エール 竹 取 物語。 「竹取物語」の卒論テーマについて、何かいいものはないでしょうか?何...

2020年度後期 連続テレビ小説「おちょやん」ヒロインは杉咲花さん!

エール 竹 取 物語

あらすじですが・・ 竹を切って来ていろいろな製品を作って暮らしていた、竹取の翁とその妻の嫗がいた。 ある日、竹取の翁が竹林に出かけていくと、根元が光り輝いている竹があった。 なんだろうと思って切ってみると、中から9センチほどの美しい人が出てきたので、自分たちの子供として育てることにした。 その日から竹の中に金を見つける日が続き、竹取の翁の夫婦は豊かになっていった。 翁がみつけた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで年頃の娘になった。 この世のものとは思えないほど美しくなった娘に、人を呼んで名前をつけることになった。 呼ばれてきた人は、「なよ竹のかぐや姫」と名づけた。 この時、男女を問わず人を集め、3日にわたって様々な遊びをした。 世間の男たちは、高貴な人も下層の人も皆なんとかしてかぐや姫と結婚したいと思った。 その甲斐もないのに、竹取の翁の家の周りをうろうろする公達は後を絶たなかった。 彼らははまるでホームレスの様に竹取の翁の家の周りですごしていた。 そうこうするうちに、熱意のないものはこなくなっていった。 最後に残ったのは、好色といわれる五人の公達で、彼らはあきらめず、夜昼となく通ってきた。 彼らの名は石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂といった。 彼らがあきらめそうにないのを見て、翁がかぐや姫に「女は男と結婚するものだ。 お前も彼らの中から選びなさい。 」というと、かぐや姫は「『私の言うものを持ってくることができた人と結婚したいと思います』と彼らに伝えてください」と言った。 夜になると、例の五人が集まった来た。 翁は五人の公達を集め、かぐや姫の意思を伝えた。 その意思とは石作皇子には仏の御石の鉢、車持皇子には蓬莱の玉の枝、右大臣阿倍御主人には火鼠の裘、大納言大伴御行には龍の首の珠、中納言石上麻呂には燕の子安貝を持ってこさせると言うものだった。 しかし、石作は只の鉢を持っていってばれ、車持は偽物をわざわざ作ったが職人がやってきてばれ、阿倍はそれは燃えない物とされていたのに燃えて別物、大伴は嵐に遭って諦め、石上は取ろうとして腰を打ち、断命。 結局誰一人として成功しなかった。 そんな様が御門に伝わり、御門が会いたがった。 翁が取り持ったが、彼女は拒否し、一度は姿を見られたものの、あれこれ使って結局御門も諦めさせた。 しかし、彼と歌の交換はするようになった。 そうしているうち、ある旧暦も8月、姫は夜に泣くようになった。 はじめは話さなかったが、(旧暦の、以下略)15日が近づくにつれ、泣き方が激しくなり、翁が問うと、「自分は別世界のものであり、15日に帰らねばならぬ」という。 それを御門が知り、勇ましい軍勢も送った。 そして当日、子の刻(2時)頃、空から人が降りてきて、彼女を連れ去った。 そのとき、姫は御門に不死の薬を送った。 しかし御門はそれを駿河の日本で一番高い山で焼くように命じた。 それからあの山は「不死の山」(後の富士山)と言う。 参考URL: A ベストアンサー 月から迎えの使者がやってきたところに載っています。 本文は、 「いささかなる功徳を、翁作りけるによりて、汝が助けにとて、片時のほどとて下ししを、そこらの年ごろ、そこらの黄金賜ひて、身を変へたるがごとなりにたり。 かぐや姫は罪を作りたまへりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。 罪の限り果てぬれば、かく迎ふる」 こうなっています。 これを現代語訳すると、 「わずかばかりの善行を翁が成したことによって、おまえの助けにしようと、ほんのしばらくの間ということで下したのだが、長い年月の間に、多くの黄金を賜って、生まれ変わったようになってしまっている。 