空海 宗派。 宗派の開祖たち 弘法大師空海

最澄と空海のよる新しい仏教の時代

空海 宗派

同じ分野を学ぶ僧侶たちが一つの集団を作りこれを 衆と呼んでいました。 各衆には大学頭や小学頭と呼ばれる人がいて、勉強する僧侶を指導しました。 今の総合大学のような感じです。 下記は日本の代表的な13宗派です。 各宗の特徴は宗名をclickして下さい。 系 統 宗派名 開祖・別名 生年-没年 奈良仏教系 密教系 空海 弘法大師 774-835 密教&法華系 最澄 伝教大師 767-822 法華系 日蓮 立正大師 1222-1282 浄土系 源空 円光大師 1133-1212 法然 親鸞 見真大師 1173-1262 良忍 聖應大師 1072-1132 智真 証誠大師 1239-1289 一遍 禅 系 栄西 千光法師 1141-1215 日本には禅宗という宗派はありません。 道元 承陽大師 1200-1253 隠元 真空大師 1592-1673 法 相 宗 「三年八年」と言って難解な思想を持つ。 無常のこの世で迷える自分自身の心を深く究明してゆく。 のような即身成仏ではなく、長い時間をかけ段階を経て修行を重ねて成仏すると考える。 また、ひたすら念仏や題目を唱えるとか坐禅をするなど、ひとつの行に専念するのではなく、さまざまな行を勧める。 本尊は唯識曼荼羅 (ゆいしきまんだら)。 を本尊とする事も出来る。 戒・定・慧の三学でも定慧は戒に含まれると考える。 スリランカ等の南方仏教の戒とは異なるが、天台宗系統とはまた異なる戒の系譜です。 空海の影響で (かんじょう)もある。 教典は四分律、梵網経、法華経が中心。 本尊は盧舎那仏 (るしゃなぶつ) 最澄と空海は同じ密教系でも奈良仏教系とのかかわり方が異なる。 空海は協調的で、奈良仏教系の寺に密教の影響を残している。 最澄は戒のあり方で対立することが多かった。 そのため奈良県には天台宗の寺が少ない。 華 厳 宗 「一がそのまま多であり、多がそのまま一である」という相反するものを一つに統括しようとする考え方を持つ。 哲学的な雰囲気が濃厚で宇宙的でもある。 空海が東大寺の別当になったことがある為、作法や行事に真言宗的なところがある。 教典は大方広仏華厳経が中心。 本尊は毘盧舎那仏 (びるしゃなぶつ)太陽のように光明を放つ仏で、この光明によって迷っている人々を浄土である華厳世界に導く。 真 言 宗 的な思想が中心。 十住心思想といって、人の心のあり方、価値観、宗教などを10段階に分け、最終段階は大日如来と同レベルに達することを説く。 大日如来がすべての根本であって、万物は大日如来と深いかかわり合いを持っていると考える。 また真言密教以外の教えは顕教とし、それは真言密教の一部であり、密教に到達するまでの過程とした。 教典は大日経と金剛頂経が中心。 本尊は。 真言宗と天台宗とでは密教の取り扱い方が異なる。 真言宗の密教は東密(とうみつ)と呼ばれ天台宗の密教は台密(たいみつ)と呼ばれる。 天台宗では顕密一致といって密教と顕教を同格に扱う。 天 台 宗 どの宗派とも違いが少ないのが特徴の一つ。 また天台で学んで宗祖になった人が多いのも特徴。 円、密、禅、戒、どれも大切にする (四宗融合)。 人それぞれ縁に応じてどの分野から入っても良い。 修行もといって四通りの方法がある。 四種三昧のひとつ常行三昧の発展した回峯行も特徴。 教典は法華経中心であるが朝題目夕念仏といい、朝は法華経中心、夕方は阿弥陀経中心で勤める。 本尊は定め無し。 本尊をしいてあげれば法華経が中心なのでお釈迦様。 または本山の根本中堂の本尊が薬師如来なので。 日 蓮 宗 江戸時代までは法華宗または日蓮法華宗といった。 現在でも法華宗を名乗る一派もある。 法華経中心を徹底し、法華経と人の生き方と一体化させようとする。 特に第16章の如来寿量品をよく読む。 法華経の中で未来に登場するとされた上行菩薩は自分だと日蓮は考えた。 南無妙法蓮華経の7文字に法華経のがすべて込められている。 お題目を唱えることは、法華経を読む、奉持する、他人に説く、書写する、などと同等の価値があると考える。 本尊は、大曼荼羅、日蓮聖人。 日蓮が学んだ天台宗も法華経を中心にすえているが、天台宗は多面性を持ち、法華経とは哲学的な関わり方をしている。 日蓮は法華経を身体で読んだとも言われる。 浄 土 宗 当初は善導宗とも呼ばれた 修行による成仏は否定し、修行の価値を認めない。 念仏を唱えることは行として勧める。 唱えることで極楽する。 念仏を唱えることを重視。 成仏と往生は区別して考える。 極楽往生の後、極楽浄土で修行し成仏すると考える。 教典は浄土三部経のうち観無量寿経に重きを置く。 本尊は。 向かって右に、左にを祀るのが基本 ( の形式)。 浄土三部経は無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つ。 浄土真宗 人が求めなくとも仏が救って下さるという考え (他力回向の理論)。 いずれ仏になることが約束されているから、改めて修行する必要はない。 「阿弥陀様が救って下さる」と信じることでできる。 それ以降は感謝の行ないとして念仏を唱える。 教典は浄土三部経のうち無量寿経に重きを置く。 本尊は阿弥陀様。 理論的には「南無阿弥陀仏」という言葉 (名号)。 浄土真宗では弥陀三尊の形式はとらない。 救い主は阿弥陀様のみ。 阿弥陀様が人の苦悩をじっとして見ていられない事を表わすため坐像ではなく立像。 他力は阿弥陀様の力を指す。 融通念仏宗 「一人の祈りがすべての人の為になり、すべての人の祈りは自分のためにもなっている」同じように一行の念仏はすべての経文と同様になり「一と多」は互いに融通する関係となる。 毎日百遍の念仏を唱えること (日課念仏)が修行の根幹。 阿弥陀様の存在の仕方が他の浄土系と異なり、密教系の大日如来的な存在。 教典は華厳経と法華経が中心。 浄土系であるが浄土三部経は二義的。 本尊は十一尊天得如来。 十一尊天得如来は中央に阿弥陀様、周囲に10体の が囲む曼荼羅。 「一が多、多が一」の考えは華厳経の特徴。 時 宗 念仏を唱える時は、唱える心構えや、その結果がどうなるか、などと言うようなことを心配する必要はない。 