オスマン 帝国 ヒュッレム。 オスマン帝国外伝のヒュッレムの史実がすごすぎて吹いた…死因も意外だった | カイドーラ

オスマン帝国の歴史を簡単に!帝国史上重要な皇帝やヒュッレムも!

オスマン 帝国 ヒュッレム

「壮麗王」の時代のもうひとつの「物語」 オスマン帝国史上、一般にその名を知られるスルタンといえば、1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服した 「征服王」メフメト2世と、16世紀にウィーンを包囲しハプスブルク家と対峙した 「壮麗王」スレイマン1世であろう。 両者ともヨーロッパとの激烈な戦いを制した勇猛な支配者ながら、スレイマン1世 在位1520-1566 が今なお、優美な通り名で呼ばれるのはなぜか。 それは彼が治世中、寵妃ヒュッレム、ロクソランとも呼ばれた美女に翻弄された横顔が広く伝えられていたからではないだろうか。 アングルの絵画「トルコ風呂」に代表されるように、壮麗王の時代は後のヨーロッパの芸術家たちの想像力をかき立てる「オリエンタリズム」の源泉となり、艶麗な女人たちが暮らすオスマン後宮(ハレム)の様子は絵画や音楽の題材として盛んに描かれた。 は、このようにともすればヨーロッパ人の偏見のもとに伝えられがちであった壮麗王時代のもう一つの顔を、トルコのアングル(視角)からとらえなおし、活写した歴史ドラマともいえる。 アカデミックな時代考証も一部取り入れつつ、初めてトプカプ宮殿での撮影を敢行する等して、人びとの空想の中にあったオスマン帝国のハレムと女性たちをリアリティある歴史上の人物として蘇らせることに成功している。 「壮麗王」と呼ばれたスレイマン1世 ヒュッレムの魅力 ドラマは、スレイマン1世の即位と少女時代の ヒュッレムが奴隷として黒海北岸の港町カッファから船でイスタンブルに送られる場面から幕を開ける。 ヒュッレムの出自については諸説あるが、彼女が「ロシア女」と宮廷内外で呼ばれていた事実から、16世紀前半においてポーランド王の管轄下にあったルテニア(現ウクライナ)の出身と考えられている。 後宮入りした当時、15歳に満たぬ少女であったとされるが、彼女の美声と機知に富む会話は周囲の者を明るくさせる不思議な魅力を備えており、源氏名として「陽気」を意味するヒュッレムと名付けられた。 彼女はのちに後宮の女性ながらスレイマン1世の公妃として5人の皇子と1人の皇女の母となりハレムをとり仕切る一方、その豊かな知性でときには内政、外交問題についてスルタンに助言をしたという。 ヒュッレムが当時の国際情勢に鑑み、友好のためポーランド国王へ送った2通の書簡は有名である。 ドラマはヒュッレムの出世物語を軸に展開していくが、彼女の視点と幅広い活動を通じて、視聴者が壮麗王の時代を追体験できるのも、大きな魅力であろう。 後宮の女性からハレムの頂点に上り詰めたヒュッレム ハレム制度の成立 スレイマン1世の即位時、イスタンブルの宮廷では、スレイマン1世の生母である ハフサ・ハトゥンが、「母后」(ヴァーリデ・スルタン)として崇敬の対象となるとともに後宮の女性たちを統括する役を担っていた。 先王の妃が「母后」として宮廷内にとどまるのが慣例となるのはこの時代からと言われる。 これは帝国の主権が原則、男系の世襲によって維持される以上、後宮組織そのものが国政を支える不可欠な制度として重要な意味を持ち始めたからであろう。 事実、16世紀中葉以降、ハレムは母后を筆頭格に女性のみが参加する独自の階層化社会を築いていく。 オスマン帝国時代のハレム 捕虜や奴隷市場を介して後宮入りをした娘たちは、「新参者(アジェミー)」として、宮廷内の学校でトルコ語の習得、宮仕えをするうえで必要な技能、教養を厳しく教育された。 ここで晴れて「合格」した者だけがスルタンへの奉仕が許された。 彼女たちの中には、スルタンの覚えめでたく「お気に入り(ギョズデ)」となり、寵愛を受ける「幸運なる者(イクバル)」として「スルタンのお部屋付き(ハス・オダルク)」となって、特別な地位を得る女性もいた。 