ブルゾン ちえみ 悪性 リンパ腫。 悪性リンパ腫戦記 その2~セカンドオピニオン

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ブルゾン ちえみ 悪性 リンパ腫

ナイスデイ」や「めざましテレビ」など、約30のフジテレビのニュース番組の司会やリポーターを務めたベテランです。 今年2019年にフジテレビを退社し、現在は先輩アナウンサーである小倉智昭さんが所属する芸能事務所「オールラウンド」に入所、フリーアナウンサーとして活動しています。 笠井信輔フジテレビを退社しフリーアナウンサーへ 笠井さんは2019年9月30日をもってフジテレビを退社しています。 フジテレビ退社の理由は、今後も現場での仕事に従事するためとしています。 笠井信輔アナ、フリー転身!9月末にフジ退社「とくダネ!」卒業 笠井アナは複数の関係者に送ったメールで「9月末日でフジテレビを辞めてフリーになります」と宣言。 ここ数年、アナウンス室ゼネラルアナとして後進の指導など管理職としての仕事が増えてきたが、「私はどこまでも現場プレーヤー。 広い世界で働きたい」とフリー転身を決意。 10月1日付で小倉の所属する芸能事務所、オールラウンドで再出発する。 sanspo. html) また今後に関してアナウンサーのみならず、タレントや役者として活動することも視野に入れており、今後の活躍が期待されていました。 笠井信輔が悪性リンパ腫にかかったニュース フリーアナウンサーとして意気揚々であった笠井さんですが、まさかの事態が報道されています。 実は笠井さんは、血液のガンと呼ばれる「悪性リンパ腫」に掛かっているとのことです。 週刊誌などで報道され、笠井さん自身から詳細な発表がされています。 笠井アナは「この激烈な展開について行けていない。 話せることは知ってもらう義務がある。 また、小倉さんが自分の病状を事細かく公表する姿をみて我々のような仕事している人間はそういう覚悟に行く瞬間、覚悟を学んだ」と話した。 病名を「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」と公表した。 nikkansports. html) 笠井信輔の現在の状況 笠井さんは今月12月上旬に診察を受け、悪性リンパ腫の診断を下されています。 現在では仕事先に対し休養を報告しており、今後は半年間の休養を予定しているとのことです。 笠井アナの考え方凄いな。 足し算の縁 引き算の縁 前向きに支える奥さんも凄いな。。 関係者やファンから応援の声が上がってきており、今後の回復に注目と期待が集まっています。 笠井信輔による池江璃花子の退院の話 悪性リンパ腫はいわゆる血液のガンですが、血液のガンとして闘病している方として競泳日本女子の池江璃花子さんを連想する方も多いことでしょう。 笠井さんも池江さんのことを引き合いにして、自身の病気とそして今後病気に対して闘い抜く意気込みを語っています。 悪性リンパ腫の笠井信輔アナ 池江璃花子退院に「ものすごく励まされた。 とにかく頑張ります」 講演ではチビッ子にも人気の笠井アナを襲った病魔。 小倉は「何で1万人に1人といわれる悪性リンパ腫にかかってしまったのか、残念でならない」とポツリ。 17日に白血病で入院していた競泳女子のエース、池江璃花子(19=ルネサンス)が退院を報告し「2024年パリ五輪出場とメダル獲得」の目標を掲げた。 笠井アナは「その記事を読んで、ものすごく励まされた。 とにかく頑張ります」と決意表明したという。 tokyo-sports. 悪性リンパ腫と急性リンパ腫の違い ところで、笠井信輔さんと池江璃花子さんの病の違いはどの様なものでしょうか。 笠井さんの病名は悪性リンパ腫であり、池江さんの病名は急性リンパ腫です。 一見似ているように見えますが、一般的には悪性リンパ腫は白血病ではありません。 そして、急性リンパ腫は白血病の一つです。 白血病は悪性細胞が増加する場所が「骨髄」であることに対し、悪性リンパ腫は体中にある「リンパ節」を始めとするリンパ組織が発生源と言われています。 またその悪性細胞が塊を作りやすいかどうかも目安の一つであり、笠井さんは肩などにそうした出っ張りなどを確認していた模様です。 いずれも血液に関する症状であり、血液内科を中心とした診察や治療が行われることは同じとなっています。 悪性リンパ腫の完治や池江璃花子の退院のニュース ただ、いずれの病気も現在では化学治療や放射線治療を行うことで治療可能と言われています。 