ただ心のままに、何も期待せずに念仏を唱えることを説く。 日々の生活の中で一瞬一瞬を臨終と考える。 念仏を唱えてするのではなく、念仏すなわち往生という考え。 教典は阿弥陀経が中心。 本尊は阿弥陀様または南無阿弥陀仏の書。 臨 済 宗 教典や教えに依存せず相手の心に直接働きかけ、その本質を悟らせる。 あらゆる生命と共存していることに感謝するため、色々な仏様や神様を祀る。 すべてのものに仏性を見て礼拝する。 1700余りの祖師の言葉を体得することが悟りの基本。 そして日常の中に真理を具体的なモノとしていくことが求められる。 坐禅の座り方は対面形式で行う。 教典は特に定めない。 本尊も定めなし。 普通お釈迦様が多い。 本来の禅宗様式は本尊を祀らず、その場所には椅子をひとつ置く。 椅子に座って法を説く人が本尊に相当する。 また、この場合お堂は法堂 (はっとう) と呼ばれる。 仏像を祀るお堂は仏殿と呼ぶ。 曹 洞 宗 坐禅を修行の基本として、修行の威儀作法を重視する。 悟りを求めない修行によって悟りを得られると考える。 悟りを目的とする修行は打算的であり打算的な悟りを生む。 悟るまで修行することは、悟ったら修行しなくて良いことになる。 悟りへのこだわりはいらない。 坐禅の座り方は中国以来の面壁。 教典は道元が書いた正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう)が中心。 その道元は法華経を大事にした。 本尊はお釈迦様。 黄 檗 宗 明治9年 臨済宗黄檗派から黄檗宗に 修行形態は臨済宗と同様。 儀式の形式や使われる言葉は明時代の様式。 教典は特に定めない。 や阿弥陀経も読む。 念仏を唱えるが浄土系とはかなり捕らえ方が異なる。 南無阿弥陀仏を「ナムオミトフ」と読む。 はで読むのが特徴「ポゼポロミトシンキン。 カンツサイプサ、ヘンシンポゼポゼポロミトス」となる。 最近では他宗と同様に漢音で読む事もある。 本尊はお釈迦様。 C Copyright 2000 Tobifudoson Shoboin. All Rights Reserved.

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最澄と空海の関係について簡単に紹介!絶縁状態になった理由とは

空海 宗派

特徴 [ ] 同時期にによって開かれた日本のが学、、、を兼修するのに対し、空海は著作『』『』で、空海が執筆していた当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、真言宗を最上位に置くことによって十段階の思想体系の中に組み込んだ。 最終的にはと比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の・も真言密教に包摂されることを説いた。 天台密教を と称するのに対し、真言密教は を基盤としたので と称する。 歴史 [ ] 立教開宗 [ ] 大同元年()、空海が()より、帰朝。 その後、空海は、7年()にを修禅の道場として開創し、弘仁14年()により勅賜されたを真言宗の根本道場として宗団を確立した。 弘仁14年()に東寺に対して、「真言宗の五十口を置き、他宗の僧の雑住を禁じる」旨の官符を賜った。 また、に「真言宗所学経律論目録」を作り、献上したことから、空海が唐より帰朝した大同元年(806年 ~弘仁14年(823年)の間までには、空海が、真言宗を公称し、真言宗の宗団の基礎を確立したと推測される。 東寺、金堂(京都府京都市) 空海入定後 [ ] 空海はに際して、住持していた寺院を弟子に付嘱した。 は、金剛峯寺は、は、を、が開基した仁和寺、は、はなどがあり、これらの寺院に(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれのが独立した傾向を持っていった。 後に、が真言宗の最高権威者とする制度が確立する。 東寺と高野山(本末争い) [ ] が・金剛峯寺を兼ね、教王護国寺東寺をとし、金剛峯寺をとする本末制度を確立した。 金剛峯寺は、この本末争いに負けた。 一時的ではあるが、東寺長者が真言宗を統括することになった。 高野山はにより・諸堂を焼失したり、また、によるなどにより、衰微し、無人の状態になるまでに至った。 この状態が平安時代中期まで続くが、が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、・・が高野山への登山が続いた。 その後、皇族・摂関家・公家などによる的な支援もあり、高野山はにおいても安定した。 覚鑁と新義派教学 [ ] 宗団は、師資相承を重視するために分派していった。 (真言密教を実践するための作法。 の作法など)の違いによる分派であった。 (教義)そのものは、空海により大成されていたため、平安時代半ばまで、宗内での論争はあまりなかった。 しかし、、 (興教大師)が高野山で秘密念仏思想を提唱したことにより対立が生じる。 また、覚鑁は、を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。 東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。 その後、座主を辞して(和歌山県)に隠棲した。 これより、 金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む 大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。 両派は、古義()・新義()に分かれていった。 (3年)には、が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。 の保護を受け、(6年)にが、根来寺にあったを・東山七条に再建した。 のちにの総本山となった。 古義派教学の振興 [ ] に東寺の僧、・(げんぼう)らにより東寺不二門教学を大成させて、大日如来の本地加持説(古義)を説いた。 また、高野山では「の大成」と称される古義派教学の発展があり、寳性院が而二門(ににもん)の教学、無量壽院が不二門の教学を振興させた。 