菊間 厄除け。 【遍照院@菊間】愛媛の厄除けと言えばここ!厄年はこれで安心!

厄除け(厄払い)の時期と時間!六曜おすすめは?喪中や服装は?

菊間 厄除け

雰囲気に圧倒されて、渋々厄払いに行った私でもご利益を感じる事ができました。 今回はなんかバチが当たりそうで怖かったのでお寺の写真は撮りませんでした…。 饅頭はあんこたっぷり、しっとりしていて想像以上に美味しかったです! 4歳の息子ががっついて食べていました…。 これで厄除け対策はもうバッチリです! 遍照院へのアクセス 遍照院へは松山インターからで言うと車で49分(34km)ほどで到着します。 国道196号線をずっと進んでいると道沿いにあるのでわかりやすいです。 最寄駅はJR菊間駅でそこからは徒歩7分で到着します。 結論:厄払いは行くべき 最初は渋々でしたが、 やっぱり厄払いは行っておくべきだと思いました。 だって、厄払いに行かなかったとして、悪い事が起こってから『あー厄払い行ってなかったからだー』なんてそのせいにするのも癪じゃないですか。 もし、厄払いに行っていれば悪い事が起こっても『ほらやっぱり厄年だから!厄払い行ったおかげでこの程度ですんでよかった』と思う事ができます。 私は厄除けしたのでもう何が起きても後悔なしです!.

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2月3日「節分会厄除大祭」

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遍照院に奉納されている大鬼瓦 瓦の歴史 日本に瓦が伝えられたのは、588年(崇峻天皇元年)、奈良の飛鳥寺 別名:法興寺もしくは元興寺 を造営した際といわれています。 『日本書紀』によると、朝鮮半島の百済から麻奈文奴(まなふぬ)、陽貴文(やんぎふん)、陵貴文(りゃんぎふん)、昔麻帝弥(きまてや)という4人の瓦工と2人の寺工(てらたくみ)と一人の鑢盤(ろばん)博士が来日し、日本最初の仏寺である飛鳥寺の造営を担当したとされています。 このときに使用した瓦が日本最古の瓦とされ、発掘調査された際に創建瓦が出土しています。 その後、寺の造営とともに瓦は地方にも広まり、藤原宮、平城京、長岡京などの宮殿にも瓦が葺かれるようになります。 菊間における製瓦の始まり 愛媛県今治市菊間町での瓦作りが始まったのは、日本で初めて瓦が使用された約700年後の弘安年間(1278年~1287年)と伝えられています。 伊予の豪族・河野氏の城に瓦を納めた記録があり、城跡からは菊間瓦の破片が発見されています。 1573年(天正元年)安土城築城の際に、織田信長が瓦の先進国であった中国から瓦博士の一観を招き、「燻し瓦」など新しい瓦の製法を指導させたといわれています。 一観は、菊間も訪れており、その際に木型製法など新しい瓦つくりの技術を伝えました。 この製法によって菊間瓦の大量生産が可能になり、後の発展に大きく寄与します。 皇居御造営御用瓦納入の栄誉 明治時代になり、1871年(明治4年)廃藩置県に伴い、瓦株制度は廃止され、瓦の生産は自由になりました。 新しく瓦を生産する業者が増え、製造業者は43軒になり、生産数もこれまでの倍の400万枚にも増えました。 1883年(明治19年)には、菊間瓦の歴史において最高の栄誉を受けました。 これまでの御用瓦の実績が認められ、宮内省から御下命を受けた皇居御造営瓦の見本瓦が特選に選ばれたのです。 このご用命に預かったのは、三河瓦、和泉瓦、菊間瓦の3産地の瓦のみでした。 皇居万十軒唐草・軒瓦(かわら館所蔵) 菊間瓦は、皇居御造営の御用瓦として14万枚の瓦と鬼瓦1対を献上しました。 この栄誉を受け、菊間瓦の名声は全国に広がりました。 近代化と技の伝承 大正時代には、菊間瓦の業者でも1920年(大正9年)に土練機、荒地出し機、生成機(切断機)など、いろいろな機械が導入されます。 作業が大幅に機械化され、技法も格段に進歩していきました。 しかし、特殊な瓦は機械では成型できないため、鬼瓦を作る鬼師による手作業の優れた技が菊間瓦の特徴として伝承されます。 また成型した瓦の表面を磨く工程でも、手作業による伝統的な技術が受け継がれています。 乾燥によるゆがみを防止したり、なめらかな光沢のあるいぶし銀の光沢を一層美しくするために、手作業でしかできない秘技が菊間瓦の特色の一つでもあります。 新たな用途への挑戦 約750年間日本建築を支えてきた菊間瓦は、適度な吸水性があり結露と屋根板の腐食を防いだり、夏涼しく冬温かいなどの快適性があり、堅牢で非常に丈夫な瓦で塗り替え等のメンテナンスも必要ありません。 これらの特徴をさらに高めるために、破壊試験、吸水試験、耐寒試験などを繰り返し行い、さらによい菊間瓦作りのための研究がされています。 しかしながら、現代の住宅の洋風化や瓦の多様化により、日本瓦(粘土瓦)を葺く住宅が減少している時代の流れには逆らうことができません。 そこで、新たな挑戦として、菊間瓦は屋根から下り、瓦タイルや外壁材などとして用いるなど新たな用途への研究、提案をしています。

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やくよけ大師 遍照院(へんじょういん) 【愛媛県今治市菊間町】真言宗豊山派のお寺です。また、四国番外霊場 及び 曼荼羅霊場

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概要 [ ] のを大祭として、1月と2月に厄除け護摩祈祷を行っている。 鐘楼門より草鞋を履いて参拝祈願し、参拝後に脱いだ草鞋のお焚き上げをして厄を払う風習がある。 節分大祭には菊間町の特産品であるを使用した 鬼瓦御輿が登場し、42歳の厄年の男がかついで町内を練り歩く。 また、御輿が境内に入ると、「福は内、鬼も内」という掛け声とともに61歳の厄年の男女が、本堂から豆まき・餅まきをする。 この寺のは1983年に今治市の指定有形文化財に指定され、現在は同市内のに収蔵されている。 歴史 [ ] 初期の6年()巡錫中の(弘法大師)が、当地の峰に霊感を受けて聖観音を刻み寺院を建立した。 これが当寺の起源と伝えられている。 また、自らの像も刻んで厄除仏として安置し、厄除けの秘法を修し、その秘法を後世まで残したと言われる。 その後、多くの名僧が継承し、明応年間には、高仙城主得井通敦が田園を寄進、安芸の福島、伊予の加藤が土地を寄進するに及んで寺門は隆盛を極めた。 しかし、天正年間の兵火により二度の火災を被り、全ての堂宇は焼失したが、厄除大師像のみは残存した。 人々は唯一残った厄除大師像の法力に驚嘆し信仰し、海上交通の帆船は帆を下げ、門前を往来するものは被り物を脱いで礼拝し、厄除けの別願所として再興し、松山藩主の特別祈願所とされ、山主は城中に年に三度参殿し御守護符を献納するようになり、益々多くの信仰を集め興隆した。 境内 [ ].

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