造血幹細胞移植、いわゆるドナーによる移植手術は状態によって行われるものであり、場合によっては経過を見るに留まる場合もある模様です。 12月17日に池江さんは退院を報告しており、造血幹細胞移植が行われたことで10か月で退院となったことを報告しています。 池江璃花子 退院のご報告 2月の緊急入院後の検査結果により池江は急性リンパ性白血病と診断されました。 化学療法による治療を行いましたが、治療期間中に合併症を併発したため化学療法の継続が困難となり造血幹細胞移植を行いました。 その後、寛解状態を維持し体調も安定したため退院することができました。 今後も通院による治療を継続しますので、競技活動につきましては医師とも相談しながら、当面は陸上でのトレーニングを中心とした体力づくりを所属先のトレーニングコーチとともにスタートしてまいります。 rikako-ikee. html) 池江さんの回復の報告は、笠井さんにとっても勇気づけられる報告であったことはまず間違いないでしょう。 笠井さんは半年の休養を報告していますが、それは復帰にかかる期間と考えられます。 笠井信輔の回復と今後の活躍に期待 自ら生涯現役と断じ、それに伴いフリーアナウンサーとして転身した勇気は敬意を払うものがありますが、その最初のハードルはかなりきついものと言えます。 とは言え、決して治らない病気ではないとされていますし、どうか完治してまた復帰し活躍することをお祈り申し上げます。 今回は、フリーアナウンサーの笠井信輔さんが悪性リンパ腫にかかったニュースや、池江璃花子さんの急性リンパ腫との違い、また完治するのかなどについてまとめました。 池江璃花子関連記事.

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2006年12月 変化が現れた。 首の腫れの下にもう1個、腫れが増えていた。 無駄だと思いながら主治医にその事を告げ、穿刺をするが何も分からず。 しかし僕自身、何も対策をしていないわけではなかった。 退院後、片っ端からネットや本で何かヒントはないかと探し続けていた。 大して良い情報は見つからなかったが、ネットサーフィンしていたらある書籍に興味を持った。 「医者がすすめる専門病院」 この書籍のネーミングに引かれただけだが、ちょっと中身を見てみたい。 しかしその辺の本屋にはどこにも置いていなかったので見ることができない。 内容も分からずネットで買うのはかなり抵抗があった。 しかも3000円ぐらいするので決して安くはない。 が、役に立てば安いものだ。 無論、その反対も然りだが、イチかバチかネットで買うことにした。 この書籍の購入は結果的に大成功となる。 スポンサーリンク このリンパ腫が悪性と仮定して、愛知県内でこの種類の病気を扱った経験値が一番多く、全国的にも名の通った権威ある教授が在籍されている病院の事をこの本のおかげで知った。 その病院は家からそんなに遠くはなく、今通院している大学病院より距離的には近い。 欠点は、会社とは真逆の方向にあるので、もし通院となったら今よりさらに面倒なことだ。 それよりも、転院を考えるのであれば主治医に申し出なければならない。 いわゆる セカンドオピニオンである。 が、これを言うのはちょっと言い辛いところがある。 アメリカでは当たり前のように使われているみたいだが、日本では遅れているようだ。 (当時は) 文化や性質の違いであろう。 今の主治医は結果を出せていないが、いろいろと親身になってくれた優しい先生である。 そんな先生に、別の病院で検査をしたい、というのは言い換えれば、あんたダメと言っているようなもので、その医者の誇りや経験、今までの誠意を踏み躙られ、裏切られたと捉えられるのではないかと。 ましてやその主治医は教授という位の方だけになおさらだ。 しかし自分の命がかかっているかもしれないこの局面で、情に流されるわけにはいかない。 奇妙な罪悪感を持ちながらも勇気を出してセカンドオピニオンを申し出た。 意外にも心地よく受け入れてくれた。 主治医はセカンドオピニオンに肯定的な方であった。 僕が希望を出した病院とその教授宛てに紹介状を書いてくれた。 この時ほど主治医に感謝したことはない。 この病院ともこれでオサラバかと思うと寂しいもんだ。

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松井基浩さん 悪性リンパ腫を経験|保険・生命保険はアフラック

