悲鳴嶼 獪岳。 【鬼滅の刃】柱の裏切り者とは…!?善逸の兄弟子?岩柱悲鳴嶼行冥との関係は?ネタバレあり。

【鬼滅の刃】岩柱・悲鳴嶼行冥の全プロフィールと考察【ひめじまさんの年齢・過去】

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下記クリックで好きな項目にジャンプ• しかも、寺に鬼を招き入れて寺の子供をほとんど全滅させ、岩柱のトラウマを作った張本人です。 岩柱の過去の描写から 「鬼を招き入れた子供って獪岳?」と噂されていましたが、それが紛れもない事実だったようです。 その証拠は以下のことから分かります。 獪岳と寺の子供の首飾りが同じ 獪岳は 勾玉 まがだま のような首飾りをしています。 そして岩柱の過去の記憶に出てきた子供も同じ首飾りをしています。 ここまで共通点が多いと別人と言う方が難しいですよね。 獪岳と岩柱・悲鳴嶼 ひめじま の過去に出てくる子供が一緒 獪岳と岩柱がそれぞれ過去を回想するときに同じ子供が登場します。 岩柱の回想では顔が映っており、獪岳の回想に登場する子供は顔が真っ白です。 しかし、両者の回想に登場する子供を見比べると 髪型や着物の柄が一緒です。 獪岳の回想の「金を盗んだことを罵られようが」の部分で映ってる子供が悲鳴嶼さんの寺にいた子供と同じっぽい。 罵られた事に腹を立てたのか、金を盗んだ事実を悲鳴嶼さんに知られたくなかったのか — キャメル natsuonosuke このことから見ても、 獪岳と岩柱は同じような思い出を持っているのが分かります。 獪岳はお金を盗んだことを子供たちに罵られたこともあり、子供たちの顔はあまり思い出したくないのかもしれません。 獪岳が岩柱の寺にいたことを公式でも認めている 上に書いたものも獪岳と寺の子供を結びつける証拠になりますが、さらに確実な証拠があります。 それは鬼滅の刃の公式で 「獪岳は岩柱の寺にいた子供だった」と認めていたんです。 この文には「お金を盗んだ獪岳が寺の子供たち責められ、寺を追い出された」と書いてあります。 岩柱は炭治郎に「言いつけを守らず日が暮れても寺に戻らなかった」と言っていましたので、 事実とは少し違う形で岩柱は過去を記憶しているようです。 【鬼滅の刃】獪岳 かいがく が鬼に寺の家族を襲わせた理由は? 岩柱いわく、 「獪岳は寺の者たちを鬼に売った」と言われています。 しかし上で少し触れたように岩柱の誤解が多少なりとも混じっているので、 本当の真実は闇の中です。 ここでは、 「獪岳がなぜ鬼に寺の家族たちを売って襲わせたのか?」について考えてみました。 獪岳は常に自分ファーストの部分がありますから、自分が助かるために家族を売ったというのはとてもしっくりきます。 ただ 子供だった獪岳なりに自分の生存方法を精一杯考えた結果で、とても人間臭い行動でもあります。 獪岳は寺の子供に仕返しをしたかったから 獪岳は寺のお金を盗んだことで他の子供に寺を追い出されてしまいました。 なぜ寺のお金を盗んだかは謎のままですが、獪岳的に何か理由があったのだと思います。 でも、獪岳は寺を追い出された。 鬼が出ると言われている夜の闇に一人取り残されて、誰も迎えに来てくれない。 そして、人食い鬼が表れた。 裏切られたと思っただろう。 絶望しただろう。 寺の子は獪岳を殺そうとした。 だから、逆に殺してやった。 — yuu🍑 yuu47003257 それに絶望した獪岳が寺の家族を売ったと考えると、人間臭い獪岳の性格がより鮮明になってきますよね。 しかも獪岳が抱いた憎しみや怒りは一時的なもので、その惨劇があった後に 「 後悔の念から鬼殺隊に入隊した」という流れも獪岳なら有り得そうです。 鬼が本当に怖い存在だとわかっていれば、流石に寺の子供たちも獪岳は追い出していないと思われます。 獪岳を含む 寺の子供たち全員が鬼の存在をナメていたのではないでしょうか? で、寺の子供を脅かそうと思い鬼を寺に誘導したけど、結果的に取り返しのつかない状況になってしまったと考えることもできます。 ただ獪岳の人間性をみると、怯えや恐怖、怒りや憎しみといった感情で行動していることが多いので、上述したものよりは可能性は低そうですが・・・。 その鬼が「寺の藤の香を消してくれ」的なことを言って獪岳は藤の香を消してしまった。 獪岳は寺にいた子供たちに追い出されていますので、「言いつけを守らなかった」と言っている岩柱は多少誤解している部分がありそうです。 そこらへんの情報は詳しく書かれていないので、何かの機会に書かれることを期待したいところですね! 関連:.