ヒュッレムがスレイマンの寵愛を得て、このハレムの階梯を登り始めた頃、母后に次ぐ地位にはバシュ・カドゥンと呼ばれた実質的な「第一夫人」が存在した。 スルタンとの間に皇子ムスタファを儲けた マヒデヴラン妃である。 マヒデヴランはスレイマンが皇子時代、マニサの県知事を務めていた頃からの愛妃であった。 ヒュッレムは1521年にメフメトを出産、さらに4人の皇子を儲けた。 オスマン宮廷では、これまで寵姫といえども皇子を儲けるのは原則一人までと暗黙ながら決められていたから、この度重なる出産はマヒデヴラン妃との間に緊張と対立を生んでしまう。 その結果、ヒュッレムには皇子の母として新たにハセキという称号が付与され、後宮では今後、皇子を産んだ女性は等しくこの称号で呼ばれるようになり、母后に次いで絶大な権威を帯びる地位となった。 このように、スレイマン1世期のハレムは次代のスルタンを輩出する機関としての役目が明確化する一方、そこに住まう女たちは次代の母后を目指して権力闘争に身を投じていくようになった。 ドラマでは皇帝の寵愛を巡るマヒデヴランとヒュッレムの対立にも注目 「女人の統治」時代の始まりとその実像 ヒュッレムが活躍した16世紀後半から17世紀中ばにかけては、 「女人の統治」と呼ばれ、ハレムの女性たちが宮廷内外の諸勢力と結託し、国政に干渉した特異な時代として知られる。 16世紀末期のシェイヒュルイスラム(「イスラームの長老」)のスンヌッラーフ・エフェンディは、この後宮の女人たちの政治への介入は帝国の主権を脅かし、ひいては帝国の衰退を招くと痛烈に批判した。 しかしながら、このような同時代人の内部批判は、その背景をよく考える必要がある。 オスマン帝国史上、スレイマン1世治世の後半は、中央集権的支配体制がほぼ確立し、それを支える高度に組織化された官僚制に、スルタン自身が取り込まれていく、いわばオスマン支配の変革期を迎えていたとされる。 ヒュッレムが暗に関わったとされる後宮内外の権力闘争、例えば、マヒデヴラン妃の放擲(ほうてき)、その皇子ムスタファの処刑、スルタンの腹心イブラヒム・パシャの暗殺なども、スルタンの求心力や主導性が失われつつある事情を象徴する事件であったともいえるだろう。 ヒュッレムが活躍した時代は「女人の統治」と呼ばれた 「女人の統治」時代のハレムでは、皇子たちはかつてのように帝王学を身につける目的で県知事として地方へ派遣されることはなかった。 幼少期から成人を迎えても母とともに「鳥かご(カフェス)」の後宮で暮らし、次代のスルタン候補として大切に育てられた。 したがって、皇子たちの一部には脆弱な身体のうえ、精神に異常をきたす者も現れた。 17世紀のスルタン、イブラヒム(在位1640-1648)は、即位時から暗殺の恐怖に怯え、神経衰弱の余り精神を病んでいたという。 政治に無関心で奇行を繰り返したため、廃位させられてしまったほどである。 しかしながら、近年のオスマン史研究では「女人の統治」を単に帝国衰微の元凶として捉えるのではなく、支配の変革期に出現した歴史的意義を考察しようとする動向もある。 例えば、母后はスリッパ料と呼ばれた多額の給与を領地や金品のかたちで与えられていたが、その潤沢な資金を衣服などの個人の奢侈品に消費するばかりでなく、むしろその多くを寄進し、モスク、公衆浴場などの建設にあてていた。 ヒュッレムや皇女ミフリマーは、建築家スィナンに命じて、首都に宗教的建造物を数多く作らせたことでも知られる。 「女人の統治」がどのように描かれるかも関心の的となるであろう。 松尾有里子 東京大学東洋文化研究所特任研究員。 専門はオスマン帝国史。 ドラマ『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』の日本語字幕における歴史考察を担当。 次なる野望は息子を玉座に就かせることだった。 だが、そんなヒュッレムの前に皇帝妃マヒデブランと大宰相イブラヒムが立ちはだかる。 一方、皇帝スレイマンは帝国の常勝軍を率いて欧州へ進撃。 キリスト教世界に果たし状を突きつける。 今日の友は明日の敵。 愛と裏切り、試される忠誠心と過酷な運命。 壮麗王スレイマンの治世を壮大なスケールで描く待望のシーズン3を日本初放送。