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高1のとき、風邪のような咳が1カ月続きました。 最初は風邪のような症状でした。 咳が1カ月続き、大好きなテニスをしても息切れするようになり、食欲も落ちてきました。 中高一貫の進学校に通う高1のときのことでした。 毎年選ばれていたマラソン大会の選抜チームに初めて落選し、言い訳のように下校時に地元の大きな病院に行きました。 咳が続いて2カ月くらいになっていました。 病院ではすぐにCT、レントゲンを撮り、安静にするように言われ、親が呼び出されました。 胸の画像には自分でもはっきりわかるほどの影が映っていました。 母が「がんセンターを紹介してください」と言うのが聞こえ、自分ががんなのだと思いました。 すごく怖かったです。 命を落とすことになるんじゃないか、とその夜はなかなか寝られずベッドの中で泣いていました。 翌日、がんセンターへ。 腫瘍は空気の通り道の前にあり、空気の通り道が潰れると呼吸ができなくなってしまうため、緊急入院となりました。 病気を正確に診断することが目的。 なんで自分だけがこんな目に。 急に日常生活が奪われてしまいました。 友達は学校に行って勉強したり遊んだりしている中で、なんで自分だけがこんな目に、と最初は病院の個室でふさぎこんでいました。 まずは1週間、ステロイドを投与して腫瘍を壊すんです。 そのあとに使う抗がん剤は白血病に使う薬と同じなのですが、脱毛、気持ち悪さ、だるさ、といった副作用がありました。 イライラして母に当たったことも多かったです。 独りの世界に入り込んでしまうとよくないからと、途中から4人部屋に移動することになりました。 小児病棟には赤ちゃんから20歳の人まで、さまざまな年齢の患者さんがいるんです。 前向きな子どもたちに気づかされたこと。 4人部屋に移ってからも基本的に閉じこもっていたのですが、同室の小さな子が朝からカーテンをシャーッ!と元気よく開けて「遊ぼうよ」と言ってきました。 ぼくは今でこそ小児科医をしていますが、元々は子ども好きでもなかったので最初は少し戸惑いました。 でも、病気を受け入れて前を向いて明るくしている子たちを見て、感じたことがありました。 友だちになった子の中に小5の男の子がいました。 治療の副作用で脱毛して髪の毛もないけれど、底抜けに明るいんです。 明るい表情の裏で、実は足を切断するという厳しい決断を自ら選択していました。 そうか、彼らも病気を受け入れて、自分で考えて、そのうえで明るくしているんだ、と気づいた瞬間がありました。 ぼくもこれではいけない、見習わなくては、と思いました。 年齢差に関係なく、そのとき一緒に病院でがんと向きあった仲間は「友だち」だと思っていて、今でも繋がっています。 ぼくにとっては院内学級の存在も大きかったです。 明るい先生たちが、病室のカーテンを勢いよく開けてやって来るんです。 主要科目だけでなく、卓球やボーリング等の体育や音楽、家庭科といった授業もありました。 進学校に通っていたので、学校の授業には家庭科等なかったので新鮮でしたね。 日常に近い生活を続けながら、治療を受けるための環境が整えられていました。 朝ごはんを食べて、院内学級へ行って、お昼ごはんを食べに戻って、また院内学級へ行って、夕方になったら、夕ごはんをみんなで食べて、寝る、という感じで、8カ月の入院。 最初の1カ月弱ほど落ち込んだ時期はありましたが、入院生活は楽しい思い出でいっぱいです。 みんなで楽しく闘病していました。 入院中、子どもたちの姿に励まされ、医師になろうと決めていました。 小児がんの子どもたちがこんなにいっぱいいるとは知らなかったし、自分自身も助けてもらったから、絶対に彼らの助けになる仕事がしたいと思い、医者になると周りに公言していました。 復学後、勉強にも人間関係にもついていけなかった。 高2の夏に復学してからの方がきつかったです。 高3まで治療は続き、外来で2週間に一度通院。 薬を飲むと副作用で、勉強に集中できない時期もありました。 髪の毛の脱毛は帽子で隠していました。 今は男性用のウィッグもありますが、当時はなかったんです。 1500人のマンモス校。 勉強も、友人関係も、同級生にはすべてが及びませんでした。 病院で一緒に闘病していた仲間が周囲にいなくなった環境の中、すでにできあがってしまった学校の友だちグループに入っていくのにエネルギーが必要でした。 通学に1時間半かかったので、学校の近くに家を借り、母は二重生活をしてサポートしてくれました。 入院中も勉強はしていました。 