され、約20年間のバレエキャリアで初めて代役を立てる事態となったが、翌年3月の新作『ベートーヴェン 第九』で復帰を果たす。 (平成23年)に、から の初代芸術監督に就任。 就任記念作品として『シンデレラ』を初演。 2003年、Kバレエカンパニーの附属バレエスクールとして、を設立。 小石川、恵比寿、吉祥寺、横浜、福岡、大宮で開校。 特に小石川校ではプロダンサーを目指す子ども達を対象にするため、オーディション制としている。 2013年、Kバレエスクール創立10周年を記念し、次世代のダンサーにプロフェッショナルな舞台経験を提供すべくKバレエユースを設立し、定期的に全幕公演を開催。 2015年には、日本におけるバレエ教育や人材育成に大きな功績を残したと評価され「第24回」受賞した。 またそれぞれのスタジオでは、大人のためのバレエスタジオ「バレエゲート」を併設している。 受賞 [ ]• 金賞、高円宮賞• 1989年 クラシック賞• 主演男優賞(『』)• 第27回特別賞• 第3回朝日舞台芸術賞 舞台芸術賞(『白鳥の湖』)• 第5回朝日舞台芸術賞 舞台芸術賞(『ドン・キホーテ』『くるみ割り人形』、Kバレエカンパニーとして受賞)• 2005年• 2015年 第24回• 特別賞 演出・振付作品の特徴 [ ]• バレエ団設立当初より、多くの古典バレエ作品の改訂でその演出・振付の才能を発揮。 クラシック・バレエの伝統と形式を最大限に尊重しながらも、現代の観客に合うスピーディーな展開と、物語や登場人物の心理を明確に伝える演出が持ち味。 舞台技術は最新のテクノロジーに頼ることなく、伝統的な技法を用いつつ、これまで誰も見たことのない異次元の世界へと観客を誘うことを信条としている。 「100年前でも100年後でも、クラシックとして成立する作品を残したい。 デジタル的な先端技術を使うことはせず、先人が築いたものを裏切らない作品を作っていきたい。 そこはアーティストとして譲れないですね」 とポリシーを語っている。 近年は『カルメン』『クレオパトラ』などオリジナルのバレエ作品の創作に意欲的に取り組む。 特に2017年初演『クレオパトラ』では台本・音楽・振付、すべてにおいてベースが存在しないところから全幕を創作。 大規模な初演興行を成功させるという日本では行われてこなかった偉業を成し遂げた。 美術・衣裳にも一貫したこだわりをもっており、これまで英国美術界を代表する、METなどで活躍するらを起用している。 逸話・エピソード [ ]• ロイヤル・バレエ学校留学時は15歳で、通常は(15歳までのロウアー・スクール)で学ぶ年齢だが、技術が秀でているということで、のしかも17歳クラスへ転入。 入学後はやんちゃな一面を発揮し、退学勧告が実家に送られるほど素行の悪さが目立った存在でもあったが、能力の高さから留学2年目にはスカラーシップを受けている。 1988年5月、(現サンクトペテルブルク)で行われた創立250年祭で、ロイヤル・バレエ学校代表の1人として出演者に選抜され、マクミラン振付の『四季』を踊り、日本人として初めてマリインスキー劇場に立った。 この時の出演者には後にロイヤル・バレエ『ラ・バヤデール』で共演する、らがいた。 学生時代は、などに入れればと漠然と思っていたというが、ローザンヌ国際バレエ・コンクール出場の1週間前に、おそらくコンクールに出ると他のバレエ団よりスカウトされると危ぶんだ芸術監督より入団のオファーがあった(当時16歳)。 当時ロイヤルに東洋人入団のケースはなく、バレエ界の常識としては異例の申し出であるが、即決はせず数日後に返事をした。 1989年に出場し、最高位のゴールドメダルを受賞したローザンヌ国際バレエ・コンクール、実はこのとき熊川は体調は万全でなかったというが、他の追随を許さない圧巻の演技に、ヨーロッパ予選時ならびに1月28日に行われた東京本選準決勝では観客席から禁止されていた拍手が沸き起こった。 この時の参加者には、、、などその後主要なバレエ団のトップを務める者が大勢いた。 また熊川が受賞したゴールド・メダル(最優秀特別賞)は2018年現在46年目を迎えるコンクールで13名しか該当者がでていない。 入団直後の1989年6月、に英国代表として出場し、クラシック部門金賞を受賞したが、この時の審査員長は、審査員には、、などそうそうたるメンバー。 この時の女性の金賞(コンテンポラリー部門として)はエトワールの。 本コンクールはヨーロッパおよび北アフリカの主要メディアが加盟するが主催しており89年は17か国から代表が参加、コンクールの様子はヨーロッパ全土で放映され、熊川の名が世界に認知される大きなきっかけとなった。 ロイヤル・バレエ団でのデビューは1989年6月。 ブリストル公演の数日前に突然代役で出演してくれと言われ、2日間だけで振付を覚えて初舞台に挑んだ。 