かぐや姫は、罪をお作りになったので、こんなに賤しいおまえのところに、しばらくいらっしゃったのだ。 罪の償いのために下界に下った期間が終わったからこうして迎えるのだ」 ということですね。 ちなみに姫がどんな罪を犯したのかわからないし、翁がどんな善行をしたのかもわからない。 また、なぜ翁だけが恩恵を受けるのかもわからない。 天人にそれを与える資格があるのか、そもそも天人とは何者なのか、ということも書かれてないので、謎は多いですね。 月から迎えの使者がやってきたところに載っています。 本文は、 「いささかなる功徳を、翁作りけるによりて、汝が助けにとて、片時のほどとて下ししを、そこらの年ごろ、そこらの黄金賜ひて、身を変へたるがごとなりにたり。 かぐや姫は罪を作りたまへりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。 罪の限り果てぬれば、かく迎ふる」 こうなっています。 これを現代語訳すると、 「わずかばかりの善行を翁が成したことによって、おまえの助けにしようと、ほんのしばらくの間ということで... Q 質問させていただきます。 日本最古の物語と言えば、紫式部の「物語の出で来はじめのおや」という言葉が有名なように、『竹取物語』だと一般的に考えられています。 しかし、物語集としては『日本霊異記』がより成立年代が古いとも考えられているとおもいます。 日本最古の物語は『日本霊異記』ではないのでしょうか。 そこで以下の点を質問させていただきます。 一、「物語」の定義……万葉集などとは違い和歌が中心ではないお話?『霊異記』のように漢文ではなく仮名文字で書かれたお話? 二、実は正確には『日本霊異記』が最古の物語である? 物語の定義が人によって違うことは承知しておりますが、それにしても『日本霊異記』もなかなか面白く、これこそ最古の物語ではないかと疑問に思っておりました。 よろしくお願いします。 A ベストアンサー 『竹取物語』が最古の物語とされるのは、創作性が高いからでしょう。 つまりここで言う物語とは、「その大部分が個人の手で、創作された物語」を指しているようです。 『古事記』『日本書紀』の神話・伝説や、『日本霊異記』の説話なども、物語には違いありません。 が、これらは既存の伝承を記録したものと考えられています。 記録者が手を加えた部分もあるでしょうが、それほど多くはなさそうです。 もちろん『竹取物語』も、昔話などを下敷きにしているはずです。 が、かぐや姫に求婚する貴族の愚行などはどうみても、作者自身が話をふくらませています。 古い物語にしては、創作部分の占める割合が大きいので、物語の祖とされているのでしょう。 A ベストアンサー 5桁で16の4乗、というのは正しいです。 この説明は下でされているので省きます。 16進数は数が大きいので、扱いが面倒、と思われるかもしれないので、 簡単な2進数への変換法を書いておきます。 2のN乗の方が計算が楽だと思いますので、10進数にする場合は 使ってみてはいかがでしょうか? (8進数の場合も同様にできます) A ベストアンサー あなたはどうなの?的な表現ですね。 例えば、 A:How's it going? (調子どう?) B:Nothing much. たいしたことないよ。 How about you? 君はどんな感じ? A: Well, I'm alright. You know what? I've decided to move to NY next month. まあまあかな。 そういえば来月にNYに引っ越すことに決めたんだ ------------------ A: Are you hungry? (おなかすいた?) B: Yeah, a little bit, how about you? (うん、ちょっとだけ、君は?) のような感じでしょうか。

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竹取物語の話教えてください!