江戸幕府による統制 [ ] に入ると、は仏教界に対して新たな宗教統制を講じた。 (14年)に、、東寺・醍醐寺・高野山学侶方にも法度が出された。 また、(元年)7月24日、がを真言宗諸本山・諸寺に対して出した。 こうして、幕府の監視下に置かれることになった。 同時に、幕府の宗教政策であるが確立した。 などを行うことで行政機関の役割を果たし、幕府の支配体制に完全に組み込まれた。 寺壇制度は、諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部の諸本山・末寺に綱紀のゆるみが見られた。 戒律への関心 [ ] 江戸時代、幕府の支配体制に組み込まれることによって、諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部に綱紀のゆるみが起きた。 このことから、・らがに関心をよせ、戒律の研鑽・研究を行い、戒律の復興を行った。 廃仏棄釈の打撃と余波 [ ] 以降、はを推進した。 宮中では勅修法会が廃止され、宮中行事における仏教色の排除が図られた。 それに伴い、が起り、真言宗の寺院は・にかかわらず大きな打撃を受けた。 真言宗に属しているが廃されて、に改められることもあった。 を離脱して、神社のになったり、するも現れた。 の命令で、寺院の所有している土地の返納を要求して、政府へ強制的に返納させた。 また、没収する場合もあった。 特権も廃され、・の称号を禁止された。 これらの施策により、財政基盤を失うこととなった。 結果、多くの寺院のが立ち行かなくなり、廃寺に追い込まれた。 廃仏毀釈の機運が高まり、仏教各派も危機感を募らせた。 そのことから、仏教各派が団結し、仏教を宣揚して、邪論を廃すべく、を結成した。 1869年(2年)のにて、各宗同盟会の大会が開催され、高野山明王院主の高岡増隆が推されて盟主となった。 神葬祭が盛んであったため、無住寺院が増え、寺院が廃されることが続き、仏教各派にとって深刻な事態になっていた。 宗団の近代化 [ ] 霊雲寺、山門(東京都文京区) (明治5年)、古義真言宗を統括すべく、古義真言宗内に管長職が設置され、金剛峯寺住職の降魔研暢が命じられた。 (明治6年)3月29日、太政官達が下り、教王護国寺東寺と金剛峯寺の両寺が、古義真言宗の総本寺と定められた。 政府の宗教政策である一宗一管長制が、古義・新義真言宗各本山にも求められた。 古義真言宗では教王護国寺東寺、金剛峯寺・新義真言宗は智積院・長谷寺が交替で、真言宗の管長に就任することになった。 管長は全真言宗を統括し、宗務に当たることとなり、真言宗にも一宗一管長制が導入されることとなった。 しかし、(明治11年)、・・・・・・が古義真言宗から離脱し、仁和寺内に西部真言宗と称する宗派を立てて、独自の管長を置くこととなった。 また、新義真言宗の智積院・長谷寺も離脱し、真言宗新義派と称して独自の管長を置くこととなった。 古義真言宗の金剛峰寺・東寺は合併して、古義真言宗から真言宗と称して、独自の管長を置いた。 こうして、真言宗は一宗一管長制が瓦解して、西部真言宗・真言宗新義派・真言宗となり、3人の管長が存在する状態となった。 このことは、政府の知るところとなり、から、一宗一管長制を採るようがあった。 これを受け、において、古義派・新義派で合同会議が行われた。 結果、(明治12年)に正式に合同が図られた。 あわせて、教王護国寺東寺をにして、の称号を復することになった。 画一宗派と分離独立派の抗争 [ ] (明治29年)、醍醐寺が真言宗からの分離独立、金剛峯寺も同様の請願が、真言宗宗会に提出された。 この請願は内務省で審議されたが、結局、不認可となった。 (明治32年)10月、真言宗宗会にて、画一宗派(かくいつしゅうは。 古義・新義真言宗各派が合同協力して、全真言宗を統括していく)と分離独立派(古義・新義真言宗の各本山には、歴史的経緯や(真言密教の修法・儀礼)の流派の違いなどから、各本山ごとで独自の宗派を立てて、宗団を維持していく)の2派による対立があり、紛糾した。 真言宗の解体と「古義八派・各派」の分離独立 [ ] 醍醐寺、金堂(京都府京都市) (明治28年)6月、 に対して独立が認可される。 (明治33年)9月、()・()・()・()・()・()・に対して独立が認可された。 さらに、(明治40年)、()・()・()・()が独立し、真言宗は解体された。 真言宗各派の独立により、東寺を真言宗の総本山とする制度が終焉する。 古義真言宗系宗派は、古義八派(真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派・真言宗東寺派・真言宗山階派・真言宗泉涌寺派・真言宗醍醐派・真言宗小野派)となり、古義八派連合制度を組織した。 (14年)、古義八派連合制度は解体され、宗派の自主独立制が採られた。 (大正15年)、真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派は、合同して古義真言宗を組織した。 古義真言宗はほかの古義真言宗系宗派との間に真言宗各派を締結し、教師・住職の人材交流・相互協力を行った。 大真言宗(戦時下・戦後の宗団) [ ] 下の(16年)3月、政府の宗教政策により古義真言宗・新義真言宗系の宗派が合同し、大真言宗が成立する。 政府の主導によりこれまでの歴史的経緯や教義の違いを無視して無理やり合同させたものであった。 また、戦時中は、敵国降伏の祈祷が大真言宗の各本山・末寺において度々行われた。 戦後、大真言宗から独立していく古義真言宗・新義真言宗の宗派が相次いだ。 新しい制度が制定されて、この動きがさらに加速した。 戦後は特に、古義・新義の諸宗派から更に別れ、・・等と組み合わさって独自の教義を唱え、真言宗系新宗教と分類される宗教団体が幾つか成立したことが挙げられる。 例えば真言宗醍醐派に属していたがを開いたようなものである。 これらの団体は、他の仏教系新宗教と異なり、真言宗との関係はおおむね良好である。 大師信仰 [ ] 宗祖・空海(弘法大師)への敬慕が篤い。 10世紀には高野山で空海の信仰が起った。 