アンリ マティス ダンス。 《ダンスⅡ》アンリ・マティス|MUSEY[ミュージー]

赤い魚

アンリ マティス ダンス

マティスは、本作で線と色を極力単純化し、遠近法や伝統的な色彩配置のルールを無視することで、人体ではなく躍動感そのものを描こうとしました。 パリの法律事務所に勤めていたマティスは、20代のときに虫垂炎をこじらせ一年ほど療養。 このとき油絵を描いたことをきっかけに、パリ国立美術学校を受験すると、象徴主義の代表画家ギュスターヴ・モローに師事します。 ポール・セザンヌなど後期印象派の作品や色彩理論を研究したマティスの作品は、1905年にパリで開かれたサロン・ドートンヌでヴラマンクやルオーらの作品と共に展示され一躍注目を浴びますが、批評家ルイ・ヴォークセルには「 野獣(フォーヴ)の檻のなかにいるようだ」と侮蔑的に評されました。 これをきっかけにフォーヴィスムの代表的な存在となったマティスですが、マティス自身はフォーヴと呼ばれることを好まず、サロン・ドートンヌの3年後1908年にはフォーヴィスムと別れています。 躍動する体を有効利用しつつ頭に乗せたお皿は決して落としません びじゅチューン!『 ダンス寿司』の舞台は回転寿司屋さん。 お客として回転寿司にやってきたジョコンダ商社の社員たちは、台の上をまわるお寿司を前にわくわくです。 寿司職人が、ミスターかくし芸マチャアキばりの技で寿司を台に残したままテーブルクロスを引くと、回転寿司の台の下には、寿司を頭に乗せ、手を繋ぎ輪になってシャッセ、ターン、ジュテを挟みつつマイムやサンバを踊る裸のダンサーたちが。 ここは生身のダンサーが踊りながら寿司の皿をまわす「ダンス寿司」だったのです。 あじ、タコ、えんがわ、げそ、しゃこ、ウニ、新鮮なネタのお寿司を頭に乗せてまわるダンサーたちにボーゼンとしつつも、回っている寿司の皿を手に取ったジョコンダ商社の社員たちは、ダンス寿司の美味しさにうっとり。 三ツ星どころではない、十八星の美味しさに、テーブルにはお寿司を食べ終えた空のお皿が次々に積みあがっていきます。 寿司ダンサーの真似をして頭に寿司の皿を乗せてみたOLに、すかさず別のお客さんが「やめときな」と忠告。 頭を上下させず皿の高さを一定にキープしながら寿司ゴーラウンドをキメるダンサーたちは、アスリートのように毎日がピーク。 ダンス寿司のダンサーは命を削って踊り続けているのです。 晩年切り絵にも取り組んだマティスらしく、歌詞カードをハサミでチョキチョキしています。 ダンス寿司の客席には、『』でおなじみジョコンダ商社の社員4名が着席。 彼らは『』、『』、『』、『』『』などにも登場しています。 途中「素人は真似しちゃならねぇ」とOLに忠告するおば様は、『』『』にも登場したジョコンダ商社社食の調理師さんです。

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『色彩の魔術師』アンリ・マチスの生涯と作品を解説します!

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北フランスにある田舎町 近くの高速道路からは80キロほど離れています 当初は絵画とは全く関係のない、法律を勉強し、法律事務所に勤めています。 21歳の時に虫垂炎を患い、しばしの間入院します。 入院中はとっても暇。 そんなマティスに画家である母親は、暇つぶしに絵を書くことを勧めます。 当初は入院の暇つぶしでしていたアート活動ですが、この暇つぶしが彼の人生・アートの歴史に新たな文脈を切り開くことに繋がるのです。 絵を書くことがあまりにも楽しかったのか、マティスは後に「天国のようなモノを発見した」と述べています。 入院中、偶然絵を書く楽しさを知ってしまったマティス。 そんなマティスは画家になることを決意。 父親はこのことに非常に憤慨していたそうです。 しかしここから彼のアーティストとしてのキャリアがスタートしていきます。 当初は、静物画や風景画などの基礎的な絵画を描き、基礎的な絵画の技術を練習していきます。 写実的な風景を描いていく中でマティスは自分のスタイルを確立していきます。 アンリ・マティス『赤のハーモニー』 こちらの作品は、マティスの代表作の1つである赤のハーモニー。 画面の4分の3が赤色で覆われていています。 遠近法を用いられているので、平面的でのっぺりした雰囲気になります。 切り紙絵の時代 フォービズムの代表的なアーティストとなったアンリ・マティスですが、たった3年ほどでフォービズムの作風での活動をやめてしまいます。 それ以降は比較的静かでフォービズムのように尖っていないような作品の製作を続け、画家としてのキャリアを着々と成していきます。 そんな彼にも老いには勝てません。 体力が衰えてきたことをきっかけに、油絵を用いて絵画をキャンバスに描き出していたスタイルを変え、 切り紙絵を始めます。 アンリ・マティス『カタツムリ』 カタツムリに見えるような見えないような・・・? マティスは72歳の時に、十二指腸ガンの大手術を受けたのがそもそものきっかけです。 手術は奇跡的に成功し、体調は少しずつ回復していきます。 しかし、マティスは1日の多くの時間をベッドで過ごすこととなり、体力的なキャンバスに描く絵画は諦めざるをえなくなりました。 そこでマティスは筆をハサミに切り替え、切り紙絵を始めます。 フォービズムにあったような、単純化・色彩の純化を追求したマティス。 切り紙絵では、同様に構図の単純化・色彩の純化を可能にしてくれます。 そんなマティスは切り絵スタイルでも数多くの作品を制作していきます。 そんな彼の作品たちは彼の生涯にわたる作品作りの集大成となりました。 マティスの代表的な作品たち 1. 帽子の女 アンリ・マティス『Jazz』作品一例 単純な線と、純色だけで表現したおり、とってもカラフルな作品集となっています。 サーカスや劇場などをモチーフに、詩的な文章が散りばめられていたりと、とにかくおしゃれで可愛い作品集です。 『色の魔術師』なアンリ・マティス アンリ・マティスは、現実に存在するモノをそっくりそのまま描き出す「写実的」ではなく、彼の内面に映る景色を彼の色彩感覚で描きました。 そんな彼の異名は『色の魔術師』 彼本人しか表現できないであろう色彩感覚を用いて、美術史に新たなブームメントを引き起こしました。 そんな彼の晩年は、筆とキャンパスをハサミと紙に換え、色と線の新たな表現方法を模索していきます。 色の単純化と線の簡略化に勤しんだマティス。 そんな彼の作品は、長い年月が経った今でも多くの人に愛されています。 『フォービズム』な作品をお家に飾ってみる?? 美術界の中で1つの新たな文脈である『フォービズム』 そんな新たな歴史を築いた形式の絵画も、レンタルからインテリアの一部としてお家に飾ることが可能です。