エール 竹 取 物語

竹取物語の中の中国神話 日本は古来より多大なる中国の影響を受けてきました。 それは文字や建築、着物や銅銭、食品、造船など枚挙にいとまはありません。 日本では平安時代から文学が発展してきましたが、その中にも中国の影響を見て取れます。 日本の古典を読んでいても中国由来であると思われる内容が時々見られます。 中国神話を知らなければスルーしてしまいそうな内容ですが、そのままにしておくのはもったいないと思い、陰陽五行説や中国神話などと照らし合わせて日本の古典中の中国由来の内容を考察することで当時の日本の状況や中国との関係などが浮き彫りにできれば面白いと思いました。 日本の古典を通して昔の中国と日本との関係が見えてくれば幸いに思います。 日本の古典の中にある中国神話を見つけ出していきましょう。 第一回目は誰もが知っている竹取物語です。 竹取物語とは 今は昔竹取の翁…で始まり、最初の一文くらいは暗記できる方も多いのではないかと思います。 昔話の代名詞ともなっている非常に有名な作品です。 竹取物語は平安時代の初期に成立したとされています。 平安時代は都が平安京に遷都された794年から始まりますので、この年以降に成立しています。 794年以前は遣隋使や遣唐使が派遣されており、大陸との交易も行われており様々な中国の文化や情報が入ってきていた時代です。 文章も漢文で書かれていましたし、様々な中国の書物をお手本にして日本の文学が発展していきました。 平安時代の書物は漢文で書かれてましたが、枕草子や源氏物語など女性たちによる文学作品で仮名が用いられることにより、難解な漢文よりも読みやすいため一般的に読まれるようになって行きました。 竹取物語のあらすじは言うまでもなく、竹により生計を立てる老夫婦が竹の中にいた小さな女の子をかぐや姫と名付け育てました。 かぐや姫は美しい女性に成長し、貴族たちからの求婚されるようになりましたがこれらの求婚を無理難題を言って断り続けました。 その美しさにより遂には天皇からも求婚されてしまいました。 天皇の求婚を断るなど当時の世では考えられませんが、かぐや姫はただの人ではなく月の住人であり、いずれは月へ帰らなければなりませんでした。 このため天皇の求婚を受けることが出来ませんでした。 そして、十五夜になると月からの使者がやってきて使者と共に月へと帰っていきました。 中国神話の流入 中国神話を見てみますと、神話自体は3000年以上前の商王朝、つまり殷の時代から存在していることが甲骨文字などからわかっています。 また、神話の舞台となった時代は神話中で最も有名な黄帝の時代で4500年程前だと言われています。 神話は古代の部族同士の争いなどが神々の話に置き換えられて物語として残っていると考えられており、これはギリシャ神話や日本の神話など世界各国の神話と同じです。 この中国神話は紀元前から西暦にかけての2000年くらい前の漢の時代に山海経や神異経、史記、淮南子など現代では文献として重要な書物が書かれました。 特に司馬遷の書いた史記には五帝本紀と言う章があり、黄帝の話などが書かれています。 現実主義者の司馬遷としては歴史書に実在したかどうかも疑わしい五帝の話を書くこと不本意でしたが、神話で語られる内容に関連する事柄が起こっていた可能性も考慮して五帝本紀を記しています。 つまり、竹取物語が書かれた平安時代には豊富な中国の様々な書物が書かれており、遣隋使や遣唐使を始めとし、交易などを通してすでに日本に入ってきており、教育水準の高い人々は漢文で書かれたその書物を読みこなし、さらには漢文で文章を書いていました。 古事記などは書かれた当時は漢文と日本語の文法で書かれた文章が混在していたといいます。 平安京の朱雀門など四象の名前も出てきますし、平安京自体も四神相応の都だと言われていますので、様々な名称からも読み取れる上に風水の影響を受けていることが分かります。 