弘法大師信仰(大師信仰)を説いているのが真言宗の各派にいえる特徴の一つでもある。 弘法大師信仰の高まりのなかで、様々な空海の姿が作られた。 稚児大師、修行大師、入定大師、鯖大師、秘鍵大師、日輪大師などがあり、信仰の対象になった。 宗祖・空海は、屏風浦(現・)の出身で、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「」の1人に数えられるとして、後の日本文化に多大な影響を与えた人物である。 彼は延暦23年(804年)、船に同乗して唐に渡り、長安・青龍寺の恵果から密教の奥義を授かった。 また、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを得、日本へ請来した。 弘仁7年(816年)には高野山()の地を得て、ここにを開創、弘仁14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場とした。 (2年)に、62歳で高野山でした。 空海が入定してから86年後の21年()に、弘法大師のがより贈られた。 真言八祖 [ ] 密教がで起こり、中国を経て、空海(弘法大師)に伝えられ、日本で独立した宗派として真言宗を開くまでに、八祖を経て伝えられたとする伝承がある。 これを真言八祖(しんごんはっそ)という。 付法(ふほう)の八祖と 伝持(でんじ)の八祖の二つがあり、空海は著作『秘密曼荼羅教付法伝』『』で、真言密教の起源と付法の七祖・伝持の七祖(付法・伝持の八祖の内、弘法大師を除く七祖)の伝記や付法の系譜を記している。 真言宗のほとんどの寺院は、本堂などに真言八祖((伝持の八祖)・絵像で制作されることが多い)が祀っているのが特徴の一つである。 付法の八祖 [ ] 真言宗の法流の正系を示している。 教主大日如来の説法を金剛薩埵が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。 (だいにちにょらい)• (こんごうさった)• 菩薩(りゅうみょうぼさつ)• 菩薩(りゅうちぼさつ)• 三蔵(こんごうちさんぞう)• 三蔵(ふくうさんぞう)• 阿闍梨(けいかあじゃり)• 伝持の八祖 [ ] 真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。 付法の八祖のうち、大日如来、金剛薩埵は実在しない人物なので除き、2人の祖師を加えた。 八祖大師(はっそだいし)とも称される。 手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。 菩薩 : の直弟子からを授かって、世に伝えたといわれている((さんこしょ)を右手に持っている)。 龍智菩薩 : 龍猛から密教を授かった(経文を右手に持っている)。 金剛智三蔵 : インドで龍智から密教を学んだのち唐へ渡り、『』を伝える(数珠を右手に持っている)。 不空三蔵 : 生まれ。 貿易商の叔父に連れられて唐へ行き、長安で金剛智に入門。 『金剛頂経』を漢語に翻訳し、道場を開いた((げばくいん)を結んでいる)。 三蔵(ぜんむいさんぞう : インド生まれ。 を学び、さらに密教を受け継ぐ。 80歳になって唐に渡り『』を伝える(右手の人さし指を立てている)。 禅師(いちぎょうぜんじ): 中国生まれ。 や、天文学、数学を学ぶ。 長安で善無畏に入門し、善無畏の口述をもとに『(だいにちきょうしょ)』を完成させた(法衣のなかで印を結んでいる)。 恵果阿闍梨 : 中国生まれ。 ・両部の密教を受け継いだ(椅子に座り、横に童子を待らせている)。 弘法大師 : 恵果阿闍梨から金剛・胎蔵界両部を授けられ、日本に伝えて真言密教を開いた。 空海((ごこしょ)を右手に持ち、左手にはを持っている)。 八祖大師 教義 [ ] 真言宗はとをその教義とする。 中心とする本尊は、宇宙の本体であり絶対の真理である。 教理として、4つ。 六大(六大縁起)の教え、 曼荼羅の教え、三密修行と、上記の即身成仏が有る。 教学として、大日経の教学と、金剛頂経の教学、2つの お経で説かれる教えが、 根本所依とされる。 所依の経典(基本の重要経典)• 『』(正式には『』/だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)• 『』(正式には『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』、または『金剛頂瑜伽真実大教王経』)• 『』(そじつぢきょう)• 『』(ゆぎきょう)• 『』(ようりゃくねんじゅきょう)• 『』(りしゅきょう)など。 論疏(論文の類)• 『』(ぼだいしんろん)• 『』(しゃくまかえんろん)• 『』(だいにちきょうしょ)など。 空海の著作• 『秘密曼荼羅十住心論』(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)(「」)• 『』(ひぞうほうやく)• 『』(べんけんみつにきょうろん)• 『』(そくしんじょうぶつぎ)• 『』(しょうじじっそうぎ)• 『』(うんじぎ)などの論疏。 (「 身密・手に諸尊の印契(印相)を結ぶ」、「 口密(語密)・口に真言を読誦する」、「 心密・心にの諸尊を観想する」)の修行により、と一体となり、が実現するとしている。 事相と教相 [ ] 真言密教を学んでいくうえで、 事相(じそう)と 教相(きょうそう)が重要視される。 事相とは、真言密教を実践する方法、すなわち修法の作法(・・・・などの行法)を指す。 これに対し、教相とは、真言密教の理論である。 真言宗の主要経典『大日経』は教相の経典、『金剛頂経』は事相の経典である。 教相を学んでいくことで、真言密教の理論を理解し、理論を実践する方法を行うために事相を学ぶ。 教相の裏付けのない、事相は無意味な動作になってしまうという。 事相・教相の両方を学ばなければ、真言密教が理想とする境地への到達は出来ないとされている。 事相・教相の両方を習得する重要性を説くたとえとして、事相・教相を車の両輪に置き換えて説く場合がある。 また、は「事相を離れて教相なく、教相を離れて事相なし、事教一致して、密義をつくすべき」と述べた。 