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【鬼滅の刃】岩柱・悲鳴嶼行冥の悲惨な過去

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獪岳は鬼殺隊入りした悲鳴嶼には会わずに死亡 獪岳は結局、同じ鳴柱の下で修業をした弟弟子の善逸の手によって、頸を落とされ消滅します。 孤児だった自分を育て、また自分の裏切りによって人生を大きく変えられてしまった悲鳴嶼には再会することなく、その幕を閉じました。 漫画での獪岳のシーンは善逸とのやり取りが中心になっているので、善逸との関係性にばかり目がいってしまいますが、実は悲鳴嶼ともこのような因縁関係があったんですね。 作中では再会することのなかった二人ですが、もし再会していたらどうなっていたのでしょうか。 鬼殺隊最強と言われるレベルにまでなった悲鳴嶼さんですから、獪岳はおそらく瞬殺されると思います。 鬼滅の刃のアニメが30日間無料で見れる! 鬼滅の刃のアニメが30日間無料で見れる方法をあなたは知ってますか? それは Amazonプライム会員になることです。 今、Amazonプライム会員に申し込むと30日間の無料体験で鬼滅の刃のアニメが見れます。 無料体験期間を超えると月額500円の料金が発生するのでご注意ください。 詳しくはこちらからAmazonプライムを見てみましょう。 鬼滅の刃の単行本全巻が実質無料で買える方法! 鬼滅の刃の単行本全19巻(2020年4月時点)が実質無料で買える方法をあなたは知ってますか? それは ポイントサイトを利用することです。 今、ポイントサイトでは無料で10,000円程度のポイントがもらえるキャンペーンを随時やっています。 詳しいやり方については、こちらの記事で紹介していますので是非チェックしてください。

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善逸の兄弟子、獪岳(かいがく)の過去!岩柱との知られざる因縁とは?│鬼滅の刃をねずこ推しが考察するブログ