中国神話のストーリーから見る竹取物語 竹取物語を呼んでいると、中国神話の嫦娥奔月(じょうがほんげつ)を想像します。 嫦娥は美しい女性として書かれており、帝俊の子供で母親は十個の月を生んだ常羲です。 夫は中国神話の大英雄である太陽を射落とした后羿(こうげい)です。 嫦娥と羿の物語は現在では並行した様々な話が創作されており、一つではありません。 一般的には夫の羿が太陽を射落として英雄となった後、羿は崑崙山の西王母から不死薬をもらいました。 そして嫦娥がその薬を飲んでしまい月へ飛んで行き、月の広寒宮に住むようになりました。 月には白兎である玉兎がおり、不死薬を搗いていました。 この玉兎が薬を搗いている様子は現在では餅を搗いている様子と混同されています。 この嫦娥の神話から人々は十五夜の日に月を見て嫦娥を祀るようになったと言います。 月から来て十五夜に月に帰る美しい女性は嫦娥を連想させ、さらに最後の別れの際に不死薬を手渡すなど嫦娥奔月との共通点が見られます。 一方で、広寒宮や玉兎、呉剛、后羿などの関連性のある話は見られていません。 嫦娥に関しては以下をご覧ください! 后羿に関しては以下をご覧ください! 玉兎に関しては以下をご覧ください! 呉剛に関しては以下をご覧ください! その他にかぐや姫が竹の中にいる時に小さかったことに関して神異経の内容を連想しました。 高さは一寸しかなかった。 彼らの国君は紅の衣を身に着けていた。 頭には黒い冠を被り、馬のひく大きな車に乗っており十分厳粛であった。 人が偶然にも車に乗る小人国の皇帝に出会うと、彼をつまみ上げて食べるとその味は辛く、その後はどんな物も恐れず、並びに各種の物の名前を認識でき、さらに人の腹の中にいる三虫を殺すことが出来る。 漢代の中国の一寸は約2. 3cmで日本の平安時代では一寸は約3cmでした。 まるで唐辛子のような小人ですが、大きさ的には三寸ばかりのかぐや姫よりもさらに小さいです。 子の文章だけでは竹取物語の作者が神異経の内容を知っていたかどうかは判断できませんが、この他にも火鼠の皮衣など神異経の内容が見られますので、神異経を参考にしていた可能性は大いに考えられます。 神異経に関しては以下をご覧ください!• 陰陽五行説から見る竹取物語 中国には陰陽説と言う考え方があります。 この世の全ては陰と陽からできている、というものです。 天地創造の女神である女娲(じょか)の兄、伏羲はこの陰陽説を発展させて八卦を作り出したと言われています。 この陰陽説に戦国時代にできた火、水、土、金、風の五行説が組み合わさり、よく知られている陰陽五行説が作られました。 女娲に関しては以下をご覧ください! 伏羲に関しては以下をご覧ください! 陰陽五行説とは何かと言いますと、物事に対する理屈、根拠を与える理論です。 現代では科学により説明されますが、当時は物事は陰陽五行説により説明されていました。 特に医学においては発展が目覚ましく、この理論は医療や製薬にも応用されました。 現代科学から見ると陰陽五行説は意味不明なトンデモ理論となりますが、そこは中国の数千年にも及ぶ臨床試験の積み重ねで結構いい薬などが作られたりしています。 これは漢方薬として現代でも使用されています。 神農本草経に関しては以下をご覧ください! 竹取物語に出てくる不死薬に関してですが、中国の不死薬はもともとは神農氏による練丹術に由来します。 神農氏は様々な薬草を練って丹と言う不死薬を作っていたと言います。 この練丹術は時を経て煉丹術に変わります。 煉丹術の丹とは紅色を指しており、朱墨の原料となる硫化水銀のことも指します。 赤い砂である丹砂は硫化水銀を意味します。 この硫化水銀から硫黄を還元することで水銀が得られます。 そしてこの水銀を各種の金属と反応させて不老不死の仙薬を作ることが煉丹術です。 丹(硫化水銀)を煉る術となります。 