親鸞 聖人。 親鸞聖人が自らを「愚禿親鸞」と名のられたのはなぜですか?

親鸞聖人の田植え歌の意味

親鸞 聖人

親鸞聖人は、29歳の時、比叡山の仏教と決別し、道を求めて 聖徳太子 ( しょうとくたいし )ゆかりの 六角堂 ( ろっかくどう )に 籠 ( こも )られました。 そして、95日目の 暁 ( あかつき )、聖徳太子の 夢告 ( むこく )にみちびかれて、法然上人のもとをたずねられます。 法然上人は、だれに対しても平等に「ただ念仏もうしなさい」とお説きになっていました。 親鸞聖人は、この教えこそ、すべての人に開かれている仏道であるとうなずかれ、法然上人を生涯の師と仰ぎ、念仏者として歩み出されました。 法然上人のもとで、親鸞聖人は約6年間過ごされました。 その間に、法然上人から主著『 選択本願念仏集 ( せんじゃくほんがんねんぶつしゅう )』の書写と 真影 ( しんねい )(法然上人の肖像画)の製作を許されました。 また、 恵信尼公 ( えしんにこう )と出会い、結婚されたのもこの頃とされています。 法然上人の念仏の教えには、親鸞聖人だけでなく、老若男女、身分を問わず、たくさんの人々が 帰依 ( きえ )されました。 しかし、 興福寺 ( こうふくじ )や延暦寺などの他宗から強い反発を受け、ついに朝廷が 弾圧 ( だんあつ )に踏み切ります。 その結果、4人が 死罪 ( しざい )、8人が 流罪 ( るざい )というきびしい 処罰 ( しょばつ )が下され、法然上人は土佐(現在の高知県)へ、親鸞聖人は越後(同 新潟県)へ流罪となりました。 親鸞聖人35歳の時でした。 5年後、流罪が許された親鸞聖人は、法然上人の死を知ると、京都には戻らず関東へ向かわれました。 そこで約20年間滞在し、 常陸 ( ひたち )(同 茨城県)の稲田を中心に、念仏の教えを広く伝えていかれました。 また、この地において、主著『 顕浄土真実教行証文類 ( けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい )』(『 教行信証 ( きょうぎょうしんしょう )』)を書き始められたとされています。 親鸞聖人は、60歳ごろ関東から京都に戻られたといわれています。 その後、関東では念仏の受けとめをめぐって、様々な混乱や対立がおこりました。 そのなかで、誤った教えを広めた長男の 慈信房善鸞 ( じしんぼうぜんらん )と親子の縁を切るという悲しい出来事もありましたが、親鸞聖人は、『教行信証』を書きすすめるとともに、終生 同朋 ( どうぼう )・ 同行 ( どうぎょう )に手紙や書物を送り、念仏の教えを伝え続けられました。 1262( 弘長 ( こうちょう )2)年11月28日、親鸞聖人は90年の生涯を終えられました。 末娘の 覚信尼公 ( かくしんにこう )ら家族や 門弟 ( もんてい )たちが、死を 看取 ( みと )り、葬儀を行ったといいます。 遺骨は、大谷(現在の京都市東山区)に埋葬され、小さなお墓が立てられました。 このお墓が 廟堂 ( びょうどう )となり、やがて 本願寺 ( ほんがんじ )( 真宗本廟 ( しんしゅうほんびょう ))の 御影堂 ( ごえいどう )へと受け継がれていくのです。 この廟堂に関東( 坂東 ( ばんどう ))の門弟たちが参拝し、親鸞聖人をしのび念仏する姿が、後に 坂東曲 ( ばんどうぶし )となったと伝えられています。

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親鸞聖人のご生涯

親鸞 聖人

親鸞聖人の教えとは 浄土真宗の教えを一言で言えば「平生業成(へいぜいごうじょう)」です。 この四字の意味が分かれば、親鸞聖人の教えのすべてが分かります。 「平生」とは、死後ではない、生きている現在のこと。 「仏教」と聞くと「葬式や法事のときに用事があるもの」と思われがちですが、そうではありません。 「業」とは「人生の大事業」、すなわち「人生の目的」のことです。 それは「絶対の幸福」になることだ、と親鸞聖人は教えられました。 「成」は「完成する」「達成する」ということです。 ですから、「平生業成」とは、「どんな人も、生きている今、絶対の幸福になれる。 だから、あなたも早く絶対の幸福に救われなさいよ」と教え勧められた親鸞聖人の教えの一枚看板なのです。 親鸞聖人と絶対の幸福 すべての人は昔も今も、幸せを求めて生きています。 生きる目的は「幸福」だといえるでしょう。 その幸福に2つある、と仏教では教えられます。 「相対の幸福」と「絶対の幸福」です。 相対の幸福とは、欲しいものを手にした喜び、夢が実現した満足など、 私たちが日々、追い求めている幸福のことです。 しかし悲しいことにその幸福感は、時間と共に色あせる、今日あって明日なき無常の幸福です。 恋人と過ごせる楽しみも、ライバルの出現で不安に一変します。 医者の世話になったことがないと健康を自慢していた人が、突然の病に倒れることもあります。 ようやく建てたマイホームを台風や地震などの災害で失うことも珍しくありません。 いつどうなるか分からない世の中で、不安の絶えない人生を送っている私たちに、親鸞聖人は、 永遠に変わらない「絶対の幸福」があることを教えられ、 この「絶対の幸福」になることこそ人生の目的だと教えられています。 「人間に生まれてよかった。 この幸福になるための人生だった」と、 心の底から喜べる真の幸福を明らかにされているのが仏教であり、親鸞聖人の教えなのです。