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ダンス(La dance):マティス、色彩の魔術

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この一貫した考え方や作品の評価が とても高いのです。 穀物商人の長男として裕福な家庭に生まれたマティス 1887年、18歳で法律の勉強のためパリへ 1889年、20歳で盲腸炎で入院します。 その療養中に母から画材をプレゼントされ 「楽園のようなもの」と絵画に目覚めます。 これを機に画家に転向しますが 父親との関係は悪かったようです。 1898年にアメリーと結婚。 作品のモデルとしてもよく登場します。 初期の作品は写実的でしたが 次第に自由な色彩を研究し始め 1905年から3年間ほど フォービズム「野獣派」と呼ばれるように。 その後の作品は「色彩の魔術師」と呼ばれ 形はシンプルに、色の構成も独創的です。 後に彼女がマティスのマネージメントなど すべて手伝っています。 1941年、マティスは十二指腸ガンになり入院。 手術は成功するものの深刻な後遺症をかかえます。 作品は油絵から、はさみを使った切り絵(カットアウト)になり より線の単純化、色彩の純化を目指しました。 晩年になるとマティスは南フランスの教会の 礼拝堂の内装デザインを手がけました。 ステンドグラスやドローイングが秀逸です。 20世紀キリスト教美術の代表作に。 このドローイングはスゴい~ そしてマティスは亡くなるまで 創作意欲を失わなかったのです。 アンリ・マティスの切り絵の特徴や魅力とは? 1941年に腹部のガンの手術を受けてから ほぼベッドと椅子で生活することになったマティス。 絵画や彫刻の制作は困難になりました。 そこでマティスはアシスタントを雇って カットアウト(切り絵)による 紙コラージュ作品を始めます。 この技法の変化によって 自然から受ける感覚や 感触を直接的に表すように。 ハポネコはマティスの切り絵作品が とてもモダンで現代的な作品に感じるのです。 当初、切り絵の作品は小さめのサイズでしたが 最後は3メートルほどもある壁画や部屋のサイズへ 展示を見るとインスタレーション (空間表現)のようです。 カットアウト(切り絵)の代表作は テートモダンに所蔵されている 『かたつむり』です。 すごく単純化されて色面構成です。 最初、かたつむりには見えなかったよw 1943年には『Jazz』という最初の主要な 切り絵の作品集を制作します。 アンリ・マティスは緑豊かな自然を通じて 自分の内面から癒やしの芸術を。 形を単純化した色彩の魔術師。 パブロ・ピカソは想像の世界を探求 歴史やアイデアを吸収して 新しい概念や世界観を提示しました。 どちらも絵画の可能性を探究した芸術家です。 ピカソの名言をみてみると 『優れた芸術家は模倣するが、偉大な芸術家は盗む』パブロ・ピカソ この考えが原因でメキシコの画家、ディエゴ・リベラとは喧嘩別れに。 守破離というかピカソは自分流のパクリが上手いと思う。 — ハポネコ アーティストinメキシコ Japoneco1 ピカソは人のアイデアや作品を盗みながら 自分流に組み合わせて作品を制作するのが上手く それ故に多作の芸術家でした。 一方でマティスはじっくりと自然と向き合い 色彩をモチーフに依らず、感覚を拠りどころに その可能性を追求し、純粋な視覚芸術としての 絵画を追い求めたという点がピカソと違います。 マティスの作品の魅力って 歳を重ねるごと、じわじわ響いてきます。 ハポネコはマティスの作品を鑑賞して おそらく普通の人には見えなかった境地を 体験したんだろうなぁという印象を受けるのでした。 まとめ マティスの切り絵の特徴や魅力や ピカソとの違いをわかりやすく解説してみました。 簡単に真似できそうなんですけど 歳を重ねてもあんな軽やかに 遊び心を持った線はなかなか引けません。 マティスのドローイングや切り絵は素晴らしいアートです。 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 【 アートに関連する記事はコチラ】.

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