これは西洋の水銀を各種金属と反応させてアマルガムを作り、金という別の元素を得ようとする錬金術に似ています。 中世の西洋は火や水など四つのエレメントで世の中ができていると考えられていましたので、西洋の錬金術と中国の煉丹術や五行などは案外シルクロードを介して繋がっていたのかもしれません。 しかし、水銀を使用して体にいいわけがありません。 多くの皇帝が煉丹術により作り出された仙薬で死にました。 そこでできたのが腹部の丹田で気を練る内丹術で、内丹術が発展して気功が出来たと言われています。 少々脱線しましたが、そんな陰陽五行説ですが、主人公のかぐや姫は女性であり陰に属します。 さらに月も陰に属しており、月と女性は陰同士の関係となります。 これと対比するように、嫦娥の夫である羿と太陽は陽同士の関係と言えます。 しかし、月と女性という陰が出てきますが、それと対比すべき陽の存在が出てきませんので、陰陽説に基づいて書かれているとは読み取れませんでした。 飽くまで嫦娥の物語に着想を得て作られたという印象です。 陰陽五行説の内の五行説では物事はそれぞれが決まった属性を持っています。 例えば東であれば青色と春などがセットでついてきます。 青春という言葉は実はこの五行説に由来しています。 五行説に因み、五という数字は非常によく用いられており、身近な言葉では五官、五臓、五穀などが思い浮かびます。 これはそれぞれが属性を持ち、互いに影響を与えているという考えにつながります。 つまり、五蔵の内の心臓は火で肺は金に属しています。 火と金は相克の関係にあり、火剋金(かこくごん)と言い、心臓(火)の病は肺(金)に由来する場合があることを示しています。 竹取物語で五という数字を探してみると、五人の貴公子と彼らが探し求めた五つの宝に五という数字を見て取れます。 しかし、これらの宝が五行に即して考案された可能性は無きにしも非ずですが子安貝や鉢などは色や季節などの属性がはっきりとせずに五行に基づいているかどうかははっきりとは分かりません。 さらに、五行説では方角もありますが、方角に関しては唐や天竺という西方のみであり、物語中の五という数字は五行にはつながっているとは言えません。 五行説に忠実に作るのであれば、東西南北中央と言う方角へそれぞれ対応する季節ごとに探しに行っているという話になると思います。 五行説で物語を作るのであれば春になると東方に龍に関する青い宝を、夏には南方に鳥に関する赤い宝を、秋には西方に虎に関する白い宝を、冬には北方に亀に関する黒い宝を、そして土用には中央で龍もしくは麒麟もしくは騰蛇に関する黄色の宝をそれぞれ探し求める、と言う内容がすっきりします。 唯一五行と関連性が見られそうな宝は龍の持つと言われる五色に光る玉です。 この色は五行に由来していると連想されます。 もしもこの五つの色が青、赤、白、黒、黄ならば五行に基づいていると言ってもいいと思いますが、原文に色の記述は見られません。 五色は仏教にも見られており、色も五行と同じで青、赤、白、黒、黄です。 珍しい宝から見る竹取物語 かぐや姫は五人の貴族にそれぞれ宝を持ってくるように言いました。 この五つの宝の内、三つ、則ち蓬莱の珠、火鼠の皮衣、龍の首にある五色の珠は中国との関連性が見られます。 蓬莱の珠は蓬莱山にある木になる珠です。 蓬莱山は東海にあると言われる仙人の住む山のことです。 ここで言う東海とは、中原(山海経では洛陽ですが)を中央として東にある海のことです。 古代中国では中原の周辺は四海により囲まれていると考えられていました。 現在では四海と言えば渤海、黄海、東海、南海の四つの海を言います。 秦時代の方士(道教の前身)である徐福が始皇帝のために不死薬を求めて蓬莱へと船出した話でも有名です。 中国の伝説中には、渤海の東方には帰虚という大海があり、この海には五つの仙島があるとされていました。 すなわち、岱輿(たいよ)、員嶠(いんきょう)、方壷(ほうこ)、瀛州(えいしゅう)、蓬莱(ほうらい)です。 