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5分でわかるオスマン帝国!概要や場所、皇帝、美女ヒュッレムなどを解説

オスマン 帝国 ヒュッレム

トルコ族の一首長であるオスマン1世により、1299年に建国されたオスマン帝国。 他民族のイスラム国家です。 勢力を拡大していったのは、3代皇帝のムラト1世。 隣接するビザンツ帝国の都市、アドリアノープルを攻略し、バルカン半島南東部のトラキア地方を次々と支配下におさめていきました。 1389年に起きた「コソヴォの戦い」でバルカン諸国連合軍を撃破。 オスマン帝国による半島支配の基礎を築きました。 続く1396年には「ニコポリスの戦い」でハンガリー連合軍を破ります。 しかし1402年、ムラト1世の息子であるバヤジット1世の時代に、当時力をつけていたモンゴルのティムールが攻めてきました。 これを「アンカラの戦い」といいます。 バヤジット1世はこれに大敗。 帝国は一時崩壊の危機を迎えます。 1444年から1446年、1451年から1481年の2度皇帝に即位したメフメト2世は、バルカン半島の諸国を次々と制圧。 1453年にはコンスタンティノープルを滅ぼして、ビザンツ帝国を完全に征服します。 このコンスタンティノープルという場所は、各方面との貿易拠点となる場所で、ここを支配したことは帝国のさらなる繁栄の大きなきっかけとなりました。 1517年、セリム1世がアフリカ大陸のマムルーク朝を征服。 1520年から即位したスレイマン1世の時代に帝国は最盛期を迎え、アジア、ヨーロッパ、そしてアフリカにまで連なる大帝国が完成しました。 オスマン帝国を語るうえで外せないのが、ヒュッレムという女性です。 彼女は、血生臭い男たちの戦いの歴史のなかで、華麗な出世を遂げました。 ロシア南部のルテニア地方に生まれ、1520年頃、この地を略奪に来たタタール人によって奴隷となります。 イスタンブールへ連れていかれ、裸で競りにかけられました。 ヒュッレムはそのなかでもひときわ目立つ美貌を持っていて、彼女を買ったのが、なんとオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャだったのです。 ほとんどの奴隷が酷い暮らしを強いられるなか、ヒュッレムは宮廷で豪奢な生活を送るようになりました。 それまで決して裕福な環境で育ったわけではなかった彼女は、ここで上昇志向を芽生えさせます。 その後ついに皇帝スレイマン1世の目にとまり、寵愛を受け、男児を出産。 第2夫人にまで上り詰めました。 当時、皇帝は妻を迎えないのが慣習でしたが、スレイマン1世の溺愛っぷりは他に類を見ないもので、ヒュッレムを正式に妻としたのです。 慣習を覆し、皇帝の愛を手に入れた彼女はその後、外交や国政にも関与するようになります。 奴隷の立場から皇后にまで登りつめた伝説の美女として、後世に語り継がれることになりました。 オスマン帝国の基礎知識を身につける一冊 オスマン帝国が他の国と一線を画しているのは、勢力拡大をする際に、戦いだけに重きをおいていたわけではなかったというところでしょう。 開放的かつ合理的な社会システムを構築し、イスラム教国家でありながら、キリスト教やユダヤ教も制度のもとに受け入れました。 それらのシステムを本書では「柔らかい専制」とし、上述したヒュッレムのように身分の低い者でも成りあがることのできる仕組みと秘密に迫っていきます。 一見するとドラマチックな物語にも思えますが、本書は史実を忠実に追いかけ、終始冷静にオスマン帝国繁栄の秘密に切り込んでいるので、国家のシステムを理解するのにおすすめの一冊です。 オスマン帝国繁栄の核心をスリリングに描く.

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ヒュッレム(アレクサンドラ)はオスマン帝国で奴隷から皇后になった女性