9世紀半ば(平安時代中期)から、事相の研究が盛んとなった。 益信に始まる広沢流(ひろさわりゅう)、聖宝を祖とする小野流(おのりゅう)が起こった。 両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(根本十二流)になり、やがて三十六流になった。 その後、法流は、あわせて100余りを数えた。 真言密教の事相の流派は、すべて、広沢流・小野流の二流から分かれた。 広沢流・小野流(野沢十二流) [ ] 平安中期に益信に始まる広沢流、聖宝を始祖とする小野流が起こった。 両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)、または、根本十二流と称される。 野沢十二流の定義では、持明院流を広沢流に入れない。 また、を小野流に入れない。 いずれの法流も、高野山に移ったためである。 これは、御七日御修法など公請の修法に関与しないために区別されただけで、 野沢十二流は、東密事相の法流をすべてを示したものではない。 広沢流 [ ] 特徴は、儀軌を重んじる。 が建立したにあるの南にあるの所在地名が語源となっている。 広義では、東密事相を2分した場合、小野流の対をなす法流。 狭義では、広沢流内の法流、仁和三流、広沢三流をあわせて広沢六流と称する。 しかし、六流に属する法流は一定しておらず、観音院流・仁和御流系の北院流・慈尊院流などを入れる説もある。 保寿院流・仁和御流・西院流(にしのいんりゅう)を仁和三流と称し、華蔵院流・忍辱山流(にんにくせんりゅう)・伝法院流を広沢三流と称する。 広沢流系流派略系譜• 仁和御流略系譜(派祖・覚法) ----寛平法皇()-----• 西院流略系譜 (派祖・信証) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-• 保寿院流略系譜(派祖・永厳) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-• 華蔵院流略系譜(派祖・聖恵) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-• 忍辱山流略系譜(派祖・寛遍) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-• 伝法院流略系譜(派祖・覚鑁) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助- 小野流 [ ] 小野流は、大本山(旧称・曼荼羅寺)がある 小野が語源となっている。 聖宝を小野流元祖、随心院を開創した仁海を小野流流祖とする場合もある。 を重じるのが特徴である。 広義では、東密事相を2分した場合、広沢流の対をなす法流。 狭義では、小野流内の流派、醍醐三流(理性院流・三宝院流・金剛王院流)と勧修寺三流(随心院流・安祥寺流・勧修寺流)を指す。 単に随心院流のみを指す場合もある。 小野流系流派略系譜• 安祥寺流略系譜 (派祖・宗意) 空海-真雅-源仁-------• 勧修寺流略系譜 (派祖・寛信) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-範俊-厳覚-• 随心院流略系譜 (派祖・増俊) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-範俊-厳覚-• 三宝院流略系譜 (派祖・定海) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊---• 理性院流略系譜 (派祖・賢覚) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-義範-勝覚-• 金剛王院流略系譜(派祖・聖賢) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-義範-勝覚- 古義派・新義派 [ ] 真言宗は日本の仏教宗派の中では分派の多いものの1つである。 13世紀末に 古義真言宗と 新義真言宗に別れ、さらにそこから多種多様な教義が展開して現在に至っているのが特徴である。 古義派 [ ] のの教学(古義)による。 現実世界の一事一物が(真理そのものを仏の身体とみなす)の大日如来の説法であると説いている。 新義派 [ ] 覚鑁(興教大師)を派祖とし、大日如来のの教学(新義)による。 現実世界の一事一物は、加持身の大日如来の説法であると説いている。 真言宗各派総大本山会(各山会) [ ] 昭和14年()の成立により、以外の宗派は真言宗として統合された。 しかし、は分派独立が相継ぎ、現在は約50の宗派がある。 そのうち 主要な16派の18の総大本山が、昭和33年()に、 真言宗各派総大本山会(各山会)を各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的に結成された。 これらの寺院をという。 真言宗各派総大本山会事務局 - 総本山内(事務局長・主事・書記を置く)• 代表総務• 常任委員会(を置く。 また、常任委員についてはが許されている)• 事務局長 各山会が事務局を置いている智山派から選出するのが慣例となっている。 真言宗長者 [ ]• 真言宗内最高の名誉職。 真言宗を代表して、真言宗内外の重要な法会、諸行事に参列する。 任期は1年間。 その年の(御修法)の大阿闍梨が真言宗長者となる。 毎年、各山会に属する真言宗十八本山の管長・山主の中から推戴で、毎年、御修法(後七日御修法)の大阿闍梨を選出する。 御修法が成満した後、各山会から長者杖が贈られる。 