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自分は僧侶としては結構不真面目な部類ではあるけれども、 「鬼滅の刃」を読んでいて時々思うのは、自分が僧侶として勉強してきた中で知り得た仏教的教養が作中に散見されるということだ。 個人的に「鬼滅の刃」という作品に対して、 仏教的なエッセンスを強く感じる部分が多くある。 そしてそれが恣意的であっても偶然であっても、 漫画やゲームなどのサブカルチャーを仏教的観点で考察していくのは新しい発見があって面白い。 例えばソシャゲの FGOでは 玄奘三蔵が登場するが、三蔵法師は固有名詞ではなくそういう地位 というウンチクはもう使い古されてそんなの誰でも知ってるよって感じだが、 彼女がゲーム内で口癖にしている 「ぎゃてぇ」というのは般若心経の最後の一文「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」の 「羯諦 ぎゃてい 」であり、この語自体の意味は 簡単に言うと「レッツゴー」なのだ。 FGOの三蔵は何か酷い目にあったりした時に悲鳴のように「ぎゃてえー!」という事が多いが、 実は「レッツゴー!」って言ってると思うと彼女の前向きさが良く感じられる。 閑話休題。 つまり 鬼滅の刃を仏教視点で紐解いて考察してみたくなったんだよ! そもそも彼岸花というのはお彼岸のシーズンになると赤く咲き誇る花で、有毒なのでモグラや猪等を除ける為に植えることもある。 それが青いとなると逆に薬効があるのかとなんとなく説得力があるね ? 彼岸花はまたの名を 「曼珠沙華 まんじゅしゃげ 」といい、法華経が説かれた時天上から降り注いだ 四華の1つである オタクの好きなまんだらけの元ネタの曼荼羅華もその一つで、別名チョウセンアサガオ。 なぜ妓夫太郎はあのような痩せ細ったビジュアルなのか? 彼の姿は 餓鬼道で苦しむ亡者の姿を想起させる。 六道の一つ・餓鬼道は自分と他人を区別して羨む者、自分の利益だけを追求する者が主に陥る世界である。 仏陀の直弟子の母がわが子と他人の子を区別して自分の子にだけ良い物を食べさせた為に餓鬼道に堕ちたという話も伝わっている。 餓鬼道において餓鬼たちは長い長い箸を使わなくては物を食べられない。 その箸を使って自分の口に入れられても、口に入れた瞬間燃え上がってしまう。 実はその箸で 他の餓鬼と食べさせあった時だけ食べ物として食べられるのだが、餓鬼たちは誰もそうはしない。 妓夫太郎は常に他人を羨み、嫉み、そして取り立てる。 その精神性は餓鬼道の鬼に通じる部分がある。 一方でそんな彼が唯一気に掛けるのが自分とは対照的な 妹の堕姫である。 「俺達は二人で一つ」とまで言い放つ程の絆を持つ彼らは、その弱点も同時に首を切られることという徹底ぶりだ。 極楽浄土には共命 ぐみょう という鳥がいる。 この鳥は一つの体に2つの頭があり、それぞれが独立した自我を持っている。 共命は元々は地上で美しい声を響かせていたが、この2つの頭は仲が悪く、お互いが相手の美しい声に嫉妬心を抱いていた。 ある時片方の頭が食事に毒を混ぜてもう片方を毒殺してしまった。 せいせいした、と思ったのもつかの間、 体は1つなので自分もまもなく死んでしまった。 邪険にしていたもう一方の頭がかけがえのない存在だったことを死の瞬間に思い知らされ、改心して浄土に召された後は思いやりの大切さを説く鳥として法を歌うという。 頸を斬られた堕姫と妓夫太郎は消滅までの僅かな時間、互いを罵り合う。 しかし滅後の暗闇に立たされた時、堕姫は兄と離れていく事を拒み、妓夫太郎は堕姫をおぶって歩いてゆく。 その姿は1つの体に2つの頭の共命のようだ。 不死川玄弥が唱えていたお経 上弦の肆・半天狗の半身の一人である哀絶の攻撃で負傷した玄弥は 突然お経を唱えだし、哀絶も 「何だ?阿弥陀経か?何とまあ信心深いことじゃ」と呆れる。 しかし後にこれは 「反復動作」という、 集中を助ける玄弥なりのルーティーンであることが発覚した。 また悲鳴嶼の柱稽古で隊員たちが瀧に打たれながら読んでいるのも 阿弥陀経である。 阿弥陀経は浄土宗や浄土真宗が信仰の根拠に据えている経典「浄土三部経」の1つであり、中でも一番短いお経なので日常的に唱えているならギリ暗唱できる部類である とはいっても普通に唱えても20分以上かかるが。 その内容は仏陀が弟子に向けて西方極楽浄土とその創造主である阿弥陀如来の存在を説き、また極楽の様相を詳しく説明し諸仏もその内容を賞賛したということが書かれている。 大正という時代背景では若い人間でも今の人より信心はあるだろうが、とはいえ玄弥が本当に信心深いというわけではなく、 師と仰ぐ悲鳴嶼の教えをそのままやっているのだと思われる。 