家庭教師の先生にも病院に来てもらっていました。 とはいえ、勉強は追いつかず、大学受験のために塾に通おうとしたところ、その入塾テストに4回落ちました。 医師になる夢のおかげで前向きに。 母に八つ当たりすることもありました。 でも高2の冬、辛いかもしれないけれど、夢を追うこと自体が幸せ、だからがんばろう、と決意しました。 きっかけは、退院後、まだ入院中の友だちの外泊に合わせて、その子の家に泊まりに行ったときに交わした会話です。 彼らも夢があって、やりたいことがある中でまだ治療をしなくちゃいけなくて、そんな中でもすごく前向きに夢を捉えて話してくれました。 学校の勉強についていけなくて、どん底にいるような状況だったけれど「絶対医者になれ。 お前にしかできないことがある」って言ってもらいました。 受験勉強をしている今は、学校の友だちなんて関係ない、と割り切ることができました。 また、気持ちが悪いときには勉強しない。 その代わり、起きているときの時間はすべてを注ぐ。 これ以上できないくらい自分を追い込んで勉強をしました。 センター試験の国語を少し失敗してしまったのですが、受験校選びに関して父がいろいろ調べてくれて、浜松医科大学医学部を受けて現役で合格することができました。 合格がわかったときには家族みんなで泣きくずれたのを覚えています。 大学入学後は妻との出会いもありました。 2013年に結婚。 5歳の娘と1歳の息子に恵まれました。 大学生になってからはテニスも再開しました。 ずっと運動できていなかったので楽しかったですね。 「がん患者には夢がある」 サイトを運営して、若い人のがんの相談に。 SNSで若い人のがんの相談に乗っているうちに「がん患者には夢がある」というサイトを運営することになりました。 人は、どんな状況でも夢がある。 夢のパワーはすごいもの。 前を向いて進んでほしい、という願いを込めました。 その後、2009年にはフリーペーパー「STAND UP!! 」を発行しました。 SNSも今ほど盛んでなく、孤独な闘病、どこにも情報がない、という状況を変えたかったのです。 若い患者同士でつながることで、ぼくたちは先のために今辛い治療を受けている、先を見ているのだ、ということを伝えたかったのです。 小児科医として 子どもたちを支えたい、という想いを 叶えさせてもらっている。 今は、自分が治療を受けた当時の主治医のもとで働いています。 命の恩人が、医学の師匠にもなりました。 とても信頼しています。 医者になりたいという夢を伝えたら、医者になるにはどうしたらいいかというのを入院中から教えてくれました。 今、小児科の医師になって思うのは、がんを治すのは子どもたち、がんばっているのは彼ら、ということです。 医師たちは子どもたちを支え、治療を提供しているに過ぎない。 ぼくは、この仕事を実は仕事と思っていません。 やりたいと思ってやっています。 子どもたちを支えたい、という想いを叶えさせてもらっています。 がんばっている子をかわいそうと言うのではなく、 応援してほしい。 がんを経験した医師としてみなさんに伝えたいのは、がんになった子を「かわいそう」と言うのではなく、応援してほしい、ということです。 がんばっている人に「かわいそう」は少しおかしい気がしています。 ぼくの入院生活が、院内学級のおかげで日常生活を維持できて充実したように、病気になる前の日常生活になるべく近い環境が保てるといいと思います。 髪がないことも、義足であることも、それ以上でもそれ以下でもない。 みんなが自然に受け止められる環境になるといいなと思います。 収入もまだまだ少ない時期ですし、お金で命が左右されることになりかねません。 今振り返ってみると、家族、医師、看護師さん、院内学級の先生、友だち、誰が抜けてもうまくいかなかったと思うし、自分一人では何もできなかったと思うので、どんなに感謝してもしきれないくらいで、未だに感謝しています。 多くの支えがあったから乗り越えることができました。 その世代の年代の人のことをAYA世代と呼び、その年代のがん患者や経験者のことをAYA世代のがん患者(経験者)という。 医者としてもっともっと上を目指し、子どもたちの本当の支えがしたいので、まだまだがんばらなきゃな、と思っています。 患者さんと医療側、両方の立場を経験した者として、お互いが納得できるやり方をこれからも探していきたいと思っています。

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