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フィルーゼ フィルーゼは第1話で海で船の破片に捕まって漂っているところをフズル・ハイレッディン船長に助けられました。 載っている船が嵐で遭難してしまったようです。 フィルーぜは他の奴隷と一緒にイスタンブールにつれてこられ、奴隷市場で売られてしまいます。 しかしフィルーゼはヒュッレムに助けられてトプカプ宮殿のハレムで暮らすことになります。 フィルーゼはスレイマンをもてなす宴に参加して踊りを披露します。 他の娘にはない独特な魅力をもつフィルーゼにスレイマンは惹かれます。 フィルーゼはスレイマンに気に入られ夜伽をつとめます。 フィルーゼもスレイマンに惹かれていきます。 新しく寵愛を集めるフィルーゼをハティジェやマヒデブランは味方しました。 彼女たちはヒュッレムからフィルーゼを守ろうとしました。 ヒュッレムがフィルーゼがスレイマンから寵愛を受けているのを知ると彼女を殺そうとするからです。 フィルーゼはミフリマーフに仕えることになりました。 ヒュッレムはスレイマンの寵愛を受けているのが側女のナディアだと思い彼女を殺害します。 しかし、ヒュッレムはスレイマンの寵愛を受けているのがフィルーゼだと知ります。 ヒュッレムはイブラヒムをも巻き込んでフィルーゼを排除しようとしますがなかなか追い出すことはできません。 しかしフィルーゼの重大な秘密がバレてしまいます。 フィルーゼを殺害しようとしたリュステムはフィールゼにサファビー朝の王族の証の入れ墨があるのを見つけました。 なんとフィルーゼはサファビー朝の王族だったのです。 ヒュッレムはフィルーゼはスレイマンの命を狙うために送り込まれたスパイだと考えました。 ヒュッレムはその事実をスレイマンに報告。 しかしフィルーゼは自分がスパイだとは認めません。 サファビー朝の王族にはちがいないが、シャー(皇帝)・タフマースブ1世の親戚だと言います。 タフマースブと不仲だった父親はタフマースブに殺され、自分も船を沈められたのだと言いました。 真実を話さなかったのはスレイマンへの愛ゆえ、知れば国と国の取引の材料として使われてしまうと言います。 フィルーゼが敵国の者だと知ったスレイマンはショックを受けます。 オスマン帝国とサファビー朝は対立して戦争状態にあったからです。 しかしフィルーゼを亡命者だと信じているスレイマンは彼女を殺すことはできません。 悩んだ末にスレイマンはフィルーゼを宮殿から追放。 フィルーゼが好きだったスレイマンはフィルーゼを処刑しようとしません。 宮殿から追放するだけでした。 ヒュッレムはリュステムに命じてサファビー朝に密告します。 フィルーゼが追放され勝ち誇るヒュッレム。 フィルーゼを乗せた馬車はアマスヤの館に向かっていました。 しかし到着する前に何者かに襲撃されます。 襲撃者はサファヴィー朝・シャー(皇帝)タフマースブに仕える者でした。 ヒュッレムはリュステムに命令してサファビー朝に知らせたのです。 敵国に亡命した王族がいるとわかれば連れ戻しに来る、そしてフィルーゼは母国で処刑されるだろうと考えました。 連絡を受けたタフマースブとその妃・フィルーゼ・ベグムハンは使者を派遣してヒュメイラを迎えに来させました。 しかし処刑するためではありません。 保護するためでした。 フィールゼがタフマースブと対立しているのは作り話だったのです。 フィルーゼの意味 名前のフィルーゼ(Firuze)の意味はターコイズ(トルコ石)。 ペルシャ人にとっては勝利の石。 天国の青い空を意味していると考えられました。 ターコイズはトルコでは採れません。 ヨーロッパ人が知ったターコイズはトルコから持ち込まれたものだったのでターコイズと名付けられました。 和名の「トルコ石」はは直訳。 オスマン帝国は現在のイランを支配下にしていたのでイランの鉱山から石を掘り出して使ったり、ヨーロッパに輸出していました。 フィルーゼの正体 歴史上は実在しない人物です。 本名はヒュメイラ サファヴィー朝イラン(ペルシャ)の王族。 第2代皇帝タフマースブ1世の命令で、トプカプ宮殿に行き、スレイマンを暗殺するために送り込まれたスパイです。 スレイマンにはタフマースブに命を狙われているようなことを言っていました。 しかし実際にはタフマースブや妃のフィルーゼ・ベグムハンはフィルーゼの身を案じていました。 仲は悪くないようです。 サファビー朝から迎えに来たタフマースブの使者に対してもまったく臆することなく尊大な態度をみせていたので本国でもそれなりに地位はあるようです。 直接暗殺するつもりはなかったようです。 しかし密かに毒を用意していました。 自らは疑われない方法で暗殺しようとしました。 劇中のスレイマンやヒュッレムはもちろん視聴者も騙されたかもしれません。 同じようにシーズン2でスパイとして侵入して失敗して殺害されたヴィクトリア(サドゥカ)と違い、身元がバレたあとは本国に戻ります。 フィルーゼが去った後、オスマン帝国は負の連鎖になってしまう フィルーゼがペルシャに戻った後。 スレイマンが倒れます。 香炉に毒を仕込んでいました。 幸い、ヤヒヤの治療で奇跡的にスレイマンは回復しました。 ところがその後、悲劇が繰り返されます。 オスマン帝国の調査では数ヶ月に渡って少しずつ毒をもられたことはわかったものの、決定的な証拠が見つかりませんでした。 誰が犯人かわからないので誰もが疑心暗鬼になります。 スレイマンはイブラヒムに不信感をもち処刑。 イブラヒムを失ったマヒデヴランはメフメドを暗殺。 イブラヒムという最大の味方を失ったムスタファは処刑され。 セリムとバヤジトの争い。 と負の連鎖が続きます。 スレイマンの暗殺には失敗したものの、結果的に有能な人物が次々と失われ力が弱くなったオスマン帝国は、サファビー朝を征服することはできなくなりました。 具体的なフィルーゼの犯行場面は放送されませんでしたが、さまざまな伏線からフィルーゼが行ったことがわかります。 史実のタフマースブ1世にヒュメイラという娘や姉妹がいた記録はありません。 サファヴィー朝とは現在のイランの地域にあったイスラム教の国。 古代にはペルシャ帝国があった場所です。 現在のイランは王国ではありませんが、イランの元になった国です。 サファビー朝ペルシャと言う場合もありますが、イスラム教の国になってからは「ペルシャ」という国名は使わなくなりました。

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