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親鸞聖人の人間観とは? 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第24回|親鸞会

親鸞 聖人

「親鸞会では、宗祖はあくまで親鸞聖人である」とありますように、 親鸞会オリジナルの教え、というものはないのです。 そのことが端的に分かるのが「 親鸞学徒常訓」でしょう。 (そもそも親鸞会では、 親鸞会会員ってほとんど言わないんですよ。 「親鸞学徒」といいます) これがです。 「我ら親鸞学徒は 更に珍らしき法をも弘めず 親鸞聖人のみ教えを 我も信じ 人にも教え聞かしむるばかりなり」 勝手につくった自分の教えは意味がありません。 親鸞学徒はあくまで、親鸞聖人の教えを聞き学び、 お伝えする以外にはないのです。 ですから、講演は親鸞聖人の『 教行信証』や『 正信偈』、 蓮如上人の『 御文章』などを元に、話が進められ、一般には有名な 『 歎異抄』もよく引用されます。 「蓮如さん今を歩む」(北国新聞社編集局編) 会場には二、三十代の若い顔も目立つ。 あふれた人たちは廊下にまで正座し……法話に入ると、高森会長は親鸞の教えを中心にユーモアを交えて語った。 北陸を拠点に全国、さらにはブラジル、米国など海外にも布教戦線を拡大し、現在では会員十万人を超えるとも言われる。 真宗から生まれた 親鸞会は、誕生後40年近くたつ今なお真宗教団を激し揺さぶり続けている。 日曜ごとに全国各地で開催される高森会長の法話会は常に満員の盛況である。 大学生など若者が詰めかけるのも真宗では見られぬ光景だった。 本願寺が呼び掛けても振り向かない若者を動かした点で、 親鸞会が与えた内心の衝撃は決して小さくない。 親鸞聖人は、今から約800年前、鎌倉時代に活躍なされた方です。 「すべての人が、この世で本当の幸福に救われる」 という人生の目的を伝えていかれました。 鎌倉時代は、ちょうど現代と同じ、激動の時、貴族社会の平安時代から武士社会へと移りゆくはざまで、人々は戦乱や貧困に苦しみあえいでいました。 しかし、当時、唯一の明かりであった仏教さえも、貴族や、出家して山で修行できる僧侶に限られたものだったのです。 その中、 「僧侶も、在家の人も、男も、女も、苦しみ悩むすべての人が等しく本当の幸せになれるのが真実の仏教だ」と、 お釈迦さまが説かれた仏教をそのまま伝えられた 親鸞聖人90年のご苦労により、鎌倉時代には庶民のもとへ、仏教が爆発的に広まっていきました。 この功績を文学者たちはこのようにたたえています。 貴族の血を引き、京都近郊に生まれた彼は、人間と無限との心やさしき仲介者として師・法然のあとを引き継ぎ、天と地を近づけ、 仏陀の恵みを万人の手の届くものとした。 もし10年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。 日本語を学び聖者の話しを聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう。 ……だが、遅かった。 その蓮如上人を親鸞学徒の鑑(かがみ)と仰ぎ、 親鸞会は、常に 親鸞聖人 のお言葉を挙げ、その意味を正確に、懇切丁寧に、心から心へたゆまずお伝えする活動をしています。 それは、葬式や法事ではありません。 親鸞会の各地の勉強会では、 親鸞聖人の書き残された「正信偈」や、有名な『歎異抄』などの内容を現代の人に分かる言葉で、解説をしています。 親鸞会の勉強会は、米国の著名な研究家の書籍に、次のように紹介されています。 親鸞会の活動は親鸞聖人の御著書の学習に集中しています。 (Buddhism and politics in twentieth-century Asia by Ian Harris) 蓮如上人を親鸞学徒の鑑と仰ぎ、親鸞聖人の教えを正確に分かりやすくお伝えする 親鸞会は、あのロジャース教授をして 「 親鸞会は蓮如上人が遺された財産」 と言わしめたのでしょう。

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