真言宗長者歴代 [ ]• 1968年 平野龍法(泉涌寺第150世長老)• 1969年 (智積院第60世化主)• 1970年 木村澄覚(教王護国寺第254世長者)• 1971年 堀田真快(金剛峯寺第403世座主)• 1972年 平林宥高(長谷寺第74世化主)• 1973年 (仁和寺第41世門跡)• 1974年 松本實道(宝山寺第18世貫主)• 1975年 石堂恵俊(中山寺長老)• 1976年 関尚道(根来寺第38世座主)• 1977年 蓮生善隆(善通寺第55世法主)• 1978年 川田聖見(長谷寺第76世化主)• 1979年 (智積院第62世化主)• 1980年 田中真弘(朝護孫子寺第131世法主)• 1981年 (泉涌寺第151世長老)• 1982年 立部瑞祐(仁和寺第43世門跡)• 1983年 上野頼栄(智積院第63世化主)• 1984年 松本實道(西大寺第69世長老)• 1985年 小峰順誉(智積院第64世化主)• 1986年 小林隆仁(仁和寺第44世門跡)• 1987年 村主恵快(中山寺長老)• 1988年 (長谷寺第79世化主)• 1989年 (智積院第65世化主)• 1990年 鈴木凰永(朝護孫子寺第132世法主)• 1991年 池田瑩輝(中山寺長老)• 1992年 廣澤純孝(根来寺第39世座主)• 1993年 竹内崇峯(金剛峯寺第408世座主)• 1994年 小林海暢(泉涌寺第152世長老)• 1995年 吉田俊誉(長谷寺第81世化主)• 1996年 吉田裕信(仁和寺第47世門跡)• 1997年 野澤密厳(朝護孫子寺第133世法主)• 1998年 (醍醐寺第102世座主)• 1999年 稲葉信隆(根来寺第41世座主)• 2000年 和田有玄(金剛峯寺第410世座主)• 2001年 高吉清順(善通寺第56世法主)• 2002年 堀智範(仁和寺第47世門跡)• 2003年 川田聖定(長谷寺第83世化主)• 2004年 片山宥雄(大覚寺第60世門跡)• 2005年 (智積院第68世化主)• 2006年 佐藤令宜(仁和寺第48世門跡)• 2007年 大矢実圓(宝山寺第19世貫主)• 2008年 上村貞郎(泉涌寺第154世長老)• 2009年 阿部龍文(智積院第69世化主)• 2010年 (金剛峯寺第412世座主)• 2011年 南揚道(仁和寺第49世門跡)• 2012年 樫原禅澄(善通寺第57世法主)• 2013年 亀谷暁英(隨心院第43世門跡)• 2014年 (長谷寺第86世化主)• 2015年 立部祐道(仁和寺第50世門跡)• 2016年 仲田順和(醍醐寺第103世座主)• 2017年 (智積院第71世化主)• 2018年 黒沢全紹(大覚寺第63世門跡)• 2019年 田代弘興(長谷寺第87世化主)• 2020年 瀬川大秀(仁和寺第51世門跡)• 2021年 布施浄慧(智積院第72世化主) 各山会に参画する真言宗十八本山(順不同) [ ] 系• - 総本山• - 総本山• - 総本山• - 大本山• - 総本山• - 総本山• - 大本山• - 総本山• - 大本山• - 総本山• - 大本山• - 大本山• - 大本山 系• - 総本山• - 総本山• - 総本山• - 真言律宗総本山• - 真言律宗大本山 密教学芸賞・密教教化賞 [ ] 各山会の事業として、後七日御修法のほかに及びの授与がある。 受賞者は以下の通りである。 密教学芸賞 [ ]• 1961年、長谷宝秀・・小野立妙・安間立雄・神林隆浄• 1962年、鈴木智辨・(学長)・• 1963年、大山公淳・・伊藤久• 1964年、岩原諦信・(教授)・辻井弘洲• 1965年、田中海応・干潟龍祥・文化財保護委員会古文書調査特別調査班• 1966年、守山聖真• 1967年、(教授)• 1968年、小田慈舟(教授)• 1969年、(円通寺住職)・服部如実(教授)・(大正大学学長)• 1970年、櫛田良洪(大正大学学長)• 1972年、梶芳光雲(大正大学教授)・中川善教(高野山大学教授)• 1973年、田久保周誉(福性寺住職)・山本智教(高野山大学教授)• 1974年、酒井真典(高野山大学教授)• 1975年、高橋宥順(観智院住職)• 1976年、堀内寛仁(高野山大学教授)・(教授)• 1977年、加藤章一(大正大学教授)・大森健二((財)建築研究協会)• 1978年、(教授)・ (高野山大学教授)• 1980年、高田仁覚(高野山大学教授)・高木紳元(高野山大学教授)• 1981年、伊原照蓮(教授)・羽毛田義人(教授)• 1982年、松尾義海(名誉教授)・吉原榮覚(教授)• 1983年、和多秀乗(高野山大学教授)• 1984年、(種智院大学教授)・田村隆照(京都市立芸術大学教授)• 1985年、(種智院大学教授)• 1986年、永井義憲(教授)• 1987年、(財)美術院国宝修理所• 1988年、吉井芳純(清水寺住職)・手嶋千俊(御室流華務長 (財)京都市芸術協会)• 1989年、(萬福寺住職)• 1990年、加藤宥雄(種智院大学教授)・山崎泰廣(種智院大学教授)• 1991年、周藤真雄(林昌寺住職)・三神榮昇(智山講傳所)• 1992年、壁瀬灌雄(種智院大学助教授)・日野西眞定(高野山大学教授)・(延命寺住職)• 1993年、川原榮峰(教授)• 1994年、牧尾良海(大正大学学長)・村主恵快(教授)・蜜波羅鳳洲(高野山大学教授)・東智學(高野山大学教授)• 1995年、佐藤良盛(智山講伝所、山形・地蔵寺住職)・(大正大学教授)・(種智院大学教授)• 1996年、和田仁雅(龍華寺住職)・(大正大学学長)・柏本弘雄(教授)・(教授)• 1997年、鳥越正道(神泉院住職、種智院大学教授)・(大正大学教授)・加藤純章(名古屋大学教授)• 1998年、(教授)・齋藤昭俊(大正大学教授)・橋本初子(教授)・津田真阿(教授)• 1999年、上島有(教授)・(大正大学教授)・岡村圭真(教授)・静慈圓(高野山大学教授)• 2000年、(客員教授)・北条賢三(大正大学教授)・(日本画家)・村上保壽(教授)• 2001年、松崎恵水(大正大学教授)・村岡空(光明寺名誉住職)・(大正大学教授)・北村太道(種智院大学教授)・真鍋俊照(宝仙短期大学学長)• 2002年、辻井弘(旧嵯峨御所華道総司所副総裁)・(最福寺法主)• 2003年、稲葉義猛(高野山本覚院住職)• 2004年、吉田寛如(正興寺住職)• 2005年、該当なし• 2006年、該当なし• 2007年、越智淳仁(高野山大学教授)・(大正大学学長)• 2008年、児玉義隆(種智院大学教授)• 2009年、(京都市立芸術大学名誉教授)• 2010年、該当なし• 2011年、目黒宗光(萬善寺住職)、布施浄慧(智山講伝所)、中村幸真(種智院大学教授)、長谷法寿(賢劫造佛所所主)• 