これらの島は山になっており、高さが三万里と言われています。 島に住んでいる人は皆神か仙人でした。 このうちの蓬莱山には珠が実る木があると言われています。 この蓬莱山の記述は列子の湯問に見られています。 また、山海経にも一文だけ記載が見られています。 山海経の蓬莱山に関しては以下をご覧ください! 火鼠の皮衣は神異経に以下のように記載が見られています。 その中の至る所に不烬の木が生えており、その中には火鼠が生きていた。 不尽木火中に鼠がおり、重さ千斤で毛の長さは二尺余り、細く絹のようであった。 火の中にいたので赤く、時々外に出た。 すると毛は白く水をかけると死んでしまった。 その毛を取り紡いで布にすると汚れても火にくべると白く綺麗になったという。 神異経に関しては以下をご覧ください! これらの記述により、漢代に書かれた神異経の内容が平安時代初期には日本にも入っていたことが見て取れます。 火鼠に関して神異経の内容と竹取物語の内容を比較してみると、細部まで同じことが分かります。 もう一つ、龍に関してですが、龍自体は中国でかなり古くから信仰されてきた霊獣です。 龍の形成はトーテム信仰に基づいており、この信仰中で図柄が変化して龍が作られたとされます。 龍は鹿の角と蛇の胴体、鷹の爪などを組み合わせてできています。 一方で龍が手に玉を握っているという話はありますが、五色の珠を持っているということに関しては中国では見られませんが、かわりに五龍と言い五行説に即した五色の龍、則ち青龍、赤龍、黄龍、白龍、黒龍が有名です。 地名や語句から見る竹取物語 竹取物語に見られる様々な単語から中国の影響を見ていきます。 竹取物語中で中国の影響を受けていると思われる単語は少なく、強い影響は受けていない印象を持ちました。 まずは天竺という言葉が出てきますが、これは昔のインドの中国名です。 直接中国とは関係ありませんが、仏教は一旦中国へと入りその後に日本に入ってきました。 このため、インドの事を天竺と呼んでいました。 仏教が伝来して以降、天竺はよく使用される単語となっています。 唐土という語は平安時代の中国の王朝であった唐から来ており、以降は中国の呼び名となりました。 五穀という語も気になる単語で、普通に使用していますが中国由来の単語です。 これは五行説と関連が深く、米や麦などの主要な五つの穀物を指します。 こちらも普通に日本に入ってきて現在まで使用され続けている語句です。 帝(みかど)という言葉も中国神話に見られる漢字です。 黄帝や炎帝など帝は神様に近い帝王として描かれています。 まとめ 全体的に中国の影響は少ないと思いました。 陰陽五行などもあまり出てこないので道教の影響もありません。 平安時代後期には安倍晴明という有名な陰陽師が出てきますので、平安前期に書かれた竹取物語が陰陽五行の影響を受けていてもおかしくはありません。 一方で竹取物語の原作者は神異経を読んでいた可能性が見て取れます。 神異経や嫦娥奔月、列子などから着想を受け、様々な貴族たちを当てはめて物語を構成していったのかな、という印象を持ちました。 また、神異経と内容が似ている山海経に関しては影響を受けたと思われる箇所は見当たりませんでした。 山海経は神異経に比べて長いので単純に読むだけなら神異経の方が読みやすいです。 しかし、改めて竹取物語を読むとかぐや姫って結構酷い人だったのですね。 この語源なり出てくる物語もさっぱりわかりませんでした。 作者のオリジナルかとも思いましたが、宝として出ているので当時に人々にはこの貝は宝として認識されていたと思われます。 子安貝自体は昔は貨幣として用いられていたこともあります。 山海経のその他の翻訳に関しては以下をご覧ください! 下のリンクをクリックすると中国の神獣や妖怪をまとめたページへ移動します。 竹取物語の現代文は以下のサイト様を参考にさせていただきました。 竹取物語現代語訳:.