ずばり僧侶キャラの悲鳴嶼行冥について 「南無阿弥陀仏」の念仏行者であること、阿弥陀経を読誦させていること、浄土宗特有の二連数珠であること等から、悲鳴嶼の宗派は 浄土宗もしくは真宗だろう。 浄土宗系においては 「南無阿弥陀仏」つまり阿弥陀如来の名前を唱えることが何よりも勝る仏道修行であると説いている。 悲鳴嶼ももうビジュアルから全力で南無阿弥陀仏をアピールしている。 それは他の修行を蔑ろにしている様に見られがちだが、難しい仏教の勉強や厳しい修行には金銭的にも肉体的にも資本が必要となり、貧しく体の弱い人々は仏教に触れることが出来ないということになってしまう。 浄土教に代表される大乗仏教はより多くの人々が悟りの世界に行けることを目的としているので、その点で念仏を最上の修行とする浄土教にはどんな者にも出来る簡便さと寛容がある。 悲鳴嶼は身寄りのない子供達を寺に集めて集団生活を営んでいた。 もしこれが厳格な禅宗の寺だったら子供達は全員剃髪出家して修行の毎日を送っていただろう。 獪岳にはその方が良かったかもしれないが。 「反復動作」による集中と強化を僧侶である悲鳴嶼が実践して教えていたことも個人的に面白いと感じた部分の一つだ。 というのも、僧侶の行う修行行為には単純な動作の繰り返しで自己に没頭するのものが多く、それを巧く戦闘の修行に応用して落とし込んでいると感じたからだ。 木魚を叩いたり念仏を唱えたりといった単純作業は、連続していくと究極的には脳の普段使わない回路を開くということは実際にあるようで、 念仏を不断で唱え続けることで神秘体験に出会ったという話は現在でもいくつか存在する。 他人の為の善行が最終的に自分の利益という結果に、悪い行いがいつか自分の苦しみに繋がっていくという法則を 同類因等流果 どうるいいんとうるか という。 これは仏教の根底にある 因果の法則から来るもので、因果とは この世の全ての物事は原因があってその結果として存在するという考え方である。 原因がなくては現在という結果は訪れない。 当然の事を言っているようだけれども、仏教はこういう、人生の物理学ともいえるような法則を見出しては教えの根底に敷いているのだ。 また別の言い方として 自利利他 じりりた という言葉がある。 自利というのは自分の為に自分の利益になる事をすること。 利他とは自分を差し置いて他人の為になる事をすること。 この自利と利他を両立させていることを 「自利利他円満」といい、これは 菩薩の所業なのだ。 「強い者は弱い者を助け守る そして弱い者は強くなりまた自分より弱い者を助け守る これが自然の摂理だ」 炭治郎のこの言葉が自利利他円満をわかりやすく説明している。 「情けは人の為ならず」の正しい意味を父から教わっていた 無一郎は、いつか人の為になることをしたいと願っていた。 これは 利他行を望む心であり、一方で兄の 有一郎は他人のことを気にする余裕は自分たちにはない、自分だけの為に生きろと憤っていた。 これは 自利の心である。 「自利と利他」という概念を通すことでこの双子の対照性が際立ってきた。 上弦の伍・玉壷との戦いで記憶をはっきり取り戻した無一郎は、記憶を失っていた頃の自分を 「兄に似ていた気がする」と振り返る。 確かに無一郎は登場以来、柱である自分の要求と精進が何物にも優先されるべきという態度を取っていたし、他人を省みない言動・行動が多かった。 これは自利の心に囚われていて、 兄の有一郎が生前に無一郎に望んでいた姿だった。 他人を一切省みないこの頃の無一郎は確かに強く育ち、柱にまでなった。 しかし本来の無一郎の姿ではなかった。 無一郎が患っていた記憶障害はそういう意味を含んでいたのではないか。 本当の無一郎は誰かの役に立てる人間になることを望んでいて、それを邪魔したことを有一郎が死の間際に懺悔していた事も忘れてしまっていた。 本当の自分を取り戻した無一郎はようやく「自利利他円満」の状態となった。 玉壷戦での無一郎の成長はそういう意味の上にあったのだ。 それに引き替え ・・・ 上記の逆のケースを示して見せたのはかつての善逸の兄弟子であり、命惜しさに悲鳴嶼を裏切った過去を持つ 獪岳だ。 彼は新しい上弦の陸として善逸と戦い敗れるが、その消滅の間際、愈史郎からこう言われる。 「人に何も与えない者はいずれ他人から何も貰えなくなる 欲しがるばかりの奴は結局何も持っていないのと同じ」 獪岳は 自利だけを追求したが故に孤独に消滅するという結果が待っていた。 いかがだったでしょうか。 読み込んでいくとまだまだ出てくると思うけれども限がないのでここらでやめときます。

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