2012年、岡田脩克(嵯峨御流華道総司所華務長)、(大正大学教授、智山伝法院長)• 2013年、松本照敬(名誉教授)、(大正大学学長)• 2014年、真保龍敞(善養寺住職)、大澤聖寬(豊山派総合研究院教授)、生井智紹(高野山大学名誉教授)• 2015年、松本俊彰(三重・真福寺住職)、高橋尚夫(大正大学名誉教授、豊山派総合研究院宗学研究所所長)、苫米地誠一(大正大学教授)• 2016年、木南卓一(名誉教授、平井宥慶(大正大学名誉教授)、小山典勇(大正大学名誉教授)、潮弘憲(種智院大学特任教授)、中川委紀子(新義真言宗総本山根来寺文化研究所所長)• 2017年、永村眞(日本女子大名誉教授)、藤田光寛(高野山大名誉教授)、本多隆仁(大正大学元教授)、大塚慈伸(大正大学長)• 2018年、(智山伝法院院長)、木村秀明(大正大学名誉教授)• 2019年、榊義孝(大正大学元副学長)、山陰加春夫(高野山大学名誉教授) 密教教化賞 [ ] 詳細は「」を参照 後七日御修法 [ ] 真言宗各派総大本山会所属の各宗派管長・山主と真言宗各派総大本山会所属の各宗派から選んだにより、毎年1月8日から1月14日までの一週間(21座)にわたって、東寺・灌頂院にて後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行っている。 真言宗最高の秘儀とされている。 沿革 [ ] 後七日御修法は真言院御修法(しんごんいんみしほ)などと呼ばれ、通称は御修法(みしほ・みしゅほう)と呼ばれている。 真言宗最高の秘儀・厳儀とされる。 1日から7日までで行われている、神事であるに対する行事。 (元年)に、のを奉じて、空海(弘法大師)が宮中にて、国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈って行われてから、毎年、宮中の恒例行事として正月に行われていた。 南北朝時代の戦乱期やなどを含めて、数度、中断する時期があったが、と醍醐寺の尽力により、(9年)に170年ぶりに復活された。 (明治4年)に廃仏棄釈の影響により廃止されるまで行われていた。 らの嘆願により、(明治16年)1月8日に復活した。 そのときから、修法を行う場所を宮中から東寺・灌頂院に移した。 (9年)以降は、古義真言宗と新義真言宗の各本山が協同して修法を行うようになった。 より、各山会の事業となった。 次第 [ ] 修法は、合計21ヶ座行われる。 流(金剛界法)と西院流(胎蔵界法)の両界を1年置きに交互に修し、息災・増益の護摩と五大明王、十二天、聖天法などを併せて修する。 前日の7日、修法に出仕するが、東寺の集会所で習礼を行う。 初日(開白)の1月8日には、より、の御衣を納めたを捧持したを東寺・灌頂院に遣わして、御衣を東寺灌頂院道場の内堂の瑜伽壇上に安置する。 11日(中日)・14日(結願)は勅使が、東寺・灌頂院の道場においてし、参拝をされる。 同日14日、勅使に御衣奉還の儀式を東寺灌頂院の前堂にて行い、後七日御修法は成満する。 で使用する・五鈷杵・などは、空海(弘法大師)が唐(中国)より持ち帰った法具である。 以前は、が大阿闍梨を務めていた。 結願後に限り、東寺灌頂院道場への一般参拝が許されている。 構成(真言宗各派総大本山会所属の各宗派より選出された者)• 法務法印大阿闍梨(1名)• 御手替(1名)• 息災護摩供(1名)• 増益護摩供(1名)• 五大尊供(1名)• 十二天供(1名)• 聖天供(1名)• 神供(1名)• 二間観音供(1名)• 舎利守(1名)• 咒頭(1名)• 伴僧(4名)• 事務局• 別当(1名)• 大行事(1名)• 小行事(1名)• 局長(1名)• 総務(1名)• 用度(1名)• 承仕(16名)• 随行(17名)• 従弟子(2名)• 定額僧• 御修法事務局員 真言宗系大学 [ ]• (古義真言宗14本山、新義3派)• (高野山真言宗)• (真言宗豊山派、智山派)• (真言宗大覚寺派系)• 真言宗系高等学校 [ ]• (古義真言宗14本山、新義3派)(京都市南区)• (高野山真言宗)(和歌山県高野町)• (真言宗智山派大本山)(千葉県)• (大阪府)• (大阪府)• 、(、)• (東京都)• (東京都)• ()、(和歌山県) 真言宗系中等学校ほかの由緒地 [ ]• (大徳寺内にあった高野山真言宗系京都淑徳女学園の敷地に設置)• (前身は旧制豊山中学校)• (旧制、智山中学校、新制智山高等学校の敷地に設置) 真言宗系諸派 総本山・大本山(各山会所属宗派以外) [ ] これらの宗派はほとんどが戦後の分離独立であるが、寺院そのものは古くからあったものや新設されたものなど、さまざまである。 古義真言宗系• - 東京都文京区。 真言宗霊雲寺派総本山• -(大阪府泉佐野市) 真言宗犬鳴派大本山• 真言宗金剛院派大本山• - 真言宗国分寺派大本山• - 真言宗鳳閣寺派大本山• - 石鎚山真言宗総本山• - 真言宗石鉄派総本山• - 真言宗花山院派大本山• - 真言宗五智教団大本山• - 真言宗九州教団本山• - 霊山寺真言宗大本山• - 新真言宗総本山• - 光明真言宗大本山• - 明算真言宗大本山• - 真言密宗大本山• - 真言聖天宗大本山• - 真言毘盧舎那宗大本山• - 観音宗総本山• (紀三井寺) - 救世観音宗総本山• - 菩提山真言宗大本山• -(福岡県福津市)修験真言宗大本山 新義真言宗系• - 真言宗室生寺派大本山• - 真言宗大日派根本道場 その他・真言宗系新宗教教団• - 大本山• -(真言宗醍醐派から分離独立、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている)• - 総本部(真言宗醍醐派から分離独立)• 如意寺 - 総本山(高野山真言宗から分離独立)• - 大本山(高野山真言宗から分離独立)• - 総本山(中山身語正宗から分派独立)• - 総本山(中山身語正宗と創設者同一・真言宗泉涌寺派から分離独立)• - 真言宗金毘羅尊流総本山• (真言宗諸派連合)系• 龍造寺 - 大本山()• 高野山八葉閣 - 総本山() 脚注 [ ] [].