その2週間後には『ロミオとジュリエット』のマンダリン・ダンスのソロに抜擢。 カンパニー・デビューからわずか2週間でソロを踊るのはロイヤル・バレエ団でも例外的なことだったといえる。 1989年9月、ロイヤル・バレエ団史上最年少の17歳でソリストに昇進した際、当時の芸術監督ダウエルからは、当初「コリフェ(ファースト・アーティストの当時の名称)への昇進」と告げられたという。 そこで「どうせソロを踊るのだからソリストにしてください」と異例の直談判をし、その場でソリストへの昇進が決定した。 1992年8月3日、ロイヤル・バレエ団の「」のソロル役は当初、が踊る予定だった。 彼の怪我の為、本番4日前に突然熊川に出演がオファーされ、アンダースタディにも配されていなかったにも関わらず4日間で全幕を準備。 客席にはお忍びでとが臨席するという特別な状況のなか、を相手に完璧な舞台を見せた。 プリンシパル昇進は1993年5月のバリシニコフ版『ドン・キホーテ』を踊った翌日。 ダウエルより「今日からプリンシパルだ(次シーズンからではなく)」と告げられた。 入団から4年2か月、21歳と2か月という異例の早さでの昇進。 ロイヤル・バレエ団からの電撃退団はバレエ界を震撼させ、英国でも「ロイヤル・バレエ団の大きな損失」 として主要各紙で報道された。 しかしこれは決して突発的な決断でなく、これからのキャリア、改修や変革期にあったロイヤル・バレエ団の環境など総合的なことを熟考して覚悟を決めたことだという。 事実、 「いずれ日本に帰りたい。 まだ十分若いうちに」 (1990年)、 「日本のバレエ界を大きくするため、何とかしたいと思っている」 (1992年)と、ロイヤル・バレエ団入団直後の10代の頃よりそのビジョンを多くの取材で語っていた。 「テディ」というニックネームはロイヤル・バレエ学校に留学してすぐについた。 イギリス人には「テツヤ」という発音が難しく、「Tで始まる名前だからTeddyがいいのでは?それに熊は英語でベアだから、テディ・ベアにも通じる」と友人が発案した。 人物 [ ]• 『Kバレエカンパニー』では、古典の全幕作品に次々と取り組み、再振付から音楽・衣装・装置・宣伝・舞台映像の編集、更に民放のテレビ局をパートナーに興行を行う経営に至るまで、全て自らのポリシーを貫いている。 次世代の才能ある芸術家をひとりでも多く見いださなければという強い思いで、バレエスクールを開校。 若き才能の育成に取り組み、自ら指導にもあたるほか、創設・芸術監督を務めるKバレエカンパニーでは積極的に才能ある若いダンサーの起用を行う等、後進の育成にも力を注いでいる。 また、バレエ経験のない大人から上級者まで通えるバレエスタジオの運営にも力を入れる事業家でもあり、子どもから大人まで幅広い支持を集めている。 バレエの偉人や作曲家に関する古書などのコレクションを収集。 書店街での収集の過程では偉大な歴史の片鱗に遭遇する事もあると語っている。 「第九」の1826年初刷りの楽譜、の自筆譜など世界的にも希少価値が高い資料を所蔵。 その理由として、「芸術家が生きた時代につくられたものに触れるだけで、先人の存在が現実となり、ごく身近に感じることができるから」と語っている。 無類の車好きとしても知られる。 特に、に造詣が深く、・F40、フェラーリ・F50などの所有遍歴を持つ。 「何かに憧れるという気持ちを忘れないでいるため」「フェラーリもバレエも生活に必要なものではない。 本当に好きな人だけのもの。 でも誰かの一生の宝物になりえるもの」 とその美学を語っている。 自身のことを「とことん突き詰める性格である」と言う。 普通の筋肉痛や神経痛でも深刻な怪我や病気を疑い、自分の身体や解剖学と向き合っている。 地元・北海道を愛している。 渡英期間中は、年に1回帰京して畑仕事で汗を流していた。 カンパニー創設後も「自分の環境が変化し本来の自分を失いかけた」ときなどに愛車で故郷に戻り、幼馴染と言葉と交わしたり自然に触れたりし、安らぎの時間を楽しんでいる。 主なレパートリー [ ]• (バリシニコフ版:バジル)• (ダウエル版:パ・ド・トロワ、チャルダッシュ、ナポリの踊り)• (ダウエル版:青い鳥のパ・ド・ドゥ)• (ライト版:王子、中国の踊り)• (マカロワ版:ソロル、ブロンズアイドル)• (ライト版:ペザントのパ・ド・ドゥ)• (振付、マキューシオ)• (振付、王子、道化)• パゴダの王子(ケネス・マクミラン振付、道化)• (ケネス・マクミラン振付、ベガー・チーフ)• 