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居酒屋竹鳥物語

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むかしの物語には題名がわからないものが多く(なかには失われてしまったものもあるし、もともとないものもある)、しかしそれでは不便なので、通称がつけられています。 これが固定化すると現在のような題名になるわけです。 王朝物語でいちばん多いのは主人公の名前をとったもので、伊勢物語の在五中将物語という古名や平仲物語、源氏物語、狭衣物語、浜松中納言物語などがあります。 これに対して、物語冒頭の一文をそのまま使って通称をつける場合があります。 「夜半の寝覚」などがその典型例ですが、竹取物語もこの一種で、冒頭におじいさんのことが書いてあるので竹取物語という通称が出たのではないかと思われます。 冒頭の文章で題名を決めるのは漢文によくある方法で(論語の章の名前がこれ)、それが日本にも入ってきたものだと思います。 ずっと下って漱石の『吾輩は猫である』もこの類で、漢文が得意で、題をつけるのが苦手だった漱石の苦心の名案のようです。 竹取物語と呼ばれる理由はいろいろとありますが、決定的なものはないようです。 ただし、逆に「かぐや姫物語」と呼ばれるだけの理由はありません。 かぐや姫は主人公ではなく、ただの登場人物つまり脇役です。 もっとも竹取の翁も脇役なんですけど。 作品の最初に竹取の翁の名前が出てくるので、竹取の翁の物語と呼ばれたという想像はつきます。 そもそも作者が命名した作品名では無いようです。 作者は匿名でしたので、作品名を尋ねることも不可能なようでした。 現在では、作者として推定される人物は判っているようですが。 どうやら、当時の読者層の間で、自然と「竹取の翁の物語」と言われていたのが固定化したのではないかと思います。 ちなみに「かぐや姫」呼ばれたというのは当時の風習として不自然というのが定説です。 庶民はともかく求婚するような貴族階級や知識人ならば「竹取の翁の姫」と呼ぶのが自然ではないかと言われています。 まぁ、創作の話ですから、作者が意図的に誇張して書いたか、または誰かを皮肉って書いたという事は考えられるのですけど。 A ベストアンサー 普通に考えて、 親子の絆とは血の繋がりではなく共に暮らしてきた時間によって育まれるものである、 ということを伝える物語 とするのが単純明快で良さそうに思えます。 また、かぐや姫が、育ててくれた老夫婦にいついつまでも健勝に過ごして貰いたいとの思いから、最後に不老不死の薬を渡します。 しかし老夫婦はこの薬を使わず、姫の事を思い出して悲しみながら、一番高い山に登って薬を燃やしてしまいます。 このエンディングから、 不老不死は人間にとってある種の夢であるが、そうなることは一概に幸せな事であるとは言えないという教訓を行間に込め、限りある生というものの大切さ、死による救済の物語、として語ることも出来なくもないと思います。 A ベストアンサー 補足に対する回答です。 >>「罪」論については国文学界とかでは、よく議論されるので参照されては。 >国文学には、まったく知識がなく、何を参照したら良いかすらわかりません。 参考になる書物を教えてください。 - 東京 : 大修館書店 , 1996. あたりが、手に入りやすいかもしれません。 最後のほうの章の「『竹取物語』と天人流謫譚」などが多少関係します。 ただ、一般的な物語論の発想に慣れてないと意味不明かもしれません。 >共同体の性的タブー違反 >>どんなことが考えられるのでしょうか。 教えてください。 ekuboさんの想像で正しいと思います。 