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空海

空海 宗派

〈檀施文庫1999〉 《弘法大師--空海》.空海大師傳. 【徬徨年少時】 空海隨著年齡的增長,一顆青春善感、悲天憫人的心,隱然成形。 他的目 光變得銳利寒邃,飄忽不定…… 「書本上的知識,到底是解決人的疑惑,還是製造更多困惑?」 「書本不是萬能的,人生有許多根本問題,教科書中毫無解答。 」 他想到大學裏貴族子弟的驕橫,就滿臉凜然,義憤填膺…… 「同樣是人,為何他們就可以傲慢驕縱,錦衣玉食?而可憐的庶民竟多病 殘疾,三餐難繼?為何人生而不平等?」 但縱然如此,對充滿深沉宗教情懷的空海而言,不論貴賤皆是可悲可憫的 : 「當我看到穿著綾羅綢緞、騎著名駒、駕著華麗馬車、過著顯貴生活的人 們時,我便會覺得這些人現在所擁有的一切,不久後便會像電光泡影般地 煙消雲散,人生無常的哀嘆不禁湧上心頭。 」 「看到因肢體殘障而痛苦的人,或是從人間戰場上敗下陣來、過著貧病悲 慘生活的人們時,都會令我想到人生的因果關係,心中的哀憫無奈便無法 自抑。 」 他深究起人生最根本的問題—— 「生從何處來?死往何處去?」 思想如離弦的箭,飛快越過腦際,想得愈多,痛苦愈深…… 「為何我所見所思,都是別人所不見所不思?為何我不能依俗而走、隨波 逐流?」 他不禁對天長嘆:「我這顆如風飄泊的心,誰能給我安頓?」 他決定暫時放下書本,走入俚巷,聽聽市井小民的聲音。 他開始接觸民間 信仰,置身佛學講壇,探索其中有無玄奧之處? 「一切眾生種種顛倒,無明覆蓋……勘破無明,解脫放下……」 從講述的經書裏,他發現無始的業因,讓眾生顛倒愚昧。 但是不顛倒的真 相,又是什麼? 當他開始深入佛教各宗派,才發現潛存的問題不少。 原來,佛教傳入日本 後,信仰者大多是中央貴族或地方豪族,於是漸漸貴族化,不論建寺院、 塑佛像、寫經典,都只為滿足貴族求富貴求福報的心,至於如何深入佛教 的理與行,則乏人問津。 更有甚者,由於天皇的出家,寺院生活日趨世俗 化,有出家人利用免稅特權,擴大寺產;有富豪假借施捨土地,避免租調。 而無法維生的老百姓,得知僧侶可免調役,於是競相出家。 如此一來, 一襲袈裟所代表的,除了宗教的外衣,沒有實質教理解行的意義。 當然,有心深入教理的出家人不是沒有,但往往因見解紛歧而互相排斥, 或因失望而避居山野,自我摸索,難成氣候。 空海深入瞭解後並不死心,他相信在混濁的現狀之外,必有清新的伏流存 在,也許隱藏在某個角落,讓百姓翹首以盼。 果然,不久他找到這支伏流。 那是一次和沙門的討論中,沙門提到日本民 間有一支新興宗派,頗能新人耳目。 這支宗派強調人人都可修持得悟,不 限於貴族或出家人才有這個機會,所以帶給老百姓無窮的希望。 「這個宗派是——?」空海急著追問,面容凝肅。 「密教,佛教裏的密教。 」 「密教是什麼?」 「密教是法身佛大日如來所說的內證真言教法,等覺十地亦難入室,所以 叫密教。 」 原來,佛教分顯、密二教,並非教理有異,而是形式不同。 一般信奉的佛 教屬於「顯教」,顧名思義,「顯」即顯露淺近之意,較易理解;而「密 教」則奧密幽遠,有特殊的接引眾生方法,除非一門深入,實難講解清楚。 所以當空海問到修持方法,沙門也無言以對…… 「很抱歉!我也力有未逮,不能給你解答。 事實上,密教傳入日本不久, 目前只有念誦儀軌,教理體系尚未完備。 」 「可有參悟的書籍?」空海屏息以待。 沙門想了想,拿出一本書…… 「這是《金剛頂虛空藏求聞持法》,乃大唐皇帝玄宗開元四年(西元七一 六年),由印度善無畏三藏帶到中國。 不知何時、何人、將它攜來日本。 此書我視如珍寶,既然你求法深切,就交給你吧!」 沙門嘴角掠過一抹微笑,他深深被空海的赤誠感動…… 「依照密教規矩,未灌頂之人不許傳授大法。 我看你應是大根器之人,才 破例傳給你。 日後,你只要按照經典所教,老老實實誦念「虛空藏菩薩真 言」,一百遍後,記憶力大增,不僅能背誦一切經文,而且過目不忘。 如 此再談修持,為時不晚。 」 空海恭舉雙手接下這本書,當下決定拳拳服膺沙門教誨,日夜持誦,決不 懈怠。

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