三人姉妹(ケネス・マクミラン振付、主役)• サイド・ショウ(ケネス・マクミラン振付)• エリート・シンコペーション(ケネス・マクミラン振付、フライデーナイト)• マイヤリング(ケネス・マクミラン振付、ブラットフィッシュ、ハンガリアン・オフィサー)• ダンセズ・コンチェルタンテス(ケネス・マクミラン振付)• (フレデリック・アシュトン振付、パック、オベロン)• (フレデリック・アシュトン振付、主役)• ラプソディ(フレデリック・アシュトン振付、主役)• ラ・フィーユ・マルガルデ(フレデリック・アシュトン振付、コーラス)• レ・パティヌール スケートをする人々(振付:フレデリック・アシュトン、ブルーボーイ)• シンフォニック・ヴァリエーションズ(フレデリック・アシュトン振付)• ラ・フィーユ・マルガルデ(フレデリック・アシュトン振付、コーラス)• ビアトリクス・ポター物語(フレデリック・アシュトン振付、ジェレミー・フィッシャー)• 誕生日の贈り物(フレデリック・アシュトン振付)• (振付、タイトルロール)• (振付、タイトルロール)• シンフォニー・イン・C(ジョージ・バランシン振付、第3楽章)• フー・ケアーズ?(ジョージ・バランシン振付、主役)• (ジョージ・バランシン振付)• (振付、若者)• ボレロ(ローラン・プティ振付)• カルメン(ローラン・プティ振付、ドン・ホセ)• アルルの女(ローラン・プティ振付、フレデリ)• プッシュ・カムズ・トゥ・ショヴ(トワイラ・サープ振付、主役)• ミスター・ワールドリー・ワイズ(トワイラ・サープ振付、マスター・ブリング・ザ・バッグ)• (振付)• ヘルマン・シュメルマン(ウィリアム・フォーサイス振付)• ファーステクスト(ウィリアム・フォーサイス振付)• ステップテクスト(ウィリアム・フォーサイス振付)• エボニー・コンチェルト(アシュレイ・ペイジ振付)• (ミハイル・フォーキン振付)• ライモンダ第3幕(ヌレエフ版:ジャン・ド・ブリエンヌ)• パキータ(マリウス・プティパ振付、主役)• ジゼル(再振付:熊川哲也、アルブレヒト)• (振付:熊川哲也、アリ)• ロミオとジュリエット(振付:熊川哲也、ロミオ)• シンデレラ(振付:熊川哲也)• ジゼル(再振付:熊川哲也、アルブレヒト)• 眠れる森の美女(再振付:熊川哲也、王子)• 白鳥の湖(再振付:熊川哲也、王子)• (再振付:熊川哲也、フランツ)• ドン・キホーテ(再振付:熊川哲也、バジル、エスパーダ)• くるみ割り人形(振付:熊川哲也、くるみ割り人形/王子)• ベートーヴェン第九(振付:熊川哲也、第4楽章主役)• ウォルフガング(振付:熊川哲也)• パッシング・ヴォイス(振付:熊川哲也、主役)• ソリチュード(振付:熊川哲也)• ラ・バヤデール(再振付:熊川哲也、ソロル)• カルメン(熊川哲也振付、ドン・ホセ)• クレオパトラ(振付:熊川哲也)完全オリジナル• カルミナ・ブラーナ 構成・演出・振付:熊川哲也• (振付:熊川哲也) メディア出演 [ ] ラジオ• (2011年4月-、) ではを放送されるため聴くことが出来ない。 ゴールドブレンド()• トビラを開けよう 第4弾()• AIR JACKET 2010年 書籍• プリンシパルへの道 - 熊川哲也の青春(1997年、)• クリスタリン(1997年、、写真集)• ONE DAY(1998年、、写真集)• Made in LONDON(1998年、)• ドメイン(2000年、)• バレエが選んだ男(2003年、新書館、写真集)• KUMAKAWA 1999〜2009 K-BALLET COMPANY 熊川哲也&K-BALLET10周年記念写真集(2009年、TBS)• 完璧という領域(2019年、講談社) DVD• ジゼル(2000年)• カルメン(2001年)• Being a Dancer(2001年)• 白鳥の湖(2003年)• コッペリア(2004年)• ドン・キホーテ(2005年)• ラプソディ(2005年)• くるみ割り人形(2006年)• 若者と死(2007年)• Dancer(2008年)• ロミオとジュリエット(2010年)• 海賊(2010年)• THE BEST OF KUMAKAWA(2012年)• シンデレラ(2012年)• カルメン(2014年) CD• レベランス• レベランス・ドゥ• レベランス・トロワ• 熊川哲也バレエ名曲セレクション• 熊川哲也の「くるみ割り人形」 音声ガイド• 魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展(2014年6月18日 - 9月1日、) 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 当時、スカラーシップを提供する「プリ・ド・ローザンヌ・スカラーシップ」、コンクールを通して最高の演技をしたダンサーを表彰する「ゴールドメダル」、東京開催を記念した「高円宮賞」の3賞を同時受賞した。 