そもそも何故、性的な罪と想像されるかというと、美女の罪として話になるのはそれくらい、という俗人的発想なのですが、それを学問的に精緻に論考されたのが、曽根誠一さんの「かぐや姫の贖罪の構造と方法」(『論集源氏物語とその前後1』新典社)で、これを参考にすると、 1 天界でかぐや姫が罪を犯したのは20代前半である。 *まず、昇天する時、かぐや姫は「廿余年」である。 *そして、かぐや姫が地上にいたのは、天界の時間で「かた時のほど」である。 2 かぐや姫は天界で高貴な地位にある。 *天人が敬語を使っている。 2 かぐや姫の贖罪は、「不犯」によってなされる。 *かぐや姫は求婚者を、自分は天界の人間だからと言って退ける。 ) ということになります。 だとすると、20代前半の高貴な女性が、苦悩しながら不犯を貫く、という贖罪に値するような罪を行うとしたら・・・。 ちなみに、氏の論考では藤壺・女三宮・浮舟の密通年齢 ? も20代前半であることが指摘されています。 補足に対する回答です。 >>「罪」論については国文学界とかでは、よく議論されるので参照されては。 >国文学には、まったく知識がなく、何を参照したら良いかすらわかりません。 参考になる書物を教えてください。 A ベストアンサー 質問1 帝にはすでに后たちがいます。 『竹取物語』本文にそのことを窺わせる箇所があります。 質問2にも関わる箇所なので、以下に引用します。 「つねに仕うまつる人を見たまふに、かぐや姫のかたはらに寄るべくだにあらざりけり。 異人よりはけうらなりと思しける人も、かれに思し合すれば、人にもあらず。 かぐや姫のみ御心にかかりて、ただ独り住みしたまふ。 よしなく御方々にも渡りたまはず」。 帝がかぐや姫を連れて行くことは出来ず未練を残して帰る際、かぐや姫と歌を交わした後の場面です。 「かぐや姫のみ御心にかかりて、ただ独り住みしたまふ。 よしなく御方々にも渡りたまはず」とあり、宮中に戻った帝はかぐや姫のことばかりが心にかかって、誰も側にお召しにならないこと、理由もなく后たちの方にお渡りにならないことが描かれています。 「よしなく御方々にも渡りたまはず」ですから、後宮の殿舎を賜った女性達がいることが分かります。 質問2 帝はかぐや姫を后や女御として迎えようとは考えていません。 肉体的な関係を伴って、側に仕える女房という扱いと考えられます。 これは前掲の「つねに仕うまつる人を見たまふに、かぐや姫のかたはらに寄るべくだにあらざりけり。 異人よりはけうらなりと思しける人も、かれに思し合すれば、人にもあらず」から窺えると思います。 帝がかぐや姫と比較しているのは「つねに仕うまつる人」、日頃帝の側に仕えている女房たちです。 后たちとかぐや姫とを比較して考えてはいません。 つまりもしかぐや姫が宮廷に出仕したなら、帝の側に仕える女房のポジションに納まると考えられます。 そしてもちろん、かぐや姫の類まれな美しさを目にした帝は下心がありますから、ただ事務的に仕えるといったものではありません。 そもそも、帝は竹取の翁にかぐや姫が宮仕えすれば叙爵しようと仰せになるように、かぐや姫の後ろ盾となる翁の家は貴族ですらないですから、それを帝の一存で身分ある有力な家々の姫君たちと同格か、それ以上の扱いで入内させるのは難しいと思います。 質問1 帝にはすでに后たちがいます。 『竹取物語』本文にそのことを窺わせる箇所があります。 質問2にも関わる箇所なので、以下に引用します。 「つねに仕うまつる人を見たまふに、かぐや姫のかたはらに寄るべくだにあらざりけり。 異人よりはけうらなりと思しける人も、かれに思し合すれば、人にもあらず。 かぐや姫のみ御心にかかりて、ただ独り住みしたまふ。 よしなく御方々にも渡りたまはず」。 帝がかぐや姫を連れて行くことは出来ず未練を残して帰る際、かぐや姫と歌を交わした後の場面です。 「かぐや姫...

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