同コンクールでは、決選以外は拍手を禁止されているが、予選の段階から観客の拍手が鳴り止まなかった。 また、当時のテレビ解説者が熊川のドン・キホーテのバジルを評して「少し芝居がかっていますが、素晴らしいですね。 彼は既にプロとしてやっていけます。 今は膝下が少し短いようですが、成長すればそれも…。 」とコメントした。 なお、このコンクールの解説者は、クロード・ベッシー元オペラ座バレエ学校校長と混同されがちだが、東京大会の解説者はである。 出典 [ ]• 「プロ力 - 仕事の肖像」、30 - 31頁• 「プリンシパルへの道 熊川哲也の青春」48-49頁• 「Made in LONDON」、66 - 67頁• 「プリンシパルへの道 熊川哲也の青春」66頁• 「プリンシパルへの道 熊川哲也の青春」49頁• 「プリンシパルへの道 熊川哲也の青春」76-77頁• 「プリンシパルへの道 熊川哲也の青春」82頁• 「プリンシパルへの道 熊川哲也の青春」87-88頁• 「プロ力 - 仕事の肖像」、33頁• (シアターガイド、2011年6月28日)• 2018年8月30日閲覧。 , ダンスマガジン編集部. 新書館. 1997. , Kumakawa,; 熊川哲也. 1998. 2018年8月30日閲覧。 1990年世界のエンターテイメント情報 別冊家庭画報. 世界文化社• 「ロンドン便り」1992年7月号• 「プロ力 - 仕事の肖像」、36 - 37頁• SCUDERIA No. 114. 株式会社ネコ・パブリッシング. 2016-06-30 参考文献 [ ]• 「プリンシパルへの道 熊川哲也の青春」、新書館、1997年• 熊川哲也「Made in LONDON」、文藝春秋、1998年12月• 「プロ力 - 仕事の肖像」編集部編、、2009年3月。 熊川の項の執筆者は清野由美• 「完璧という領域」、講談社、2019年 外部リンク [ ]•

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熊川哲也『メイド・イン・ロンドン』文藝春秋社、1998年12月

熊川 哲也

熊川 哲也(くまかわ てつや、1972年3月5日 - )は、日本の北海道旭川市出身のバレエダンサー・振付家・演出家である。 英国ロイヤル・バレエ団の元プリンシパル。 1999年Kバレエカンパニーを創立し、芸術監督を務める。 2003年よりKバレエスクール主宰。 2012年よりBunkamura オーチャードホール芸術監督。 略歴 北海道旭川市出身。 久富淑子、久光孝生に師事。 1986年(昭和61年)、14歳のときに参加した札幌の講習会で、世界的名バレエ教師のハンス・マイスターにその才能を認められ、翌1987年(昭和62年)9月英国ロイヤルバレエ学校アッパークラスに留学。 在学中の1988年(昭和63年)、ソ連レニングラード・ワガノワバレエ学校創立250年祭に英国代表として出演、日本人で初めてマリインスキー劇場で踊る。 翌年には、第17回ローザンヌ国際バレエコンクールに出場、日本人初のゴールドメダルを受賞し。 同年、パリでヨーロピアン・ヤングダンサーズ・オブ・ザ・イヤーに英国代表として出場、金賞を受賞。 1989年(平成元年)2月、英国ロイヤル・バレエ団に東洋人として初めて入団し、同年7月にバレエ団最年少(17歳)でソリストに昇進。 12月にはケネス・マクミランの新作『パゴダの王子』の道化役に抜擢される。 1991年、マクミラン振付『ダンセズ・コンチェルタンセス』で初主演、ファースト・ソリストに昇格、第4回グローバル賞受賞。 1992年、フレデリック・アシュトン振付『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』で全幕主演デビュー。 怪我したダンサーの代役でわずか4日で振りを覚え『ラ・バヤデール』のソロルを踊り成功を納める。 1993年(平成5年)5月にプリンシパルに昇格。 天性の体のバネを生かした、滞空時間の長い跳躍と切れ味鋭い回転が持ち味で、ミハイル・バリシニコフ版『ドン・キホーテ』のバジルは各方面で絶賛される。 英国チャールズ皇太子主催『チャイコフスキー没後100年記念ガラ・コンサート』出演。 1995年、トワイラ・サープ振付『ミスター・ワードリー・ワイズ」マスター・ブリング・ザ・バッグを初演。 1996年には、「ローザンヌ国際バレエコンクール」審査員を務める。 ロイヤルの男性プリンシパル4人とともに、初のセルフプロデュース公演「メイド・イン・ロンドン」を日本で行い成功させる。 1997年、ボリショイ・バ 「熊川哲也」『ウィキペディア Wikipedia : フリー百科事典』。 2020年04月26日 日 06:33UTC 公式サイト• 関連アーティスト• お気に入り登録する 関連ニュース.

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熊川哲也 時代を創った男の20年

熊川 哲也

生年月日 1972年3月5日• 血 液 型 A型• 出 身 地 北海道• 身 長 174cm• 体 重 62kg THEイケオジって感じですね! そんなイケオジ熊川哲也さんの趣味はカーコレクション! 一体どんな車に乗っているのでしょうか? 熊川哲也さんはかなりの車好きで有名で、車雑誌で愛車を紹介していました! 2006年のインタビューでは ポルシェのカレラGT ベンツのゲレンデヴァーゲン 2016年のインタビューでは フェラーリのF12td などの高級車をお気に入りの愛車として紹介していました! 2006年時点でそれまでに乗った車は ざっと50台は下らないという 無類の車好きな熊川哲也さんですので、 現在のお気に入りの愛車は また変わっていることでしょう。 番組では車の話もするようなので 情報が入り次第更新します! スポンサーリンク バッキンガム宮殿を破壊!? 車好きな熊川哲也さんですが、イギリスにいた18歳の頃に全財産をつぎ込んで購入した愛車で熊川哲也さんの生まれ年と同じ1972年式の『トライアンフ・スピットファイア』に乗っていた際に、肝を冷やす出来事が起きます! 突然シャフトが折れて パレードで何千人もの観客が集まる バッキンガム宮殿の壁に 激突しそうになったことがあるのです! ぶつからなくて本当に良かった! さすがの強運です。 熊川哲也の別荘が豪邸! 熊川哲也さんがテレビ初公開する 別荘がまるで高級旅館のような 豪邸だと話題になっています。 右側に立つ熊川哲也さんの後ろに見えるのがその別荘。 こだわりが強い熊川哲也さんの場合、中古物件ではなく自分で場所から間取りやデザインなど考えた可能性が高いと思いませんか? そうなると少なくとも 1億円以上はかかっているでしょうね! スポンサーリンク 熊川哲也の自宅や年収は? 別荘が豪邸となると、 自宅もかなり凄いのでは? 気になりますね〜! 熊川哲也さんのご自宅について調べてみましたが、公開されていないのか画像なども特に出てきませんでした! ただ、熊川哲也さんが主宰するKバレエカンパニーが東京都文京区にありますので、もしかしたらご自宅はそこからさほど遠くない距離の場所にあるのかもしれません。 そしてもう一つ気になるのは熊川哲也さんの 年収ですよね。 熊川哲也さんご自身が 1989年から1998年まで在籍し、 1993年からプリンシパルを務めた 英国ロイヤル・バレエ団の プリンシパルの年収について、 熊川哲也さん本人が 約1200万円程度だと おっしゃっていました。 現在、熊川哲也さんは自らが芸術監督を務めるKバレエカンパニーでダンサーとしても活躍しています。 もちろんプリンシパルです。 そしてダンサーとしての収入の他に、振り付けやレッスン、DVDの印税などなど… 日本バレエ界のトップといっても過言ではない熊川哲也さんですので、 年収は5000〜6000万円くらいになるのではないでしょうか! 熊川哲也は結婚してる?彼女はいる? イケメンな熊川哲也さんですが、 現在付き合っている 彼女や 結婚はしているのでしょうか? これまでに数々の女優さんや女子アナと浮名を流してきた熊川哲也さんですが、 現在結婚はされていないようです! これだけのイケメンですから、彼女はいると思われます。

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